弱冠16歳の思春期理想(ベストピーバティ)
「調べても出てくるわけがないか……」
完全に目が覚め、パソコンで昨日の事象を検索するも、人の体の周囲に15㎝の不可侵領域が発生する。と言う現象は、当然と言うべきか、当たり前なのだが僕が調べた限り現実には起こり得ていなかった。
結局対処法も、解決策も見つからないまま、なにも進展しないままに僕は居間に降り、空っぽの胃袋に朝食を詰め込んだ。
落ち込んでいても絶望していても、空腹感は一定の間隔で人を襲ってくる。それは人間として、ごく当然の生理現象だ。だが、唯一無二の神林あやかが抱えた生理現象はと言うと、恐らくは世界で唯一の、70億分の1の奇病なのだ。その確率は奇病と言うより奇跡と言った方がしっくりくるか。
ともあれ朝食を終え、再び自室に戻るとスマートフォンの通知ランプが点灯している事に気が付いた。届けられたメッセージの差出人は敬愛すべき神林あやかである。
『おはようかける。昨日はごめんね。今日は普通に学校に行って、帰りに病院で見てもらう事にするよ。ところで、今日の待ち合わせ、遅刻しないでよ?』
……病院。
まあ、それが妥当な所だろう。僕の様な一高校生がどれだけ知恵を絞ってもこんな問題は解決しそうにない。専門医に見てもらい、しっかりとした治療を受けるのが最善の選択、着地点だろう。
◇
駅の前に差し掛かると、待ち合わせ通り、階段前に立っている時間に正確な神林あやかの姿が目に入った。
駅へと向かう男の大半がチラリと際立つ神林あやかを横目で見ているのが嫌でもわかるがそれも無理はない。目星い神林あやかはどうしても注目を集める。現世に舞い降りた女神もその美貌に敵うかどうか怪しいものだ。
「おはよう! かける」
「ああ、おはよう」
笑顔で手を振ってくれた温和な神林あやかに僕は朝の挨拶を返す。爽やかな朝のひと時の筈なのに、どことなく僕たちの間に気まずい空気が流れた気がした。
「昨日の事……、もう両親には伝えた?」
「……まだ。言ったら驚いちゃうと思うし……、病院で見て貰ってから報告するつもり」
「そっか。まあなるようになるさ。ほら、電車来たぞ」
こんな時にまで自分より両親の心配が出来る程、親切な神林あやかと言う人間は人の事を考えられる寛容な性格であった。あまりの優等生ぶりにゾッとする半面、僕は自分とは対照的な彼女のそんなところに惚れたのである。
駅のホームに上り電車が進入してくるのが見え、僕たちは改札を抜けると急いでその電車へと乗り込んだ。
◇
朝の通勤・通学ラッシュに不慣れな僕達であったが、それも二日目ともなれば早くも慣れる。こうやって一歩一歩大人になっていくんだろうか。
放課後の事、今日の授業の事。そんな事を語りながら僕たちが学校へと辿り着くと異様な光景が目に入る。
「えっと、そこ……。あやかの下駄箱だよね?」
「なんだろうこれ……? 手紙?」
僕たちの目線の先には、溢れんばかりのラブレターが押し込まれた下足入れが存在している。恐る恐る注意深い神林あやかがそれを開いた瞬間、無理やり圧縮されていた手紙の山がバサバサと音を立てて床へと舞った。
自分の彼女がモテると言うのは、彼氏としてなかなか悪い気はしない。およそ人気な芸能人と内緒で付き合っている人は僕と同じような優越感を抱いている事だろう。だが、その圧倒的な文量に僕は一抹の不安を覚えた。この光景もいずれは慣れてしまうのだろうか。
「拾うの手伝うよ」
「うん、ありがと。かける」
ラブレターなんて古風なもの、それもこんなベタなやり方で渡すなんてと僕は思ったが、世の中金も地位も、そして女性も有限である。それらは取り合いで、言わばゼロサムゲームで、やはり早い者勝ちだ。
一刻も早く類稀な神林あやかと面識を持つために、この手紙の差出人たちはロマンとか雰囲気とか段階とか、そんなものを取っ払ってでも一番早い手段に乗り出したのだ。
神林あやかさんへと書かれた物、何も書いていない物、中には予告状と奇をてらった、まるであなたの心を奪いに行くと言いたげな物。とにかく僕たちはそれら全てを拾い上げ、全てを一束にまとめ、全てを親切な神林あやかはカバンに突っ込んだ。
そんなもの彼氏としては読まずに捨ててもらいたいものだが、僕は真面目な神林あやかがそうできない人間だという事を知っている。きっと一枚残らず一字一句に目を通し、そして律儀に全て返事を出すだろう。そんなめんどくさい作業、僕は例え時給800円貰えるとしてもやる気が起きないが、それでも公明正大な神林あやかは嫌な顔一つせずに僕にこう言った。
「拾ってくれてありがとう。それじゃあかける。放課後ここで待ってるからね」
無垢な神林あやかと別れ、教室の自席に着席するも、頭の中はごちゃごちゃなままで授業はまったくと言っていいほど僕の頭に入ってこなかった。
僕は今朝目にした大量のラブレターの事、比類なき神林あやかの壁の事、そしてこれからの事をエンドレスに考え続け、そして結論も出ないまま時間だけが過ぎていく。
今更しつこい様だが美しい神林あやかはモテる。学園生活を重ねていく内、さらに学力や人柄が露呈し今後は今以上に人気を博していく事が容易に想像できた。
中学時代こそ、その美貌に挑む愚か者は僕だけであったが、肉に飢えた高校生ともなれば話は別だ。今朝の一件からも、これから積極的にアプローチする生徒が大量に出てくる事が予想できる。例えるならば欠点なき神林あやかは、ある日突然サバンナにどさりと降ってきたA5ランクの霜降牛の様に、半径15キロまで芳醇な香りを漂わせているのである。
ルックス、成績、そして人望。この名門校で最下層付近に位置する僕がその肉食獣に対抗できる唯一の武器は幼馴染補正といったナイフのみ。やりあうにはいささか心もとない。
そんな僕が突如現れた壁を前向きに考えるようになるまでに時間はかからなかった。気づけば、霜降牛を入れた絶対的防御を誇る金庫にホッとしてしまっていたのである。今は僕にも開錠方法はわからないが、もし僕だけがそれを知りうることが出来たならどれだけいいだろう……。昼までにはそんな事が脳裏に浮かび、授業が終わる頃にはそんな事が頭から離れなくなっていた。
◇
「病院、僕も一緒に行くよ」
放課後である。
僕は約束通り下駄箱で有智高才な神林あやかと落合い、また朝と同じく大量のラブレターを拾い上げ、僕たちは空気の重い至福の下校を堪能していた。
ちらりと目をやると、純情可憐な神林あやかのカバンは大量の手紙でパンパンになっている。授業が終わるや否や、話したい事があると訪れた無数の男子共に先約があると言って抜け出してきたと語った絶世独立な神林あやかはどこか疲れた表情だ。
モテない、と言うのはそれはそれは悲しい事だが、逆にモテる、と言うのもそれはそれで苦労が絶えないものだと僕は初めて知った。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。予約もしてないし、きっと、……時間かかっちゃうよ?」
その奇病を打ち明けたら、そのまま大学病院、いや、もしかしたらどこぞの研究施設にまでその場で連行される可能性がある。僕はそう予感していたが、それは利口な神林あやかも同じだった様だ。
「治ると……、いいな……」
「うん……、そうだね……」
無理だ。
治るわけがない。
「きっと、治るよ……」
「そう……だといいね……」
治らなくてもいい。
僕は
ならばいっそのこと、このままずっと穢れなきままでいて欲しい。
「あやかって本当モテるよな! いや、彼氏として鼻が高いぜ。ハッハッハ!!」
「……そんな事ないよ」
そんな事あるよ。
謙遜なのか天然なのかわからないけど、僕がそれにどれだけの不安を抱いているかきっと思いもしないんだろうな。
「でももし治らなくても……、別に治らなくてもいいよな! ほら、朝の電車だって絶対に痴漢とかされないし! 対した問題じゃないよ!! それに――」
「……にそれ? そんなわけ……、ないじゃない……」
「え?」
ぼそりと吐かれた一言に、僕の体はギクリと固まった。
僕が言ってはいけない一言を言ってしまったと後悔した時には、すでに彼女は抑えていた感情を抑えきれていなかった。
「治らなくてもいい!? そんなわけないじゃない!! ……実はさっき教室出る時に話があるって肩叩かれそうになって……」
目に浮かんだ涙を見て僕は全てを察した。
早くも、当代無双の神林あやかと僕だけの秘密は、天資英邁な神林あやかの教室内で知れ渡っていたのである。教室内で、クラスメートと秀外恵中な神林あやかの間に壁が発生してしまっていたのである。
「あの時の皆の顔……。まるで化け物を見るような目……。怖いよ……。もう学校行きたくないよ……」
「あやか。大丈夫だよ! きっと病院に行けば治るさ! 例え治らなくても僕だけはおまえの――」
とっさにあやかの肩を掴もうとしたが、それは『ガキィィイイイン』と言う音と共に阻まれた。目の前で泣く彼女に触れる事が出来ないもどかしさは、想像以上に心を締め付ける。
その壁を「ハハ……」と軽く嘲笑い、神林あやかは静かに口にした。
「……かける。ごめん、別れよう……」
「……え?」
「かけるはさ……。きっと……。私じゃなくて、私の事を好きな自分が好きなんだよ。私の事を完璧だって……、ずっとそう思い込んでるんだよね? 私を好きな自分は正しいって、私を好きな自分は間違ってないって思いたいだけなんだよ。私の為なら何でも、私と付き合えば何でも出来るって自己暗示してるんじゃない? でも恋人ってそうじゃないよ……。かけるはさ、私の気持ち、……全然わかってくれないよね。……それにさ、嫌でしょ? 手も繋げない彼女なんて……」
「そんな事……」
そんな事、あった。
僕は曼理皓歯な神林あやかが好きだ。それは神に誓える。でも、ならば、なんで、なぜ好きなのかと考えたら、彼女が特別だから。彼女を好きでいたいから僕は彼女が好きなんだ。
僕が何も言い返せないでいると、僕達の間の壁は消え、才学非凡な神林あやかはにっこりと微笑んだ。
「じゃあねかける!! 今迄ありがとう!!」
温和怜悧な神林あやかは、目から大粒の涙を流しながら走り去ってしまった。
その背を見つめながら、僕は一人立ち呆け、頭の中で繰り返されるあやかの台詞に自身の下らない恋心を壊されていた。
壁が治らなくてもいい?
そんなわけないだろう!!
僕があやかに触れられないとショックで寝ている中、あやかが一晩どんな気持ちでいたか。授業中、壁が発生する事をあやかがどれだけ怖がっていたか。たった15㎝の壁が、どれだけあやかを世界から孤立させていたか。結局のところ、僕は何もわかっていなかった。考えていなかった。想像すらしなかった。
神林あやかが自分の物になった? あやかは愛でるものでも、守るべきものでもない。僕の彼女であるというのに……。同じ感情を共有すべき存在だったのに……。
僕はあやかの気持ちをまるで考えていなかった自分が恥ずかしくて、彼女の背を追う事が出来なかった。ただ、人混みに消えていく彼女を見つめている事しか出来なかった。
僕は、どこまでも無力だった。
◇
うなだれて家につく。考える事はやはりあやかだ。子供の頃から見ていない、彼女の泣き顔が脳裏に焼き付いてどうしても僕を離さない。
あやかは病院に行ったのだろうか? 行ったとしたら、今は何をしているのだろうか。もう診察を受けているのか、震えながらその時を待っているのか。
どちらにせよもう僕には関係のない事だ。僕とあやかとの恋人関係は解消され、僕と彼女の間には何の繋がりもなくなった。あるとすれば溝、いや、壁か。
あの時、なんて言えば良かったのか。今ならはっきりとわかる。だけれど……、もう遅いんだ。
どうでもいい。もうどうでもいい。
早く寝て、嫌な事は全て忘れ去ってしまおう。ベットに横たわると自然と目に涙が浮かんできた。ぼやけた視界の中、長年年中無休で時刻を刻み続けてきた目覚まし時計が目に入る。その隣には、同じくぼやけて一つのお守りが目に入る。合格祈願と書かれたそのお守り。買ったのは確か今年の元旦だ。
名門、雲類鷲高校。
合格には並大抵の努力では届かない。
僕は入学の為に、あやかの為にやるべきことは全てやり尽くし、とうとうこの制服を着る事を許された。だが、それも今となっては何の意味も無い。
好きなゲームも絶った。部活も辞めた。青春時代を勉学に注いだ。元旦から合格祈願で神社も訪れた。だが、僕の思いはたった15㎝の壁により拒絶された。
だがせめて、どうにかしてあやかの壁だけでも取り払えないものか。その壁の先に手は届かなくても、一日だけだったとは言え、あやかの彼氏として、いや、彼氏だったものとして、最後に彼女の力になる事は出来ないか。
ベットから身を起こす。
机に置いてあるお守りを手に取った。
その瞬間、途端にこのお守りとの出会いが脳裏を駆け巡った。まるで、忘れていた過去を思い出した記憶喪失者の様に。
僕は思い出す。
元旦の合格祈願。
お守りに込められた思い。
そして……、
そして、神林あやかに不可侵領域を発生させた犯人を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます