熔融〈2〉

 




 もうずいぶん遠い昔のことだ。

 わたしは大きな湖のほとりで暮らしていた。

 寂しく、慎ましくて、それ以上に嫌になるほど退屈な薄明の日々だった。

 夏には濃い海霧がけぶり、冬には重たい氷雪が、わたしの住む小さな集落を閉ざしてしまう。わたしの暮らしは、いつもいとも簡単に世界から切り離されてしまうのだった。

 どこかへ行きたい。ここを出て、どこか別の遠い場所へ。

 それが幼いころの、わたしのひみつの願い事。

 誰かがわたしを連れていってくれたらいいのにな。

 誰か、誰か。誰でもいいから、わたしをここから連れ出してほしい。そうしたら、世界中、どこにだってついて行くのに。

 ……あまりにも幼い願いは、ごく当たり前に叶うはずもなかったけれど。

 でも、ある夜。わたしは湖の向こうへ大きな星が流れてゆくのを目にした。

 やがて、天穹全体を蒼白く暴きだし、小さな火の球が幾つも降った。あとで知ったが、それは流星雨と呼ぶらしかった。

 わたしは夜の森にこっそり出かけて、落っこちてきただろう星くずを必死に探した。

 なんでもいいから、なにか特別な証が欲しい。そうすれば、これからも変わらずにこの場所で生きていける。そう思った。その一心だった。

 今思えば、無知で愚かな行為だったと思う。流れ星の殆どは、墜ちる途中で燃え尽きてしまうのだから。実際、星たちはすぐに見えなくなって、消えてしまった。

 もしかすると、わたしは自分でも信じていなかったのかもしれない。とくべつなものなんかない。退屈に慣れ過ぎて、わたしはとっくに諦めていたのかもしれない。

 けれどもわたしは、湖の中にひとつきり、光の欠片が沈んでいるのを探り当てた。

 そこは浅瀬だった。だから、潜るまでもなく簡単に手が届いた。わたしは膝下まで水に浸かって、淡く輝く水面に手を入れ、星の欠片を確かに掴んだ。

 温かく、柔らかで、まるで雛鳥のような鬼火。

 もっとじっくり眺めてみたくて、わたしは輝く石を眼の前にかざした――……その瞬間。星は砕けて、粉々に飛び散ってしまった。

 ちくり、と胸が痛んだ。見れば、心臓の位置に星くずの破片が刺さっていた。不思議なことに血は出ていなかった。取り除こうとする前に、破片はわたしの胸の奥へ、するりと滑り込むように消えてしまった。

 わたしの眼から、大粒の涙が一粒だけ零れた。

 もう痛みは感じなかった。刺さった瞬間の感触さえも、あのときの一瞬で既にして忘れていた。


 ――……そして、それきり。

 わたしの心と体は、時間を忘れてしまった。

 気がつくと、ひとりぼっちになっていた。

 わたしは、いつの間にか時間からも忘れ去られてしまっていた。

 それはとても孤独で、おそろしいことだった。思い知ったのは、ずっとあとになってからだった。


 やがて、わたしは今度こそ探し始めた。わたしの永遠を永遠に終わらせてくれる誰かを。

 わたしは偶然を必然に変えようと試み、たくさんの人から蔑まれ、そしてそれ以上に人々から求められる〈魔女〉になった。

 わたしは大勢の人間の願いを叶えてきた。

 一方で、それ以外の人たちを激しく絶望させてきた。

 どちらも意図してやったことではなかった。ただの実験の副産物だった。「会いたくて」すべてを生み出し、壊してきた。

 一方、どんなに探しても、その“誰か”は見つからないままだった。

 ひょっとしたら、これは罰なのかもしれない。欲をかいたおまえは、呪われた心と体のままで、永遠にあの世とこの世の境を彷徨え。意地悪な神さまの、気まぐれな嫌がらせ。はなから信じていない存在にすら罪をなすりつけながら、それでもわたしは探し続けた。

 状況は突然変わり、運命が牙を剝いた。偶発的な事故のように、わたしはついに出会ってしまった。

 彼は、赤錆色の瞳に炎を宿した、ちょっとだけ歪んだ少年だった。

 それなりに強くて見込みもあるけど、ただ可愛いだけの男の子。

 だから、いつも通りにすればいいと思った。甘い言葉で籠絡し、体を使って堕としてしまえば。そう思って近づいたのだけど、計算違いもいいところだった。いやはや、本当に甘かった。

 ……結果的に、堕とされたのはわたしのほうだったのだから。

 彼がわたしに痛みを思い出させてくれた。ほんの少しの不道徳。嘘や偽りの重さも、稚気も、他人と交わい、吐息を重ねる快楽さえも。

 だからもう、他にはなんにもいらなくなった。

 それでいて、なにひとつ失うわけにはいかなくなった。







 だって、きみはわたしを殺せる唯一の――……。










 〈2〉




 遠かった。でも、諦める気なんて毛頭なかった。

 これまで歩んだどんな道のりより厳しく、激しく、長い道。

 否、道ですらない。荒れ果てた、何人たりとも手の届かない灼熱の針地獄。

 その中心から、私は何としてでも彼を救い上げなければならない。

 いや……これもちがう。救うだなんておこがましい。どうか助けさせてほしい。

 ただ、彼のもとに辿りつき、寄り添って、凍えた魂の輪郭をなぞってあげたい。

 自分の欲望を満たすためじゃない。与えられればそれでいい。

 そして、できればたったひとつ、くちづけを。

 水蜜は燃えさかる哭炎の中を一歩ずつ進んでゆく。■■。混沌。あるいは、シュラであった劫火に向かって。

 一歩、また一歩。

 近づくごとに炎の威力は増して、熱の波動がその身を苛む。

 体全体――肌が、両眼が、髪の毛や爪先までもがちりちりと疼き、痛む気がした。でも、これは自分を憐れむための痛みではない。それが水蜜の胸を高鳴らせた。

 わたしにもまだこんな感情が残っていたのだ。

 辛くて、痛くて、それがとても嬉しかった。とうとうわたしは頭がおかしくなってしまったのかもしれない。でも、どうだっていい。痛いほどいい。人間のかたちじゃなくなるほど、もっともっと激しく、痛くしてほしい。


「……中世の魔女狩りさながら、焼き殺された経験はまだ・・無いからなぁ。わたしがわたしに戻れなくなるくらい散り散りの灰にされたら、さすがに自信ないな。初めて会った時から思ってたけどさ……ほんと、きみってサディスティックな男の子だよ」


 そうやって語りかけるように、ひとりごちる。

 軽口を叩きでもしなければ、怖くてとても進んでゆけない。

 ■■は全身で水蜜を拒否している。それでも水蜜は止まらない。

 じり、と音を立てて皮膚が軋む。無数の針で全身を貫かれるような熱と痛みの中にあっても、水蜜は■■に向かって歩み続けた。

 かつて、放火を行った者に課された罰は、火刑だったという。

 ならば、自分自身を焼き尽くしてしまう炎それ自体である彼は、まさしくふさわしい形で自分を罰しようとしているのだ。

 ふざけるな、と思う。

 罪がなんだ。罰がなんだ。シュラの罪も罰も、わたしがその存在を許しはしない。魔女であるこのわたしが。

 ……たとえ劫火に焼き焦がされたっていい。

 わたしは、なにがなんでも手を伸ばす。

 水蜜の指先が、ついに真っ黒な劫火に触れた――……その刹那。

 炎は激しく逆巻き、水蜜に襲いかかった!


『ぜんぶおまえのせいだ!』


 粘つく黒炎はシュラ――鮫島朱空の姿を取って猛り狂い、哭き叫ぶ。

 ただ胸が痛かった。胸の奥が。肉体の苦痛なんかどうだってよくなるほどに彼が痛ましかった。

 心臓。心。魂。そうか、と思った。魂なんかとっくに売り払った気でいた。身体の痛みはとうに忘れ去ってひさしい。それでも、痛い。痛くてたまらない。この感覚は、たしかにそれ・・だ。

 わたしの魂は、とっくにシュラによって火をつけられていた。

 気がつくのが遅かっただけで、たぶんわたしは最初から――恋をしていたのだ。


『あなたさえいなければ、おれは守れたのに。おれの、おれだけの炎を』

「ねえ……全部を抱え込むの、やめにしようよ」


 そして、最後の一歩。

 朱空のかたちを取った炎を、水蜜は全身で包み込んだ。


「……――わたしと一緒に大人になろう、少年」


 今まで誰にくれてやったどんな懐抱よりも熱烈で、やさしく、それでいて激しい抱擁だった。

 どこまでも深く黒い炎が戦慄わなないた。

 抱いたそばから女の体に火が移り、ふたりがひとつの炎と化して燃え始める。

 これでいい。肉体など邪魔なだけだ。

 二人を隔てるものなど、ぜんぶ燃えて消えてしまえばいい。

 髪も、肌も、腕も、脚も、胸も。

 魂さえ残るのならば。


『離せよ! おれはもう消える。この世界のどこにも逃げ場がないのなら、身体も心も炎になって消えてしまえばいいだけだ』

「……そうやって、きみはまた逃げるのかい。世界からも、わたしからも」


 灼熱を抱いた女は、清冽に微笑んだ。


「それで、わたしが、きみを諦めるとでも思ってる?」

『だって、おれは……おれには、もう……』


 くしゃり、と炎が歪む。

 泣きだす寸前の子どものように。


『でないと、おれは――……おれは、あなたを焼き尽くしてしまう……!』

「ばかだな。それが何だっていうの。それに、きみは見たかったんじゃないの。わたしが燃えて灰になってしまうのを」

『ちがう……ちがうよ!』

「わたしに火をつけて殺してみたいから、もう一度逢いたかったから、こうやって真っ黒な炎になってまでわたしを呼んだんじゃないの?」

『ちがう! ちがう、ちがうちがうちがうっ!』


 吹き荒ぶ黒焔がしなり、水蜜を打ち据える。何度も、何度も。

 抱きしめた胸が爛れ、指先から焦げた腕が崩れ、全身から黒く炭化した肉片をこぼしながらも、水蜜はシュラを離さなかった。


「あ、はっ。少年、きみ、やっぱり最高! 必死で魂燃やしてる男って最高にかわいいよ。たとえそれが自分勝手で子供じみた理由であっても。でも、まだまだ足りないね。そんなやわな炎じゃ、今のきみじゃ、わたしを……――日向水蜜を焼き尽くせはしない」


 わたしは、ぜったいにきみを離さない。

 誓いの言葉を口にしながら、水蜜の身体はゆっくりと炎の中に崩れ落ちてゆく……。





 ――――シュラ。





 その響きはまっすぐに胸を貫いた。

 ……シュラ。

 長い間そう呼ばれてきたのに、それがひどく懐かしかった。

 ずっと、本当はずっと、おれの名前を呼んで欲しかった。

 おれのことを誰も知らないこの世界で、おれの名前を呼んで、おれの輪郭をなぞってほしかった。

 誰か、誰か、誰か。おれを。おれがここにいることを教えてほしい。

 痛くても、おそろしくてもかまわないから。

 縋るような気持ちでそう祈ってきた。

 ……でも、絶対に無理だと心のどこかではわかっていた。こんな劫火に触れてくれるひとなんて誰ひとりいやしない。触れれば爛れ、傷つくことをわかっていながら、おれを抱いてくれるひとなんて、いるはずがない。

 なにより、きっとおれ自身が耐えられない。確かめた瞬間に灰と化して無くなってしまう存在の脆さを受け止めることなんて、とてもできない。

 だから、ずっと忘れていた。

 忘れたことにしていた。

 おれが忘れてしまえば、それですむと思っていた。




「鮫島朱空くん」


      「朱空」

                      「鮫島さん」

 「朱空くん」

         「鮫島」                「しゅら」


                「鮫島くん」



          「おにいちゃん。しゅらおにいちゃん」




 ――――…………さめじま しゅら。




「――――きみは鮫島朱空くん、だね?」


 おれを見つけた消防士がそう呼んだ瞬間に、おれは自分の魂を焼き尽くし、塗り変えた。

 おれはおれに嘘を吐いた。なけなしの嘘を。

 あいつの輪郭を、おれは知ってる。ちっぽけな身体に、かさかさになるまで乾いた魂。自分が招いた惨禍おれを見て、あいつは願った。

 ぼくがきえれば、ぜんぶなかったことになる。

 ぼくから、すべてうばって。どうか、おわらせてください。

 だから――すべて焼き尽くしてくれ、と。

 おれは願い通りにした。

 あいつが燃やしたあいつの両親、妹、そして、あいつ自身を飲み込んで、おれは燃え続けた。

 最後に触れた人間の形をおれはよく覚えていた。だから、それ・・に成りきることは容易だった。第一、だれも本当の朱空のことなんか知らなかった。みんなおれが本物の鮫島朱空だと信じ、疑うことはしなかった。

 水蜜。日向水蜜。

 彼女が現れるまでは。





 ――――…………みなみつ、さん。





 その女の名を呼ぶ自らの声を聞いたとき、■■は初めて自覚した。

 ずっと体の芯に感じていた寒さが消えている、と。

 ――炎はいつだって肉体の内側からやってくる。

 おれは、いつも凍えた魂で炎を呼んだ。

 寒さを感じれば感じるほど、生み出す炎はよく燃えた。

 ■■にだけ感じられたあの冷気は、紛れもなく炎を呼ぶための衝動だった。

 飢えや乾きのようなあの欲求が、ところが、今はすっかり消え失せている。

 ついに■■――否、シュラ・・・は悟った。認めざるを得なくなった。

 自分の魂がことごとく水蜜に奪われてしまったことを。

 しかし、それでいて、何一つ失ってはいないことを。

 かつての鮫島朱空と同様に、シュラもまた炎に飲まれ、自らの力に溺れてしまった。

 結局のところ、鮫島朱空とシュラの間には、たいした違いなど無かったのだ。

 だが、過去の繰り返しを断ち切ったのは水蜜だった。

 彼女は自分の心と体が爛れるのを恐れず、シュラの魂の奥底に踏み込んできた。コールタールのような黒炎に飛び込んで、シュラを無理やり明るい場所へと引きずり出した。

 彼女はシュラが人知れず願ったことを、いとも簡単に成し遂げた。


「…………水、蜜」


 もう一度。今度は、はっきりと彼女の名前を呼んだ瞬間――――

 曖昧な炎は一点に収束し、少年のかたちを取り戻す。


「水蜜さん!」


 そして――――崩れてゆく水蜜と目が合った。

 シュラの姿を瞳に映し、女は柔らかく微笑んだ。

 花のほころぶような笑みだった。


「……シュラ」


 シュラの両眼に炎が灯る。スミレ色の瞳越しに、シュラはそれを見た。

 己が確かにここにいるという、その証を。

 そして――……彼を映すその瞳が閉ざされた。

 その場にくずおれる水蜜を、シュラはきつく抱き留めた。

 さきほど彼女がくれた抱擁より強く、激しく。命の熱量を分け与えるように、やさしく。

 劫火に灼かれた灰が、抱きしめたそばから零れ落ちてゆく。水蜜が。彼女の命そのものが。


「水蜜さん……」


 シュラの瞳から溢れた雫は、落ちきる前に炎となって、宙を漂う。彼自身の輪郭を、小さな火の粒が白く照らし出していた。


「水蜜さん、水蜜、水蜜……ごめん、ごめんなさい。おれが、おれが」


 ……――ただ白く。

 どこまでもまっ白で清浄なシュラの炎が、ふたりを包み込んだ。

 どうして。

 壊したい。骨の髄まで焼き尽くしてやりたい。火をつけてやるだなんて。

 どうしてあんなひどいことを願えたのだろう。

 ……ああ、でも――今は炎を。

 シュラは焦げてしまった女の唇を自らの唇で塞いだ。

 おとぎ話の奇跡を信じているわけではない。これ以上、この女の体から熱が失われていくのが許せない。それだけだった。

 シュラには火をつけることしかできない。

 燃焼。発火。炎から喚び起こされ、それ自体を本性とする自分にできることなど、ほかにないのだ。

 いっそ彼女の灰を抱いたまま燃え尽きてしまえば、すべて終わりにできるだろうか。

 シュラが再び炎に変じようとした、そのときだった。


「きみ……ほんとに、ばか、だねぇ」


 灰と化す寸前だった唇が、たしかにそう紡いだ。

 甘く官能的ないつもの声。


「少年、なんできみが泣いているのさ……」

「え。あ。水、蜜……さん……?」


 腕の中で事切れていたはずの水蜜が、ふうっ、と息を吐いて起き上がる。

 焦げついた皮膚が次々剥がれ、白磁の肌が元の艶やかさを取り戻していく。

 蕾が弾け、生命が花開くように、水蜜の体は急速に再生を始めていた。重度の熱傷が見る間に塞がっていく。


「は、あっ、んんっ……。あーもうっ、この感覚、ほんとムズムズして慣れないよ!」

「……水蜜、さん。やっぱり、あなたは――」

「そうだよ。わたしの能力は不死。わたしは〈不死者イモータル〉なの。昔から、うんと前から」


 彼女は腕に張り付いていた布だか皮膚だかの残骸をぺりっと剥してしまうと、「とっくにお気づきのようにね」と付け足す。

 彼女の言動と、そして以前の襲撃事件の時から薄々は勘付いていたことだった。

 ……だが、やはり、にわかには信じ難い。


「でも、さっきはてっきり……」

「わたしもさすがに今度ばかりはダメかと思ったから、殆ど賭けだったんだけど。でも言ったでしょう? いまのきみの炎じゃ、わたしを焼き尽くすことはできない、って」

「……ちゃんと聞こえてた」

「えへへ。よかった」


 頷いて、水蜜は眩い太陽のような笑みを浮かべる。シュラはもうなにも言えなくなった。

 敵わない――……この人には、絶対に。

 日向水蜜を焼き尽くすことなど、誰であっても不可能だろう。

 シュラの劫火よりも熱い魂を、水蜜は持っている。

 そして、不死なる肉体を。

 でも、それは呪いだ。


『わたしのは、とってもスカウト向きの能力なの』


 初めて会ったときに、彼女はそう言っていた。

 水蜜は肉体の再生能力を持つ〈不死〉の密偵として、これまで多くの超能力者や魔法使いに接触してきたのだろう。

 〈勧誘者〉あるいは、ときに〈敵対者〉となって。

 相手の能力がわからない場合は、自身の体でそれを測り、ひたすらにデータの収集を積み重ねてきた。

 たとえ殺されても死の淵から甦ることができる、その異能を利用しながら。


「たくさん抱えてて、つらかったよね」

「……それは水蜜さんのほうでしょう」

「そう、かな。そうかも、ね。……ありがとう、シュラ」


 日向水蜜は何度も何度も死に直すことで裏の世界――この世の理に干渉する異能者たちの情報網を編み上げてきたのだ。

 彼女はその身をもって膨大なデータを紡ぐ密偵なのだ。

 その業がどれほどの苦痛を伴うものか、一体どれくらいの間続けられてきたのか、そしていつまでそれが続くのか。シュラには想像もつかなかった。

 しかし、考えることをやめてはいけない。

 だって、どうやら……日々はこれからも続くのだ。


「命がいくつあっても、わたしにはわからないことだらけなの。今回だって、きみのこと全然わかってなかったもんね」

「なにもわかってなかったのはおれのほうだ。本当のことを知ろうともしなかった。挙句の果てには逃げ出して、いろんなものをめちゃくちゃにしてしまった」

「うー。たしかにそれは……まあ、物理的な問題に関しては気にしないことだ。わたしの上司がなんとかしてくれるよ、多分だけどね」

「それでも。おれはもっと――……もっと早く大人にならなくちゃ」

「……ふうん?」


 真剣な様子のシュラをみて、水蜜は何かを思いついた顔になった。その貌も体も、元通りの匂いやかな美貌を取り戻している。


「あ……」


 なぜだか、シュラの目には彼女が以前より一層美しく映えた。

 いまはただ、鼓動だけが熱い。

 シュラは自分の胸を押さえた。もう一度水蜜を見る。彼女はシュラの姿を両目に映し、無邪気に微笑んでいる。……たぶん、間違いない。

 魂を奪われ、代わりに与えられたものは、前よりもっと熱い炎だった。


「ねえ、シュラ。アレやってよ。まえに煙草に火をつけてくれたでしょう」

「あれって……掌に小さい火を灯すやつ? 煙草、こんなときでも吸いたいって、けっこう重症なヘビースモーカーですね?」

「もうっ、なんでもいいから! ほらァ、水蜜おねーさんはこんなにボロボロなんだよ~? ね、ね、おねがーい!」


 シュラは怪訝な顔をしながらも、素直に火を灯す。

 炎は彼本来のバニラ色の輝きを取り戻していた。惑うことが無い限り、あの汚泥のような黒焔と化すことは、もうないはずだ。

 あのときと同じ。数多の星々の輝きを宿した瞳に、シュラの炎が映り込む。

 水蜜はさっぱりとした、しかし満足そうな笑みを浮かべている。


「……あの。前にもいった通り、小さいのは制御がけっこう大変だから、早くしてもらえると助かるんだけど?」

「あれ、そうだっけ? ……それじゃあ、失礼して」


 そのまま煙草を取り出すかに見えた水蜜が、うやうやしくシュラの手を取って、跪く。

 彼女は少年の掌に、シュラの炎にくちづけた。

 それは騎士の宣誓のようでもあった。

 シュラはどうしようもなく赤面するほかにない。

 水蜜が上目づかいにシュラを見ていた。それがまた、極上の眺めであった。

 ……やっぱり、水蜜は狡い。

 彼女はいつだって、自分を一番きれいに見せる方法を知っている。

 もっとも、シュラは彼女以上にうつくしいものなど知らないのだが。


「ねえ。これも聞こえてたと思うけどさ――……一緒に大人になろうって、その選択肢は考えてくれないものかな?」

「おれは、あなたと、いっ――!?」


 シュラが答えるのをみなまで待たず、水蜜は熱烈に唇に噛みついてきた。

 ……熱くて、甘い。

 頭の中まで蕩かされて、かき混ぜられていくようだ。

 呼吸も鼓動も支配されているみたいで、胸が苦しい。

 だが、この感情の名前がなんというのか、シュラはもう気が付いていた。だから、シュラもまた深くまで彼女を受け入れ、蕩かしていく。

 温かな炎に包まれながら、ふたりは暫しそのまま溶け合っていた。











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