第六話 哭炎 ‐VANITY‐

哭炎〈1〉





 6.哭炎VANITY




 〈1〉




 水蜜が寝台から離れても、朱空は眼を覚まさなかった。

 すうすうと寝息を立てて、彼は今眠っている。穏やかで深い眠りだ。

 痩せ犬のような体つき。面立ちに幼さを残した少年。けれど、輪郭がほんの少し精悍さを帯び始めている。彼の身体は今変化の時期を迎えているのだ。

 愛しい……というよりはやはり可愛らしい、と思う。今のところは、まだ。

 水蜜は立ち上がる間際に、朱空の頬に落ちる睫毛の陰を撫でた。ついでに長い前髪を梳いてよけてやる。

 変化の過程にあるその姿は、どこか狂おしい気持ちを呼び起こした。

 昨晩の情交。行為の途中から甘く初々しい面立ちが消えたのがわかって、水蜜はまるで大人の男の相手をするように、ごくあたり前に、無我夢中で肌を合わせていた。互いの欲望が果てるまで、何度も吐息を混ぜ合い、身体を重ねた。事実、腹の奥には芯を暴かれた後の甘い疼きが残っている。

 たぶん、朱空ははじめてだったはずだ。愛撫のぎこちなさやいとけない反応から窺えたが、それらもすぐに消え去って、いつのまにか水蜜は抱く側から抱かれる側に変わっていた。行為自体も手荒くなるときこそあれど、けして心地の悪いものではなかった。案外、朱空は女を弄び苛むタイプの男になるような気がする。それはそれで興味深いが。

 ……なんにせよ、少しほだされすぎたかもしれない。

 わたしは自分がこれ以上変われなくなった時から、ゆっくりと死に続けている。

 条件付きの永遠に閉じ込められて以来、ぜんぶがくだらないお遊びでしかなくなって、死すら怖くなくなってしまった。それはとてもつらいことだった。

 水蜜はベッドから離れて立ちあがると、一度だけ朱空の方を振り返り、寝室を仕切るカーテンを閉じた。

 もしかしたら、わたしは朱空の中に憧憬を見出しているのかもしれない。

 わたしは焦がれている。可能性や変化という、彼が持つものをひどく羨ましいと感じている。だから誘って堕として、自分と同じくらいの汚濁にまみれて欲しがっている。そうしてようやく対等にまで持ち込める。こんな浅ましいものは愛とはよべない。もちろん、慰めですらない。こんなのは我が儘だ。ただの悪あがき。

 ――やっぱり、わたしはわたしの仕事をしなくてはならないんだ。いつだってそうだ。言葉と身体で籠絡し、堕としきる。わたしにできることはただそれだけ。たとえ相手が子どもであっても。

 水蜜はソファの傍に置いた自分の鞄から黒いファイルを取り出した。それは、最初の日に朱空に手渡そうとしたものだった。


「もういい……よね?」


 いい加減、頃合いだろう。

 これは最初から単なる駆け引きで、なおかつ自分の有利に進められるゲームだった。そう、自分で言ったように、これはお遊戯だ。そして、相手はどうしようもなく子どもだった。

 でも、それももう終わり。そろそろ最後の一手をうつべきだ。

 朱空のデータが揃ったそれをテーブルの上に無造作に放る。

 すこしだけ胸が痛んだ。でも、もしかしたら……。今の朱空であれば、受け入れられるかもしれない。どうだろう。この期に及んで、わたしは期待しているのかもしれない。拒絶も否定も怖くはない。その筈だ。でも、来てほしい。わたしと一緒に来てほしい。どこまでだって一緒に行けると、嘘でもいいから誓ってほしい。おまえは大丈夫だと、ただ傍にいて囁いていてほしい。エージェントでもなんでもない、ただの日向水蜜がそう望んでいるのかもしれない。

 自分勝手。最低。ひどいおんな。……でも、そんなこととっくに知っている。皆知ってる。朱空にだってもうじき知れてしまうだろう。

 すぐに褥に戻らず、水蜜は生温い闇の中で煙草に火をつけた。

 橙色の炎。明るいけれど、褪めた炎だった。以前、朱空が灯してくれた白炎の方が何倍も眩くて温かだった。

 彼はもう水蜜のために火を灯してはくれないだろう。もう二度と。


「……わたし、またひとりになっちゃうんだ。どうしよう。こわい。すごくこわいよ」


 気がつくと煙草が半ばまで燃えていた。水蜜は何かを――否、満たされぬ感情のすべてを誤魔化すように肺を煙で満たした。

 いつもより煙が目に沁みる気がした。




 *




 急速に覚醒していく感覚があった。

 次に意識に上ったのは、眼裏にのみ在る赤い安息。

 目を開ければ、見慣れぬ天井が視界に入る。紗幕越しに射し込む朝日が、部屋に浮かぶ粒子を煌めかせている。遠い昔に見た夢のような、現実感のない光景。

 それでいて朱空は、自分の身体がどんな形をしているのか、その輪郭を以前よりもはっきりと思い描くことができた。

 肉体的な充足感がそうさせるのか、他者との目合いが体という肉と心の境界線を意識させたのか。

 何にせよ、朱空の炎はどうしたって水蜜に導かれてしまうようだった。

 衣擦れの音と穏やかな呼吸。寝返りを打つと、薄紅色の頬が鼻先に触れた。

 水蜜は朱空の上半身を抱いたまま、子どものような寝息をたてていた。滑らかな肌の感触、その温もりが心地よい。

 それに、きれいだ。言葉にするのが惜しいくらいに。どんなに言葉を尽くしても表せないくらいに、水蜜がとてもいとおしい。

 ……触れたい。もう一度だけ。

 そう思い、手を伸ばしかけて、止める。

 無防備な頬に自ら触れるのは憚られた。それは、心よりも先に体が深く繋がってしまったからこそ生じる、奇妙な戸惑いだった。

 昨晩は余裕なんてなかった。ただ必死で、やり方なんてろくに知らなかった。それに、深く繋がれば繋がるほどにわからなくなった。あれがただ反応を引きだしたいがための、一方的なだけの行為になっていやしなかったか、それが気がかりでならなかった。結局、自分は最後まで水蜜に甘えたきりだったのだ。

 朱空は伸ばしかけた手をひっこめた。

 このままじゃ、だめだ。自分で選んで決められるようにならないと――。

 水蜜を起こさぬよう、そっと寝台から抜け出して、乾いたシャツに袖を通す。制服だけはいつものままだ。ぱりっとした既製服の着心地が、とりとめのなかった思考を纏め上げてゆく。話がしたい。改めてそう思った。自分の意思を伝えないと、きっともうどこにも行けないだろう。

 時刻は午前七時を回る頃。

 ひどく長く眠っていたように感じたが、実際は数時間しか寝ていない。

 水蜜が起きてくるまでコーヒーでも飲んで待っていよう。

 リビングのスペースに脚を踏み入れると、テーブルの上に昨晩は無かった品を見つけた。

 黒い表紙のファイル。それは冷えたカップの横に無造作に置かれていた。

 ――あのときの。

 言わずもがな、水蜜に初めて会った車中で差しだされたファイルだった。朱空に関するパーソナルデータが集められたものだ。あの日はろくに読まずに突き返してしまった。

 ソファに腰掛けると、朱空はファイルを手に取ってみた。案外古い。紙がところどころ日焼けして黄変している。このご時世、紙媒体でデータが扱われているというのもおかしな話だ。とっくに電子化されていてもいいはずなのに。それとも、あえて古ぼけた物理ファイルを見せることそれ自体に意味でもあるのだろうか。

 勧誘を断るにしろ、自分自身からはもう逃げられない。

 朱空は覚悟を決め、ページを手繰りはじめた。

 一枚目。焼け焦げた家族写真が丁寧にファイリングしてある。辛うじて残ったものを回収したのだろうか。父。母。妹。そして朱空が写っていたようだ。というのも、朱空がいるはずの部分だけが黒く焦げて千切れていた。

 ……一瞬、妙な予感が胸をよぎる。

 だが、不思議と懐かしさも感傷も湧いてくることはなかった。忘れたいと願い、何度も消し去ろうとした記憶だ。抑圧された感情も、すぐには自覚されないらしい。

 朱空はさらにページを捲り、あるべきものを探した。

 数枚を読み飛ばした先に、やはりそれはあった。例の、朱空自身のことが記された報告書だ。

 朱空は意を決すると、今度は目を逸らすことなく視線を滑らせてゆく。




  氏名:鮫島朱空

  年齢:一〇歳

  能力:念動発火

  等級:B  功性能力者/特殊型

  登録:無  要保護対象

  家族欄:鮫島空知[父](死亡)

        丹那[母](死亡)

        真赭[妹](死亡) 



  【注記】

  なお、鮫島朱空・本人の死亡(死因、焼死)も同時に確認されている。

  よって、我々が保有する下記の情報は、鮫島朱空・仮称(以下、「甲」)に関するものである。



「…………え?」



  ――鮫島家の火災は長男・朱空の〈念動発火パイロキネシス〉能力の暴走による放火が原因であり、朱空の呼びだした炎はそのまま鮫島家を焼失、一家を死亡させるに至った。



「なんだよ、これ……」



  ――我々が現場において観測した甲種異能遺物〈白の種火〉は、鮫島朱空の姿形に収束、そのまま甲は鮫島朱空として消防に身柄を保護されることとなった。

  また、甲は鮫島朱空としての記憶を少なくとも一部引き継いでいる模様である。


  ――したがって、事件以後も我々は秘密裏に甲の監視を継続、……、甲が擬態以外の何らかの能力を発現した際は接触を試み、保護管理下におくこととした。


  追記。現在、甲は〈擬態〉に加え〈炎化〉能力を発動。当局の調査員が甲への接触を試みている最中である。



「……おれが死んでるってどういうことだよ。三年前、鮫島朱空〈死亡〉って」

「文字通りだよ。朱空くんは死んだ人間なの。そしてあなたは鮫島朱空と同じ形をした、別のもの」

「なっ――」


 やけに薄情な声を背中に浴びて振り返れば、そこには水蜜が立っていた。

 一糸纏わぬ姿を晒し、壁に凭れて、女は静かにこちらを見つめていた。その双眸は奈落の底のように昏いものだった。


「鮫島邸の全焼事故は、長男である朱空くんが能力を完全覚醒し、暴走させたことによるものだ。そして、彼の能力は〈念動発火〉。彼は火を呼ぶ少年だった」


 あっさりと告げる水蜜のほうこそ、昨夜とは別人・・じみている。乾いた口調に酷薄な態度。いつもの甘く官能的な気配は微塵も感じさせない。

 傍らの水差しからそのまま水を飲んで喉を潤すと、水蜜はなんの躊躇いもなく続きを語り始めた。


「今となってはきっかけなんかどうでもいいのかもしれない。でも、朱空くんの場合は、両親による虐待が覚醒の引金となったようだ。彼は普段から苛烈な児童虐待に曝されていて、あの晩は妹さんを守ろうとしたらしい。しかし、一度暴発した能力を操ることができずに、彼は両親と妹さんを焼死させてしまった。そして最後は自分自身が呼んだ炎に飲み込まれて亡くなったの」

「でも、おれは……ここに」

「ただ――彼の情念は少しばかり強すぎたみたいだ。彼が最後に生み出した白い炎は、朱空本人の存在とその意思を引き継ぐかのように彼の形をとって、それがあなたになった。鮫島朱空と同質同形状の存在なにものかにね」

「おれが、炎? 鮫島朱空が最後に生み出した……」

「彼はものすごく怒っていたのだろうな。この世界そのものに。だから、そういう願いや情念が、あなたをもう一人の朱空として甦らせたのかもしれない。もっとも本当のところはもう誰にもわからないけれど」


 朱空が燃え尽きた灰の中から■■が生まれた。このおれが。

 鮫島朱空の影。

 本物の朱空の力の名残。

 ……いや、おれが炎の〈異能〉で〈魔法〉そのもの・・・・というわけか。

 おまえは本当に鮫島朱空か。おまえの能力は〈念動発火〉じゃない。スワンプマン。炎の男。

 今、すべての疑問の答えが繋がった。


「おれは、鮫島朱空でもなんでもない……人間ですら、ない……。記憶もなにもかも、全部にせもの……」


 同時に、大切な何かが勢いよく剥がれ落ちていく。真実を手にした瞬間に、すべてが失われてしまった。

 情熱も寒さも伴わない、虚無の炎が臓腑から溢れ出す。■■の内側から、すべてを焼き尽くす黒い炎が。


「……日向さんは、本当のことを知っていておれに近付いたんだ」

「そうなるね」

「……どうして寝ている間にファイルを置いたりしたの」

「頃合いだと思ったからだ。現にあなたは自分自身の力と向き合おうとし始めていた」

「なんで黙ってた。本当のことをなぜ最初に言わなかった」

「最初にファイルを手渡したとき、あなたはひどく動揺して投げ出した。だからあなたの覚悟が決まるまで待とうとしただけだ」

「じゃあ、なに? おれをずっと騙して……ここまでいいように誘導してきたってこと? あんなふうに言葉で誘って、体をつかって」

「……そうだよ。どう言われようと、それがわたしのやり方だ。でも、それは誑かされたキミ自身の責任さ。キミはダメな子、とってもいけない子だものね。だって、結局わたしのような人間のできそこないを簡単に信じちゃうんだから。ねえ、どうだった? 昨日のアレ、すっごく気持ちよかったんでしょう? だってキミ、いっぱい出してたもんねぇ。わたしもね、キミと犯るの、とっても気持ちよかったんだよ。だからどうかな? わたしと一緒にくれば、もっとずっと、いつだってよくしてあげるよ?」


 冷たい花のような美貌に媚びを湛えた優艶な笑みを浮かべ、水蜜がわざとらしく両腕を広げてみせた。

 渦巻く魔女の瞳。婀娜で悪辣なこの振る舞いこそが彼女の本性なのか。

 ならば――ああ、そうか。今までの彼女は。

 アイスクリームを頬張って、子供みたいに喜ぶ姿も。バッティングセンターで無邪気にバットを振るっていたときの笑顔も。ゼロとの戦闘時に見せた凛々しく真摯な態度も。甘えた声も、抱きしめられたときの温もりも、重ねた手のやさしさもすべて。すべてが嘘で、まやかしだった。

 ……いや、本性もなにも、最初から見えていなかっただけだ。なにもかも。嘘だって構わない。どうだって、もう関係ない。


「あなたもみんなも、そこまでして鮫島朱空の異能が欲しいんですか」

「いや、わたしたちが欲しいのはキミだ。わたしの仕事はあなた・・・を保護し、スカウトすること。どういう形であれ、〈炎化〉及び〈擬態〉という極めて稀有な能力の持ち主――いえ、異能そのものであるあなたを、ね」

「おれを? おれは、だって……こんなのただの醜い炎の残骸だろうが。こんなものになんの価値があるんだ。なんの意味があるっていうんだよ」

「それは違う! きみは無価値なんかじゃ――」

「黙れよ」


 刹那。■■の腕は黒い炎と化して、隠れ家の窓ガラスを叩き割った。

 飛び散った破片が水蜜の頬を深く切りつけたのを目にして、なおも胸が傷んだ。だが、もう関係ない。

 だって、おれは鮫島朱空じゃない。

 もともと人間ですらないのだから。


「日向さん」


 ぞっとするような優しい声を出せたことに、■■は自分でも驚いた。水蜜が目を見開いてこちらを見つめている。


「ずっと言おうとしてたこと、いま言うよ。おれはひとりでいい。あなたとは一緒にいかない。さよなら……これで満足?」

「待って、シュラ……!」

「その名で呼ぶな!」


 真っ黒な炎が風に揺られて吹き荒ぶ。

 一歩、また一歩。■■は後方に下がってゆく。背中には自ら粉砕した窓がある。


「だめだ! そっちに行っては……!」


 伸べられた白い手は僅かな差で間に合わなかった。

 たとえ届いていたとしても、喰らいついて骨まで焼き尽くしていただろう。

 彼女が叫んでも躊躇しなかった。■■は窓から身を投げ出した。

 墜ちながら、腕が、足が、胸が、体と心が、ばらばらに綻び融けていくのを感じた。暴悪な哭炎となって――。

 その姿は間違いなく水蜜の瞳に残像を残したはずだ。引き攣れた赤い爪痕を肌に刻みつけるように。

 それを思って、■■はひそやかに微笑んだ。とても穏やかな笑みだった。

 ■■は地上に落ちる寸前、完全に炎と化して荒れ狂い、その場から掻き消えた。

 


 最後の行き先は決まっていた。











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