第四話 迷霧 ‐All at sea‐
迷霧〈1〉
4.
〈1〉
「鮫島
その日。
放課後の朱空を待ちうけていたのは、見知らぬ少女だった。
春海市立第三中学校、正門前。周囲に水蜜の姿はない。少女はいつも水蜜が待っているのと同じ場所に立ち、ホームルームを終えた朱空が校門から出てくると、何気ないふうを装い近づいてきた。
「……誰、あんた」
「私は
「……謹慎って?」
「この前の件が原因で。一般市民を巻き込み、あなたを脅威に晒した」
「おれはべつになんとも思っちゃいない」
「どんな組織にも規律はあるんですよ。たとえそれが常人には理解できないものであっても」
霧子と名乗った少女はどこか含みを持たせたまま淡く微笑んでいる。
砂糖菓子を思わせる美少女然とした甘くあどけない顔立ち。年の頃は朱空と同じくらいだろうか。それとも、もう少し上かも知れない。
「お返事をしていなかったのでしょう。でも、あなたはどこにも所属する気はない」
「……おまえになにがわかる」
「あなたが知っているあなたのことから、あなたが知らないあなたのことまで。もちろん、すべてとは言いませんよ」
「調べがついているってわけ。……ほんと、気に入らない」
朱空が焼き尽くさんばかりの眼光を向けても、少女はろくに表情を変えない。
甘ったるい相貌は、しかし水蜜と同じく底知れないものがある。その物腰こそが、彼女も水蜜と同様に
「遅かれ早かれあなたは断るつもりだし、日向は今返事を聞きたがっている。これを拒む理由はないでしょう」
「そうだけど」
「なんです?」
「……べつに」
確かに少女の言うとおりだった。朱空はまだ返事をしていない。
しかし彼女を信じてもいいのだろうか。
答えは端から決まっている。ノーだ。
でも、それでいい。相手がこちらを罠にかけるつもりなら、そこに出向いて謀略ごと燃やしてしまえばいい。
相手が本当に水蜜であるなら――拒絶と別れを告げるだけだ。
最初から朱空はなにひとつ信じていない。自分の判断能力も、〈
もうなにもかも関係ない。自暴自棄だと呆れ、嘲られたってかまわない。
……炎がおれの呼ばわりに応える限り、気に食わないものはすべて燃やしてやる。
今の朱空はひどく怒っているのだ。腹が立って仕方がない。自分を操りきれない己自身に。
それだけがはっきりとした真実だった。
「いいよ。お前と一緒に行く」
*
曇天の下を、街外れの倉庫に向かって歩いてゆく。少女のほうが数歩先を行く形だ。膝上三センチ丈の黒いプリーツスカートがひらひらと揺れている。
桜庭霧子。
朱空は背後から彼女の様子を窺った。
きれいに切り揃えられた前下がりのショートボブ。憂いを含んだ少女の横顔は、鈍色の光線の中でこそもっともよく映える。
他校生であるのか、見たことのない古風な黒いセーラー服に身を包んでいる。胸ポケットに校章らしき刺繍。黒一色の制服の中で、唯一赤いスカーフが目を引いた。
その体は華奢で、ちょうど彼岸花を彷彿とさせた。霧子は可憐であるが、生気がなく、儚げな少女だった。丁寧な物腰は逆にいえば感情表現に乏しく、表情や語調から言外の情報を読み取ることが難しかった。総じて、日向水蜜とは対照的な女だった。
……またあの女のことを考えている。
朱空は図らずも水蜜のことを思い浮かべた自分に気がつき、歯嚙みした。
だいたい本当に水蜜の仕業だとして、なぜこんな少女を寄こすのだろう。
謹慎中だからというが、他にもやりようはあるはずだ。要するに、こんな遠回しなやり方は彼女らしくない。
「ふふ……怒っていらっしゃるのですね」
「そうだとしても、あんたには関係ない」
「面白いお方。すべて顔に出ていますよ」
「うるさい」
敵意を隠そうともしない朱空のことを、霧子はまったく意に介さない。少なくとも、そう見える。
裏をかえせば、それは霧子自身には朱空という人間それ自体への興味がないということかもしれない。
……すこし気に食わない。気に食わないが、それは朱空とて同じであった。敵意――……不信感以外の感情が湧くとは思えない。
互いに無関心な二人だからこそ、こうして辛うじての会話が成り立っているのだ。
「鮫島さんは、火災でご家族を失ったんですってね」
「……だからなに。悪い?」
「いいえ。私だって似たような境遇ですから」
霧子の視線はここではないどこかへと向けられていた。
望まぬ形で力を得たものは、大抵がどこか不幸で歪だ。
表面上は普通に暮らしていても、強い異能を発現したものは忌み嫌われる。
自分以外の異能保有者がどんな暮らしを送っていようが不思議じゃない。朱空よりも不幸な境遇の者はいくらでもいるだろうし、上も下も、見つめればきりのない深淵だ。
霧子にかける言葉はいくらでもあるのだろうが、ふさわしい言葉はその中にひとつもないのだろう。
朱空は黙ったまま歩き続けた。
廃墟群が見えてきた。もう街外れだ。複数の同型建造物。既にすべてが打ち捨てられて久しい。この中のひとつが朱空の行きつけだった。
朽ちた灰色の群れは不気味な巨大生物めいて佇んでいる。奇妙な骨組みの、はりぼての竜。朱空はその腹の底に飲み込まれていく気分だった。
……やがてうっすらと辺りが翳り、霧が出てきた。
「ねえ、鮫島さん」
「……なに」
「あなたの能力は火災事故をきっかけに目覚めたと聞きました。でも、それは本当なんでしょうか?」
だしぬけに霧子は言った。
こつん、と小石が少女のつま先に当たって転がってゆく。磨き抜かれた学校指定のペニー・ローファー。黒革が無慈悲に照り映えている。
「どういう意味さ」
「だって、偶然にしては出来過ぎていると思いませんか。炎に巻かれた者が炎の力に目覚めるなんて、皮肉なできごと。誰だって、まずは逆の可能性を考えますよ」
「逆……?」
「そうです。あなたが呼んだ炎が原因で、あなたのご家族は亡くなった――」
「やめろ。おれが能力を発現したのは火事のあとだ」
「そうですね。失礼しました」
歩みを止め、振り返った霧子は、なんの悪気もない無垢な笑みを浮かべて僅かに頭をもたげてみせた。
その瞳には冷たい刃に似た光が宿っていた。
まるで氷の淵を覗きこむような、どこまでも褪めた銀藤の瞳。
「でも……あなた、考えたことはないのですか? おれは本当に鮫島朱空か、って」
「……なんだよ、それ」
目を見開いた朱空の視界がついに白く染まる。
ふんわりとした甘い香りが鼻孔をくすぐる。
一歩、また一歩。こちら側に踏み込んできた少女の頬が朱空の頬に触れている。
一寸先も見えない濃霧。すん、と鼻をひくつかせる気配がした。
「ああ、いい香りがする。悲鳴と肉の焦げる匂いが混ざり合って……」
乳白色の闇に閉ざされた中、細い指で唇をなぞられる感触だけが輪郭を伴った現実として知覚される。
「冷たい唇。あなた、何人殺したんでしょうね」
そして少女の輪郭は完全に消失。
深く温かな霧が完全に当たりを包み込んでいた。
「……〈迷霧〉の能力」
やはり罠だった。
それを悟るや否や、朱空の瞳に獰猛な炎が荒れ狂う。
望もうが望むまいが、脅威は向こうからやってくる。
美しい女や少女の形を装っていたって、運命は避けようのない災害のようなものだ。
状況とは裏腹に、朱空はこれ以上ないくらい野蛮な笑みを浮かべた。
……いいぜ、こいよ。
そこへ、耳鳴りが襲う。聞き覚えのある甲高く耳障りな音のない音。
反射的に避けた朱空の左頬を深く切り裂き、鋭利な角材が弾丸めいて飛来。どしゅっ、という無残な音をたてて背後の地面に古びた杭が突き刺さる。
朱空の頭部を狙おうとすれば最初から出来た筈だ。にも関わらずそうしなかったのは、端から殺す気のない、牽制の一撃であるからだろう。
「あの魔女かと思ったァ? 残念でしたァ!」
ケタケタという軽薄な哄笑。
白闇の中から現れたのは、ついこの間も朱空たちを襲撃した相手だった。
「もちろんお呼び出しってのも嘘でしたァッ!」
今日はフードで顔を隠していないため、その相貌をはっきりとみとめることができた。
おそろしく整った顔立ちは、日本人のそれではない。黄金の髪に、絵画の青を閉じ込めた大きな瞳。
〈
零は上等な外見にそぐわぬ狂気を全身に滾らせている。
狂気こそが彼の正気だ。おそらく、こいつはデフォルトの状態が既にして狂っているのだ。
「へへ。あんまり意外って顔してねえところをみると、オマエわかっててついてきやがったなァ?」
「……どうだっていいよ。そんなこと」
「アー。確かにどうだっていいなァ」
裂けた頬から血が溢れてくる。
零れる傍から朱空の血は火に変じ、白い炎と化してゆく。
血潮が熱い。そして胸の奥は何処までも冷たい。
……火をつけてやる。みんな、真っ平らになるまで焼き尽くしてやる――……!
そんな朱空の姿をみて、零はひゅうと口笛を鳴らした。
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