第三話 涙 ‐CRYBABY‐
CRYBABY
3.
「鮫島朱空くん」
「朱空」
「鮫島さん」
「朱空くん」
「鮫島」 「しゅら」
「鮫島くん」
「おにいちゃん。しゅらおにいちゃん」
――――…………さめじま しゅら。
幾重にも重なり、繰り返されてきたその音の連なり。
その言葉は、しかしおれにとっては意味のわからないものだった。
言葉。言の葉。ちがう。もっと具体的なもの。なんだっけ。えーと……なまえ。そう、名前だ。誰かの名前。
あちこちに鬼火が灯り、得体の知れない影達が口々に誰かの名前を呼んでいる。
しゅら。さめじま。さめじま、しゅら。
だけど、一体誰だよ、それ?
おれはといえば、おれ自身の輪郭もわからずに灼熱の中を漂うばかりだ。むしろ、どっちかといえばおれ自体が灼熱の炎だった。
けれど自分の役割だけはわかっていた。目につくものは手当たり次第に燃やした。飲み込んで、ろくに味わいもせずに平らげた。やがて灰に覆われた寂しい夜がきてもおれはそれをやめなかった。
なにも感じなかった。感じるということすらわからなかった。
ただ、気がつくといつも叫んでいた。
おれは燃えながら叫び続けていた。
誰か、誰か、誰か。おれを。おれがここにいることを教えてほしい。痛くても、おそろしくても構わないから。どんな方法だって構わない。だから誰でもいい。おれの輪郭をなぞってくれよ。
縋るような気持ちで叫び、祈っていた。
きっと、おれは名前を呼んで欲しかったんだ。あいつみたいに。羨ましかった。あいつが妬ましくて堪らなかった。
だからおれは狡猾に立ち回り、取引を持ちかけ、必死に奴を説き伏せた。ときに報い、ときに反発してみせ、喚ばわりには律義に答え続けた。
…………そしてその願いはついに叶えられた。
「――――きみは鮫島朱空くん、だね?」
痛いほどの静寂。そこに、幾度目かの呼び掛け。
家屋も、物置小屋も、庭の木々も、土も、空さえもどす黒く煤け、すべてが崩れ落ちた焼け跡。
重く穢れた灰が世界の終わりの雪のように、音もなくしんしんと降り積もる。
返事もできずに立ち尽くす朱空の肩を消防士が抱いていた。さっきおれの名前を呼んでいたのはこの人だと気がついた。救急隊員が朱空の身体を毛布で包んでくれた。
咄嗟に、「ああ。またあの夢だ」と思った。
でも、それがどんな夢なのかが思い出せない。夢の中では全てが現在で過去だ。時間なんて関係ない。
唯一理解できるのは、ここが朱空の記憶の奥底に置き去りにされた場所だということ。
かつて火災で焼けてしまった昔の家だ。
今、朱空は自らが胸の奥に抑え込んだ灰色の風景の中にいた。
傍にいる救助隊員が「怪我は」とか「救急車が」「家族は」などとよくわからない言葉を喋りかけてくるが、朱空にはその意味がつかめない。
それよりも、早く目を覚まさなくては。早く、早く、早く。
頭の中でアラートが鳴っている。
この先を見てはいけない。おまえはこれ以上ここにいてはいけない、と。
それでも夢は覚めない。ここではない別のどこにも逃げることができず、朱空はただ焼け跡に佇むばかりだった。
……と、玄関があったと思しき開けた場所から担架が運び出されてくるのが見えた。
一台、二台。間をおいて、もう一台。
途端に嫌な予感が増して、胸を圧迫した。呼吸が上手くできない。
担架はどれも黒い袋で覆われて、載せられている者の姿が人目から遮られていた。背後で音を立てて大きなブルーシートが広げられた。
鼓動がやけに速く脈打ち始めた。手や背中に汗が吹き出し、口の中はからからだ。それでも、朱空は走りださずにはおれなかった。
救助隊員の制止を振り切り、無理やり最後の一台に駆け寄る。
三台の中では一番小さな身体が包まれているのがわかる。焦げた肉の匂いがあたりに立ち込めている気がした。
「……
唇が勝手にその名を紡ぐ。
ああ、どうして。幼い妹がなんだってこんな目に遭わなければならないんだ?
おれや真赭を虐げていた両親。あいつらはどうでもいい。でも、妹が。真赭が。どうして。
「真赭、真赭っ!」
無理やりに揺さぶると、不自然に膨らんでいた箇所が肌蹴て、担架の中身が露になった。
布から突き出したのは、赤黒く炭化して崩れ落ちる寸前の片腕だった。
焦げてしまった左手は、救いを求めるかのように上向きに伸べられたままで固まっていた。
嘘だ。
嘘。嘘。嘘。
嘘に決まってる、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。
堪らず朱空は叫んだ。
その叫びが炎を呼んで渦を巻き、灰を舞い散らせた。
どくんっ! と心臓が一際強く脈を打ち、朱空は反射的に飛び起きた。
実際に叫び声をあげた感触が、まだ口元に残っている。
ざああ、と血の気が失せる音がして、耳鳴りと視野の明滅がごく短いあいだ知覚を支配した。
冷え切った暗闇の中、自分の鼓動と呼吸音がうるさいくらいに響いている。
見開いた両目を覆い、片手で掻きむしった胸を押さえて、朱空は動悸が収まるのを待った。
……またあの夢を見ていた。
今度は夢の内容を覚えていた。ほとんど、はっきりと。
あの日。火災が起きた日の夜明け前、もっとも闇が濃い時分の出来事。
まぼろしなどではない。現実と夢が混濁し、互いを喰いあって混迷してはいるが、あれらは確かに実際にあったことだった。
家族全員を奪い去った火災事故。
朱空が〈念動発火〉の能力を発現するきっかけとなったトラウマの根源。
これまでに何度も見ている夢なのに、夢をみるたびそれが既視感伴う初めての体験として感じられる。そしてそのたびに朱空の心は劫火に灼かれ、苛まれるのだ。
それでも、悪夢を見たのは久しぶりだった。
ここしばらくは夢を見る暇もないほどに目まぐるしい日々だった。
そう、日向水蜜が現れてからは。
でも、初めて人間相手に炎を放ったのはたった数日前のことだ。
恐ろしさよりも快感が勝っていた。けして忘れることなどできない衝動を知ってしまった。快楽を。それは今も体内で燻る残り火となって、朱空の神経を痺れさせていた。
――
そういう思いは、やがて来る現実を言い当てていたのだろう。
ふと思い立ち、朱空は掌の上に炎を喚ばわった。
こうっ、と音になる寸前の音を発し、小さな炎が生まれ――暴発した!
意に反して炎は激しく揺らぎ、朱空はその熱にたじろいだ。だが、かろうじて一点に劫火を凝縮することができた。
危うく部屋に火を放つ寸前だった。
「……なんでだよ」
念動発火が上手く操れない。制御が行き届かない。自分の思い通りに炎を喚ばわることができない。それは初めてのことだった。
……どうして。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。
手を握って、再び開く。炎は消えた。とても頼りない消え方だった。
まるで、もうこれで最後だと言わんばかりのあっけない幕切れ。
「……くそッ!」
朱空はやおら立ち上がり、椅子に掛けてあったパーカーを羽織る。
そうしてアパートを出ると、ある場所へ向かって走り出した。
空には欠け始めた不吉な月が皓皓と輝いている。
月光は朱空が闇に紛れることを許さず、夜を急ぐ歪な少年の輪郭を暴き出していた。
*
「だからァ、これは仕切り直しとかじゃねえンだよ! 追加調査の必要があるっつッてンのォ! 追加調査ァ! ドゥユーアンダスタァァン!? わっかりましたかァ!?」
「もちろん、それはもうわかったヨ。ていうか耳タコだヨ。だから昨日ボクが指示を仰いで、上がキミと新たにあの子を手配したんじゃナイか」
「……それが納得いかねェンだっつーのォ。この偉大なるオレ様はともかく、あいつァ調査向きじゃねェだろがァ」
「やれやれ、ゼロはあの子のことになるとすぐコレだから困るネ」
「ハァァァン!? コレってなンですかァ!? コレってェ!」
「なに、心配しなくても彼女はキミよか立派にやるだろうサ」
「余計悪いわァッ!」
眼前の青年は、しかしゼロ渾身のツッコミにも動じず、穏やかな笑みすら浮かべて肩を竦めた。
「そうかナァ。こういうとき日本語ではたしかエート……ご愁傷サマデス?」
「ッダァァァッ、ドちくしょーめがァッ」
これでは本当に余計に面白くない。
ベッドの上でどったんばったん暴れるゼロを宥めるのは、後ろに撫でつけた黒髪を三つ編みに束ねた若い男である。小柄で性別すらよく分からぬゼロと比較すると、随分上背があり、豹のようにしなやかな体つきをした東欧系の青年だ。
彼らは二人とも
此度の二人の任務は後者であり、稀有な異能である〈
深夜。滞在用に手配された格安ホテル。
ミーティングを終え、次の作戦行動まで待機となったゼロは、謎の深夜徘徊――もといナンパから戻った同僚をつかまえて盛大に愚痴をぶちまけていた。
「ホント、あいつァ気持ちのわりィ奴だったンだよ。〈念動発火〉保持者だっつーが、オレ様にいわせりゃ、あれは絶対ちがうね」
「フム。それじゃあ、ゼロはどう思ったんだい?」
「どうって」
青年はミントブルーの眼をすぼめ、興味深げにゼロの返答を待つ。
扇情的な異貌の男が黙って首を傾け先を促す様は妙な迫力がある。
ゼロは自らの憤りやなにやらが削がれていくのを感じながらも、素直に見解を述べた。
「……どーもこーもねェよォ。とにかくあいつ自体が炎になって燃えてたンだから、念動発火とは違う。つーか! そこらへんがイマイチわっかンねーから再調査するンだっつーのォ」
「へえ。せいぜいガンバりやがれヨロシネ」
「なにその他人事加減ンンッ!? マジ枕投げ殺してェな!?」
「ボクのめちゃカワフェイスを破壊しないでくれたまえヨ。マコトにザンネンながら、今回のはボク向きの案件じゃナイからね。この街はべつに戦場ってわけでもないし。ボクはただの保護者。子守り兼本部への連絡係なのダヨ」
「なァにが子守りだ、どいつもこいつもオレをガキ扱いしやがってよォ。オレ様はオマエよか
「中身がお子ちゃまだから仕方ないデスネー」
青年の指摘にゼロはぐぎゅうと口惜しげなうめき声を上げる。
「あーもォうるせえよォ、カレルゥ。こんのオクサレ野郎がァ、だいたいテメエは恥ずかしくねえのかよ。〈
青年――カレルは、ゼロの皮肉に小首をかしげて「べつに?」と答えた。
「ボクは面白いからイインダヨ。それに、ゼロ。日本の女子中高生はイイネ。とてもイイ。なんだっけアレ、ほらカレフク。あれらはベリグッ最ノ高ですネ!」
「オマエこのおファックロリぺド野郎、カレフクは最高に決まってンだろっていうか、それ制服ゥ! それを言うならセイフクなんだよォッこのおバカ!」
「――ね、ゼロ。この依頼の大本、どこだと思う?」
「ああン? なんだよ急に……そりゃオマエ」
勢いよく喋り出したゼロは、しかしそこで言い淀む。
カレルは普段、いちいち依頼主を気にするようなタイプではない。案件の出所を知識として押さえておくのは基本中の基本。この界隈を生き抜くためには必須の条件である。だが、カレルにおいては例外だ。面白ければよい、自分が能力を振るえればなおよい。それがカレルの行動指針らしかった。
だが、よりにもよってこの男がそれを気にするとはこれ如何に。
「……さあなァ。第一こういうのは詮索しないのが暗黙の了解だろうが? むしろオマエはそんなン気にしないタイプの脳筋おバカ野郎筆頭だろォ? なんなンだ、いきなりィ?」
「べつに、ですヨ? 試しにちょっと聞いてみたかっタだけ」
ゼロがベッドサイドに置いていたコカ・コーラを、カレルが勝手に一口呷る。
カレルは「ぬるすぎ」と言ってすぐに放り出した。当然ゼロはぷんぷん怒る。
「まァたテメエはなァ! 自分で買ってこいよォって言ってる傍からひとン菓子開けて食うンじゃねェ! オマエのはこっちだ! 辛口の菓子と缶コーヒーがそっちの袋にあんだろうがよォ」
「ボクの分も買ってきたの? ゼロはそゆトコいっつもマメでカワイイネ」
「うううウルセェヴォケがッ! 耳とかチンコとか二個あるやつ片っ端から捩じっ切るぞ!」
「耳はともかく片タマは困るナァ」
はいはい、とおざなりに返事をしつつもカレルはゼロの頭にそっと手を置いた。長い指が黄金の髪を梳く。ゼロは目を逸らしたが、抵抗はしなかった。
カレルの大きな手のひらは嫌いじゃない。気まぐれに頭を撫でられるのも。そして嫌いなのは気まぐれでしか優しくしてくれないところだった。
「……なンだよ。今日はめちゃキモだな、オマエ」
「ともかく今回の件はキミらが適任なんだヨ。ボクはボクでちょっと上の事情を探ってみるさ。せいぜい上手くヤリやがるんデスヨ~?」
カレルは長い腕でゼロをぎゅうぎゅう抱きしめ、無理やり頬を擦り寄せてくる。
惰性で咥えっぱなしだったチュッパチャップスプリン味を噛み砕き、ゼロはしかし苦味を堪えるように顔をゆがめた。
「ホント……気に入らねえなァ」
*
昏く沈んだ廃倉庫内に、荒い呼吸音が響いている。
映画のフィルム越しに描かれるような、青みがかった夜闇。だだっ広い廃墟の真ん中。そこにたったひとり、胸を押さえながらうずくまるのは鮫島朱空だ。
朱空の傍らには真っ黒焦げの廃材が転がっている。廃材はほとんど炭化し、崩れかけていた。その奥でわずかに炎が燻っている。
ぎりっ、と奥歯を鳴らし、朱空が手をかざす。みすぼらしい火はたちまち消えた。
眼の奥がずきずきと痛んだ。
朱空の瞳に宿った燠火も途端に鳴りを潜めた。
……ここは朱空にとって、秘密基地のような場所だった。
なにかあれば、きまってこの倉庫に立ち寄り、炎を呼んだ。
他の建物のように燃やしてしまったりはしない。一人になれるし安心できる。要するに一番気に入っている場所なのだ。
先ほどの己の状態に戸惑いを覚えた朱空は、こうしてここにガス抜きにやってきた。
だというのに――、
「……なんでだ。なんでいうことを聞かないんだよ。おれの炎のくせして……」
朱空が呼んだ炎は今度も彼の意図に反して激しく燃えた。
危うく火災を起こすところだった。次に同じことが起こったとき、制御しきる自信はもうない。
〈念動発火〉には、どういうわけか感情がダイレクトに影響を及ぼす。
憎愛がしばしば炎に喩えられるように、胸中を渦巻く感情が昂れば昂るほど、朱空の炎も激しく燃える。
自分をこんなにも動揺させているものがなんなのか。それはわかりきったことだった。
……あのひとのせいだ。
こんなにも心が、炎が掻き乱されるのは。ぜんぶ。
突然現れて、土足でひとの生活を踏み荒らして。真意はわからないのに、言葉の一つひとつが強い意味を持っていて。そのくせ大切なことはぜんぶ行動で示してみせる。
――朱空は水蜜に魂を攫われてしまったのだ。
魂は朱空にとって炎だ。家族も友人もない、自分さえ曖昧な朱空にとって、なけなしの炎。
いままで必死に独り占めしてきたのに、水蜜は朱空の心を抉じ開けて、いともたやすく劫火に触れてしまった。
あのひとは自分の手や心が爛れるのを恐れていない。それが逆に朱空を追い詰めた。
だって、朱空はいつも怖がっている。自分の炎が自分を飲み込み、他人まで焼き尽くしてしまうことを。
火を操ること。それはもう彼だけの密やかな楽しみではなくなってしまった。
力を使えば勧誘と称して怪しいやつらが寄ってくる。それに、今では能力を操るだけで精いっぱいだ。
……この次。水蜜が現れたら断ろう。もう会わないと告げよう。
これ以上はきっと耐えられない。もし暴発すれば、この炎は誰かれ構わず飲み込んでしまう。
やっぱり一人がいい。ひとりでいい。
握りしめた拳から、床にぽたぽたと冷や汗が滴った。汗だけではなかった。視界が滲んで、鼻の奥がつんと痛んだ。涙が緩い炎となって燃えながら零れ落ち、灰になる。
ようやく慣れ親しんだ寒さを感じた。
しかし翌日、水蜜は現れなかった。
次の日も。その次の日も。
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