発火〈3〉

 



 〈3〉




 表紙をめくると、真っ先に目に入ったのは顔写真だった。

 鮫島さめじま朱空しゅら

 前髪だけが長い白髪の少年。痩せ犬みたいな体つき。当然、見飽きた自分の姿だ。

 白髪は、家族全員を失った事故の後遺症。あれ以来、どういうわけだか朱空の髪は真っ白のままだ。貧相な体つきも同じく、事件のショックが成長を妨げているとのことだ。どちらも医者による診断だが、朱空自身はどうせやぶ医者のいうことだと思っていた。

 次の頁には、朱空に関するデータが記載されている。

 現在の家族構成や家庭環境に、通っている中学校での素行や成績。その他のあらゆることが数頁にわたって事細かに記されている。

 これだけのことが事前に調べ上げられていると思うと全くぞっとしない。

 とりあえず、朱空は自らのパーソナルデータらしき項目へ視線を走らせた。




   氏名:鮫島朱空

   年齢:一〇歳

   能力:念動発火

   等級:B  功性能力者/特殊型

   登録:無  要観察・保護対象


   家族欄:鮫島空知[父]・丹那[母]・真赭[妹](死亡)




  【注記】


   なお、




 そこまで眼で追ったところで、朱空はファイルを放り出した。

 ひどい動悸。眩暈。切迫感に目を閉じて数秒。朱空にとっては永遠ともいえる時間が過ぎた。

 いつの間にか、滲んだ冷や汗が掌を濡らしていた。

 家族欄の横には注記、下には備考欄があったが、もうどうでもよかった。

 父・母・妹〈死亡〉。

 それらの文字がこれ以上なにかを見止めるのを拒否させた。


「……全部、読まないの?」

「必要ない。今さらなんの意味がある」


 水蜜の視線は落胆と安堵をはらんでいる気がした。

 理由はよくわからない。だけど、気のせい……ではない。

 朱空がファイルを見ることそれ自体に意味があるというのか。

 どちらにせよ、朱空にはその気も理由もないのだ。

 最初から誘いに乗る気はない。どこにも行く気はない。

 ……どこに行こうが、なにが変わるわけでもない。


「っていうか、このファイル。ちょっと間違ってる。おれは十歳じゃなくて十三歳」

「……ああ、そこはいいの。元々そのデータは少し古いものなんだ」

「どういうこと?」

「本当なら、三年前・・・にわたしたちは鮫島くんを迎えに行く筈だった」

「三年、前?」

「そう。うちのユニットには〈口寄せトーカー〉と呼ばれる異能者探知能力をもった人員がいてね。そのひとが鮫島朱空の存在を見つけたの。けれどこちらが接触する直前に事故が起きて、それ以上鮫島くんを追跡することができなくなった。理由は色々あるにしろ、ね」


 三年前。鮫島一家は住宅火災に見舞われ、朱空だけが生き残った。両親とそれに幼い妹は焼死した。ガス漏れによる事故だった。

 奇しくもあの火事が引き金となり、朱空は自らの能力に覚醒した。

 何の因果か、それが〈念動発火パイロキネシス〉という能力だったのだ。

 あのとき朱空を飲み込もうとした炎が朱空に乗り移ったのかもしれない。

 そしてそいつはまだこの身体を燃やしたがっているらしい。

 ――……すべて焼き尽くしてやる。みんなも、誰もかれも。おれ自身も。

 朱空自身、そういう抑えがたい衝動に襲われることがある。だから、ああしてガス抜きをしていたのだが、もしかしてそれが裏目に出たのだろうか。


「その間〈口寄せ〉も代変わりがあってね。結局三年かけてあなたを見つけたってわけ。ねえ、どうかしら。わたしたちの元へ来ない? このままつまらない放火魔になり下がるんじゃなく、その能力をどうしたら活かせるか、いっしょに考えてみるつもりはない?」

「……いらない。おれはひとりでいい」

「やっぱりだめか。まあ、すんなり納得なんてしてもらえないよね。というわけで、これ以降の作戦は〈ガンガンいこうぜ!〉に変更するよ」

「力尽くで攻めようってこと? じゃあ日向さんはどんな能力を持ってるの? あんただって超能力者なんだろ」

「だめ。水蜜って呼ぶの!」ミラー越しに笑顔で凄むと、「確かにそうだけど内緒だよ。こちらが簡単に手の内を明かすと思う? でも特別にちょっとだけ教えたげるとね、わたしのはとってもスカウト向きの能力なの」

「声掛けた相手に抵抗されたらどうすんのさ。武闘派って感じじゃないでしょ」

「それも込みで、スカウト向きってこと」

「……じゃあ、おれが今ここであなたに火をつけてもそう言える?」

「言えるよ」


 水蜜はあっさりと肯定してみせた。

 美しい横顔に花が綻ぶような笑みさえ浮かべて。

 寒気が朱空の背筋を走っていく。すごい、と思った。ぞくぞくする。

 ――今なら燃やせる。

 朱空の舌の上で炎が躍った。両眼はおきのように燃えている。

 彼女はなによりも美しく燃えるだろう。


「そっちがその気なら、本当に火をつけてやるから」

「でも、その場合はまず自分自身のほうを心配すべきだ。ここで能力を使えば、この車がきみの棺桶になっちゃうもの」


 女の口元に浮かぶのは謎めいた笑み。

 鏡越しでもスミレ色の瞳は魂を攫っていきそうで、朱空はくらくらと眩暈めまいに似たなにかを覚えた。


「ああ、もうっ! 本格的に追っ手が付いちゃった! 飛ばすから、ちゃんとシートベルト締めてね」


 言うが早いか水蜜はクラッチを踏む。ギアを六速に入れると、滑らかに加速してゆく。

 あっという間に景色が遠ざかった。

 車のことは全然わからないけれど、たぶんこれは彼女の愛車なのだろう。水蜜の動きとしっかり連動している。長く連れ添った相棒みたいに。


「ねえ、鮫島くん。八百屋お七って知ってるかい? 彼女がどうして街に火をつけたのか」


 水蜜は背後を警戒しつつ、だしぬけの質問を投げかけてきた。

 八百屋お七。江戸の大火災から逃げ延びた八百屋の娘お七が恋情ゆえに大罪を犯す悲恋の物語だ。

 朱空も話自体は知っていた。しかし、


「さあね。興味ない」

「愛しい人にもう一度逢いたかったからだよ。お七は火事で避難をした先の寺小姓と恋仲になるの。でもふたりは離ればなれになってしまう。思いを募らせた彼女はね、もう一度火事になれば再び彼に会えると思って、江戸の町に火つけをしたの」

「……それってかなりサイコだね」

「そう? なかなか色気のある話じゃなぁい? でもたしかに有名なサイコパステストの答えもおんなじね」

「テストの答え?」

「〝Because I miss you.〟 逢いたかったから、だってさ」


 水蜜の口調はいつの間にか和らぎ、運転もゆったりした調子に戻っている。追手を撒いたらしい。

 朱空も振り返って確かめるが、怪しい車両はもう見当たらない。


「鮫島くん。きみもこの先、またわたしに逢いたくなったらどうする? きみも胸を焦がして火をつけるのかしら」

「おれは誰かのために火をつけるなんてことはしない」

「ふうん、つれないもんだ。すべては自分のためなんて、なんだか寂しい」


 水蜜の口調はどこか他人事のようにふんわりしている。

 車が街路樹の脇で停まった。


「着いたよ」


 水蜜がシート越しにこちらを振り返る。どうやらすんなり降ろしてくれるみたいだ。朱空は内心でほっと息を吐いた。


「それじゃ、どうも。もう会うこともないだろうけど」

「……ほんとにそう思ってる?」


 完全な不意打ちだった。

 水蜜の左腕が伸べられ、朱空の首に回される。長い手指が後ろ髪を掻き上げ、ぱらぱらと指の間から髪が零れた。


「きみの逃げ場所なんか、たぶんこの世のどこにもないよ」


 水蜜はそのままくちづけてきた。

 唇で唇を抉じ開け、嚙み砕いた秘密を口内に忍ばせるように、丁寧に歯列をなぞり、舌先をじっくりと重ねてくる。

 朱空の眼は見開かれたまま、水蜜の白い輪郭だけをぼんやりと映した。

 濡れそぼった肉の温かさに頭の芯が甘く痺れて、背骨がびりびりと疼いた。

 寒い。いや、違う。これは寒さじゃない。

 頭が真っ白になった。なぜだかどうすることもできない。

 でも、女に嚙みつかれてそのまま引き下がるなんて真似はもっとできるわけがない。

 口内を蹂躙していた水蜜の舌に、朱空も自らの舌を絡ませてゆく。いつもしているようにやってやればいい。何かを燃やすときみたいに、とろかして、たいらげてしまえば。

 キスのさなか、意外だとでもいうように水蜜が婀娜あだっぽく笑みを零した。


「あ、はッ。ほんと……きみ、最高ッ!」


 紅潮した頬が鼻先に触れている。息が上がってようやく色づく真っ白な肌。

「いい子」と囁き、水蜜は俄然愉しくなったとばかりになりふり構わず唇を重ねてきた。

 今度は朱空の口内を犯すように深く。

 余剰が唇から顎へと滴り落ちる。瞬間、喉の奥を何かが通り過ぎていった。

 朱空が正体を掴むことなく、それはとろけながら胸の底に落ちていった。「ぷはっ――」水蜜が顔を離す。


「きみはなかなか勇気があるね」


 ふたりの間に透明な残滓ざんしが糸を引き、水蜜はそれを舌で、朱空は手で拭い取った。


「汚い」

「あー、ひどいんだ! ばっちくないよぉ」

「……なにすんだよ。少年趣味なの? いい加減こわいんですけど」

「発信器を仕込んだだけだよ~。といっても、厳密には無害なウィルスのようなものなんだけど。これで一、二週間は追跡が可能になる。きみがどこにいても、なにをしていてもね」

「そんなことを聞いてるんじゃない」

「じゃあ、どんなこと? ……もしかして、はじめてだった?」

「あ、あんたには関係ない。追跡されようがなんだろうが、おれは変わらない。何をされたって、あんたたちと関わるつもりなんてないから!」


 手の震えを抑え、ドアを抉じ開けようと身構える。


「だいじな愛車に放火されでもしたら、さすがにこと・・だ」


 さきほどの強引な手段とは打って変わって、水蜜は素直にロックを外した。


「たぶん鮫島くんは、わたしを好きになる。近いうちにまた会うよ」

「うるさい、痴女!」

「それはちょっと傷つくなァ」


 乱暴にドアを開けて外へ飛び出す。

 逃げるように駆けだした背後で、女の愉快そうな笑声が聞こえた。


「またねぇ、少年」


 ちくしょう。

 通りを一心不乱に駆けながら、朱空は歯嚙みした。

 その気になれば、肺腑を焼くことも、内側から燃やすことだってできたはずなのに。

 身の内に巣食う炎が渦を巻いている。朱空の口から白い稲妻のような炎が覗く。

 自らの中で暴れるそいつを宥めつつ、もう一度唇を拭う。温もりがまだそこには残っていた。

 背骨を軋らせ心を震わすこの感覚は、身体の芯に宿った寒さか。それとも別のなにかだろうか。

 朱空にはその正体がわからない。





 ――実際、はじめてのキスだった。





 第一話〈了〉







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