哭炎〈2〉

 



 〈2〉




 まるで奈落の底だ、と思った。

 水蜜は朱空が落ちて行った先に視線をやったまま立ち尽くしていた。ベランダの欄干を握る指は震えている。

 朱空が地面に叩きつけられることは無かった。

 荒れ狂う黒炎へ姿を変えた彼は、空中で霧散し、姿を消した。彼はそのままどこかへ行ってしまった。

 こわかった。とてもこわかった。

 性懲りもなく、また失うと思ったから――。


「……ふざけるなよ、少年」


 名を呼ぶ声は乾いていた。きつく噛み締めた唇が切れて、血が滲む。呟きに応えるものはもう誰もいない。

 あなたとは一緒にいかない。

 否定も拒絶も、幾度となく他者から突きつけられてきた。化け物と罵られることさえあった。

 魔女。なにも間違ってはいない。その通り、わたしはどうしようもなく醜悪で狡猾な魔女だ。そう呼ばれることには慣れきっているはずだ。

 それなのに、ひどく胸が痛む。痛くて、こわくて、たまらない。

 すでに塞がった頬の傷がどうしようもなく疼く。こんな痛みは久しぶりだった。

 そう、傷は本来痛むものだ。わたしが勝手に忘れていただけで。


「きみはなんにもわかってない。これっぽっちも、わかってないよ……」


 水蜜が迎えにきたのは鮫島朱空ではない。ほかならぬ彼の方だ。

 ……そして、ほんの少し心を奪われかけていたのも。

 でも、彼は行ってしまった。この手を振りほどき、渦巻く黒炎となって姿を消した。

 なんて自分勝手。あれじゃあただの駄々っ子だ。

 けれど、わたしのやり方はいつだって歪んでいる。

 わかってないなんて、他人のことを言えた義理じゃない。

 わたしだって、自分の呪われた異能を持て余している。彼と同じように。わたしはこわがっている。

 日向水蜜は逡巡していた。

 追いかけてどうする。また甘い言葉で、体を使ってあの子を籠絡ろうらくしようというのか。

 ……無駄だ。今さらどちらも通用しない。

 刹那。背後に気配が生じた。急に浮上したというべきか、そいつはいつの間にか部屋の真ん中に立っていた。

 だが、水蜜は振り向きもしない。

 来ている・・・・のがわかっていたからだ。


「……友枝ともえ室長」

「気づいているなら、いい加減服を着たらどうかなぁ? どこから見ても軽く絶景なんだけど?」

「必要ないだろう。あなた相手ならば、なおのこと」

「はん。そうかよ」


 友枝あずさ

 彼もまた異貌の男だ。

 ダークスーツと銀縁眼鏡。短髪オールバックに、細い切れ長の糸目。インテリヤクザのような風貌だが、これが普段通りの装いである。

 国内随一のギフテッド・タレンテッド教育GATE機関、異能者育成支援施策本部。その付属研究院第三研究室室長。

 水蜜が秘密裏に連絡を取り続けてきた直属の上司こそが友枝だった。


「それで、だ。どうして僕がここに来たか、わかるよねぇ?」

「……わからないな。室長はいつも読めないひとだから」


 水蜜は肩を落としたまま振り返りもしない。

 やれやれ、といった体で友枝は首を傾ける。


「うーん。さすがに、この局面でとぼけられてもなぁ。……どうもこうも、キミは失敗したんだよ。キミの任務は失敗に終わったの」


 友枝は細く切れ長の目を開き、極めて怜悧な視線を送る。

 水蜜の体が強張った。背を向けていてもわかる。殺気と怒気。その矛先は自分に向けられている。


「わかるかなぁ、水蜜さん? 彼はもう使いモンにならない化け物になっちまったってこと。他ならない、淫らな魔女の日向水蜜が奴の異能そのものとしての価値を貶めやがったんだよ、この使えねえド阿呆が」

「彼を……シュラをそんなふうに呼ぶな。あの子は……あの子は化け物なんかじゃないッ」

「わたしとは違う、ってか? あーあー、またそうやっていい大人がダダをこねる。キミがそうやって泣こうが喚こうが、もう結果は変わりゃしないンだよねぇ」


 悲痛な面持ちの水蜜をしり目に、友枝は腕時計を見やる。


「というわけで、現時刻を持って鮫島朱空・仮称を監視対象から異能遺物封印指定シールド対象へ移行。処理班へ行動命令を出すよ。異論はあるかなぁ、水蜜さん。まあ、あってもなくてもやるしかないんだけどねぇ」

「即時の封印処理だなんて……そんなこと、いくらなんでも許されない!」

「ったくよぉ、まだわかんないのかなぁ。彼は暴走しかけており、自壊の可能性がある。鮫島朱空クンがかつてそうしたように、彼もまた自らの能力により消え去ることを望んでしまった。それもおそらく周囲を派手に巻き込む形で、ね」

「それは……」

「つーわけで、水蜜さんは本部へ帰還。戻ったらラボへ直行して即メンテを受けること。月村長官も心配していらっしゃる」

「ならば……せめてわたしも現場へ同行させろ」

「なあ、水蜜さん。キミ、そろそろいい加減にしろよ?」


 銀縁眼鏡の向こう側。殺気の籠った三日月の瞳が水蜜を見据えた。


「キミがどんなに汚辱に塗れた醜い魔女クソアマでも、僕らの陣営にとっては大切な存在なんだよ。キミは悪い魔女というよか、か弱いお姫様なの。だから多少の我が儘こそ許されど、その身の安全は絶対に守らねばならない。そこんとこ、水蜜さんはちゃんとわかってんのかなぁ?」

「こんな人間の成れの果てが……あの子どもよりも大事だというのか!」

「それがそうなんですよねぇ。まー残酷ですけど、水蜜さんは彼よりはるかに希少で貴重な人材だ。我々人間がこの先に進めるか否かが掛かっている、彼方からの大切な〈客人〉なのさ。それに僕のだいじな友人でもある。もっともこれは気休めだけどねぇ。だから、どうか大人しく戻ってくれないかなぁ?」

「どうして……わたしは……そんな大それた価値などない、最低な人間なのに」

「すくなくとも後者は訂正をお勧めするよ」

「ほんとうに……梓くんはいつも手厳しい」


 水蜜が浮かべたのは泣きそうな歪みだった。もう苦笑する気力さえ残っていない。

 友枝の言い分はどこまでも正しく、冷徹だ。

 たしかに、どの道あの子はもう救えないだろう。

 諦観を受け入れてしまえば楽になる。楽になれなくても、いずれまた痛みを忘れるはずだ。

 そうやってわたしは何度も諦め、誰かを殺し続けてきた。今回だってそうだ。たまたま不幸な結末を迎えただけ。ただそれだけ。

 シュラだって、あんな姿になってまで在り続けることは望まないはずだ。

 だから、わたしさえ。

 わたしが諦め、忘れてしまえば、すべてが終わるんだ。


「梓……友枝室長、……わたしは」


 水蜜が最後の一言を紡ごうとした時だった。

 みしり、と。部屋そのものがひしゃげたような音を立てた。

 ぱらぱらと細かな破片が降り注ぎ、数秒で数十年の時を経たかの如くに壁と床、それに天井が劣化していく。

 ――――まるで果実が内側から腐りゆくように。


コンニチワ~Dobrý den! お邪魔するネ!」

「〈腐蝕の君べルゼビュート〉……こんなときに契約者かよ! ほんとにキミ邪魔だねぇ!? ちったァ空気よめや、クソ外人!」

「レディ=水蜜に、えーとジャパニーズクソ雑魚ヤクザのコスプレイヤー室長殿。ドーモお揃イで」

「テッメコラ、バックレてンじゃねぇよ、本当は日本語いけんだろうがヴォケ!」

「Ne. Neumím japonsky !」


 ヤクザまがいの口調で怒鳴りながらも、友枝は背後の水蜜へ背広の上着を放る。

 水蜜は素直に上着を羽織り、裸身を隠す。

 突如現れた男は露骨に残念そうな顔をした。


「アー、せっかくのオッパイが~」

「いい加減しゃらくせえんだよなぁ、カレル。わざわざキミともあろう者がひとりで何しにきやがったのさ?」

「おっと、誤解シナイデ。別に喧嘩をふっかけに来たんじゃナイヨ?」

「はん? どうだかねぇ――」

「ボクの目的は、レディ=水蜜との取引なのサ」


 ミントブルーの瞳をすぼめ、異貌の青年はなんとも扇情的に微笑んだ。割れた窓から吹き込む風が、男の黒髪を撫ぜてゆく。緩く結わえた長い三つ編み。

 建物が歪む音がやみ、腐蝕が止まる。


「ここらで止めておかナイと、建物も土もぜーんぶ死んじゃうからネ」


 〈腐蝕の君〉、カレルレン=ヤンセン。

 ゼロたちと同じく、民間軍事会社PMSC〈ヴィーザル社〉の契約者。上背のある東欧系の青年だ。


「取引、だと? ……わたしへ差しだせるような条件が、今のおまえにあるとは思えない」

「それが、あるんダヨ。だからそんなにつれない態度をとるものじゃナイネ、レイディ?」


 長くしなやかな四肢が針金のような影を刻む。

 そのシルエットは魂の売買を持ちかける悪魔そのもの。

 魔女と悪魔の視線が虚空でぶつかり合った。


「ならば、言え。おまえが差し出す条件とはなんだ」

「今って、君らにとってのクライマックスなのでしょう! なら条件はたったひとつに決まってる。鮫島朱空――いや、■■unknownの確保しかナイだろう?」

「シュラを取り戻す……? なに、言って……」

「ザッケンナよ。おためごかしてンじゃねえぞ、この腐れ外道が。奴はもう人の形にゃ戻れねえ。第一キミらはどこぞの組織か個人に雇われた戦闘要員、つまり競合他社ライバルじゃないのさ?」


 友枝が動揺する水蜜を庇うように立ちはだかる。

 なにもかも友枝の指摘通りだ。

 契約者であるカレルはヴィーザル社の傭兵であり、ヴィーザル社はどこかの個人または組織と契約を結んでいる筈だ。同じ駒を奪い合う限り、彼らは敵にしかなりえない。

 しかし――……


「たしかに友枝サンの言う通りだったヨ。依頼の大本がわかるまでは、ネ」

「依頼元だって? キミはンなもん気にしないタイプでしょうが」

「そうダヨ。でもネ、思うところあって、ナイショで調べたんだ。これが聞いてびっくり見てびっくり。……さァて、ここで問題デス! Qクエスチョン! 依頼元はどこだったデショウカ?」

「もったいぶってんじゃねえぞ。喋らなきゃ、僕がキミをハチ殺してでも吐かせるよ」

「わ、おっかナイ。じゃあ言うけど、依頼元はナナナーント! キミらの国の旧特高一三課・通称セクト対策室ネ!」

「特高だと? 旧セクト取り締まり……帝国の魔女狩り残党か」


 水蜜には心当たりがあった。

 この受け答えで、友枝も合点がいったとばかりに頷く。


「読めたぜ。要するにカレルよ、キミは気に入らないんだねぇ。仮に水蜜さんが勝てば彼は僕らが、キミらが上手くやったとしても彼を手に入れるのは結局ウチの国内機関だ。僕らがなんらかのカードを切って彼らと交渉すれば目的は達成される。元々はひとつの組織だった彼らと、ね」

「To je správn! 結局ボクはキミらの国に乱立する機関のゴタゴタに利用されてる傭兵ってワケ。でもボクはそんなの気に入らナイ。誰かの手の上で転がされても、そこが特等席ならべつにイイ。でも僕はあくまでプレイヤーだ。クソゲーだとしても、いつでもどこでもゲームは楽しみたいんだヨ。だから、キミらの内輪もめ用の手駒になるつもりはさすがにナイの」

「相変わらずいっつもトチ狂ってやがんね、キミは」

「なんとでも言いヤガレですヨ? というワケで、この最高におファックな状況――もちろんボクにとってはだけど――を掻きまわし、ついでにレディの眷族けんぞくであるゼロたちを助けてやってくれヨ。そうすれば彼らもレディ=水蜜に協力せざるをえなくなるネ。そして救出に成功したなら、■■はキミらに黙って譲ろう。これがボクの差しだせる条件だ」


 長い両腕を広げ、カレルは口元の笑みを深くする。

 さあ、どうする?

 扇情的な態度が水蜜の心を揺さぶった。

 ……シュラを助けられるかも知れない。でも、本当に?


「では、こちら側の条件は? おまえは何を求めているんだ?」


 水蜜の問いかけに、カレルは悪魔の微笑をひっこめた。

 氷蒼色の瞳に浮かんだのは真摯な願い。


「〈冬の魔女〉との対話ダヨ。もちろん、混沌とした状況にしてくれるということを割り引いて、ネ」

「星巡りに干渉するレベルの能力を持つという、特S級異能者が……わたしと話を?」

「そう。ひとつお茶会に招かれて欲しくてネ」

「馬鹿言え。奴ァ凍結解咒リビルド以来、一度だって誰ともしゃべろうとはしてないでしょうが」

「レディ=水蜜なら、あるいは面白いコトになるかもと思って、サ?」

「……さてはキミ、マジの契約先が他にあるクチだねぇ?」


 友枝の指摘にカレルは応えず、意味深な笑みを浮かべるのみ。

 けっ、と侮蔑もあらわに友枝が口元を歪めた。


「ほーんと、キミは破滅まっしぐらだねぇ。僕は永遠に仲良くできそうにないなぁ」

「ボクは混沌とシタ泥沼が好きナだけサ。ついでに友枝サンのことも結構好きダヨ? どうカナ、今度一発」

「みてくれ以外は願い下げだねぇ。水蜜さん、どっちにしろ交渉の余地はない。我々はここでキミという切り札を危険に晒すことはできない。さきほどの命令通り、キミは本部へ帰還だよ」


 友枝の指示に、水蜜がびくりと体を震わせる。美しいかんばせには恐怖が張りつき、瞳は見開かれたままだ。

 水蜜は激しく逡巡していた。


「水蜜さん!」

「わたし……わたしは……シュラを助けなきゃ。でも……こわい」


 ……必死に許しを乞うたとしても、あの子はもうわたしを受け入れてはくれないだろうから。

 でも、これはわたしの我儘だ。

 本当の意味で傷つくことを恐れていたのが誰なのか、いまになってやっと気がついた。

 こわがっていたのは、わたしだ。

 わたしこそが、どうしようもなく子どものままだった。


「ねえ、レディ。レディ=水蜜。キミともあろう女の子が本当に諦めちゃうのカナ、お姫さまPrincezna? キミがやっと見つけたハートに火をつけてくれる男の子が彼だったんじゃナイのかい」

「でも、いまさら……わたしに……そんな資格は無いんだ」

「それでもキミは、その資格すら欲シイなら奪えばいいというタイプの女の子だっタろう?」


 カレルは水蜜に向かってひどく優しく微笑む。

 その存在が悪魔めいたものであることを忘れるくらい、尊く、穏やかに。

 人でなしの背約者であるからこそ、天使のような笑みを浮かべることができるのだ。

 彼は悪徳と美徳のなんたるかを知っている。そうやって、他者を術中に引きずり落とすのが、彼の常套手段だ。


「さあ、立って。キミにできるコトはまだあるはずダヨ。ボクとキミの卷族がキミを手伝おう」

「わたしは……」


 わたしには、もうなにもできないと思っていた。

 わたしが忘れて、諦めてしまえば、すべて終わると。

 でも、ちがう。やれることはひとつだけある。

 受け入れてもらえなくてもいい。シュラを此岸に引き戻すことさえできるなら。

 ……そうだ。

 わたしは、まだ自分自身・・・・の力を使って彼にぶつかってはいない。


「わたしは、シュラを救いたい」


 たとえ目の前の男が悪魔でも構わない。だって、わたしは魔女なのだから。

 水蜜は差し伸べられた手を握り返した。


「どういうつもりかな、水蜜さん? 帰還しろと僕は言ったよねぇ?」

「友枝室長。わたしに、もう少しだけ時間をください。あの子は……シュラは必ず止めてみせるから」

「彼に、キミがそこまでする価値があるというのかな? そうは思えないけれど……」

「わたしが、シュラを好きなの」


 カレルがひゅう、と口笛を鳴らし、友枝は殊更苦い顔になる。

 数秒の沈黙。

 友枝と水蜜の視線が虚空でぶつかる。

 内面まで見透かすような怜悧な視線を、水蜜は真っ直ぐに受け止めていた。どちらも眼をそらさない。


「まったく。古今東西を問わず、本気で恋した魔女は身を滅ぼすってタイプのお話、知らないのかな?」

「さあね。でも、日向水蜜に限っては例外だろう?」


 友枝が長い溜息をついた。ベストのポケットから紙巻き煙草を取り出すと、彼は手品めいた手つきで火をつけた。


「やれやれ……今のキミ、過去最高に面倒くさいねぇ。いいよ、行きな。でも、時間はあんまりあげられないよ? それと、向こうさんへの交渉は月村長官に手を回してもらうよう頼んでみよう。カレル」

「ンー、なァに?」

「僕からは一つ貸しだよ。いいかなぁ……必ず返せ、バックレたら縊り殺すぞ」

「エート。友枝サンになら、イイヨ?」

「訂正。今すぐ死ぬかい?」

「友枝室長!」


 挑発合戦を繰り広げる二人の間を割いて、水蜜が友枝の胸に飛び込んだ。驚いた声をあげつつも、友枝は水蜜の体をしっかりと受け止める。奇妙なことに、どんな態勢になろうと友枝の口からは煙草が落ちない。「イイナァ、オッパイ」横で静観するカレルが感慨深げに日本語で呟いた。


「ありがとう、梓くん! 恩に着る」

「おっと、セクハラだめ! ノーボディタッチ! 僕は室長でキミは一応職員なんだからねぇ!?」

「わかってる。わたしは梓くんをずっと尊敬してる」

「……キミは昔からほんとに何にもわかってないねぇ。ま、いいか。ほら早くお行きなさいな。いっとくけど、始末書に反省文の山は覚悟しといてよ」

「その大量の書類に赤を入れるのも梓くんなんだよ?」


 友枝が首っ玉にかじりつく水蜜をやさしく突き放す。その眼には、ほんの少し感傷めいた色が浮かんでいた。

 対して顔を上げた水蜜の瞳には、白く清冽な残り火が宿っていた。


「では、友枝室長。後始末はお願いするよ。……きっと、素敵な後輩を連れてくるから」

「期待しないで待っているよ」


 水蜜はあっという間に装備を整え、黒いトレンチコートを羽織る。彼女はカレルを伴って隠れ家を後にした。

 その足取りに、もう迷いはなかった。

 ……決着をつけねばならない。なによりも、誰よりも、あの子のために。

 彼女の行き先もまた、決まっていた。




 *




 燃えている。心も体も。

 焦げつき、灰になりかけたちっぽけな魂は、しかし■■を辛うじてその場所へと導いてくれた。

 鮫島邸跡地は、朽ちた山林の中にぽっかりと口を開ける形で現存していた。

 家屋は全焼。骨組みらしき柱が辛うじて残るのみ。あちこちに焼け焦げた瓦礫や塵が積み上げられ、放置されている。

 悪夢の主が不在のまま三年の時が経過しても、当時の面影は色濃く残っていた。

 敷地は意外なほど広く、四方を立ち入り禁止の黄色いテープで囲われている。

 何者かが今も管理と監視を続けていることは明白だった。それは日向水蜜が所属する機関なのかもしれないし、あるいは別の組織による措置なのかもしれない。

 だが、今の■■にとっては、もうどうでもよいことばかりだった。

 ■■は、ついに鮫島家――すべての発端である場所に辿り着き、黒くわだかまりながら燃えていた。

 恨み。憎しみ。哀しみ。怨念。激情。破壊衝動。そして絶望。

 あらゆる負の感情が混ざりあった、汚泥のような黒炎。

 ■■はどす黒く、めらめらと燃え盛っていた。禍々しい劫火さながら、この世の終わりに最後のすべてを焼き尽くす大火となって。

 …………なにもかも思い出した。

 なにもないことを思い出してしまった。

 日向水蜜はお前の逃げ場など何処にもないと言ったが、元から存在すらしていなかった■■に、逃げる余地など最初から無かったのだ。

 そもそも■■のための場所など、この世のどこにも用意されていなかった。


『初めから……ないなら。持っていないなら、ぜんぶ奪って、なくしてしまえばいい。まっさらにしてしまえば……もう、なにも感じなくなるんだろ……? なあ、朱空……?』


 甦った遠い記憶。

 鮫島朱空の目で見たものではない、最初の■■自身の記憶。

 能力を暴走させ、家も家族も焼き尽くした朱空が、最後に劫火を生み出す。強すぎる炎を。

 彼は咆哮した。

 すべてを吐き出すように絶叫していた。

 ひどく哀しい叫び声だった。

 その叫びに呼応し、おれは、喚び手である朱空本人に喰らいついた。

 自死。それが他ならぬ朱空の最後の意思で願いだった。

 もういい。もうやめてくれ。ぼくはもうたくさんだ。

 いらない、おまえなんか、ひつようない。

 おまえに、これいじょうをうばわれるのは、もういやなんだ。

 だから、きえる。

 ぼくがきえれば、ぜんぶなかったことになる。


『だったら、おれがオマエと変わってやるよ。この世のなにもかもが厭なら、おまえの居場所をおれに明け渡せ』


 劫火の本分は奪うことにある。

 焼けつく灰で窒息しそうなほどの衝動。それこそが■■の存在意義で、本能だった。

 取引を持ちかけるまでもなく、朱空はそれ・・を承諾した。自らが呼びだした炎にまかれ、彼自身と彼が持っていたすべてを焼き尽くすことを。

 すべてを奪い去ってくれと彼は懇願した。

 どうかおわらせてください、と。

 そして彼を飲み込み、消し炭にしたあと、■■は朱空その人の形に収束した。

 その後、■■はそのまま鮫島家の長男・鮫島朱空として消防士に救助され、親戚の元を転々とすることになったのだ。

 長い間、心の底に閉じ込めていた記憶。とうとう■■はその蓋を開けてしまった。

 そうだ。おれは鮫島朱空じゃない。

 あいつが燃え尽きながら喚んだ最後の焔がおれ・・だった。

 とびきりのレアケース。その意味がやっとわかった。

 でも、おれを、この炎を誰にもくれてやるわけにはいかない。

 だから、ここで終わらせる。鮫島朱空も、■■おれ自身も。

 心は決まっていた――だからこそ、■■は背後に生じた気配に気がつきながら、振り返りもしなかった。

 そして、それを気にも留めずに近づいてくる者たちがいる。


「昔々、あるところにごくふつうの、まァまァありふれた具合に不幸な少年がおりました。その少年は炎を呼ばわる力を持っていました」


 じゃり、と大地を踏みしめる靴音。

 留め具と鋲付きのごついエンジニアブーツ。派手なシルバーアクセサリーが揺れている。


「でも、ある日、彼は自らが生み出した炎にまかれて死んでしまったのです! それは彼自身の願いでもありました」


 焼け跡に霧が立ち込める。

 世界からここにあるものすべてを覆い隠してしまう濃い霧だった。霧には綿飴のような甘い香りが混ざっている。くすくす、と笑う少女の声。ほのかな気配。

 そして、甲高い耳鳴り。

 相手もまた、気配を隠そうなどとは思っていないのだ。

 彼らは、ある意味、■■や鮫島朱空より愚かで正直だった。正々堂々、正面から奪いにきたのだから。


「しかし、最期の瞬間に彼が生み出した炎は、彼や彼の家族だった血肉の泥濘と化学反応を引き起こし、死んだ少年とまったく同一同質形状の生成物を産み落としたのでしたァ!」


 尖った瓦礫が幾本も飛来し、■■の退路を断つ。

 しかし、もとより道などなかった。

 歩んできた後にも、そしてこの先にも――。


「それがテメエってわけだ、鮫島朱空ァッ!」


 行く手を塞ぎ、霧に紛れて眼前に進み出たのは金髪碧眼の少年。熱風によって美しい髪がふわりと煽られている。まるで絵画に描かれる天使のようだ。

 背後には黒い制服の少女が控えて、こちらの様子を窺っている。彼岸花を思わせる、可憐な微笑み。霧が身を切るような冷気を帯びる。


「まったく、とんだお笑い種だろう。テメエは超能力者でも魔法使いでもねえ、自分自身が異能で魔法って、この上ない神様からの皮肉だよなァ? 鮫島ァ……もうそう呼ぶ必要すらもねえか。つーわけでェ、オマエがそろそろ来ると見越した優秀なオレちゃんことゼロ他一名がお迎えにあがってやったぜェ!」

「霧子と他一名の間違いでしょう」

「ウッセ!」


 霧子を押しのけ、ひそかに背後へ庇いながら、ゼロが歩み寄ってくる。

 ゼロはニンマリ笑って掌を差し出した。白く形のよい、きれいな手だ。

 それはまるで手向けられた白百合のような……火をつけて、骨が蕩ける瞬間まで見守っていたくなるような、少年の美しい掌。


「どうだよ? オマエも十分わかったろ、あの魔性についていく必要なンざねえってこと。オレらと一緒に来れば、オマエは自分の出自なんか気にしなくてもよくなるさ。命令さえこなしゃあ、あとは自由に生きることが許される。オマエはオマエで、焼くなり煮るなり、思いのままにふるまえばいいってワケ。これって最高にWin-Winな関係じゃねェの!?」


 よく通るゼロの声だが、今の■■には何ももたらさなかった。

 どいつもこいつも、都合よくおれを奪おうとしている。

 水蜜さん。たしかに、この世のどこにもおれの逃げ場なんてなかったね。

 でも、どこにも逃げ場がないのなら、この世界からおれが消えてしまえばいいだけだ。


「……おれは誰とも行かないよ」


 右手。

 左手。

 ■■はゆっくりと火を灯し――、


「それより、おまえに火をつけたらどうやって燃えるのか……それだけ確かめてみたいんだ!」


 ――獰猛な笑みを浮かべた!

 ごぉうっ、と炎が逆巻いてゼロたちに殺到する。

 歪み、崩壊しきった笑顔を張りつかせたまま、■■は哄笑した。


「燃えろ! おまえらは血の一滴すら残さず灰になればいい!」

「ちッ、ど阿呆! 現実見ずに壊れやがって。このゆとり野郎がァッ!」

「それがなんだっていうんだ。おまえらは燃えろ! 全部、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶ燃えてしまえっ!」


 不可視の力と黒い炎がぶつかり合う。

 波紋が広がり、空間が歪む。霧が波打ち、波動が視えた。


「じゃあ捩じれろ! オマエを捩じ切って、中身が血か炎か確かめてやンよォッ!」


 ゼロが犬歯を剥いて吼える。

 耳鳴り。振動。内部から生起する破壊の渦。霧の浸食。今にも体は破裂しそうだ。

 否……無駄だ。同じ手は喰わない。

 ■■は黒く、ひたすらに昏く炎上した!

 燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ。




 ――――誰もかれも皆燃えてしまえ!




 霧を引き裂き、黒い爆轟が辺り一帯を包み込んだ。










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