終章〈2〉
〈2〉
街は色づき、やがて長い冬が訪れた。
普段の学制服にマフラーと手袋を足した姿で、シュラは待ち合わせ場所である郊外のカフェへの道のりを急いでいた。
春海市立第三中学校を出て、最寄駅から電車で二駅。以前一度だけ行ったことがあるが、その時は車に乗せてもらっていた。そのため自力で行くのは初めてで、所要時間の計算を見誤ってしまったのだ。
次の列車が出るまで、残り五分を切ったところだ。
シュラは息を白く弾ませ、駅前商店街へ続く坂道を駆け下りていく。薄く氷が張った下り坂は歩きにくく、転倒しないように走ると変に時間がかかった。
結局、発車時刻ぎりぎりに滑り込む形で、十六時発の電車に乗り込んだ。発車メロディが鳴り響き、背後で静かにドアが閉まる。景色そのものが動き出すような錯覚を伴い、列車が走りだした。シュラは安堵の溜息を漏らした。これで、少なくとも遅刻はまぬがれる。
車内は下校途中の学生でそこそこに混雑していた。どうせ二駅、シュラはおとなしく吊革につかまって立つことにした。
湿気で長めの前髪が巻いている。いっそのことこの機会に切ってしまうのもいいかもしれない。
それに、やや暖房の効きすぎた車内は全力疾走後のシュラには暑い。首や背中が汗ばむのを感じ、マフラーと手袋を外して鞄に詰めてしまう。どちらも貰いものなので、失くさないように細心の注意を払っていた。
結露しかけた車窓は完全に曇っておらず、シュラは窓に映る自分の姿の、さらに向こう側をみる。
ネオンの灯りはじめた街の景色が、次々に通り過ぎてゆく。
クリスマスが間近に迫り、期待や欲望の充満した街はどこかせわしない。手をつなぎ、腕を組む恋人たちの姿が嫌でも目に留まる季節である。あるいは既に昏い夕暮れ時、家々の灯りが恋しくなる季節。
家族も友人もないシュラにとっては縁遠いイベントが目白押しの時期であるが、不思議と気持ちは穏やかで、凪いでいた。
シュラは結局、〈鮫島朱空〉の名前と姿を借りて生きている。
死んだ筈の人間が三年間も動き回っていたことが知れれば大騒ぎだ。
それに、死者は二度死なない。
あとの辻褄合わせは顔も知らない誰かがしてくれた。水蜜が身を置く組織には、不在や空白を扱う専門家とやらがいるそうだ。そも、この世の綻びを繕い、辻褄を合わせるのが組織の存在理由なのだと彼女は語った。
どうやら、そういうふうにできているものらしい。
幸いというかなんというか、文句を言う者はいなかった。真実を知る者はあまりに少ない。苦味に溺れたアイスクリーム。
真実に溶かした一匙の嘘に気がつく者もまた、いない。
からん、と、入口のドアベルを鳴らして、シュラは目当ての店に入った。
落ち着いた雰囲気の店内だが、ところどころにリースやオーナメントなどが掛けられ、ここもまたクリスマス仕様に装飾されている。……まあ、別によいのだけれど――――と、ちょうど振り返った人物と目が合った。
「待ったよ、シュラくん。こっち」
男はソファ席に座ったまま、シュラを手招く。
半ば予想はしていたものの、クリスマスとはおよそ無縁の装いに少しだけほっとする。
席につく前に、待ち合わせの旨を女店主に告げた。彼女は「久しぶりね」と言って歓迎してくれた。以前のある出来事を気にしていたシュラからすると、その柔らかな態度は素直にありがたいものだった。
そして会釈をし、男の斜め向かいの席につく。
相手は既にコーヒーを頼んでいたようだが、再度メニューを取り出すと、なにやら真剣な様子で悩みはじめた。シュラはもう既に決めてある。
「それじゃ、僕は季節のフルーツパフェを追加しようかなぁ。きみは何にする?」
「……ブレンドコーヒーを」
カフェ『カルチエ・ラタン』――。
一月ほど前に水蜜と訪れ、あのゼロによる襲撃をうけた店だ。
今はすっかり元通りに営業しており、襲撃を受けたことはおろか、修理をした形跡すら見当たらないくらいだ。
ついでに、あのとき店内にいた老紳士が今日も以前と同じ席にかけ、同じようにクリームソーダを頼んでいた。これはこれで、奇妙な光景ではあったが――……。
「しかし、キミもアレだねぇ。意固地というか、素直に甘いものにすればいいのに。僕らがキミを何年追いかけてきたか、もう知らないとはいわせないよ? 好物だってリサーチ済みなんだ」
「いいんですよ、これで」
「はー、さいですか。相変わらず、つまんねェガキだなぁ。水蜜さんはキミのどこがいいんだろうねぇ」
「さあ。おれにも教えてくれませんから」
「チッ――ホント、キミはいけすかない奴だなァ」
男は器用に咥え煙草のままで舌打ちし、宙を仰いだ。
ネイビーのスラックスに茶色のツイードベストを合わせた姿。そして銀縁の伊達眼鏡。短髪オールバック。
朱空と同席するのは、まるでインテリヤクザのような柄の悪い壮年の優男である。
もっとも、元来そういう気性なのか、面倒見はよいほうらしい。
事件後、シュラに関するもろもろの手続きを引き継いだのは友枝だった。
意外なことに「難しい案件だから」といって、自分から名乗りをあげたという。あれでもきみのことを心配しているんだ、というのは水蜜の弁だった。
「それで? 本当に決めたのかい?」
「……はい」
シュラは学生鞄から青い封筒を取り出し、テーブルの上に差しだした。
異能者育成支援施策本部付属研究院 第三研究室に宛てた書類一式の入ったものだ。
今日ここで友枝と待ち合わせたのも、この書類を直接手渡すためだった。
「いっとくが、受理されたら最後、取り消しはきかないと思ってね?」
「おれは、もう決めましたから」
「ふうん? 上等だねぇ。まあ、いいけど。そんじゃ、これは遠慮なく預からせてもらうよ」
友枝は掴み上げた封筒を胸ポケットにしまい込む。それっぽい動作だが、書類が折れたりはしないのだろうか。もっとも、そういうことに頓着するタイプにも思えないが。
そこへ折よく注文した品が運ばれてきた。
シュラは自分のブレンドコーヒーにミルクを注いだ。とっぷりとしたミルクが煙のように広がり、スプーンでかき混ぜて螺旋を描く。白と黒がきれいに混ざり合ったところで、一口啜る。すっきりとした酸味に、花のような香りが心地よい。だが、やはりまだ苦い。
斜め向かいの席では、友枝が早速アイスクリームを頬張っている。苺シャーベットとのアールグレイのアイスクリームという可愛らしい組み合わせの氷菓子が、ヤクザ風の優男という彼の異貌を余計に誇張する形で際立たせている。
こう見えても国家公務員……ってことになるんだよな、この人。
シュラはこっそりと様子を窺う。
友枝はやや欲張りがちにもぐもぐと食べているので片頬が膨らみ、普段より愛嬌が増している。……もぐほっぺおじさん。案外、一定の層からは支持されるタイプかもしれない。
自分が我を失い、
「あに見てんら、コラ?」
「それで凄まれてもこっちが困りますよ。あ、口の端にアイスついてますよ」
「ん。
「え? いや、あの……あー、べつにいいですけど」
困惑しつつもハンカチを取り出して口元を拭ってやる。
一拍を置き、友枝は心底ゾッとしたような顔になった。シュラとしては激しく心外だった。
「うわ、今本当に拭きやがったよねぇキミ! なんですか、紳士ですかぁ? よりにもよって、こんなよく知りもしないオッサンの口拭いちゃいますかぁ!?」
「そう言われても。じゃあ、他にどうすればよかったんです?」
「あーあ、だからモテんだよなぁっ!」
「……それは関係ないじゃないですか」
「あっそ、じゃー水蜜さんを返せよ? あァ、コラ?」
「ぜったい嫌です」
意味不明な因縁は受け流していたシュラだが、これには毅然として言い返す。
む、と押し黙った友枝が新しい煙草を取り出し、火をつけた。手品のような、自然な仕草。
銘柄は、アークロイヤル・ワイルドカード。水蜜の煙草とフレーバー違いの同一銘柄だ。いつも何気なく目で追っているから、わかる。なにか特別な思い入れでもあるのか。聞きたい気持ちもあったがやめておいた。今はちがう、と思ったからだ。
友枝は、灰を煙で満たしてから、ゆっくりと紫煙を燻らす。ソファの背もたれに片腕を広げ、深めに掛けながら足を組む。その姿はヤクザのイメージそのものをなぞるかのようだ。
「で、どうなのさ? アッチのほうは」
友枝は無遠慮極まりない口吻で探りを入れてきた。
「きみ、水蜜さんと何か具体的に約束とかはしているのかな?」
「いえ、とくには」
「とくには、かぁ。そうだねぇ……って甘いンだよ、このクソガキが。自分のオンナはしっかり囲っておかねえと意味ねンだからよォ。とくに水蜜さんみたいなタイプはさ、ほっぽってたら、すーぐふらっとどっか行っちゃうに決まってンだからさぁ? そこんとこ、わかってんのかなぁ?」
「……はぁ、まぁ」
「だいたい困るんだよね、こっちは一応お堅い部署なんだからさ。キミらみたいな不適切極まりない関係っていうの? だいたいね、ふたりの場合は恋が燃え上がるどころか実際キミ自体が燃え上がるし? ほんと勝手にぼーぼー燃えてくれちゃってさ、僕も彼女も大変だったんだから。こうなった以上は、せめてキミが全力で水蜜さんをつかまえといてくれないとさぁ――」
「それは違いますよ」
「……あン?」
「あのひとがおれを、こうして繋ぎとめてくれているんです」
シュラの口調も表情も、自分では信じられぬくらいに穏やかで。そしてその言葉に嘘偽りはなく。人外の
この反応には、さすがの友枝も面食らった顔をした。そのあと訝しむような目つきになって、彼はじとりとシュラを睨んだ。
「…………なにそれ。キミって、もしかしてゆとり系? むしろ悟り? 既に悟り開いちゃってるかんじ? なんなの、その落ち着きようは」
「水蜜さんのことでジタバタしても、こっちがいいように弄ばれるだけなので。それにあのひと、ちゃんと帰ってくるって言ってたんで。今回は大丈夫だと思うんです」
「えっ、僕にはそんなのひとことも……っていうか、いい機会だから海外で転職しちゃうかも♥とか言って出てったんですけどぉ!?」
「それは友枝さんがからかわれているんですよ」
「クソがっ、キミってやつぁガキのくせに既に大人の余裕を醸し出しやがって! オーラが! まぶしいんだよ! だから敢えての目潰し!」
くわっ、と両手をひろげて身を乗り出し、なぜか友枝が急所に狙いをつけて襲いかかってくる。
すごい力だった。
全力で抵抗しないと押し切られてしまいそうだ。
「な、なにをう! ぎぐぐぐぐぐッ」
「………………ッ。ふう、やーめた」
急に脱力されて、シュラは危うくテーブルに顎をうちつける寸前だった。
友枝の動きや感情は読みにくい上、この男にはどこか意地の悪いところがある。
雰囲気も穏やかなようでいて、いつ
「はー、あほらし。用は済んだし、僕は帰るとするよ」
「えと……あの、今日はお忙しい中ありがとうございました」
シュラが会釈すると、友枝は珍しく微笑みを浮かべてみせた。
威圧的ないつもの笑みではない。苦味の勝る、それでいて自然な笑みだった。
「いいよ。水蜜さんの任務がようやく終了したお祝い代わりさ」
「……そう、ですね」
シュラも苦笑で返す。
本人は不在だけどね、と友枝は付け足した。
別れ際、影のような異貌の男は謎めいた笑みで告げてきた。
「……それじゃ、半月後に。ビシバシにしごいてやる予定だから、楽しみに待っているよ」
ほどなくして、朱空も店を出た。
今度は彼女と来るといいわ、と、店長が入り口まで送ってくれた。
鋼色の夜空には、紫色の雲が重く垂れ込めている。大気に混じる冷たい水の匂いが、これから降る雪の予感をもたらしていた。
ほのかに青くけぶる雪。無垢なる雪原は、あのひとの肌を思い出させる。
そして彼女の不在は、朱空の胸に狂おしい気分を呼び起こすのだ。
……今年の雪は好きになれそうにない。来年のことだって、どうなるかわからない。明日も。明後日も。一週間後だってそうだ。
それでも、朱空の中に寒さはもうない。惜しみなく奪われ、代わりに与えられた新しい種火が宿っている。どこまでも進んでいけるという希望があった。
熱い炎が内燃機関となって魂を揺り動かす限りは、いつまでも――――。
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