迷霧〈2〉
〈2〉
「やっぱテメエ、イイ感じにボコってぶん殴りたくなる顔すンじゃねェか! 気にいらねェが、俄然興味深いねェッ!」
「……くっそ迷惑」
「欲しいったら欲しい! 今決めたァ! テメエはぜってェいただくッ、そンでもっておれがビシバシ性根叩き直して再教育してやンよォッ! ――霧子ォ!」
振り向きもせず、ゼロは背後に向かって声を響かせる。
一瞬、霧が揺らいだ。どこからか、少女の声が応えた。桜庭霧子。周囲のどこかにあの少女も身を潜ませている。油断ならない状況だ。
「無意味に名前、呼ばないで。私の存在まで穢れる。あと、うざいし煩い。ゼロは出来るだけ呼吸しないで」
「いってろ、根暗文学少女が。せいぜい上手く隠しやがれよ。特盛りマシマシの霧で空間ごと包んじまえ」
「その気になれば霧を練り上げて彼を殴りつけることだってできるのだけれど」
「必要ねェよ! オマエは隠蔽に擬装、オレが攻撃と考えるのと見極めとその他メインの役割全部担当なのォ! つまり主役! 主役はこのオレ様ァァッ!」
「……ついでにゼロもなにかの事故にみせかけて叩いていい? むしろそこの彼より叩き潰したい」
「ノー! それダメッ絶対ノー! タンマタンマァ!」
二人の関係はよくわからない。だけど同じ組織の人間だということくらい朱空にもわかる。
水蜜のいうところの同業者。曰く、おそらくは民間軍事会社の
ともかくカフェで朱空たちを襲った少年は今ここに再来した。
朱空を
朱空だって、霧子が怪しいのは最初からわかっていたが――。
「……あんたこそ、また来たんだ」
「なんだァ? ちゃんと覚えてンじゃん、嬉しいねェ。前回はおもしれえモン見せてくれたからなァ。敬意を表してこっちもちったァ本気ださなきゃって思ったわけよ!」
「それで待ち伏せて、挙句に二人がかりってこと? 卑怯丸出しで、ばかみたい」
「こちとら商売だ。キレイごとで通すつもりもないンでね。それに、オマエを捕まえる前にちょいと確かめたいこともあるンだよォ……。たとえば、その
「やれるもんならやればいい。ただし、今は誰もおれを止めないから、ここで焼け死んでもいいならだけど」
「なァんだ、オマエ。あの女がこなくて拗ねてやがンのォ? 言っとくが、あいつは真性の魔性だぜ」
「黙れよ」
「クヘッ。糞ガキチャンが色ボケやがってよォ……とんだお笑い種だねェ」
「勝手に笑ってろ。ただし、今のうちだけだろうけどね」
この先、水蜜に会えたとしても会えなかったとしても、どっちだっていい。
大切なのは今だ。何に遭ったって、やることはひとつだ。
火をつけてやる。
焼き尽くしてやる。
何であろうと、誰であろうと。
どんなに聞き分けのない炎だろうが、ぜったいに言うことを聞かせてみせる。
朱空が殺意を剥き出しにした姿を見止めた零の顔に、一抹の傲慢な笑みが表れた。笑っている。この期に及んで。
こいよ、と告げる代わりに、零は中指を立ててきた。
「……そんなに火をつけてほしいのなら、そうしてやるよ」
朱空の瞳が燃え上がる。
地獄の劫火のようにめらめらと妖しい輝きを放って、周囲に熱気が膨れ上がる。
少し間違えば暴発しかねない、爆ぜる寸前の熱量が廃屋に渦を巻く。
操れる。ちがう。操る、絶対に!
「おいおいおい、ちょっと見ねえうちにオマエ変わったじゃねえかァ!」
「知ったことか!」
一陣の狂風を巻き上げて霧を引き裂き、爆炎が零を飲み込む。
霧に混じって立ち込める硝煙の向こうから、無数の
――――空中で、異質な二つの力がぶつかり合った!
「いいねいいねェッ、超イイねェッ! その眼、とってもオレの好みだよォッ!」
「お前の好みなんか聞いてない!」
朱空の叫びに呼応して、さらに炎が生じる。
手の中に炎が、否、朱空の腕そのものが白炎と化している。
だからなんだ。燃えれば燃えるほどいい。
そのままゼロの首を捉えようと、朱空は炎の腕を伸ばす。肉の焦げる匂いが鼻をつく。燃え広がった炎がゼロの肩を掠める。だめだ。もっと。もっと深く飲み込め。
「――っちぃィィッ!?」
「焼け落ちろっ!」
確かな手ごたえ。この上ない愉悦。もっと、もっと、もっと!
しかし、朱空に捕まることなくゼロはバックステップ。すんでのところで炎を躱す。
地面に手をつき、勢いを殺したゼロが獣のような着地姿勢から顔を上げた。笑っている。獰猛な瞳が、この上ない喜悦に。
「やっぱオマエ…………ひゃはッ、くはははッ、あはッははははははははァッ! こいつァいいぜ、大傑作の傑作だァ!」
腕と肩に熱傷を負いながらも紙一重で躱した零は、合点がいったとばかりに呟き、ついで勝手に笑いだす。朱空には意味がわからない。
「くくっ。カレルがどんな情報を持ち帰ろうが、もう関係ねェ。こりゃ勧誘もクソもなくテメエを連れ帰らにゃあ、オレらがペナられちまうねぇ」
「なんでだよ……どうしておれを放っておかない。おれじゃなくたって、もっと使える異能者はたくさんいるだろうがっ」
「どうしてって、使える異能者はいても、オマエの存在が唯一無二だからさ。それに、これはもうオマエ抜きにゃあ語れぬオマエの問題だからねェ。まさか逃げようってのかァ? テメエがテメエ自身から」
「おれは……おれは何も望んでいないのに!」
「はッ、望んでないだってェ? それこそ矛盾だ。望まれぬことを望みながら、ふざけたコトいってンじゃねェよォ。こォの甘チャンがァッ!」
巨大な廃材を見えない力が持ち上げて、二台の即席大砲が朱空に照準を固定する。
真正面から受けきるつもりで、朱空は構えた。
「キヒヒッ、まったくテメエは我が儘で高慢チキだよなァ。望んでませんン~? このバカが……誰だってそうだろ。超能力者に魔法使い。異能者の誰も彼もがそう言うよ。オレたちは世界の理を歪めるエラーそのものだ。悪意か善意か、はたまた純粋なる偶然か、この世にばら蒔かれた最後の種子だ。どんな能力だって望んで手にいれた力じゃねえ」
「抜かしやがって――」
「けどなァ、オレは自分の力がわりと好きなんだよォ。だからオレはオマエとは違うンだなァッ!」
零の双眸が散瞳する。同時に少年は掲げた腕を振り下ろした。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
飛来する木杭を爆炎で打ち砕き、朱空は咆哮する。
欠片が肩に突き刺さり、炎がしぶいた。炎の両腕が不可視の力によって引き裂かれる。
自分が、自分の力が好きだなんて。
……ああ。なんて妬ましい。
どろりとした嫉妬の炎が朱空の瞳に吹き荒ぶ。
手に入らないのなら、いっそ沈めてしまえばいい。
辿りつけないのなら、燃やしてしまえばいい。真っ黒焦げになるまで。
「消えろ! おまえらぜんぶ、骨の髄まで!」
ごうっ、と炎が逆巻き、激しい爆轟に転じる。視野が炎に包まれた。
――いや、違う。おれが炎になって、燃えている。このおれが。
恐怖を感じた。戦うことにではない。自分自身に。それでもやるしかない。だれも助けてはくれない。だけど、いつだってそうだった。
これからだってそうだ。
「るぅぅぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
朱空は火焔となって燃え盛った。
周囲の霧を払い、次々と飛来する礫や木杭を潰し、零に肉薄――炎化した右拳を思い切り叩きこむ――が、突如として出現した霧の壁に阻まれる。
炎が散って、拳が潰れた。
質量のある白闇の向こう側で零が「キヒッ」と笑声を上げた。
届かない。埋められない。距離が。力量の差が。頬が触れるくらい近くにいるのに。
「はン、まったくイカすったらねェなァ……オマエの
「どういう意味だよ!」
「そりゃ、テメエが相当なお間抜けチャンってことさァ」
自ら炎と化して荒れ狂い、朱空は問うた。
燃える
「しゃーねェから、やさしいオレちゃんがヒントをくれてやるよォ。オマエの能力は〈念動発火〉じゃねえって意味」
「そうじゃなきゃなんだ。ふざけるな、今さら――」
「せっかく仄めかしてやったんだ。あとはテメエで考えろよ、スワンプマン。いや、この場合は炎の男、かァ? とにかくオマエにゃもう少しだけ時間をくれてやるからよォ。よォく考えてみるんだな。あの女の本性がどこまで腐れてやがンのかとか、オマエが本当は何者なのか、とかよォ」
「……おれが、だれか?」
「そうだ。そしたら、いやでもこっち側へ来たくなる」
ニタリ、と唇の端を歪めて作りだされた笑顔はどこまでも悪意と愉悦に満ちていた。
零は芝居めかした動作で背後へ飛び退き、一礼をくれた。
「さァて、今日は終いだ。――霧子ォ!」
「いちいち呼ばれなくてもわかる」
少女を呼ばわると、質量を帯びた濃霧が素早く二人の姿を包み込む。精度を上げさえすれば、このような芸当も可能なのだ。朱空はぎりり、と奥歯を噛み締めた。
最後に、耳元で囁く甘やかな吐息だけが残った。
「……それでは、せいぜい気をつけることですね。あなた自身が暴虐の炎と化してしまわぬように」
*
彼らが去ると同時に紫色の雲がやってきて、落日の残光を覆い尽くしてしまった。
すぐに火も霧もすべてを洗い流す雨が降ってきた。
火事の後に降る雨は、粒子を多く含んでいて重い。しかし、異様な静けさを伴っている。まるで雪みたいに音を喰う。
今度は霧の代わりに雨が朱空を隠していた。世界の秘密を守るように。
頬を伝い、口の中まで入ってくる水は苦くて甘い。炎は消え去り、朱空は茫然と黄昏の中に佇んでいた。降り注ぐ雨を拭う気力さえない。
真っ黒に焦げ落ち、なにもかもが失われた廃屋の中では、しんしんと寒さが身に沁みてくる。
今はもう少し凍えていたい。いっそ魂が凍えてしまえば、炎はまた強くなる。胸の内に這いあがる冷気だけが炎を思い出させてくれる、孤独な魂の輪郭を。
朱空は――朱空の炎は廃墟を燃やし、真相を葬り去ってしまった。
あの二人がどうなったのか、わからない。けれどおそらくは逃げ果せたはずだ。だって朱空には手ごたえがない。人間を燃やしたという、立体的な達成感が。
その時、一台の車がこちらへ近づいてくるのが見えた。まさか、と思った。しかし思い違いではなかった。
サイレンより早く静寂を破って駆け付けたのは、スポーツタイプの黒いジャガーだった。
レインコート姿の女が運転席のドアを開けて出てくる。特に急ぐそぶりは見せない。
なんの痛痒も感じない筈だと、そう思っていた。思っていたかった、それなのに。
艶やかな黒髪。紫水晶の瞳。透き通る雪肌。のびやかな手足。――……そして、おそらくその女の総てに。
日向水蜜という絶対的な魔女の総てに、朱空は否応なく魂を奪われてしまう。
会う度に強く、激しく、どうしようもなく狂おしく。
彼女は傍に来てもなにも言わぬまま、ただ朱空を見つめるばかりだ。朱空もそうだ。
二人の間を、冷たい雨だけが隔てている。
水蜜は途中で煙草に火をつけ、うまそうに燻らせ始めた。雨模様に紫煙が溶けていく。
現実にある炎をみても、朱空は虚しいだけだった。
途方もない飢餓感が腹の底にある。寒さが足りない。炎が、まだ別のなにかを欲しがっている。
「やあ。雨の日は煙草と熱いコーヒーが恋しくて困るねぇ」
水蜜。
日向水蜜。
朱空は彼女の名を呼ぶことができなかった。呼べば拒絶ではない余計な言葉を口にしてしまいそうだった。
今だって、きっとなにを考えているのか読まれている。それでいて、青白く美しい顔には、雨より穏やかな微笑みが浮かんでいる。スミレ色の瞳に宿るのは例の夢見るような輝きだ。
「びしょ濡れになるのも悪くないね。不謹慎だけど、今の少年、すごくきれいだから」
言葉とは裏腹に、水蜜は朱空の頭上へ傘を差し出した。束の間、雨が止む。
「都合のいい雨に感謝だ」
含みのある言い方だった。気象を操る能力者でも身内にいるのだろうか。
自然現象や星めぐりに干渉するレベルの能力は、もはや神域のものだ。災害級に並ぶ、神なる力。
「少年。きみは、どうして火をつけたの?」
どうして。それは最初から決まっていた台詞のように腑に落ちた。
いつかと同じ問いかけだった。
あのときの水蜜は、想いを募らせた女がなぜ街に火を放ったのか問うたのだった。今度は主語が朱空にすり替わっている。
狂気に、あるいは恋情に駆られた人間が火をつける理由は、たったひとつ――。
「……もう一度逢いたかったから」
朱空もまた、それがふたつでひとつの言葉であるとわかっていた。
これは暗号で合言葉だ。
他の誰にも解読することはできない。
「おれは鮫島朱空じゃないんだって。おれの能力も〈念動発火〉じゃない。言われたんだ、さっきのやつらに」
「さあね。きみはどう思う? 信じたいの、彼らのこと。それとも自分を信じることができない?」
「わからない」
「わからないか。まだ十三歳なのに、きみの世界はいつも随分と複雑ね」
皮肉ではなかった。水蜜はいつもの呑気な調子で肩を竦めた。
それからおそらくは奴らが消えた方向を睨み、
「来て。こんなタイミングの不審火じゃ、彼らの仲間に合図を送っているようなものだ。すぐにまた追手がきちゃう」
「……ここまでしつこくされる意味も、おれにはほんとわからないよ」
「あなたはめちゃくちゃなレアケースそのものだから。あちこちからモテモテになるのも無理ないの」
「どこへ行くつもりなの」
「隠れ家ってやつだよ。わたしの借りている部屋のひとつだ」
朱空は差し伸べられた手を振り払わなかった。振り払えなかったのかもしれない。
透き通るような女の手指は、朱空の掌よりもずっとひどく冷え切っていたから。
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