5話
「………………」
気が付くと片瀬徹は洗面台の前に立っていた。
窓から差し込む光は強く、澄んだ冷たい空気は早朝独特の物だった。
「…………あ、あ、あれ?」
徹は首を傾げた。
昨夜、徹は廃病院の屋上から落ちたはずだ。頭から落ちて、一瞬だけ強い衝撃を受けたのを憶えている。血の味、痛み、今でも鮮明に覚えているが、どうやって家に帰ってきたのかが思い出せない。
頭から頬、首筋に掛けて血の流れた跡が付いている。すでに血は乾いており、指先で触れるとぽろぽろと瘡蓋の様に洗面台の上に落ちる。
恐る恐る、徹は傷口があるであろう、後頭部にそっと触れる。髪の毛は血で固まっており、まだ湿っていた。
「傷口は……」
不思議な事に、傷口は見当たらなかった。血が流れた跡があるのに、肝心の傷口が見つからないのだ。徹は頭全体を撫で回すが、何処にも異常は見られない。ただ、鏡に映る自分の顔は、やけに白かった。
「………………」
妙な違和感を感じた。鏡に映る自分が、まるで他人のようだ。
徹は頬を触ってみる。人形のように冷たく、ゴムの様に固かった。普段と違うのかと言われると、よく分からない。普段は何気なしに触れているだろうが、意図的に柔らかさを確認したことなどなかったからだ。
願いを 叶えよ
声が聞こえてきた。テレビの音かと思ったが、違う。台所から母親が朝食を作る音が聞こえてくるが、それ以外の音は聞こえてこない。
気のせいか。そう思ったが、声はもう一度聞こえてきた。
許せない 許せない 許せない
地の底から滲み出るかのような、怨嗟の声。低く嗄れた声だ。
頭が痛んだ。頭の中心がズキズキと痛んだ。
徹はあまりの痛みに、目を閉じた。
『ホラ! 飛び降りろよ!』
聞き覚えのある声。この声に、自分は何かをされたのだろうか。
思い出せない。何故、自分は此処に立っているのだろうか。昨夜からの記憶が飛んでいる。
「飛ぶ……?」
自分の言葉に、徹は何かを思い出しそうだった。
頭が痛い。徹はその場に跪いた。
佐木平治。
二階堂健。
下田久志。
加持陽介。
名前が浮かんでは消えていく。
誰だ、これは……。
知っている名前、だけど、思い出したくない名前。
思い出せ 思い出せ お前は 殺された
「ぼ、ぼ、僕は、僕は……、こ、こ、こ、殺された……?」
世界が揺れた。
「ぼ、僕は、し、死んだ? だ、だったら、僕は、此処にいる僕は、誰だ?」
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