第二話 強襲 ‐ASSAULT‐

強襲〈1〉

 




2 強襲ASSAULT




 〈1〉




「やあ、こんにちは。学校はどうだった? 足速いのに帰宅部なんだねぇ」

「……いい加減にしてよ。しかも体育の時間から待っていたわけ?」

「正確には四限の家庭科の時間からだけど。きみ、手際もいいんだね。今度わたしにもカブのお味噌汁つくってよ」

「ヘンタイ。ストーカー」

「そうだよ。変態だし、ストーカーだもん。でも、これがわたしの仕事だ」


 日向ひむかい水蜜みなみつは、容赦なく鮫島朱空しゅらの日常に浸食してきた。

 朱空が通う春海市立第三中学校の正門前にスポーツタイプのジャガーを停めて、彼が出てくる頃には車外に立って待っている。その姿をみとめた朱空がため息をつくまでが、この一週間の決まった流れと化していた。

 今日も今日とて一方的に出待ちをしていた水蜜が、朱空の姿を見つけるなり可憐な笑みを零して彼の肩に腕を回す。前につんのめる形になって、朱空は慌てて自らの重心としなだれかかる女を支えた。……胸の大きさの割には、案外、軽い。


「それで放課後は放火以外に用事ないんでしょ? ならデートしようよ、少年」

「やめて。校門前だよ」

「じゃあ、デートして?」


 キャメル色のマンダリンコートにタイトな黒いスラックスという装いの水蜜が、朱空にすり寄ってくる。彼女が腕を絡ませてくると、ふわふわした柔肉が脇に当たった。たゆん、と押し返す弾力がある。さらなる追撃。たゆん。たゆん、たぷん。

 ……絶対わざとだ。

 朱空は女を邪険にあしらって睨みつけた。


「……昨日も会ったし。もういいだろ、日向さんも諦めなよ」

「そう。じゃあ段階を進めて、もっとたのしいことしよっか? 教えてあげるよ、いいこと。キスだけじゃなく、ぜんぶをさ」


 水蜜は朱空の瞳を覗き込み、人目も憚らずマオカラーシャツの釦をひとつずつ、ゆっくりと外していく。うっすら色づいた谷間が肌蹴け、さらに真紅のレースが覗く。


「おっぱ……む、胸はしまって! いらないからそういうの!」

「え~。したくないの? 女の子とさ、いろいろたのしいことしたいお年頃でしょ?」

「みんながみんなそうってわけじゃないよ」


 ある者は訝しげに、ある者は驚いた風にこちらを眺めて立ち去っていく。

 侮蔑と羨望。好奇の視線。帰宅途中の生徒たちが様々な意味合いの視線を投げかけてくるのが朱空にもわかる。朱空は目立つのも、噂の的にされるのもごめんだった。

 なにより補導事案だけは避けたい。

 安穏無事な日常があってこそ、後ろめたい楽しみが成り立つのだ。

 それを朱空は身をもって知っていた。


「すぐ身体を使った手段に出ようとするの、気に食わない」


 声をひそめて言うと、なぜか水蜜もつられて小声になり、


「ん~でも……あ、もしかしてカッコいいお兄さんに来てもらったほうが嬉しかったり?」

「しない!」

「じゃあ思い切って3Pとかどう? きみカワイイから、きゃ~食べちゃいたーいって他のおねえさん方も大喜びで駆け付け」

「だからいらないって! こんなふうに怒らせたり振り回したり……これもおれを落とす戦術なんでしょ」

「まあ、そうだけど。それを言っちゃあねぇ」


 水蜜はあっさり認め、そのうえで屈託なく笑う。

 相変わらず不思議な女だ。この笑顔ひとつで春の陽気のような温かさを連れてくる。


「でもさ。やっぱりデートしたくなぁい? わたしはしたいな。落とすにしても、まずはあなたのことを知らなくちゃ。行為には心が伴わないと意味はないし、わたしのことを知った上で、きみのほうから全部を捧げてこちら側に来てくれなきゃね。同じように、きみだって断るにしてもわたしのことを知らないと損をするかもしれない。ちがう?」

「……それが日向さんの流儀ってわけ?」

「そう。これがわたし流のスカウト心得だよ」


 淡く微笑みつつも真面目に語る水蜜に眩しさを感じながら、朱空はかろうじて鼻先で笑ってみせた。

 ほだされるわけがない。絶対に。そう自分に言い聞かせて。


「おれはあんたのことなんか知りたくない。知らなくてもいいことを知るのもいやだ」

「少年。それは狭量ってものだよ。世界も人間も、きみが思うより面白いんだ」

「そう思えるのは、日向さんが恵まれているからでしょう」

「ふうん、そう見えちゃってる? でもね、そんなことはないんだよ。わたしだって、能力に覚醒してからはいろいろと大変な時期もあったもの」


 花のようなかんばせに、ふとかげが差した。

 寂しげな表情は泣き出しそうにも見える。まずい話題に踏み込んだろうか。

 水蜜はこれでも政府機関の諜報員エージェントだ。彼女が背負うのもまた並大抵の過去では済まないのだろう。

 けれど、こういう態度だってこちらの気を引くための演技かもしれない。

 朱空は身構え、暫し考えてみたが、結局折れることにした。

 これ以上の問答が面倒になったのだ。彼女のほうが諦めて見切りをつけるのを待つか、そうでなければ理由をつけて断ってしまえばいい。いつでもそうすることはできる筈だ。

 ……今でなくても。

 長く重い溜息とともに、朱空はその一言を吐きだした。


「……で、今日はどこへ行くのさ」

「おっ。泣き落としに引っかかるなんて、朱空くんもまだまだじゃのう」




 *




「お待たせしました。ブレンドコーヒーと、アッフォガートです」


 無言の朱空にはブレンドコーヒー、うきうき笑顔の水蜜にはバニラ味のイタリアンジェラートとエスプレッソの入った小さな器が差し出された。

 夜明け色の氷菓を眼前にすると、水蜜のろう長けた顔が子どもみたいに綻んだ。

 ごゆっくりどうぞ、と告げてマスターがカウンターへ引っ込んでゆく。

 朱空が連れてこられたのは、水蜜が気に入っているというカフェだった。古いが、小ぎれいで落ち着いた内装の店だ。女店主が一人で切り盛りをしているらしい。

 空いている時間帯なのか、他の客はカウンターに品のいい老紳士が一人きり。紳士は幸せそうにクリームソーダを口に運んでいた。

 碧い夏空模様のグラスを気泡が昇ってゆく風情が正直少しだけ羨ましくて、朱空はそっと視線を逸らした。


「ん? どうしたんだい?」

「なんでもない。……それ、アイスクリームにコーヒーをかけるの?」

「そう。バニラ味のジェラートにエスプレッソを流し込む。アッフォガート・アル・カッフェっていうんだけどね。これ、わたしの好物なんだ」

「へえ」

「アッフォガートはイタリア語で〈溺れた〉って意味なんだよ」


 幸福そうにひと口を蕩かして水蜜は言う。

 薄紅の指先が硝子の容器の縁をつ、と撫でる。バニラ色のジェラートをコーヒーの複雑な黒が飲み込んでいく。混ざり合った二色はグラスの中で柔らかに融け合っている。

 苦味に溺れたアイスクリーム。真実の中の嘘。

 水蜜はいつも甘いんだか苦いんだかよくわからないメニューを頼む。端的にいえば、コーヒーにクリームがのっていたり、混ぜてあったりするタイプのものだ。

 カフェクレームにカフェラテ、またあるときはコーヒーフロート。


「朱空くんも甘いものを食べたらいいのに。せっかくのおごりなんだから。もちろん、物足りないならオムライスとかビーフシチューとか頼んでもいいんだよ。いっておくけど、好物だってリサーチ済みだ」

「……いらないし」

「さっき、いいな~って顔してたくせにぃ」


 見られていた。

 頬がさっと火照るのを感じたが、慌てて知らないふりをして朱空はぷいとそっぽを向いた。


「……日向さんの選択は、なんかあざといよね。食べ物の好みすらも誰かを誘惑するための演出なの?」

「失礼な。確かに恰好や言動は対象に合わせることも必要だけれど、食べ物は好きなものを食べるべき。これ、ふつうに大切なことだよ?」

「どういう意味なのか、わからない」

「う~んと、ねぇ……そうだなぁ」


 水蜜はスプーンを振って力説する。行儀はあまりよくないらしい。


「わたしには、ミルクもお砂糖も、それにジェラートも必要なの。それが偽らざる本音。でもほんとの好みなんて、わざわざ語る必要はないだろう。それに、大人のほうが甘いものが好きなのかもね。苦い真実には甘くて優しい嘘やごまかしを混ぜることだって必要だ。ちがう?」

「ちがう……と、思う」

「きみはミルクを混ぜないで、やっていけるの」

「変な比喩を使って誘導しないでくれる?」

「ばれてるか。でも、わたしね、ちょっと疲れたときには朱空くんのミルクを混ぜてほしいなぁ」

「……気色悪い」

「なにおぅ。ついでにアイスも乗っけて、ね」


 詩的な割に、言っていることはどこか卑猥ですらある。

 だが、こういったやり取りにも朱空は慣れつつあった。

 この一週間、水蜜はしつこく朱空をつけ回し、誘って、いろいろな場所に連れ出した。

 公園、屋台に、バッティングセンター。図書館に博物館、女の子でいっぱいのアイスクリーム店に郊外のショッピングモール。

 所属機関への勧誘というわりに露骨に引き込もうとする体ではなく、彼女はあくまで自然に――多少強引ではあるが――朱空と打ち解けようと努めていた。

 だからといって朱空の気持ちが変わるわけではなかったが、少なくとも彼女への興味は初対面の時より増した。

 朱空はこのままひとり、ひっそりと炎を抱いて暮らしていくだけだと思っていた。それだけでもいいとすら思っていた。自分がほかの誰かに興味をもつなんて、思いもよらないことだった。

 まして、それが十以上も年嵩としかさの女性であるなんて――。

 ……がらん、とドアベルが音を立てた。新しい客が入店したのだ。

 しかしどういうわけか、客人は案内を待つことなく店内へ踏み込んでくる。

 なにやら粗野な歩き方だ。じゃらじゃらと金属が揺れる音。そいつはそのまま歩き続け、朱空たちのテーブル脇で立ち止まった。

 何事か、と思わず朱空は相手を仰ぎ見た。

 留め具と鋲付きのごついエンジニアブーツ。派手なシルバーアクセサリー。黒い外套のフードを目深に被った姿は男とも女ともとれる背恰好。

 視線がかち合い、火花が散った。

 氷を放りこまれたみたいに、背筋を悪寒が走りぬけた。


「どうも邪魔するよォ? きみが鮫島朱空クンでぇ隣が……えーと、変態クレイジー糞ビッチオネーチャン!」


 きぃん!と耳の奥が詰まるような唸りを聞いた――その刹那。店内にある無数の食器が浮かびあがる。

 瞬時に席を蹴って立ち上がった水蜜が、朱空を無理やり引っ張ってカウンターへ飛び込んだ。







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