12話

 片瀬徹は不幸な人生だった。

 徹が生まれてすぐ、父親は家を出て行った。母親である幸と、幼い徹を残し、愛人のところへと行ったのだ。

 幸は元々体の強い方ではなかった。徹を生むと、ことさら良く寝込むようになった。定職に就けるわけでもなく、母子家庭の手当を貰い、苦しい体に鞭を打ちながらパートをして、徹を育ててくれた。

 病弱な母の姿を見て育った徹。彼は素直で優しい青年へと成長した。元々体の大きかった徹だったが、気が弱く、いつもオドオドとしていた。幼い頃から、家の中で母親と一緒に遊んでいた徹は、人との接し方が上手い方ではなかった。しかも、彼は吃音だった。その事が、余計に彼を孤独にした。

 幸はいつも言っていた。

「私は、貴方が生まれてきてくれただけで幸せよ。私が子供を産めたんですもの、女性の、母としての喜びを知ることができた。それが、どれほど素晴らしいことか」

 幸。名前とは裏腹に、とても幸せそうには見えない母だったが、彼女はどんな時も微笑み、徹を励ましてくれた。

「心配しないで。御朗様がきっと、私達を幸せにしてくれる」

 『御朗様』。昔からこの地方に伝わる妖怪の名前だった。神様と言っても、本の中や心の中にいる神様ではない。御朗様は実在する。この町の何処かに眠っている。悪魔や妖怪、妖精や精霊は夢物語ではない。


 わるいことを すると ごろうさま が やってくる


 幼い頃に聞いた御朗様の話は、子供心に恐ろしかった。

 御朗様は人の心に入り込み、悪さをする妖怪だ。あるときは善人を殺し、あるときは悪人を殺す。時には田畑を荒らすが、時には害虫や害獣から田畑を守る。

 つかみどころのない妖怪だが、たった一つの事が言える。それは、御朗様は人に寄り添うと言うことだ。だから、御朗様を信じ続けていれば、御朗様は力を貸してくれる。

 徹はそう言われて成長した。だから、心の拠り所は幸と御朗様だけだった。

 人と寄り添う妖怪。今、御朗様は徹の中にいた。


 もっと肉を……血を……叫びを……


「もっとだ……。足りない、肉が、足りない……」

 起きながらにして、夢を見ていたような気がした。どんな夢を見たのか、憶えていない。だが、何か懐かしい夢だった気がした。母の匂いがした。

 辺り一面血の海だった。血だまりの中、両膝をついた徹は、口から下田の爪を吐き出した。下田の体は食い尽くされていた。血だまりの中央に、下田の頭部が鎮座していたが、その眼窩には闇が潜み、もし持ち上げれば、その軽さから内容物がないことは瞬時に知れる。血にまみれ、切り裂かれた服は散乱し、屋上に散らばっている。普段は人の来ない屋上だ、しばらくバレはしないだろう。それよりも、自分の服が問題だ。

「今日は、帰るか……」

 全身が血まみれだ。白かったシャツは血で深紅に染まっている。この服装では、授業を受けることは出来ない。


 まだだ……


 まだ ちからが たりない……


「分かってる。まだ、見つかるわけにはいかない。狩人(ハンター)どもには、まだ」

 自分と会話をした徹は、血だまりに顔を近づけると、喉を潤すように血を吸い出した。

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