第七話 熔融 ‐MELT‐

熔融〈1〉

 




 7.熔融MELT




 〈1〉




 いと昏き漆黒の森。

 人々の記憶から置き去りにされ、記録の中にのみ存在するはずだった場所。

 誰が為の墓標か、無数の朽木が行く手を遮る。


「ワーオ。これはなかなか煉獄めいた眺めダネ」

「……シュラ」


 カレルが普段の口吻で軽口を叩き、水蜜は焦燥を押し殺すように唇を噛む。

 おそらくシュラがいるのはこの先の鮫島邸跡地に違いない。

 まだ間に合う。そう信じたい。他ならぬ、わたしが信じなくてどうする。待ってて、シュラ。どうか、わたしを待っていて。

 だが、刻一刻と過ぎていく時が水蜜の心を苛んでいた。

 道は悪く、朽ちた枯れ木が密集しているために、思うように進めない。ち、と舌うちひとつ。水蜜は自分の腕が傷つくのも構わずに茨の径を掻き分け始めた。尖った枝が頬を引き裂き、棘が両手に喰い込んでも、進むのをやめたりはしない。

 体の痛みなどなんだというのだ。本当に痛む場所は、もっと胸の奥にある。


「大丈夫だヨ、レディ=水蜜」


 無我夢中で茨を引きちぎっていた水蜜の手を、白くて大きな手が優しく押しとどめた。

 気がつくと、両手が血に塗れていた。じんじんと痺れるような痛みに顔をしかめる。突き刺さった無数の棘が皮膚に残ったままだ。

 ああ。わたしはまた救えない。あなたを救えないんだ。

 鼻の奥がつんと引き攣り、涙がこぼれそうになる。馬鹿か。ここまできて、自分のために泣くことなど許されないというのに。


「どうかそんな顔をしないで、レディ。キミのことはボクとゼロたちが助けると言っただろう?」

「で、でもっ」

「おっと。きれいな顔が台無しダヨ? これからキミの恋人に会いに行くんだから、そんな顔してちゃダメだ」

「なっ。こ、恋びと、などでは……」


 裂けた頬をカレルの親指が拭ってくれる。出血は止まっていたが、流れた血はまだ乾ききっていないようだ。

 紅く濡れた自らの指を、カレルは舌で舐めとった。「しょっぱい。けどイイ感じ」と、満足気に微笑む。水蜜としては妙な気分になるしかない。しかし、おかげで涙は止まっていた。


「それに、だ。ゼロと霧子チャンが頑張っているうちは、あの子はまだ自我を保ち、自分の敵とみなした者たちと戦い続けるだろうから、ネ」

「しかし、それではゼロがもたない。だって、彼は」

「おっと。みくびらないことだよ、レディ。ゼロはキミの許にいた頃より、ずっと成長してるんだ。いとしき子にはマタタビってやつネ!」

「……いとしき子には旅をさせよ?」

「ン、それデス。さて、ちょっとオシャベリが過ぎたネ」


 カレルは何かを唱えるでもなく、ただ辺りを睥睨へいげいする。

 すると、途端に変化が起きた。音もなく周囲の木々が腐敗を始め、朽ちて粉々に崩れていく。

 カレルを中心として腐蝕と崩壊がばら撒かれていく様は、まさに彼の異名である〈腐蝕の君〉にふさわしい光景だった。

 けして敵に回したくはない相手だ。水蜜は内心息を呑んで見守るばかりだった。


「わたし、室長と違ってきみのことそんなに知らないんだけど……その能力、人間相手に使うことも可能なのかな?」

「フフ、知りタイ?」

「……今はやめておく」

「それがイイヨ。さあ、レディ=水蜜。お急ぎなら、早く先へ進みマショウ?」


 ほぼ自然に水蜜の手を取り、カレルは開けた道の先へと歩き出す。

 おぞましいともいえる能力の持ち主。腐蝕をばらまく悪鬼であっても、その手には穏やかな温もりが宿っていた。

 あるいは、彼が本物の悪魔であるからこそ、こうして残酷なまでに優しく振る舞うことができるのかもしれない。

 まったきものの魂が悪徳へ堕ちる瞬間をみるために――神との賭けに勝つために、約束を取り交わした彼らは献身的に働くのだから。







 かくて、鮫島邸跡地に駆け付けた水蜜の目に飛び込んできたのは、戦場めいた惨状だった。

 あちこちで鬼火が舞い、めらめら燃え盛るどす黒い炎が辺り一帯を焼け野原に変えている。

 かつて同様にして焼かれた森をさらに黒く塗り潰し、黒焔が滾っている。

 深い慟哭の叫びにも似た音を立て、今まさに周囲を焦がしながら、泥濘のごとき炎が広がってゆく。


「これが、シュラ……? 彼の、異能だというの……?」

「まるで愚者の炎イグニス・ファトゥスだナ」

「イグニス……?」

「鬼火伝承のひとつサ。旅人を惑わす鬼火の怪異。その正体は、生前の罪状のために昇天しきれず、拠り所を求めて現世を彷徨う死者の魂だという」

「一掴みの藁のウィリアムウィルオウィスプ、か。天国にも地獄にも逝けぬ男の魂を憐れんだ悪魔が、彼に渡した地獄の劫火の燃えさしひとつ。その灯りが鬼火として見る人を恐れさせるようになった」


 煉獄の炎。この世とあの世の境をさまよう孤独な魂。愚者火。まるでシュラそのものだ。

 ……なんて皮肉で奇妙な一致。

 脳裏をよぎる不吉なイメージを振り払いつつ、水蜜は辺りを注意深く見回した。

 とりわけ激しく燃焼しているのは、邸宅の中心部。

 そこには、真っ黒に口を開けた闇が居座っていた。

 あれこそが■■のなれの果て。混沌。日向水蜜が誘い、絶望の淵へと追いやってしまった少年の姿だった。

 否。そう簡単に絶望などさせるものか。


「いま行く。絶対に助けに行くから……!」


 その時、視界の端でかすかに動くものがあった。

 瓦礫の陰へ寄ると、学生服姿の少女が倒れている。うっすらとした霧が少女を守るように纏わりついていた。


「霧子ちゃん!」


 駆け寄ったカレルが彼女を抱き起こすと、霧はすうっ、と散ってしまった。

 水蜜が頬を寄せて、少女の呼吸を確かめる。……弱い。だが確かに息遣いを感じる。薄い胸が僅かに上下しているのも見て取れた。


「……大丈夫。息はある」


 少女の頬についた煤を親指で拭い、カレルを伴って安全な場所まで運ぼうとした途端――、


「そいつを放しやがれ!」


 鋭い声がそれを押し止めた。

 ざくりっ、と音を立てて足元に頸木が突き刺さる。進路を塞がれた二人は、声の主を振りかえる。


「……ゼロ。なんのつもりだ」

「テメエこそ、クソ魔女様がひとのオンナに気安く触れてンじゃねえ。さっさと汚ねェ前脚どけろよ、雌犬ビッチ


 激情を露わにし、憎悪の籠った視線を向けてくるのは――〈念動力〉の異能を持つ少年・ゼロだ。

 しかし、そこへドス黒い炎の本体が無数の触腕を伸ばす。


「ちぃッ! しつこいンだよォッ!」


 直前まで激しくやり合っていたのだろう。ゼロは背後へ跳躍。獲りつくような攻撃を間一髪で躱し、間合いから逃れて転がるように着地する。

 熱風で黄金の前髪が揺れ、垣間見える蒼い双眸は、激しい怒りに滾っていた。


「テメエもだ、カレル! このドグサレ蝙蝠野郎が! 何を嗅ぎあてたか知ンねェが、オレらはどこまでも契約者で依頼は依頼。それを反故にするのは許されねェンだよォ!」

「本当にかわいいネ、ゼロ。キミはいつだって少しストイックすぎるのさ」

「黙れよ。手のひら返しやがってクソが。テメエこそ、ヴィーザルの奴らに追われるぜ? 契約違反を犯せばどうなるか、分かってンだろ」

「ゼロ。それはキミが喋ればの話だろう? これはボクとキミとの一時的な秘密、それで丸く収まる話なんダヨ。どの道、遠からず、もっと上部のレベルでGATE機関彼女たちと本社……もとい依頼主代理人との交渉が行われる。ボクらが幾ら頑張ろうと、命令はじきに破棄になるヨ。つまり、実質■■はもうあちらのものってコトなのさ」

「ふざけやがってェ……!」


 ぎりり、と歯嚙みするゼロの周囲に礫や杭が浮上する。見えない念動力で無数の物体が持ち上げられていた。

 それでもカレルは揺るがない。穏やかに凪いだ瞳で少年を見つめるだけだ。


「ボクを殺したい? ねえ、ゼロ」

「やめるんだ、ゼロ!」


 カレルを遮って水蜜が叫ぶ。その視線はゼロが負った手傷に向けられている。

 少年の手も足も、露出している箇所はことごとく焼け爛れていた。衣服で保護されている箇所も、血と体液に塗れ、ぶすぶすと黒く焦げついている。■■を相手に戦っていた証拠。満身創痍の様相である。

 ■■よりもむしろ場数を踏んだ請負人であるゼロがここまで押されるとは。

 水蜜は状況の厳しさにそっと唇を噛み締めた。


「これ以上戦い続ければ、きみだってタダじゃ済まない。きみの身体と炎化……それに腐蝕の異能の相性は最悪だ。分かっているだろう? きみだって、その状態でこれ以上を凌ぐのは無謀なはずだ」

「うるせえっ! それでも……なんであろうが、オレはあいつを一発ブチのめしてやンなきゃ気がすまねえンだよォッ!」


 だんっ、と地面を踏みならし、ゼロはいきり立った。

 その声に呼応して、周囲の浮遊物が黒焔――■■に殺到する!

 だが、炎はそれらをすべて飲み込むと、依然としてそこに蟠り続ける。その有り様はさながらブラックホール。まるで崩壊した巨星そのものだった。


「望んだ力じゃねえとか、テメエが人間じゃねえから消えるとかグダグダ屁理屈並べて、くだ・・巻きやがってよォ! いまどき繊細な中二病キャラは流行ってねえンだっつーの! 見ろよ。あいつはいいだけ暴れて、どいつもこいつも誰かれ構わず燃やしてやろうって腹だ。結局、ヤツは現実を直視せずにここまで逃げてきやがったンだ」

「それはちがうっ!」

「どこがだよ? テメエだってそうだろうが。甘い言葉で散々あいつを籠絡し、堕としきった……あんなになるまであいつを追い詰めたのはオマエなんだよ、日向水蜜。いたいけな少年をめらめら燃える真っ黒いクソドブみてえなバケモンにしちまったのはオマエだ。ぜんぶオマエのせいなんだよ、日向ィ……」

「わたしの、せい……だと?」

「そうだ。オマエだよ、先生・・。かくして怪物がもう一匹、ってワケだ」


 見ろよ。そう言ってゼロが自らの腕の傷を晒してみせる。先の戦闘で負った重度の熱傷。

 変化はすぐに起きた。じゅわり、と傷口が不気味に泡立ち、皮膚組織が見る間に再生を遂げていく。

 それだけではない。ゼロの全身の傷が、同様にして再生、回復を始める。

 く、と水蜜が呻き声を漏らす。しかし、それは嫌悪感からではない。


「どうしたよ。こんくらい見慣れてンだろうが? 今さら罪の意識を感じちゃいましたァってこたァねェだろが!」

「やめてっ、……やめてくれ。頼む」

「ほら、こっち見ろってンだ。淫らな魔女のテメエが、いつだって化け物を生むんだよ。オレの能力――自己回復、念動力、半不老デミ・イモータル。どれも持って生まれた異能とは違う。オレはテメエの因子を埋め込まれて生まれた実験体だ。そして、それを行ったのが日向水蜜! おまえ自身だろうが!」


 罪状を突きつけるように、ゼロは吐き捨てた。少年の双眸は凄絶な恨みに燃えていた。

 そしてその言葉こそが、彼が実際には既にして少年ではないことを語っていた。

 霧子を抱えたカレルだけが、無関心無感情に彼らの会話を聞いている。


「だいたいオマエはスカウトにしくじってばかりの、失敗作の密偵スパイじゃねえか。それにオマエが誑し込んで犬死させた異能者だって、どれくらいいるンだかなァ?」

「言うな! ゼロッ」

「日向水蜜、オマエこそがエラーなんだよ。まァだ解らねえのかァ? オマエは摂理に逆らって、すべてをやり直し続けてる。テメエは可逆し得ることで変化を拒否してやがるンだ。だが、不変の先にあるのは緩やかな死だ。流れに逆らい止まることはすなわち停滞、緩慢な死に他ならない。生きながらに死ンでるテメエには、人間の価値や尊厳なんざ、所詮は理解できねえンだよ!」


 ゼロの言葉は鋭い刃となって水蜜の胸を抉った。

 ゼロの言い分はすべて事実で、どこまでも真実だった。

 自らの罪状。そのほんの一部を突きつけられた。それだけで、ひどく胸が痛んだ。しかし、この痛みは自分を憐れむためのものだ。

 性質タチの悪い長雨の如くにゆっくりと降り積もり、本心を、わたしを埋め尽くしていったもの。今、ふたたびその中に埋もれ、足を取られるわけにはいかない。

 横で淡い笑みを浮かべたままのカレルが問うた。


「レディ=水蜜、それで、キミはどうしたいんだい?」


 ……わたし。わたしは、もう迷わない。迷ってはいけない。

 そうだ。

 だからこそ。

 日向水蜜はここまでやってきたのだ。


「……ゼロ。きみたちのことは今でもすまないと思っている。過去も現在も、わたしの力と覚悟足りないばかりに、きみを含め、わたしは大勢の人たちを苦しめている」

「だったら見やがれ! せめてテメエの目であいつの最後を見届けやがれよ! そして解れ、絶望しろ!」

「それはできない。すべてきみの言う通りだからこそ、わたしはなんとしてでもあの子をこのまま行かせるわけにはいかないんだ。だから――」


 ゼロが驚愕に顔をしかめた。まったく予期していなかったのだろう。

 水蜜はごく自然な動作で拳銃を構えていた。

 冷たい銃口はまっすぐに少年の頭を狙っている。


「退け。これは脅しではない」


 紫から紅へ。水蜜の瞳の色が染まってゆく。紅く渦巻く魔女の瞳で、水蜜はゼロに通告した。

 ゼロはさらに口元を歪める。笑みか、それとも嘲りか。


「……はん、テメエに引き金が引けるってのかよォ。笑わせンな、アバズレ」


 銃声。反響が耳をつんざく。

 間を開けずして、もう一発。

 水蜜は躊躇せずに二発をゼロの足元に撃ち込んでいた。銃弾の軌道は歪められず、真っ直ぐに飛んで行った。ゼロの予想を飛び越えてアクションを起こしたのだ。

 三発目でようやくゼロが弾丸の軌道を逸らす。彼の真後ろに着弾し、地面が爆ぜる。


「てめっ、コナクソ! ほんとに撃ちやがって……! なんならいますぐテメエの頚を捩じ切ったっていいンだぜ。どうせあいつはもう手に入らねえンだからよォ」

「ゼロ。黙れよ、ケツの青いクソガキが。おまえは勧誘どころか接触すらも満足に出来ぬ能無しだろう。……一体誰がノウハウを仕込んだと思っているんだ?」


 今度は絶対零度の眼差しがゼロを射抜いた。

 魔女。魔性の女。

 ゼロが浴びせてきた言葉はなにも偽りではない。彼が言うように、水蜜は見た目通りの女ではないのだから。齢も、その性質も。

 外見はたおやかな乙女だが、この女は我儘で慈悲深く、それでいてどこまでも残酷な魔女なのだ。運命すら捻じ曲げ、流れに逆らい、生き続けてきた。

 それが覚悟を決めて、眼前に立ちはだかっている。

 一度決意したなら、もう誰にも彼女を止めることなどできはしない。


「チッ、そうだったな。そうだったよ、先生。テメエは……」


 ……この女は、そう――一度手にしたものをやすやすと手放す女ではなかった。


「ああもう、クッソ」


 舌打ちひとつで、ゼロの心もまた決まった。そうせざるを得なかった。

 すなわち、ホールドアップ。


「……もういい。行けよ、行っちまえ。テメエが万一あいつをモノにすりゃあ、オレらだって、いつでも横から掠め取れンだし……なァ?」

「ダーメ。それはノー」

「いって! なにすンだ、テメエ!?」


 いつの間にか少年の背後に回っていたカレルが、ぽん、とゼロの頭を小突く。

 カレルはそのまま背後からゼロをぎゅう、と抱きしめ捕まえた。


「ぎゅうぃいででででででででぇッ!? こッ――こここ殺す気かっ!? 殺し返すぞコラ! 元はと言えば、テメエが蝙蝠みたいにころころ裏切りやがるからだなァッ!」


 男の長い腕の中で、ゼロが主に痛みでジタバタと悶絶する。

 ふたりの様子に軽く笑むと、水蜜は構えていた拳銃を下げた。

 カレルはゼロの黄金の髪の毛に鼻先を埋め、甘く囁くように語って聞かせた。


「ゼロ。たしかにボクは蝙蝠野郎だけど、別にキミを裏切ったりはしないヨ。ちょっとばかり込み入った事情があるだけさ。でも、キミが居てほしいと思う限りは、ずっと傍に居る。ひとりにしないヨ? 昔に約束したもんネ。……だから、信じて」

「むぅぅああああ! おファックのクソ喰らえ! どいつもこいつも事情事情事情! テメエのことばっかでヤんなるなァッ!」

「自分勝手、ネ。でも、世の中、それでわりと上手く回ってるもんダヨ? 遺伝子レベルで子どものゼロにはまだ早いんだろうけどネ、この仕組み、なんていうか知ってるかい?」


 唐突な問いかけ。ゼロは思わず押し黙り、訝しげにカレルを見つめた。

 一体なんだというのだろう? 

 水蜜もカレルに視線を向ける。


「……あァン?」

milovat

「アー…………オマエはね、存在自体が恥部! 恥辱! テメエの異名はもう〈恥辱の君〉だな! ああクソっ、メンドくせえから本社に帰る!」

「えー? ナンデー? ボクもっとこの国の女子中学生を愛でたいヨ」

「死ね、ヴァカ! ヘンタイ! ヤ●チン野郎!」


 ゼロはぷんぷんしながら踵を返す。その時、甘い霧の残り香が彼の鼻を掠めた。

 歩き出そうとしたゼロが霧子を見止め、気を失ったままの彼女の頬を指で撫でた。白く、滑らかな少女の肌。おっかなびっくり数秒触れて、手指を離す。起きているときに触れたら、やはり彼女は気を悪くするだろうか。あるいは。いや、今はこんなことに気を取られている場合じゃない。


「……まあ、テメエもがんばったよ」


 彼はぽつりと呟く。

 意味ありげな視線をゼロ、霧子、と順に注いだカレルが、最後に水蜜を見る。邪視も魔女には通じまい。水蜜も彼を見た。


「じゃ、後は頑張るヨロシ! レディなら、きっと大丈夫さ」

「ありがとう。どんな裏があっても、きみがそう言ってくれると信じられる気がするな」

「Není zač! また近いうちに、〈魔女のお茶会〉でネ」


 謎めいた口吻にゼロが首をかしげるが、カレルはもちろん気にしない。そんな様子に苦笑しつつ、水蜜はゼロの方を向いた。

 小さな背中だが、もうそれだけではない。ゼロだって、水蜜の予想の外に成長し続けているのだ。

 彼に声をかけるのには、まだ勇気がいる。でも、今は。今日は、きちんと言葉にしなければいけないだろう。


「ゼロ。きみだって、困ったら頼るといい。その……こちらはいつでも歓迎するよ」

「けっ、願い下げだねェ! でも、ま、今回だけは可愛い年下彼氏つばめちゃんに免じて特別に露払いしてやンよ」

「なっ―――まッ、ままままだ彼氏でも愛人でもない!」

「じゃーな。次あったら今度は殺すよ、先生」


 反論は届いたのか否か。

 ゼロたちの姿は一瞬にして掻き消えた。まるで魔法のようだった。

 しかし、行く手を阻んでいた瓦礫が見えない力で運ばれ、避けられていく。黒く煤けた家屋の骨組みがみるみる内に崩れ、こまかな砂礫と化して風に流れていく。あたりを包んでいた炎の勢いも削がれた。どこからか甲高い耳鳴りが聴こえている。

 退避しながらも、ゼロたちは言葉通りこちらを援護するつもりらしい。

 水蜜は「ありがとう」と呟いた。聞こえなくても構わなかった。





 そして。

 地獄の劫火の燃えさし、ひとつ。

 魔女は、黒く蟠る愚者火へと――――鮫島朱空が生み出し、未だ己の拠り所を求めて現世を彷徨う死者の魂へと向き直る。

 彼女の願いも、またひとつ。



 愛するものに魔女のくちづけをくれてやる、そのために。









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