強襲〈3〉

 



 〈3〉




 かくて水蜜が車を急発進させた。

 晩秋。暖房を切っていた車内は凍てつくようだ。がちがちと歯が鳴っている。歯の根も合わない、ひどい寒気だ。

 ……いや、違う。これはもっと別の衝動だ。朱空は親指の爪を噛んでそれをやりすごそうと努めた。

 殺す、殺す、殺す。殺し尽くしてやる。

 燃えろ、燃えろ、燃えろ。みんな燃えてしまえ。

 おれが火をつけ、焼き尽くし、ぜんぶ真っ平らにしてやる。

 そうとも。肌の裏側、臓腑の奥、瞳の中、舌の上、掌――朱空の全身で、まだ炎が渦巻いている。猛火もうかが暴れたがって、おれの意識を引きずり駆けだそうとしている。

 朱空を震えさせているのは恐怖と、そして自身の抑えきれぬ破壊衝動に他ならない。

 その時、


「朱空くん、こっちをみて」


 凛と胸の奥まで届く声に、崩壊寸前だった意識が引き戻された。


「もう大丈夫。ゆっくりでいいから、深く息を吸うの。できる?」

「あ、ぐ…………っは、はぁッ、は……ッ」

「そう、その調子。いい子だ」


 溺れたときのように喘ぎ、一つひとつ手順を思い出しながら、朱空はようやくまともに呼吸をすることができた。

 気がつくと水蜜の片手が助手席に乗り込んだ朱空の掌を包み込んでいた。

 白い。あまりにも白い指先。蒼白といってもよいくらいなのに、その手はとても温かった。

 肌のぬくもりと蕩けそうな感触が、朱空に正気を取り戻させた。


「平気? 怪我はない?」

「……ぁ、い」


 喘鳴を漏らしつつ、頷く。

 声はうまく出せないが、先ほどよりはずっとマシだった。

 少しずつ。少しずつでいい、呼吸をするんだ。

 一度やり方を思い出せば、あとは平気な筈だ。


「大丈、夫。さっき、の、やつ、は?」

「あのサイキック、ね。業界ではちょっとした有名人だ」

「面識、あるの」

「ん……まあね。規模は大小様々だけど、異能保有者を欲しがる組織はたくさんあるの。残念なことにこういう小競り合いがあちこちで起きている。もっとも、きみのことが外にも知られてるなんて計算外だった。もう少し身内を疑えってことかな」


 それは半ば独り言で。水蜜にしては珍しく思考を口に出している。

 彼女が動揺らしきものを表に出した様子をみたのは初めてだった。

 動揺というよりは自嘲か。彼女の側にもなにやら込み入った事情があるらしい。


「そ、う。水蜜さん、以外に、もストーカーって、結構、いるんだ……」


 こんな時でも水蜜の浮かない表情は見たくなかった。単純に似合わないからだ。

 不思議とそう思い、強がりついでに軽口を混ぜてみる。横でふっと笑う気配がしたが、それが途端に苦しげな喘ぎに変わる。

 そうだった。彼女は――、


「水蜜さん、それ……」

「あは。ちょっとドジった」


 水蜜の太腿には深々とナイフが突き刺さっていた。

 黒いスラックスに血が染みて、滴っている。


「お互いぼろぼろだね」

「おれのせい、一緒に、いたから」

「違うよ。さっきのやつが飛ばしたナイフを避け損ねたの。きみのせいなんかじゃない」


 水蜜の否定は早すぎた。

 朱空の呟きの末尾に被せるような勢いで発せられた言葉が、逆説的に真実を物語ってしまった。水蜜自身もおそらく朱空と同じタイミングで気がついたのだろう。

 それなのに、ごめんねと謝ったのは水蜜のほうだった。


「わたしは結果などどうだっていい。事実なんてクソくらえだ。きみがわたしのために怒ってくれたの、ちゃんとわかったよ。それ、すっごく嬉しかったの。きみのこと、本気でいいなって思ったんだよ」

「でも、怪我が……は、はやくどこかで手当て、しないと」

「わかってる。でも今はなるべくあそこから離れなくちゃ。あーあ、巻き込んじゃった。あとで弁償に行かなくちゃなァ。出禁になったら悲しいよ。あの店のジェラートが一番好きなのに!」


 軽口を叩く彼女の横顔はしかし白すぎた。

 水蜜は辛抱強く運転を続け、適当な路肩で車を停めた。人目につかない建物の陰だった。

 彼女は車を止めるなり息をついた。長い溜息だった。そのまま息が止まってしまいやしないかと、朱空は心配でならなかった。

 水蜜はやがて意を決したように上半身を起こす。


「こっち、みないほうが賢明だよ」


 忠告はたいして意味を成さなかった。

 むしろ、わざと朱空の気を引いた節さえあった。

 朱空が目を逸らすのを待たずに、水蜜は自身の太腿に突き刺さったナイフを引っこ抜いてしまったのだから。

 ぶちっ、と傷口が音を立てて広がり、飲み込んだ凶器を吐きだす。赤黒い裂け目から、どろりと血が溢れ出した。歯がギザギザだから、引き抜く際に肉を出鱈目に傷つけたのだ。

 そこをハンカチで押さえた女が息を吐く。呼吸は荒い。当たり前だ。彼女のやり方は間違いだらけだ。

 あっというまに染みた血がハンカチをぐしゃぐしゃに汚していく。


「な、なにをして……」

「はー。ふー。ああ、や、やっぱり、痛い、よねぇ」

「どうして医者に行かないんだよ!」

「おい、しゃ? ……そんなのいらないよぉ。ああ、そういえばわたしの能力、きみはまだ知らなかったね」


 水蜜の白い指がナイフを床に放る。とさっ、という音と共にシートに刃の先端が突き刺さった。


「……ほら、もう平気だ。痛いのは遠くのお山に飛んで行きましたとさ」


 見間違いではない。

 勢いよく溢れ出ていた血がいつの間にか止まっていた。少なくとも、朱空には一瞬の出来事のように思えた。

 種も仕掛けもありません。

 水蜜はそう言うと、真っ赤なハンカチも捨ててしまった。

 あとには乾き切らない血痕と謎めいた笑みだけが残った。


「はい、おしまい。これにて見世物は終わりだよ」

「それは、治癒能力……なの? それとも」

「内緒」


 ぽってりとした唇に血で汚れていない右の人差し指を当て、水蜜の唇はそのまま意味深な笑みを浮かべた。

 わたしはとってもスカウト向きの能力なの。

 はじめて出会った日に彼女はそう言っていた。

 治癒は確かにすごい能力だ。あらゆる組織が、そして個人が求めるものだろう。

 どこかの国では治癒能力者をめぐって血みどろの争いが繰り広げられたという話もある。法外な報酬を要求し、現代医療では治療不可能な病を直す能力者もいるという。

 しかし、それが「スカウト向き」かどうかというと違う気もする。

 ……彼女の能力が治癒でないとしたら。

 思いつく可能性はもうひとつあるが、到底ありえない話だ。

 そんなものがこの世に実在するなんて、どうしても思えない。あるとするなら、物語の中だけの絵空事だ。朱空だって何かの本か記事でたまたま読んだことがあるだけだった。

 それに能力というより、あれ・・は呪いだろう。

 目の前の女がそんなものを引き受けているとは、朱空には到底思えなかった。


「朱空くんこそ痛かったでしょ。ごめんね、思い切り引っ叩いちゃって。鼻血が出てるよ」

「いや鼻血は関係ないんだけど……」


 水蜜は朱空の頬に手を伸べて、そのまま破れた頬にくちづけを降らせてくる。

 温かく湿った舌が傷口を舐め、鼻から流れた血の跡までも拭っていく。朱空はその感覚にぶるりと背を震わせた。

 癒されているというより、堕とされ、けがされている。なぜだかそんな気がした。


「やめろって! ……ン」


 水蜜が最後にくれたのは、唇に触れるだけのキスだった。

 自らの血で唇を汚した朱空から顔を離すと、彼女は笑顔の花を咲かせた。


「また、そういう手管でごまかさないで。最低だ」

「ひどいなァ。ふふ、しょっぱい」

「……っていうか、汚いだろ」

「汚くないもん。早く治るようにっておまじないだよ。知らない?」

「知るわけない」


 ぺろりと自分の唇を舐めて、水蜜はなにか悪戯を思いついたという顔をした。


「あのね、おねがい。煙草吸わせて。逃げる途中でライター落としちゃったの」

「それ、完全に嘘でしょ。というか車なんだからシガーライターがあるだろ。前に使ってるの見てたし」

「一応けが人のお願いなんだよ~。無下にするのはきみでも気が咎めるでしょ?」

「ついさっきは気にするな、みたいなこと言ってたくせに」

「いいから! ねぇねぇ見たいな~、きみの炎。もいっかいだけ、ね?」


 おねがーい、と水蜜は食い下がってくる。

 さきほど発火能力を直に見せてしまったばかりだ。今さら勿体ぶる必要も隠しだてをする必要もなかったが、使えば使うほどに後戻りができなくなる気がした。実際、使えといわれて、少しだけ胸がどきりとした。

 しかし、気が咎めるというのもその通りだった。

 ……水蜜はずるい。


「こういうの、一回だけだからね」


 根負けした朱空は、左の手指を口に近付けて、ふぅっ、と息を吐く。小さくやさしい白炎が掌の上に灯る。

 朱空のひそかな得意技だった。先ほどの大立ち回りよりも、本来はこういった細やかな技を制御する方が得意分野なのかもしれない。あるいは制御に気を回すから、激情に駆られることがないのかも。


「すごい」


 水蜜が目を輝かせた。炎が映り込んでいるからではない、彼女自身の輝きがその奥に宿っているのだ。無数の星々のまたたき。彼女の瞳はそれを丸ごと映しとってきたかのようだ。

 それが自分のちっぽけな炎よりよっぽど尊い輝きに見えて、朱空の胸がちくりと痛んだ。


「きれいな火ね」

「はやく、煙草。小さい炎は集中力がいるから」


 促すと、水蜜は咥え煙草を火に近付ける。朱空も彼女が吸いやすいよう、掌をそっと傾けた。

 ほどなく火が点き、紫煙が上がる。またバニラの香りが鼻をくすぐる。

 制御に気を配りながら、朱空は煙草をふかす水蜜の横顔を盗み見た。

 血の気が失せて、彼女の雪肌がいつもより透き通ってみえる。そのくせ唇だけが紅い。

 たったいま、くちづけをくれた唇が。

 彼女の白く美しい輪郭が自分の火で蕩けてしまわないか、気がかりだった。


「……水蜜さん?」

「はぅ。まったく、たまらない贅沢だね。君の火、わたしは好きだよ」

「好きとかありえないし……全然きれいなんかじゃない、こんな炎」

「素直じゃないなァ。きみはもっと肩の力をぬいて、自由に振る舞ったほうがいいみたいね」


 なんともなしにそう言って、水蜜はぐぅっと両腕を伸ばしてストレッチ。その姿は気まぐれな猫のようだった。


「あーあ、少年。俄然きみのことが欲しくなっちゃったなァ。ねえ、どうしたら靡いてくれるの?」

「それは……わからない」

「わからないだって。ヘンなの」


 わからない。

 その言葉は否定ではない。

 どうしてそう答えてしまったのか、朱空にはそれすらもわからなかった。














――――作戦行動オペレーションは滞りなく遂行中。フェイズ2に移行する。

――――了解。君は逐次報告をするように。







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