10話

 下田久志は狼狽した。

 まさか、徹が本当に飛び降りるとは思わなかった。飛び降りたとしても、下に敷いたマットレスに落ちると思った。だが、バランスを崩して落ちた徹は、マットレスから少しずれた場所に落下してしまった。

 グチャともグシャとも、なんとも形容しがたい音。映画やアニメで聞く効果音は、先ほど聞いた音に比べると、なんともリアリティのない音だ。

「やばい……」

 誰かの声がした。佐木の声かも知れないし、隣に居た二階堂の声かも知れない。もしかすると、自分の声かも知れない。

「あのクソ野郎!」

 舌打ちをしながら、佐木が言った。

「俺たちの人生を潰す気かよ!」

 自分勝手で横暴な言い方だったが、下田も同感だった。

 あんなどうでも良い奴、死んだ所で誰も気に留めないだろう。

 それなのに、まだまだ先のある自分の人生を潰そうとしている。

「巫山戯やがって……。冗談じゃない」

 理不尽な怒りが込み上げてきた。あんな奴のために、なんでも自分の人生が犠牲にならなければいけないのだ。受験勉強の息抜きで構っていただけなのに。

「隠すぞ」

 佐木が言った。彼はこちらを見て、険しい表情を浮かべる。

「やっちまったもんは、しょうがねーよ。隠すぞ」

 申し合わせたように、下田は廃病院を駆けるように出た。

 心臓が止まるような景色だった。誰もが、佐木さえも少し離れた場所で立ち尽くしていた。

  青白い月光に照らされた徹は、完全に息絶えていたように思えた。手足はおかしな方向に捻れ、後頭部から流れ出た血は夥しく、周りの地面に濃いシミを生み出していた。脈や心音を確認したわけではないが、一見しただけで死んでいると分かる。

「どうする……?」

 ゲームやドラマ、映画で死体はありふれた小道具の一つだ。だが、実物を目の前に置かれるとどうだろう。何処にでもいる、毎日見慣れた人間が生き物ではなく、モノとなる瞬間。それは、日常に存在してはいけない異物。死者への尊厳なんてものは、後付けの理屈だ。死体に尊厳なんてものはなく、あるのは嫌悪感だけだ。

「どうする……」

 誰に尋ねるでもなく、下田は口にしていた。誰も応えない。

 病原菌の塊であるかのように、誰も徹の死体には近づかない。

「…………う、うぁぁぁぁぁー!」

 その時、誰かが叫んだ。

「二階堂!」

 加持が二階堂を怒鳴るが、二階堂は声にならない叫び声を上げながら、後ずさるだけだった。

「徹! ごめん! ゴメン!」

 何度も謝りながら、二階堂は駆け出した。

「オイッ!」

 佐木も加持も、二階堂を止めようとするが、二階堂は走って行ってしまった。

 途端に、此処にいることが怖くなった。

 人を殺してしまった。直接押したわけではないが、それでも、加害者の一人であることは確実だ。

 もし、この殺人がバレたらどなるのだろ。

 大学進学は? 就職は? 家族はどうなる?

 分からない、分かりたくない。

 考えられない、考えたくない。

 気が付くと、下田も走り出していた。

 背後から佐木と加持が叫ぶが、止まらなかった。

 下田は走った。

 生まれて初めて、限界を超えて走った。

 止まってしまえば、破滅という名の化け物に追いつかれそうだったから。

 廃病院の敷地を抜け、山を下り、町に出た所で、やっと一息付けた。街灯を見ると、それだけで現実の世界に戻ってきたように感じる。

「……ッチ!」

 舌打ちをした。

 死体から離れて、町の中を歩くといつもの冷静さを取り戻せた。

 面倒な事になった。どうして、徹のせいで自分が困らなければいけないのだろう。最期くらい、誰にも迷惑掛けずに綺麗さっぱり死ぬことは出来ないのだろうか。

 もしかすると、自殺で処理されるかも知れない。

 もしかすると、野犬のエサになるかも知れない。

 下田達が口を割らなければ、平気かも知れない。

 罪悪感はない。ただ、ヤバいことをしてしまったという後悔と、勝手に死んだ徹への怒りだけはあった。

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