強襲〈2〉
〈2〉
「伏せろ!」
水蜜の鋭い指示が飛ぶ。
そこに甲高い哄笑が被さった。
「ひゃあッははははァッ! ライバルには早々にご退場願わないとねェッ!?」
同時に恐ろしい勢いで飛来した家具や食器が水蜜の頭上擦れ擦れを薙ぎ、背後の壁に激突。硝子が砕け、無数のナイフとフォークが壁に突き立つ。衝撃で抉れた壁の破片がぼろぼろ崩れ、朱空たちの頭や肩に降り注いだ。
水蜜が朱空を押し倒す形で庇い、朱空は視界を柔らかく温かい闇に覆われる。
余剰なく全身が密着しあい、ぎゅうと力を込めて抱きしめられている。
呼吸がとまってしまいそうだ。
朱空は不意に自分の鼓動が高鳴るのを感じた。恐怖や焦燥から……ではない。どうしようもない。ほんとうに、どうしようも。こんな場合でないというのに、不可思議な衝動が胸の奥に湧き上がる。胸いっぱいに、甘い体臭が染みていく。
そこにさらなる追撃。粉砕。そこらじゅうに飛び散る欠片。ぶちまけられた土は鉢植えのものか。椅子が。ひしゃげてばらばらになっている。女店主は。客の老紳士はどうしたろう。
そう、本当に
きゅっとつぶっていた目を開き、水蜜を間近に見上げる形で朱空は問うた。
「……なんだよ、あいつ」
「等級Bの〈
朱空の頭の横に手をつき、水蜜は上体を起こす。顔に当たっていた胸が眼前で揺れて、寂しいような幸福なような、よくわからない気持ちになった。しかし、すぐに後ろめたさが襲ってきたため、朱空はすべての妙な考えを振り払うつもりで頭をふった。襲撃で動転しているだけ。そう、おれは動揺している。かなり、たぶん。
「怪我はないかい?」
「ないと思う」
「よかった。まったく、あらっぽい
彼も――彼女かもしれないが――どこからか朱空の情報を手に入れて勧誘しにきたらしい。そのやり口は水蜜とかなり異なっているが。
「ほんとうに愚かな連中さ。彼らはきみの〈
「……おれをおもちゃにしてんのは日向さんでしょ」
「だいじにしてるんだよ。どっちにしろ、向こうには行きたくないでしょ?」
水蜜は苦笑したが、その顔にはいつもの妙な覇気がない。さきほどの急襲でどこか怪我でもしたのだろうか。
だが、それを問う前にまたしても激しい耳鳴り。ディナーナイフが朱空の髪の毛数本を引き千切り、背後の壁に突き刺さる。相手に見逃す気はないようだ。
どいつもこいつも鮫島朱空であれば楽に奪えるとでも思っているのか。おれを、玩具みたいに?
そう考えると、途端に朱空の心は苛立った。
「ククッ、なぁにをコソコソ内緒話しちゃってンのかなァッ。クソババアが年端もいかないイタイケな少年を早速咥えこんじゃったってわけェッ!? いやだねぇ、節操のない雌犬はァ! 異能者とみれば女も男も構わず誑し込もうとするクソビッチがよォ……オマエは昔っからそうだったよなァ?」
「……下品だな。それに、うるさい」
朱空は周囲が、なにより自分が思うよりもよっぽど短気だ。
水蜜が制止する声を遠くに聞きながら立ち上がる。
ちりちりと音を立て、微細な稲妻がいくつも奔り、朱空を中心に空気の流れが渦を巻く。
「お、おっ? おほッ!? なァンだァ、このビリビリはァッ。オマエおもしれーじゃん!?」
朱空の衝動は酸素を求めている。
気に食わない。
立て続けに勧誘とやらが続くのも、それに水蜜を貶めた言葉も、どうしてか無性に腹が立つ。
あいつ、なんて言った? 雌犬だって?
「なになになにィ、やんのやんのォッ!? 貴重なワンオフモデルのお迎えついでだ! せっかくだからオレ様ちゃんが直々に味見してやんよォッ!」
「味見で火傷したら、ざまあないよね」
人間を相手にしたことなんてもちろんない。誰かと戦ったことすらも。
けれど、炎は今にも体中から溢れ出しそうだ。否、
なにも問題はない。ためらう必要なんてない。イエス!イエス!イエス……!イエスったらイエスだ!
燃えてしまえばいい。すべて焼き尽くしてしまえばいい。
「つーか、まずはてめえからァッ! さっさと消えろ魔性ッ!」
「させない!」
いつだって視線が引き金になる。
引きつけて――
「おまえが消えな!」
――クリック!
空中で小爆発が巻き起こる。
白い炎が舐めるように天井を迸り、硝子片や新たに飛来した凶器を巻き上げて爆ぜる。
なにかの破片が朱空の頬を引き裂き、溢れた血が炎となって燃焼を始める。
灰が周囲を舞っている。雪。雪だ。まるでスノードーム。
ああ、寒いな。
寒くて寒くてたまらないのに、胸の奥だけが熱い。鼓動が速い。
殺す。
殺す。
殺す、殺す、 殺す。
殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。
この衝動なら殺せる!
「ここではダメだ! 朱空、逃げて!」
その時、水蜜が思い切り破れた頬を引っ叩いた。
血の花が咲く。小さな炎のしずくがいくつも零れた。
どくん、と。
頭のなかでなにかが弾けて、冷たさと共に思考が戻る。それでも鼓動は高鳴り、心臓は熱いまま。
「裏口へ!」
店長が叫ぶ。彼女は老紳士をしっかり庇ったうえでカウンター裏に避難していた。
こなれた対応からすると水蜜の知り合いなのかもしれないが、今は気に留めている場合ではない。
「ごめんね、ありがとう!」
水蜜は朱空の手を引き、出口へと駆け寄った。耳鳴り。そこへさらなる追撃。朱空は次々飛来する凶器を睨めつける。
炎。小爆発。凶器の軌道を逸らし、逃げ道を確保する。
「ぜんぶ、ぜんぶ燃えてしまえっ」
ぎぎ、と奥歯に力が籠る。錆びた鉄のような味が喉の奥に広がった。鼻孔を伝う生温かい感触があるが、そんなものにいちいちかまってなんかいられない。
ナイフを弾き、フォークの雨を逸らして、迫る相手に照準を絞る。
ついでにあいつの動きを止めてやる……!
しかし、背後で聞こえた小さな呻き声に朱空の意識は引き戻された。そこに続くのは苦しげな呼吸。
「……水蜜さん?」
「なんでもない。それより外に出よう。まだ炎を出せる?」
「いくらでも」
「まったく、頼もしいな。それじゃ、ドアを開けたら目くらましを一発お願い。爆発と共にわたしの車へ走り込む。いい?」
頷くと同時に水蜜は扉を開け放つ。朱空が瞳を燃やす。小爆発が巻き起こり、あたりを煙が包み込む。
扉の外は裏口兼ゴミ置き場だった。
朱空は水蜜に続いて走り出すが、一度だけ背後を振り向いた。不可思議な引力。ぴりっ、とこめかみを違和感めいたものが走る。刹那――
「鮫島ァアッ!」
「く、あっ!?」
炎を切り裂くように伸びた白い手が朱空の右手首をわし掴んだ。華奢な掌はしかし、想像だにしない強さで朱空の手首をギリギリと締め上げる。
「ハァァイ、捕まえたァからのチェックメイトォッ! かわいこチャンがイきりやがってよォ。せっかくのティータイムが台無しで、あのジェントルマンが超ミラクルお気の毒じゃねェかァ!」
「そんなの知るかっ! はッ……ぐ、あッ……」
腕を背後に引っ張られ、あっという間に拘束される。
朱空にとって正体の掴めぬ動きは、まさしく一流の能力者のものだった。
「貴様ッ。その子から手を放せ、ゼロ! さもなくば撃つ」
「はッ――ったく、てめえはいつの時代も変わらねえ……虫唾が走るクソビッチだ」
背後で拳銃を構えた水蜜が低く叫ぶ。
ゼロ、だって? どうして名前を知っている?
いや、そんなことはどうだっていい。銃口を向けた水蜜の様子が変だ。呼吸が荒い。肩で息をしている。間違いない、彼女は何処か怪我をしているんだ。
「朱空くん、きみだけは絶対に逃がすから。今だけでいい。わたしを信じて。情けないけれど、これはわたしのお願いだ」
「なにいって……」
「きみがわたしを選ぶまで、わたしはきみを絶対に守り抜く。これがわたしの仕事なんだ」
いつも夢見るような瞳はいま真摯な色を浮かべ、真っ直ぐに相手を射抜いていた。
水蜜はどこまでも本気だった。
ああ、このひとを置き去りにして逃げるなんて、絶対にごめんだ。
――朱空の瞳が燃え上がる。
瞬間。朱空は炎と化した自らの腕を思い切り振りぬいた。
「っちィィッ!?」
たまらず黒フードの少年が手を放す。
「おるぁぁぁぁぁッ!」
朱空の声に呼応するようにまたしても爆発が起こり、不思議な形を取った蒼白い炎が少年の脚元から舞い上がった。
地獄の劫火が少年を引きずり込もうと無数の手を伸ばす。そのような禍々しい光景だった。
「ッくおぅッ!? なんだァ!? この能力はァ……!」
「水蜜さん! 行きましょう」
「分かった。走って!」
言われるよりも早く、今度は朱空が水蜜の手を引き、躊躇することなく走り出す。走りだしてすぐに態勢を崩しかけた水蜜の肩に腕を貸して、朱空は短い距離を懸命に駆けた。一瞬が、永遠にも思えた。
「逃げんのかよォッ、鮫島、鮫島朱空ァァッ!」
その背に噛みつくような叫びが投げかけられるが、少年はもう追いかけてはこなかった。
退避しながら、朱空はなおも胸の奥で躍る炎を感じていた。
それは獰猛な愉悦。
廃屋に火を放つときよりもよっぽど激しく心を躍らせる衝動だった。
おれは、たぶん、知ってしまった。炎を呼ばわり操る真の楽しさを。
だから、もう後戻りはできない。できそうにない。
*
「ッたくよォ……〈念動発火〉なんざ、とんだ誤情報じゃねえか」
熱気を帯びた頬を、冷たい晩秋の風が撫でてゆく。
獅子の鬣のような金髪が帽子から零れ、靡いている。美しい頭髪が乱れるのも気にせず、少年はがりがりと頭を掻いた。
今はもう消えかけた炎の中に立ち尽くし、彼は去りゆく二人の背中を見つめていた。
爆風で半袖外套のフードが肌蹴け、今は朱空にとって預かり知らぬその相貌が露になっている。
深く澄んだ紺碧の瞳に、大きく開いた瞳孔はどこか猫めいて。
およそ日本人離れした美貌が陽炎に揺れていた。
「ま、あのヒヨっ子が反撃してくるたァ予想外だしねぇ。ここまで魅せてくれたことに免じて、今日のところは見逃してやンよォ……ちょっとばかし調べたいこともできたし、な」
ゼロと呼ばれた少年はしかし、ちっとも口惜しげではなかった。むしろ愉快でたまらないというふうに牙をむいて笑っていた。
そしてそれは見た目通りの、子どもが浮かべる無邪気な笑顔ですらあった。
「……また
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