恋火〈2〉

 



 〈2〉




 箱のようだ、と思った。手つかずの白い箱。

 朱空は長く息を吐くと、改めて部屋を見渡した。

 水蜜が離席して、ようやく思考を巡らす余裕ができたのだ。

 閑静な郊外地区にあるワンルームマンションの七階、角部屋。表札のない、形だけの家。

 隠れ家だというその部屋は広く、殺風景だった。備え付けであろう家具に、限られた日用品が揃うのみ。生活感がないところを見ると、やはりここは水蜜の本宅ではないらしい。

 ……なにより、彼女の匂いがしない。

 気がつけば水蜜の気配を探す自分がいる。今までの間にほんの少し垣間見えた彼女の趣味や嗜好をなぞろうとする自分が。

 他人の匂いなんか、これまで気にしたこともなかったというのに。

 以前の朱空はすべてに無関心だった。むしろ、自ら進んで鈍感であろうとしてきた。

 身の内に巣食う寒さと、己が操る炎だけを拠り所に、世界から目を伏せて生きてきた。

 おかげで、朱空には知らない自分自身のことが多すぎる。

 響いてくる水の音に耳を傾けながら、掌にふうっ、と息を吹きつける。白い炎が薄暗い部屋に朱空の輪郭を浮かび上がらせた。

 見慣れた自分だけの炎。朱空の力。〈念動発火パイロキネシス〉。ところが、その根拠は今ひどく揺らいでいた。

 霧子は「おまえは本当に鮫島朱空か」と問うた。

 零は「おまえの能力は〈念動発火〉じゃない」と断言してみせた。

 ふたりの言葉が朱空の心に重く圧し掛かっていた。

 おれが朱空おれでも、炎使いでもないなら、おれは一体なんだというんだ?

 ――スワンプマン。炎の男。おまえが何者なのか、よく考えろ。

 これまで疑ったことのない根底部分から自分の存在が否定されている。そういう事実は、不安よりも苛立ちを朱空にもたらした。


「……おれがおれじゃないって、なんだよ、それ」


 独り言を吐きだすと、喉がひどく痛んだ。今の今まで堪えていたものが溢れそうになっている。

 情けない。すごく滑稽で、ばかみたいだ。こんなこと誰にもいえない。でも、ひとりなら。水蜜のいない今だけなら。

 冷気が胸の内に這いあがり、ぬるい涙が頬を一筋伝う。

 飴玉のような炎の粒が、次々と零れて浮遊する。涙は儚い泡のように影の中を浮上しては消えていく。

 悲しくて泣いているのではない。

 腹立たしくて堪らないときほど、涙は勝手に溢れるものだ。まるで心の靄をきれいに洗い落とそうとするかのように。

 朱空はしばらくそのまま膝を抱えて俯いた。





「どうした、少年。きみ、ひょっとしなくても泣いてる?」


 はっとして顔を上げると、裸身にバスタオルを巻いただけの水蜜がこちらを見下ろしていた。

 朱空は慌てて手の中の炎を握り潰した。掌は冷たいままだ。冷え切っている。

 部屋が再び紺藍の闇に沈んだ。


「泣いてない。少しはほっといてよ」

「……わたしが弱っているきみを放っておくと思うの? きみにつけこむ最大のチャンスなのに?」

「そうか。水蜜さんが何者かってことすら、もう半分忘れてた」


 日向水蜜は政府組織のエージェントだ。朱空の能力を買って彼をスカウトに来た女。

 すべての発端は彼女だった。

 ぜんぶ水蜜のせいだ。そう思っていた。だが、それすらも今となっては間違いだった。

 朱空の物語は朱空だけのものだ。もはや知らんぷりは許されない。今日突きつけられたのは、そんな現実だった。胸の奥がちりりと痛んだ。


「おれは、知りたくないことも都合の悪いことも、ぜんぶ忘れようとしてた。起きたことを心の中で水蜜さんのせいにして押しつけて、それなのに水蜜さんの立場すら忘れて甘えてた」

「わたしの立場、か。きみは、エージェントとしてのわたしではなく、ただの日向水蜜が好きなんだ」

「好き、なんかじゃ……!」

「少年が忘れたいというなら、今夜はそれもいいか。わたしは日向水蜜という、きみにとってはただの都合のいい肉になろう」


 水蜜が巻いていたバスタオルを肌蹴た。

 朱空は魂が消し飛びそうになった。

 闇の中に浮かぶのは幽鬼の如くに生白い媚態。

 永遠に融けぬ氷雪さながら、透き通るほど白い。

 しかし、スミレ色の双眸だけは朱空の瞳を燃え滾って見据えていた。魂ごと朱空の炎が攫われてしまったかのようだった。

 跪くと、水蜜は朱空の両頬にそっと触れてきた。冷たい掌だった。


「わたしに会いたかったからっていうのは、本音だろう? ……だったら、いいよ?」


 水蜜は朱空の唇に自分の唇を重ね、奪うようなくちづけを降らせてきた。

 口内でやさしい生き物のように水蜜の舌が蠢く。おずおずと応え、舌を絡めれば、濡れた肉の器官がより激しく朱空を貪る。くちづけに応じた朱空へ、それ以上を与えようとする心尽くしのキスだった。

 水蜜が朱空の耳を柔らかく食む。暗闇の甘やかな愛撫とくちづけが、濡れた音を立てて首筋へ滑り落ちてゆく。生じる快楽とは裏腹に、どろりとしたなにかが喉の奥につかえてとれない。

 ――これ以上はきっと耐えられない。

 この前思った通りだった。

 これ以上を奪われるのはごめんだ。この劫火をたった一人で抱くことになっても、ほかはいらない。

 そうとも。朱空はまだ水蜜に告げていないのだ。

 あなたとは一緒にいけない。ひとりがいい。ひとりでいい。それが唯一、この炎を守る方法である、と。

 朱空の胸の奥で炎が荒れ狂った。


「朱空くん? どうしたの……」

「触るな!」


 水蜜を遠ざけようとして、朱空の掌は彼女の頬を強く張ってしまった。

 青白く美しい顔に赤い跡が浮き出て、真っ赤な血が一筋女の口元を伝い落ちた。


「……あ、あの、ごめん」


 反射的に謝罪を口にした朱空を見返す瞳には、しかし、幽気が宿っていた。


「少年。きみは臆病者だな」


 唇から血を零したまま、水蜜は微笑んだ。凄絶な美貌だった。その眼に浮かぶのは侮蔑と嘲りだ。

 フローリングの上に、ぽたぽたと血が滴る。その血の色は炎よりも紅い。


「臆病、だって?」

「真相を知ろうとすることも、事実から逃げることもよしとしない。きみは自分でなにも決められない。度胸の欠片もないからだ」

「ばかにするな! それくらい……おれにだって」

「ならば認めろ、選べ――」


 水蜜は朱空を寝台へ押し倒すと、間近からその眼を覗き込んだ。


「きみの逃げ場は、もうこの世のどこにもないんだからさ」


 濡れた体に跨られて、朱空の体も濡れてゆく。

 愛されているのではない。汚されている。

 それでいて、これは慰めだ。それ以上でも以下でもない。そうだ。おれは、愛されてなどいない。

 零が「あの女は魔性だ」と言った意味がいまさら実感を伴って腑に落ちた。

 けれど、たぶん手遅れだ。


「どう? 受け入れる? わたしを。最初に言ったけれど、わたしはこうして体を使うことも厭わない。全力できみを此方側へ引き入れる。その覚悟をもってきみの前に現れた。少年、きみはどうだい? わたしを焼き尽くす覚悟はある?」

「水蜜さんを、あなたを燃やすなんて、おれには」

「少年。きみの炎きれいだから、わたし、このまま燃やされたってかまわないんだよ。どの道、わたしはその程度では死なないんだから……」

「水蜜さんの能力は、ふ」


 舌にのせた言葉を、水蜜のくちづけが攫っていった。唇で唇を抉じ開けられ、探し当てた舌を舌で絡め取られる。くちづけのたったひとつに呼吸さえ奪われる。

 滑らかな脚が蛇のように朱空の脚に絡みつき、水蜜が腰をくねらせる。あたたかく湿った裸体が朱空の体を包み込む。胸板の上をはりつめた双丘が吸いつきながら動き、紅を含んだ優しい尖りが朱空の肌を攻めたてた。


「はッ……あ……」


 間近で吐き出される吐息までもが甘い。

 朱空の奥で痛いほどに欲望が膨れ上がった。鎌首をもたげた情欲が頭蓋の奥で疼いて、痛みに似たシグナルを発している。

 二つの胸の間で、互いの魂が揺れている。


「わたしからいくか、あなたからくるか。せめてそれくらい選んでみせて」


 女の瞳に自分のそれより激しく燃ゆる炎を見出すと、朱空の胸中には嫉妬と羨望が渦巻いた。

 ……手に入らないのなら。辿りつけないのなら。この先を望めないのならば、いっそ。

 朱空は勢いをつけて身を起こし、水蜜を逆に組み敷いて、その頸を摑まえた。

 生乾きの黒髪が花びらのように広がり、さらさらとシーツの端から零れ落ちた。

 雛鳥を絞め殺すような嗜虐心と未分化な情念――名前も知らない感情がどこからか溢れ出していた。

 朱空は自分から水蜜の唇を塞いだ。噛みつくようなキスだった。いつか彼女がくれた丁寧なくちづけとは似ても似つかない。相手を傷つけたいだけのひどく乱暴なくちづけだった。

 ……壊したい。

 骨の髄まで焼き尽くして犯り上げたい。

 彼女を捩じ伏せて屈服させ、先ほどの臆病者という言葉を深く後悔させてやりたい。本心からの拒絶と、そしてそれと綯い交ぜになった快楽を引きだしたい。

 脚の間に膝を割りいれ、朱空は水蜜の腰に圧し掛かる。同時に、女の手が朱空のシャツを引き剥がしていく。

 互いの吐息が合わさり、露になった肌の境目が埋まり始める。どちらともなく吸い寄せられるように再びキスを交わした。舌を絡ませ、角度を変えて、何度も、何度も。体中のいたるところに。

 自ら手を伸ばしたその胸の下で、水蜜は少年の瞳の中に吹き荒ぶ炎を腑抜けたように見惚れていた。


「……本当に、きみって最高」

「最高なもんか。たぶん、おれは頭がおかしいんだ。おれは、あなたがおれの炎で燃えて灰になってしまうのを見たいんだ」

「かまわないよ、それで」


 水蜜は苦痛と期待の入り混じった眼差しで朱空を見上げた。

 伸べられた腕が朱空の背中を撫で上げる。きつく、やさしく。熱くて、くるしい。それなのに寒気がする。ぞくぞくと肌が粟立っている。水蜜のしっとりとした細い手指が下腹部にふれ、朱空自身を撫で上げる。痛いくらいに硬く膨らんだ先端から先ぶれが溢れ、女の美しい指を濡らした。

 甘い呻きを漏らし、水蜜が身を捩る。朱空は水蜜の両腕を無理やり抑えつけ、裂け目に自らを押し込んでいく。水蜜の腰が跳ね、女はなにかを堪えるようにシーツを握りしめている。熱く湿った内臓の温度が朱空をきつく包み込んだ。


「……燃焼、発火。生命活動。酸化と引き換えに行うすべての営み。所詮、人生と呼べる時間のほとんどはお遊戯だよ。でも、わたしにはそれで充分なの」


 祈るような述懐を聞き届けながら、朱空は彼女の中に分け入り、掻きまわし、内外から蹂躙してゆく。朱空を導くように、腰を絡めた水蜜がゆっくりと動き出す。

 蕩けそうな内壁を穿ち、荒く引き抜くたびに、水蜜は涙さえ浮かべ、甘く善がる。

 ふたりの獣のような息遣いが暗い部屋に響いている。


「おかしく、なっちゃう、ね。きみと、こんな、こと、して」

「……おかしくなればいい。おれは、もっと壊れた水蜜さんがみたい」


 その言葉を合図に水蜜が甘く鳴きだす。喘ぎ声を堪えるのをやめたみたいだった。

 ……もっと壊れた水蜜がみたい。その言葉通り、朱空は欲望の抽送を繰り返す。女を狂わせ、壊すために。

 この感覚が愛か憎しみか、それとも別の何かによるものなのか。朱空にはどうしてもわからない。

 でも――今は炎を。

 水蜜のすべてを抉じ開けて、その内側から焼き尽くしてしまいたい。

 彼女が望むのなら、火をつけてやる。なにもかも溶けて消えてしまうくらいに。

 ふたつの体の境目がどんどん消失して、わからなくなってゆく。汗と体液に塗れ、吐息を混ぜ合い、肌を合わせて。

 忘れて。わたしが誰なのか、あなたが何なのか。今はすべて。

 水蜜が吐息の間隙を縫って囁く声を、どこか遠くうわの空で聞いた気がした。

 朱空はその感覚に身をまかせながら、練衣のような女の体を貪り、掻き抱いた。









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