第五話 恋火 ‐FLAME‐

恋火〈1〉

 




 5.恋火FLAME




 〈1〉




「おっ、少年。湯加減はどうだった?」

「……どうっていわれても」

「ほれ、くるしゅうない。もっと近こう寄れ!」

「なにその顔。無意味にキス顔晒さないでよ、こわいから」


 近こう寄れといいつつ自分のほうから唇を尖らせてにじり寄ってくる水蜜みなみつをぐいぐい押して退け、朱空しゅらは肩に掛けたタオルで上気した頬と、ついでに唇を隠す。


「んちゅうぅぅぅ~~、……だめ?」

「だめ!」

「へえ。この間は拒まなかったのに、今日はだめなんだ?」

「……あれは、その、全然別だろ」

「ふうん?」


 火照った身体から立つ湯気は、たった今湯を浴びてきたためのものだ。

 ……たぶん。きっと。

 続く言葉が紡げなくなった朱空がそのまま黙りこむ前に、水蜜がふっと表情を緩めた。またからかわれている。すぐに気がついたが、不思議と腹立たしさは覚えなかった。


「ま、冗談はさておき、ね。ちょっとはすっきりした顔してる」

「そう、ですか」

「うん。そうだよ」


 こうして浴室から出た朱空を、屈託ない笑顔の水蜜が迎えたのであった。

 だがその様子も今は些か無防備である。

 自分の隠れ家によく知らない――あるいは徹底的に調べ上げてはいてもいまだに警戒を解かない――少年を上げておきながら、この女ときたらいつも以上にくつろいだ体なのだ。

 雨で湿気ったニットを脱いで、今は薄手のカットソーにタイトなスラックスという姿。そのために、いつもはコートの下に隠されている姿態のラインがはっきりと現われている。

 のびやかな手足、きゅっと妖しくしまった腰に、それとは対照的な大きくて形のいい胸、華奢で女性らしい肩と首。

 目のやり場に困るというか、何となくこのまま見ていてはいけないと思い、朱空は彼女からそっと目を逸らす。

 それでも、すぐそばにいる水蜜の存在感を消しさるなんてできない。

 例えば幽かな吐息や衣擦れの音。気配。一緒にいながら、彼女という存在を意識しないなんて、きっと誰にもできっこない。

 室温でぬくめられた髪の匂いが、朱空の鼻孔を擽る。

 ……どうしてこんなに甘いのだろう。

 香水や整髪料とは違う香りの正体が、朱空にはまだわからない。


「それにしても、わたしのシャツが似合ってよかったよ。女物だけど、中身がいいから違和感がない。うん、いい。すごくいい」

「やめてよ。こっちはべつに自分の服を着直してもよかったんだから」

「だめ。乾いてない服を着たんじゃお風呂に入った意味がない。なによりわたしの眼福が減る」


 さっきから水蜜は朱空の姿をじっくりじっとり眺め、しきりに頷いている。

 こうして異性の服装をしげしげと眺められるのは、ある意味裸を見られるよりも恥ずかしい。紅潮した頬が部屋の鏡に映っている。居心地の悪さを感じ、朱空はあたりに視線を彷徨わせた。


「あんま見るなよ……眼福とか、意味わかんないし」

「わかんなくてもいいから、こっちきて座りなよ。まずは身体を休めないとね」


 先刻の戦闘の後。朱空を連れて自分の隠れ家に退避した水蜜は「風邪を引くといけないから」という理由で、風呂を浴びるよう勧めてきた。

 朱空もまたそれを断り切れず、服を乾かしがてら厚意に甘える形となったのだ。


「はいどうぞ、特効薬だよ。疲れがふっ飛ぶ」


 この状況で身体を休めろといわれてすぐに落ちつけるほど朱空は図太くはない。だが、ずっと立ちっぱなしというわけにもいかない。

 おずおずしながらもソファに腰掛ければ、水蜜が透明なカップとソーサーを手渡してくる。ふんわりと温かい飲み物だった。濃い飴色の液体に程よく泡立てられたクリームがのっている。カップからは甘美で芳醇な、何ともいえない好い匂いが漂ってきた。


「……ただのコーヒーじゃないか。しかもクリームとかのってるし」

「とりあえず飲んでみて。あったまらなくちゃ」


 露骨に怪訝な顔をしながらも、朱空はコーヒーを一口啜る。

 冷たいクリームが舌に心地よく、コーヒーは苦かった。苦味に慣れると、今度は砂糖の程よい甘さを感じられるようになった。そして鼻孔を抜けていくのは、香ばしい不思議な香り。とろんとした仄かな酩酊感をもたらすこれは……。


「美味しいけど……これ、お酒入ってる?」

「そうだよ? アイリッシュ・コーヒーって知らない? 温めたグラスに白ザラメを入れて、ウィスキーと熱いコーヒーを注ぐの。そこへ生クリームを浮かべて出来上がり」

「いや作り方とかの話じゃなくて……水蜜さんは本当に倫理観とか貞操観念めいたものが歪んでいると思う」

「きみこそ、ナイフみたいな少年がそんなじじくさいことを言っちゃあダメだ。楽しまなくちゃ。些細で不道徳な行いも、ほんの少しの嘘偽りも秘密も。あらゆること、すべてをさ」

「それってただの詭弁なんじゃ……」

「隙あり!」


 水蜜は出来の悪い犬でも抱くように容赦なく朱空の頭を引き寄せ、洗いたての髪をわしゃわしゃと掻き撫でた。


「わぷっ、やめろよ! ちょっ――」

「やめないもん。少しでいいから、ぎゅーってさせてよ。充電、充電」

「ふざけないで! ……っ、……」


 腕の中でもがくと、例の甘い匂いが胸いっぱいに広がった。彼女の香りが肺腑に満ちて、弾けてしまうんじゃないかと思うほどに。

 朱空はうなじの毛が逆立つのを感じ取った。

 柔らかく熱い胸が触れて、朱空の冷たい頬を押し返す。それを意に介すこともなく、水蜜は全身で朱空を包み込んでいた。


「本当に、無事でよかった」


 朱空にだって言いたいことはたくさんあった。不満も疑問も。けれど、その一言ですべてが氷解してしまった。


「……水蜜さんは狡い。いつもあの手この手でこっちの言葉を奪おうとする」

「え~、そうかなあ。でもここしばらくはさ、わたしに会えなくて寂しかったでしょう?」

「べつに。全然」

「またァ、つれないなぁ。この前の怪我……は、あんまり関係ないけれど……あの一件で上から叱られちゃってね。いくらなんでも強引すぎだって。それで、きみへの直接的な接触は当面避けて待機するよう命令されたんだ」

「……聞いてないし」

「きみが怒っているように見えたから。ねえ、どう? 心配した?」

「全然しない……しなかった。思い上がらないでよ」

「そうか。でもね、わたしは朱空くんが心配だった」


 水蜜の眼差しには焦燥と安堵が入り混じっていた。

 心から朱空の身を案じていた証拠だった。


「本当はわたしがあの場に行きたくって、きみに会わなくちゃ、って。だからどうしてもって上に掛けあったんだ。おかげでちょっとした喧嘩になっちゃったけどね。でも、よかった。あそこに行って、きみとまた会えて本当によかった」


 今度こそ、朱空は反論すら紡げなくなった。

 あとはもうされるがまま、水蜜にぎゅうぎゅう抱きしめられるほかなくなった。

 いつもこうだ。言葉よりもその体で、彼女は言いたいことのほぼすべてを物語ってしまう。

 ひとりの人間が持つ異能がひとつきりであるとは限らない。

 水蜜が持つ不可思議な説得力も、もしかすると彼女のもうひとつの能力なのかもしれない。

 少なくとも朱空にとって、その言動は何より得体のしれない魔法だった。


「ねえ少年、どう? あったかい? しあわせ?」

「……なにそれ」

「ん~。あったかいってことは、しあわせってことなんだよ。あったかいご飯に、あったかいお布団、それにあったかい女の子の体もね?」

「……よくわからない」


 本音だった。

 ただ、こういう温もりが以前なら煩わしくて堪らなかったはずなのに、今はどうしたことだろう。


「まったく、きみも大概重症だね」


 満足そうに息を吐き、水蜜は朱空から離れた。

 そして、ぽいぽいと散らかしながら、あっという間に服を脱ぎ捨ててしまう。黒いレースのショーツ以外、全部を。

 下着の縛めから解かれた白く豊満な双丘が、目の前でたゆん、と揺れた。清らかな満月のような胸は外気に逆らって張りつめている。つるりとした先端は薄桃色。

 唖然とする朱空を見下ろしながら女は立ち上がった。黒髪が幾束か白い肩を滑って零れた。


「ふ~。あれ、なに眼を丸くしてるの? わたしだってお風呂には入りたいんだよ」

「だっ、脱衣所っ! あるだろ!?」

「……へえ、ちょっとはどきどきするんだ?」

「なっ――」


 踵を返した水蜜が、目線を合わせる形で屈み、顔を覗き込んでくる。

 唇まで奪われてしまいそうな至近距離。互いの頬と鼻先が触れ合った。

 水蜜は真面目な顔で朱空の瞳から何かを読み取ろうとしていた。

 鼓動が高鳴る。おそらくは自分の鼓動だと思う。水蜜は? ……わからない。スミレ色の双眸がほんの少し揺らいでいるのは演技だろうか。眼の奥をよぎる感情の機微さえも計算ずく。

 それに、どこか思考が麻痺しているのは、さきほどのホットドリンクのせいかもしれない。まさかあのアルコール入りの飲み物もわざとか。疑念は尽きない。

 ……だとして、なんだというのだ。嘘でも本当でも、目の前にいるのはいつもの水蜜だ。彼女は大抵何かを企んでいる。


「……ねえ、朱空くん?」


 でも、朱空の思考を奪っているのはそれだけではなかった。

 眼前に晒し出された水蜜の裸の胸が、朱空の薄い胸板にきつく押し当てられていた。いまにも咲き零れそうな白牡丹のように豊満でみずみずしい両の乳房が。固い蕾のような薄桃色の先端が。熱を秘めた肌の艶めかしい感触が、呼吸のたびに余すことなく伝わってくる。肉体という境界線がなくなって、肌が蕩けてしまいそうだ。

 朱空は思わず生唾を飲み込んだ。凶器に視線を吸い寄せられて他が疎かになってしまうように、今の朱空もそれと同じ状態だった。

 どうしよう。どうしたら。

 動けない。全然身動きが取れない。

 頭に血が上って、文字通り火を吐いてしまいそうだ。舌の上では小さな炎が躍っている。


「いいから早く行ってよ! もう!」

「きみ、案外えっちだなぁ。いつか困った大人に変身しそう」


 熱い身体が離れた。半身を失ったような気分だった。

 水蜜の体温がほんの少しだけ名残惜しかったんだと気付いた。


「ていっ」


 朱空の頬をそっと一抓りして、水蜜は浴室に消えていく。

 女が細く括れた腰をくねらせると、丸くて肉感的な尻が揺れる。後ろ姿すらも目の毒だった。

 おまけに一度思い出したように顔を出すと、


「覗いてもいいよ~。なんなら一緒にもっかい入ろ! 全身くまなく洗ったげるよ!」

「……覗かないでね、でしょ。ふつう」

「けち。意気地なし~」

「意味がわからないよ!」

「じゃ、良い子で待っててなんだよ~」


 脱衣所へ姿を消した水蜜は手だけだしてひらひら振った。扉の開閉音。今度こそ、シャワーの水音が聞こえ始めた。

 朱空は安堵に似た心地から、長く大きなため息を吐く。なんだかひどく疲れている。それなのに、頭のどこか奥が痺れている感じがして、心身はとても休まりそうにない。

 まだ辺りに残る彼女の香りが、朱空の意識をぼんやりと呆けさせていた。

 女のひとの肌があんなに白く蕩けるようなものだなんて、知らなかった。知らなくてもいいことだと思っていた。

 今はいいことなのか悪いことなのかわからない。

 ただ、悪くは無いような気がした。


「おれ、なにやってんだろ……」


 自分がどこにきてしまったのか、実感は一向に湧いてこない。

 窓の外は暗い。夜の帳が降りてまだ間もない時間帯だ。

 ……朱空にとっては、長い夜になりそうだった。









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