終章〈3〉
〈3〉
――――
きっと彼女は手のひらに小宇宙を戴いている。
そしてこの次元は、その掌の上にある。おれは紛れもなく支配されている。
おれは触れられてもいない。触れてもいない。そもそも、届いてすらない。
だが、遠い。ひどく遠い。そして相手がとても大きく見える。
体は内側から激しく揺さぶられ、脳は今にも破裂してしまいそう。
それでも、やるんだ。
動け。動け。動け。体。くそ。まただ。とても間に合わない。
ほどなく、二撃目が着弾。炸裂。体内に波紋と螺旋が渦巻いて。
そして、やはり――爆ぜる。
一撃目以上の衝撃。
でも、どこから。だって、相手は一メートル以上先にいる。
振動。明滅。暗転。
気配。忍び寄る。確かな。だが音だけがない。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。黒。内臓はもはや血の詰まった袋同然。赤。
内側から体が焼かれていく。白く。
心音。じわり、と弾けて溢れてゆくのは血だろうか。
ゆっくりと、波。破壊の波動が押し寄せ、暗闇。
直接体に入り込んでくる、痛み。憎しみ。
何が? 知っている。こいつは。おれを。
――――死だ。
「そこまでッ! 救護係、急げ!」
リウメイ先生の号令が響き、慌てて今日の救護担当係が駆けてくる。
班員には治癒関連の異能を持つ生徒が含まれており、指導体制は万全を期している……筈である。
卒業生はともかくとして、在学中の生徒からは今のところ死人は出ていないらしい。嘘か誠かは定かではない。
「鮫島! 死んでいないのなら即起床ッ!」
シュラの身体がその声に反応して、ぴくりと震える。
畳の上に倒れ込み、半ば意識朦朧とした状態のシュラに、彼女の声は殆ど届いていない。刷り込まれた恐怖心とシュラ本来の負けん気が、辛うじて肉体を反応させていた。
「おい、起きろ鮫島! いつまで寝ている気かッ!」
一向に起き上がらない――もとい起きたくても起き上がれないシュラを見咎めたリウメイ先生がこちらへ近寄ってくる……と思うと、次の瞬間には背中をげしげし蹴られている。
謂れのない暴力も、むしろここまで振りきられると気持ちがいいな。
……そう感じている場合ではないのだが。
だが、脳汁が溢れ出し、幸福物質が苦痛を掻き消そうと必死に働くこの状況では無理もない話だ。多分。シュラは断じてマゾではない。おそらく。
しかし、じんわりと体に染みるような温かさが広がり、苦痛が軽減されていく。
明滅していた視野が少しずつ元の調子を取り戻し始める。
内臓の痛みも薄れ、なんとか呼吸が出来るまでには回復を遂げる。
あっという間だった。これが
かくして、シュラはようやくその場に身を起こす。
ただし、頭はぐらぐら、体はガクガクしたままだ。
救護係の生徒がそそくさと立ち去っていく。治療は最低限で中断されてしまった。
「う、ぐ……」
「うぐっ、じゃない! このたわけ!」
目視出来ぬ速さで何かが飛来、右頬を激しく殴打。
「言え。おまえはこれで何敗目だ?」
「ごぼぶっ……じ、十三敗目です」
「先生をつけろ、この前髪野郎!」
「十三敗目です、リウメイせんせ、ッぶっ!」
今度は左頬。見事な
まさに踏んだり蹴ったり、殴られたり。
鼻から血を流し、シュラは成す術もなく立ち尽くすのみ。
その対岸。視線の先には、ひどい熱傷を負って治療をうける子どもの姿があった。
青みがかった銀髪、華奢な体躯。シュラより少し年下に見える少女が、畳の上にちょこんと座っている。
激しい痛みを伴うはずの怪我にも関わらず、向こうは無感情に宙を向いたまま、ぽかんとしている。
シュラとは異なり、少女は気絶には至らなかったようで、明瞭に意識を保ったまま救護係の人間に手当てされていた。
「おまえは丹田に力が足らぬのだ。
「え? えと……あれは、おれがやったんですね。また……」
「ああ、暴発だ。まったく、おまえら二人してなっとらん!」
「いや…………おれはともかく、冬青さんに対しては言いすぎじゃないですかね……だって、今回も彼女の勝ち、でしょう?」
「そうだが、そうとも限らん。奴も貴様も能力の制御がなっていない。鮫島、おまえたちを組ませているのにはそれなりの理由があってのことだ」
「……はあ。気に入らない生徒を効率よく虐待するため、でしょうか」
「主にそうだが、死にたいのか貴様?」
異能者育成支援施策本部付属研究院・特殊支援学舎〈
以上は合同技能演習Ⅰ『体術』の、あくまで日常的な授業風景である。
この訓練において、シュラは目下十三敗一勝中であった。
組ませられる相手はいつも同じ女の子。さきほどの青い少女だ。名前は
元は中国拳法の使い手で、たしか八卦掌といったか。シュラにはよく分からないが、気を煉り操る武芸のエキスパートなのだという。
打ち合えば、大抵の場合はろくに触れてもいないうちに、先ほどのようなひどい状態にされてしまう。
あれは発勁とかいう、中国武術においての力の発し方らしい。
シュラにはよくわからない。わからない――が、あれでもこの『体術』の演習においては相当の手加減をしているのだという。体術担当のリウメイ先生曰く「おまえは実戦なら殺されている」らしい。
……つまり、これまでに通算十三回分死んだということだ。
十三敗一勝。残りの一勝は、あまりの激痛にシュラがブチ切れ、本日と同様に炎化能力を暴発させたことによる勝利。だから、本来はカウントされないはずの数字だ。おまけに、あのときの方が今日よりひどく炎上し、完全に冬青を行動不能にしてしまった。
それなのにリウメイ先生は「おまえの勝ちだ。次は制御しろ」と言ってカウントにいれてしまったのだ。その基準がシュラにはいまだにわからない。
そういうわけで、なんとか自力で勝ちを獲りに行きたい。そう思ってはいるが、いつになるやら。せめて春までには一勝したいが、どうだろう。
また、シュラは、互いに己の能力の制御が甘い者同士を組ませるのは無謀だと思うのだが、先生の考え方は異なるらしい。
「リウメイ先生! 冬青さん、熱傷が酷くて……私の能力ではリカバーしきれません!」
「うむ。では迅速に医務室へ運べ」
冬青ルルが武道場から運び出されていく。
彼女はシュラの横を運ばれる際に「またねぇ、シュラくん」と言って微笑んでみせた。なんとも間延びした、無防備な笑顔だった。
「ねえ、なんでおろおろしてるの? ルル、じぶんで、あるけるのよ?」
治癒能力を上手く発揮できずに涙目になっている女子生徒にも、冬青は無邪気に話しかけている。いや、空気読めよ。おまえが言うな。肩とか半分溶けてんだろうが。
「シュラくーん。ばいばーい」
冬青はガタイのいい男子学生に担がれ、遠ざかりながらも、手まで振って見せている。無性に癇に障る態度だった。
「…………はいはい、またね」
おざなりに返事を返し、シュラはそれを冷めた目つきで見送った。
……おれより、ここにいる誰よりも強いくせに。なんだよ、あれ。
シュラはふにゃふにゃとしたあの少女のことが、あまり好きではなかった。
「残りのやろうどもは授業に戻るぞっ! ほらっ、次、次だァッ! 前へ出ろぉっ!」
おまえはおまえで血に飢えた獣か何かかよ。学生たちから悲痛などよめきが漏れる。
その後、きっちり六十分間、地獄の稽古は続けられた。
昨年の十二月下旬。
考え抜いた末に、シュラは異能を持つ者が専門教育を受けるという学園に通うことを決めた。
つまり、日向水蜜のオファーを受け入れたのだ。
それは水蜜のシュラへの勧誘という任務が達成されたことを示しており、同時に彼女がまた新しい別の任務へつくということを示唆していた。
もっとも、水蜜はその前に所用で日本を離れており、正式な決定は帰国後の話になるが。
先月、友枝がわざわざ春海市まで出向いてきたのは、それが主たる理由だった。シュラから直に書類を受け取りたい、そういって彼が直接やってきたのだ。
シュラは、まずはお試しということで、現在は冬休みを利用しての仮編入中だ。
去年の年の瀬に特殊支援学舎〈鋼青〉に編入し、年明けの現在もここで過ごしている。
能力の測定や研究協力はともかくとして、力を使いこなすための諸訓練は想像以上に厳しく、毎日へとへとになって宿舎へ戻ってくる日々だった。
シュラは体術の授業を特に苦手としていた。格闘はまったくの素人な上、肉体強化や直接攻撃に長けた能力を有しているわけではない。演習がある日には、さきほどのようにフルボッコにのされて戻ることが多かった。
それでも充実感があったし、新しいこと――たぶん可能性と呼べるさまざまなことについて考えるのは悪くないように思えた。
手放しに「楽しい」とはいえない重みがある分、かえって居心地がよかった。
〈鋼青〉は全寮制の学園だ。だから当然、寮も完備されている。
学徒専用寄宿舎は、まるで設備が整った保養所のようだった。
ただし、広大な自然――それも湖沼地帯の真っ只中にぽつんと建っているものだから、休日は散歩や読書、スポーツ以外にすることもない。
やたらと蔵書が多く、絵本に出てくる迷宮のような学舎付属図書館が唯一の娯楽施設だといってもいい。
噂に聞いたところによれば、昔々に〈魔女〉の手で蒐集された本が納められているという。あるとすればきっと閉架書庫の魔導書保管室だろうが、シュラのような仮編入の学生が易々と入れる領域ではない。
「やあ、シュラ。おかえり」
寄宿舎西棟五階の角部屋。そこがシュラに割り当てられた個室だ。
演習でぼろぼろにされたシュラが戻ると、ちょうど隣の部屋から出てきた少年がにっこりと微笑みかけてきた。さらりとした黒髪に、清潔感のある白いシャツ。さわやかな印象の男子学生である。
「
「そうだよ。きみは……またボロボロなんだね。ゆっくり休んで」
「はい。貴志さんも、お気をつけて」
白杖を小さく掲げて見せると、彼は廊下の向こうへ消えていく。薄闇の中、杖が規則的に地面を叩く音が遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなるのを待ってから、シュラは自分の部屋に入った。
シュラのような新入りの後輩が心配するのは差し出がましいのかもしれないが、何となくそうしてしまうのだった。
隣室の住人である貴志は三つ年嵩の学生で、物事の構造を見通す異能を持つ少年だった。
なんでも通常の視力と引き換えに、その異能が目覚めたのだという。
初日、部屋に案内されてきたシュラを視るなり、彼は「いかしてるね」と言った。
シュラの何がどう視えたのかは知れないが、彼はシュラを気に入ったようで、たまに部屋に遊びにやってきた。シュラも彼の個室に遊びにいくことがある。
もしかすると、そう……友人と呼んでいいのかもしれない。
まともな友達ができたのは初めてだ。しかし、これもまた悪いものではなかった。
アイシングもシャワーも、トレーニングルームで済ませてきた。
疲れ切ったシュラに出来ることはない。さっさと床に入り、明日の演習に備えて眠りにつくのみだ。
本性が白炎であるシュラには、睡眠も休息もあまり関係ないのかもしれない。
だが、人のかたちでいるうちは人間らしくありたい。それがシュラの希望だった。
なにより、鮫島朱空が遺し、日向水蜜が形作ったこの少年の姿を大切にしたかった。
おとなしく寝台に横たわると、ちりちりと雪が壁にぶつかる音が聞こえてくる。
窓の外には不気味なオレンジ色の闇が広がっている。今日は珍しく外が吹雪いているのだ。季節の檻が時を閉ざしているかのようで、シュラはそれをほんの少しの安堵と共に受け入れていた。今はもう少し、このままで。もっとおれが強くなるまで。
体は疲れているのに、思考はやけにクリアだった。
疲れ過ぎているのかもしれない。そのため、なかなか眠りにつくことができないでいる。
シュラは仰向けに寝転んだ体勢のまま、左の掌を掲げてみた。
続いて、思い浮かべる。あのひとのことを……。
水蜜さん。水蜜。日向水蜜。
……――そう。大丈夫。声も、顔も、まだはっきり思い出すことができる。
こうして夜眠る前に彼女の輪郭をなぞり、思い出そうとすることが度々あった。
思い出になんかさせない。忘れたりなんかしない。
彼女は――水蜜は「春には戻るよ」と言って、どこかへ出発していった。
あの事件からおよそ二週間後のことだった。
大切な人のことで、ひとつ大事な約束をしたのだという。
魔女とお茶を飲んでくるだけだ、だから大丈夫だよ、と彼女は言った。秘密めいた口振りだったが、案外意味は直球かもしれない。
いずれにせよ、シュラの事件を巡って何らかの取引があったことは間違いないだろう。
……おれのために、彼女は去った。
そうでなければ、ゼロたちが退いた意味がわからない。
それに水蜜がたった一人でシュラの元まで辿りつけたとも思えない。彼女の能力は不死。稀有ではあるが、他に攻撃や防御に秀でた異能をもっているわけではない。友枝ら研究室メンバーの協力もあったろうが、おそらくそれだけではないだろう。他にも、謎はいくつか残ったままだ。
今の関係なら、聞けばすべてとは言わないまでも教えてくれるかもしれない。
でも、そうやって聞きだしたところで、すでに決定されてしまったことは変えられない。覆すことなどできない。
水蜜は……本当は弱い。とても弱いのだと思う。
彼女はなんでもかんでも自分の好き勝手に振る舞うが、その責任の所在をすべて自分で背負ってしまう。秘密を明かさせたところで、それによってシュラに危険が及ばないかを意識させ、かえって彼女の重圧を増やしてしまうかもしれない。
それに――水蜜は「必ず帰る」といったのだ。
だから、シュラは約束の言葉は口にせず、ただ笑顔で彼女を見送った。
……約束も誓いも、いらない。なにもいらない。
これ以上水蜜を縛りたくはない。
彼女はもう十分に雁字搦めだ。自信の命運にさえ縛られている。その実、時間からは忘れ去られ、変われぬまま、この世という籠の中に閉じ込められている。それなのに、どこまでも自由であろうとしている。わざわざその足枷になるような真似はしたくない。
そのためにも〈鋼青〉に在籍し、力をつける必要があった。
強くなる。彼女と共に大人になる。そして限りある生を生きるのだ。
いつの日か、水蜜の永遠を永遠に終わらせ、彼女を殺してやるために。
おれ自身が、彼女の死という平穏のなかで生きる永遠を手に入れるために。
――――愛しい人よ、おれが殺す、殺してやる。
最初の日に口ずさんでいた歌をふと思い出す。なんであんな曲を歌っていたのか、自分でも覚えていないのだけれど。
今となっては、それがシュラの目的で願いと同義になっている。
あるいは、運命なんて、本当に仕組まれているのかもしれないな。そう思った。
そうであっても悪くないように思えた。
誰の掌の上で踊っていたって構わない。それが彼女のためであるなら。
シュラはいつのまにか深い眠りに落ちていた。
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