終章 愚者の炎にくちづけを ‐A kiss for the will-o'-the-wisp‐

終章〈1〉

 




 終章.愚者の炎にくちづけを ‐A kiss for the will-o'-the-wisp‐




 〈1〉




 鮫島朱空のスカウト失敗、もとい■■unknownの暴走事件から、約一週間。

 このところ、日に日に朝の空気は冷たくなっている。

 凍てつきは次第に張りつめ、もうすぐ肌を刺すような痛みをもたらすようになるだろう。かつての日本には、もっとはっきりした四季があったのだ。

 ゼロは、その名残を夢うつつに垣間見ていた。

 すなわち――……。

 淡く、薄い光。

 実体と影を分かつように、束の間の眠りに、いつの間にか弱い光が割り込んでいた。


「……ンだよォ、もう……」


 半眼で確かめれば、カーテンの隙間から陽光が一筋差しこんで、自分の首のあたりに淡い線を刻んでいた。そこから覗く空は鈍色で、やはり冬の予感を孕んでいる。

 鼻の奥がツンとするような、澄みきった水の匂い。

 ゼロは嗅覚で冬を知覚した。鼻は薄皮一枚剝いてしまえば脳に繋がっている。匂いが冬という記憶を強く喚起させるのはそのためだろう。それを意識すると、急に体が寒さを感じた。

 暖房は就寝前に切ってあった。冷気が満ちた部屋の中でも温かく目醒めることができたのは、隣で眠る男のおかげだろう。腕の中の温もりがふたたび恋しくなって、寝がえりをうち、体を寄せる、と――……いなくなっている。

 片割れの姿が消えていることに気づき、ゼロはゆっくりと寝台の上で上体を起こした。

 自分以外には空のベッド。そして部屋。安ホテルのツインルーム。

 いなくなっている。

 頬がつめたい。指先も。脚も。それなのに、温めてくれるはずの身体は傍にない。

 ゼロは、きょとんとした顔をしてから、そのきれいな面立ちを思い切りしかめた。


「Shit, fuck !」


 それから、くしゃくしゃと黄金の髪を掻く。

 鏡で確かめるまでもなくぼさぼさになっているのだろうが、あいつが横にいないなら関係ない。

 シャワーを浴びて不貞寝を決め込もう――そう思って起き上がろうとすれば、腹の奥、体の芯が鈍く疼く。


「うえ、腹いてェ」


 あのやろう。マジか。好き勝手ハメたおしやがって。


「……もうどこへでもいっちまえ」


 カレルがこうして勝手にいなくなるのは、べつに今回に限ったことではない。

 ただ、彼らは自分の片割れに別れの挨拶をしたことがない。おもにカレルのせいで、だ。

 あいつは、「いってきマス」とまともに挨拶をして出て行ったためしがないし、戻ってきても特別何か言うわけでもない。

 職業柄、いつどこで死んでもおかしくはないのに――死ぬ気などゼロには毛頭ないのだが――カレルは別れ際になにも言わない。おかげで、こういう憂き目を見るのはゼロの方が圧倒的に多かった。

 この点だけは、幾ら言っても聞きやしない。ゼロがぷんぷん怒れば怒るほど、ニヤニヤ笑って愉快そうに振る舞われるのがオチだった。責めても悦ばせるだけなので、ゼロも半ば諦めかけていたところだ。

 それに……どうせまた気まぐれにひょっこり戻ってくるのだろう。

 いつもそうだ。ゼロだって四六時中一緒にいるわけではないし、お互い仕事で単独行動や別行動はあたりまえ。今回のような突然の予定変更も、もちろんのこと。

 それでも、あいつはいつも、いつの間にか傍にいる。

 ……そうじゃなくちゃ困る。傍に居てくれなんて、自分のほうから言えるわけがないのだから。

 しかし――それにしたって!

 なにか一言くらいないのか。書き置きするとかいい加減覚えろよ。サルでもできる……かどうかは知らないが、比較するのが最早おサルに申し訳ないレベルである。

 ゼロは数十秒間無心であたりを探り、ようやくカレルの枕の下にホテルの便箋をみつけた。これはとても珍しいことだった。二つ折りのメモ用紙を開き、さっそく内容を確認する。

 桜庭霧子の名前と携帯端末の番号。それも、おそらく個人用と思われるもの。

 そして「滞在楽しんで」という短いメッセージ。

 楽しんで、じゃねえよ。クソ馬鹿野郎。

 ゼロは紙をくしゃくしゃに丸めると、シーツの上に乱暴に投げつけた。

 どこに行こうだとか、なにをしようだとか、もろもろの約束を反故にされて、いったいどこでどう楽しめというのか。

 戻ったら殺す。絶対殺す。その前に埋め合わせをさせてやる。

 ふつふつと湧き上がる怒りをこらえながら、シーツの上に丸めて放ったメモ紙を睨む。

 ……桜庭霧子。特別に誂えられた人形のような顔をした少女。普段はこの国の女学生として暮らしているという。

 彼女とは、時たま仕事で顔を合わせることがある程度の関係だ。

 華奢で可憐な容姿とは裏腹に、頑固で気が強く、凛としたところのある少女だった。意見が合わずに喧嘩腰になることが多いが、ふしぎと彼女のことを気にしてしまう自分がいるのも事実。

 彼女はそう、ちょっとばかし……否、かなりカワイイ。無論、ゼロの基準に照らして、だが。そして、カワイイものにめっぽう弱いのがゼロなのだ。カワイイは正義。イエス、大いにイエスだ。

 そんなゼロの様子を、カレルは目ざとく見ていたらしい。

 霧子はどうしているだろう。そういえば、最後に見たのは眠っている姿だった。

 ヴィーザル関連の医療機関に送り届けたきり、あの少女とは別れてしまった。


「……まーな! ほら、このオレ様が直々に連絡ゥとか、あいつも畏れ多すぎる事態にビビりまくりのコト間違いねえしィ? ……つーか、こんな昼間じゃどうせ出ねえだろうしィ?」


 窓際をうろうろし、今度はソファの周りをうろうろ。

 途中で自分が全裸であることに気がつき、投げてあったパーカーを羽織る。例の炎使い、というか火の玉野郎に焦がされたことを思い出してまたイライラ。

 そうして起床から小一時間を無駄にしていることに気がつくと、ゼロはようやく個人用の端末を取り出した。

 意を決して、霧子の端末の番号を押し、呼出し音を数える。

 1回、2回、3回。ほら、やっぱり出ないじゃねえか……6回、7――……。


『…………はい。桜庭です』

「ひぴぎぃぃぃっ!? 出たァンッ!?」

『……………………その馬鹿と阿呆がそれぞれ全開のまま香ばしい感じに混ざり合った人外の奇声は、もしかしなくてもゼロ? ……どうしたの。……さては、今日こそ死ぬのね? とてもおめでたい日』

「ンだコラてめえッ! おおおオマエこそオレ様の呼出しにわざわざ出くさりやがって、こんの不良少女が! メッ! だいたい学校はどうしたの、学校はァ!」

『…………。今、休み時間。用があるなら、早くして。もうすぐ、授業』

「よ、用?」


 考えていなかった。

 そうだった。折り合いのよくない相手がわざわざ真っ昼間に電話をかけてくる。それだけでも不審な展開だ。それなのに、ろくな用件もないなんて、それこそおかしい。

 だいたい根本的に仕事以外で何を話すことがあるというのだ。共通の話題など、あるわけもない。というか見当もつかない。

 ファッションならどうだ? いきなり? 無理がある。

 では、カワイイモノについて……? いくらなんでも気色が悪すぎる。

 というか、パニックになっている? このオレ様が?


「ああ。その……ナンだ。オマエ、体はどうだよ? あれから……』

『回復した。平気』

「そりゃ、よかっ……いやまァ、案外オマエは頑丈っぽいしィ? そもそも簡単に怪我とかされちゃ迷惑だもンなァ! はン、わかったらオマエも少しは自覚をもって行動しやがれってンだ!」

『…………わかってる。反省してる。私は未熟』

「はっ? え? あっ、な、ならいいンだけどよォ……。オマエは、えーとほら、オンナ! 女の子なンだし、あんまり無茶は」

『用件はそれだけ?』

「アッ、ハイ」

『もう切る。本当にこちらの休み時間が終わる』

「えっ」


 通話を切り上げようとする気配。まずい。ここで切られてしまったら、もう掛け直す勇気は出ないと思う。そうしたら、次はいつ話せるかわからない。

 焦ったゼロは思わず声に出していた。


「待てコラ、オマエにゃまだ重要な仕事があるだろがァ!」

『……当面、新規の依頼はないはず』

「このオレ様に、とっ、東京を案内しやがれ! こっちは帰国までまだ日数があンだよォ! だから……そう、原宿……のカワイイ店とかッ!」


 沈黙。長い沈黙。

 完全にマズった。

 しょんぼりしたゼロが徒労感とともに電話を切ろうとしたときだった。


『それは、デート?』

「でゅえェェェッ!? ちがっ、わ、ないけどォッ! なんだよオレが誘っちゃ悪いかよォ、コンチキショーメッ!」

『…………なら、行く。先生が来た。詳細は後で』


 そこで電話は切れてしまった。

 なんだこれ。デートの約束をしちまった。このオレが、自分の方から。しかも年下の子ども相手に。ありえない。ありえないったらない。

 端末を握りしめたまま、ゼロは寝台の上でしばし呆然とした。

 ……どうだ、羨ましいか。カレル。オマエは悪戯のつもりでも、これでオレが本気になったら、文句なんていわせないんだからな。

 笑って茶々をいれてくるあいつがいないことが、今はとてもさみしいと思えた。








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