9話

「おい!」

 息を切らしながら、下田が追いついてきた。

 普段は誰も立ち入ることのない屋上は掃除もされておらず、風雨にさらされ汚れきっていた。排水溝には落ち葉と砂が溜まり、今にも排水溝を詰まらせそうだ。歩くと足跡の付く屋上を歩きながら、徹は首を鳴らした。


 バシッ……


 そよ風に撫でられたような感触。先ほどは弱い振りをして下田を引きつけたが、通常ならばなんてことは無い。今まで、どうしてこんな非力な男の蹴りや拳を受けて痛がっていたのだろう。

 徹は不思議に思ったが、それも最早過去のことだ。もう、何も気に病む必要は無い。

「おい!」

 下田が肩を掴んでくる。徹は振り返った。

 四角い顔を真っ赤にし、両手の拳を固めてこちらを威嚇してくる。

「聞こえねーのか! テメェ! 頭打ってオカしくなったのか?」

「…………おかしい? 確かに、おかしいかも」

 徹は鼻先で下田を笑う。矮小な人間。徹にとっては取るに足らない存在。敵にすらならない。こいつは、エサだ。

「テ、テメェ!」

 下田が体重を乗せ拳を放った。徹はその動きを身じろぎしないで見ていた。頬に下田の拳がめり込むが、僅かに顔がずれただけで、痛くも痒くもない。

「僕は……、俺は、御朗様の力を手にいれたんだよ。だから、俺はもう君たちなんか怖くないんだ」

 頬に添えられた拳を掴む。

 下田が怪訝な表情を浮かべる。手を抜こうとするが、万力のように締め付けた徹の手は、下田の力では振りほどくことは出来なかった。


 ――クチャ――


 徹は口を開いた。そして、握られたままの人差し指を口に含んだ。

「ヤメロ!」

 下田が声を出すが、徹は止めない。

 少し塩味のする人差し指。握りしめられた指をこじ開けるように、下の歯を隙間にねじ込む。少し力を入れると、人差し指が伸ばされた。それを、上下の前歯で押さえ込み、舌でゆっくりと舐め回す。

「ヤメロ! お前! 気持ち悪いんだよ!」

 あらん限りの力で下田は徹を蹴ってくる。だが、徹は微動だにしない。


 チュパ…チュパ…チュパ…


 アイスでも舐めるように人差し指の味を堪能した徹は、そのまま顎に力を込めた。

「イッッッッッ!」

 下田の顔が引きつる。真っ赤になり手を口から抜こうとするが、やはり動かない。

 徐々に力を込めていく。

 薄い肉の下にある骨が歯に当たる。

 皮が破れ、鉄の味が口の中に広がる。


 旨い……旨い……


 何度も何度も、噛んでは皮を引き千切り、血の味を堪能する。

 もう少し力を入れると、皮の下にある肉が、血管が裂ける。

 口の中に血の味が広がる。


 ああ……ああ……


 地が体に染み入ってくる。

 これだ、徹の体はこれを欲していたのだ。米でも牛肉でも、野菜でもない。人の血肉を欲していたのだ。

「痛い! 痛い! 痛い! 止めてくれ! 頼む! ヤメてくれ!」

 涙を流しながら、下田は懇願する。しかし、徹の耳にも心にも、下田の願いは届かない。それどころか、加虐的な感情が心の底からわき上がってくる。

 空いている左手で、喚き散らす下田の口を塞ぐ。

 徐々にだ。徐々に、下田を喰っていく。生きたまま、喰らっていく。この腹を、欲望を満たしていく。


 いただきます……


 涙を流す下田の顔を見ながら、顎に力を込めた。ボキッと、口の中で骨が砕けた。腱を噛み千切り、手を離す。

「アアアアアアア――!」

 下田は叫び声を上げ、その場に崩れ落ちた。

 徹は骨を噛み砕き、肉を咀嚼しながら、口の中に広がる人間の味を堪能した。ペースト状になるまで十分に咀嚼した徹は、目を閉じて嚥下する。

「ア……、アア…………」

 溜息をつき、恍惚の表情を浮かべる。

 至福の味だ。だが、まだ足りない。もっと、もっと人が欲しい。

「助けて……」

 下田は這うようにして逃げようとする。噛み切られた指からおびただしい出血が見える。

「逃がさない。お前は、俺の食事だ」

 左手で下田の首根っこを掴んだ徹は、軽々と下田の体を持ち上げると、大きな手を喉に伸ばした。

「その声が邪魔だ。食事に来客はいらないだろう」

 ニコリと徹は笑った。

 ヒィッと、小さな悲鳴を上げた下田の喉を、徹の指先が潰した。

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