3/歌を忘れたカナリヤは -終

「──さて、覚悟はいいか?」

 雑踏のなかに立ち、摩天楼を睨め上げる。

「はいよ」

「うん」

「──…………」

 窓海と手を繋いだささみが、ぼんやりとおれを見つめていた。

「ささみ」

「はい」

「お前は好きにしろ。どうしたいかだけ、考えていろ」

「……はい」

 サキサカホールディングスの本社屋は、二十三階建てのオフィスビルだ。一階と最上階とが四十五度ねじれた近代的なデザインをしており、壁面を斜めに走る二筋のシースルーエレベーターが、密かな観光名所となっていた。

「わー……」

 ガラスにそっと手を添えながら、窓海が眼下を見下ろしている。

「このエレベーター、ほんとに斜めに動くんだ……」

「珍しいか」

「うん」

「ミツハシラは、いかにも鉄筋コンクリートです、って感じのビルだもんな」

 ショールームを兼ねている部屋が多いため、中身はけっこうモダンなのだけれど。

 エレベーターを二十二階で下り、案内プレートに従って、セラミックタイルの敷き詰められた長い長い廊下を抜ける。

 そして、副社長室の前室である秘書室の扉を開いた。

「山本宗八、さ──ま?」

「はい」

 秘書の金田女史が、おれの顔を見て凍りついた。

 無理もない。

「この恰好については気にしないでください」

「は、はい……」

「あと、先程はたいへん失礼を」

「え、あ、あー……はい、大丈夫です、大丈夫です……」

 深々とお辞儀をし、副社長室の扉の前に立つ。

「──…………」

 振り返り、皆の顔を見る。

 コトラは攻撃的な笑みを浮かべ、

 窓海は緊張の面持ちで右手を胸に当て、

 ささみは静かに目蓋を下ろし、ちいさくなにかを呟いていた。

「……大丈夫、きっと、大丈夫……──」

 ああ、大丈夫だ。

 誰も彼も、みんな、お前のことが大好きなんだから。

 ウォールナット材でできた上品な扉をノックしようとして、やめた。

 お行儀のいい用件ではない。

 ドアノブを掴み、そのまま勢いよく押し開く。

「──…………」

 宙に浮かんでいるような気にさえなる、一面ガラス張りの副社長室。

 窓際に据え付けられたエグゼクティブデスクの奥で、出羽崎氏──サキサカホールディングス取締役副社長・出羽崎百矢が、こちらに背を向けて立っていた。

「やあ、山本君。随分と遅かった──、ね?」

 出羽崎氏がおれを見て眉をひそめた。

「随分と可愛らしいお客さんだ……。山本君が来たら通してくれと、秘書に言っておいたはずなんだけれど」

 気がついていないらしい。

 当然か。

「いえ、合っています」

 自身を示し、はっきりと口にする。

「山本宗八です」

「山本──山本君かい! へえー、なかなか似合っているじゃないか。どうしたんだい、その恰好は」

 驚きこそすれ動揺はしていない。

 すこしくらいはこちらのペースに持ち込めるかと思ったのだが、そうは問屋が卸さないようだ。

「……趣味です」

「けっこうな趣味をしているね」

「はい」

 多少屈辱的だが、一から説明するよりマシだ。

「遅かったが、昼食でもとってきたのかな」

「昼時だったもので」

 出羽崎氏が、悠然と視線を動かす。

「原君も、久しぶりだね。いつもささみが世話になっている」

「……はい」

「窓海君──は、どうしたのかな。なにか用事でもあったかい?」

「──…………」

 ささみと繋いだ窓海の左手が、かすかに強張るのが見えた。

「……さて」

 出羽崎氏は、ささみを見なかった。

 一瞥すらしないまま、にこやかに口を開いた。

「山本君」

 鷹揚に細められていた双眸が、ゆっくりと見開かれる。



「──……ッ」

 息を飲む。

 迫力に圧倒されたのではない。

 その言葉が、あまりに甘く、おれの足元に絡みついたからだった。

「……お気遣い、ありがとうございます」

 会釈し、きっぱりと言う。

「必要ありません」

「その選択は、あまり賢明ではないと思うがね」

 わかってる。

 おれは、成功への道を閉ざそうとしている。

 最善の道に後ろ足で砂をかけて、道標のない荒野へと駆け出そうとしている。

「──…………」

 しかし、どうしてだろう。

「……賢いとか、正しいとか、そんなことはどうだっていいんですよ」

 腹の底から、こんなにも力強く、言葉が溢れ出てくるのは。

「おれは、ただ、納得したいだけなんだ。これからのことに。すべてのことに」

「そうかい」

 出羽崎氏が、呆れたように肩をすくめた。

「──あ、あのう!」

 窓海が、引き絞ったような声を上げる。

「ささみを──ささみを、転校させないでください! お願いします!」

 そうして、深々と頭を下げた。

「困ったな……」

 出羽崎氏が、ぼりぼりと後頭部を掻く。

「お願い、します……!」

「家庭の事情に口を挟むな、と、三柱会長はおっしゃっていなかったかい」

「……ッ!」

「このままでは、君のご両親に連絡を取らなければならない。サキサカホールディングスの副社長が、だ。その意味がわからないほど、君は愚かじゃないはずだね」

「──…………」

 歯を食いしばる窓海をかばうように、前に出る人影があった。

「──卑怯だッ!」

 コトラだった。

 激昂したコトラが、出羽崎氏を怒鳴りつける。

「出羽崎百矢、あんたは卑怯だよ! 親友の父親の、それも、こんな大仰な職場に足を運んで、頭を下げて、必死にお願いして──それがどれだけ勇気の要る行動か、あんたにはわからないのかい!」

「……ふむ」

 出羽崎氏がつるりと顎を撫でる。

「それはつまり、その勇気に報いろということかな」

「そうさ!」

「では、報いよう。その勇気は、いくらだい?」

「……いく、ら?」

 コトラがきょとんとする。

「勇気に報いろと言うのだろう? いくらだい? 窓海君、言ってごらん」

「ふッ──、」

 このままではいけない。

 おれは、コトラを腕で制し、出羽崎氏に掴み掛かれないようにした。

「──ざけんなッ! なにがいくらだ! 言ってごらんだ! 出羽崎百矢ッ! あんた、人をなんだと思ってんだッ!」

「コトラ、落ち着け」

「落ち着いていられるかい!」

「……原君。君は、勇気に金額はつけられないと言いたいのかな」

「当然さね!」

「では、どうして──その勇気とやらと、ささみとを、交換できるだなんて思うんだい」

「……は?」

「勇気と金銭を交換できないのと同様に、勇気とささみを交換することはできない。君の言うとおり、当然の話だ。勇気をいくら示したところで意味はない。ささみと等価値のものなんて、ない」

「ぐ、ぬ……」

 コトラが口をつぐむ。

「それでも……、それでも! ささみは連れて行かせない! あの〈鳥かご〉がささみの居場所なんだ! たとえ息苦しくても、閉ざされていても、あそこがささみの──」

「女子分校に、塀がないとしても?」

「──……えっ」

 予想外の言葉に、コトラが絶句する。

「女子分校は〈鳥かご〉じゃない。そう言ったんだ。ど田舎だから近隣の町まで一時間以上かかるが、外出に関して制限はない。ただし、監視兼護衛役として、最低ひとりの付き人が常に同行することになるがね」

「──…………」

「それとも、いくらささみの〈マドレ〉とは言え、辺鄙な田舎は耐えられないかな」

「……っ」

 コトラの両腕が、力を失い、だらりと垂れ下がる。

「原君はどうしたい? 僕はどちらでもいい。君の選択を尊重するよ」

「──…………」

「……まどれ──」

 コトラとささみの視線が絡みあう。

 一秒、

 二秒、

 三秒。

「──…………」

 たった三秒のあいだに、ふたりはどれほどの感情を交わしたのだろう。

 おれには、計り知ることすらできない。

「……行き、ます」

 下唇を浅く噛みしめながら、コトラが憎々しげに頷く。そして、半歩だけ後じさった。

 おれたちとコトラの目的は、似ているようで違う。コトラは、ずっと、ささみを解放したいと思っていた。〈鳥かご〉から自由にしてやりたいと願っていた。それが擬似的にでも叶うのならば、コトラには、もう、戦う理由がない。

「──そんなこと、関係ない」

 呟くように口を開いたのは、窓海だった。

 ささみと繋いでいないほうの手を硬く握り締めながら、悔しげに言葉を絞り出す。

「私、ささみと別れたくない! わがままかもしれないけど、そうなんだから仕方ないもん!」

「窓海……」

 ささみが、不器用に微笑んでみせる。

「……わがままかもしれない、じゃないね。明確にわがままだ。これは、本当に、親御さんと話をつける必要があるな」

 軽く腕を組んだ出羽崎氏が、指先でトントンと二の腕を叩く。

「……わがままなのは、おじさんじゃないですか」

「ほう」

「ささみの気持ちなんて、考えたこともないくせに! ささみのこと、道具くらいにしか思ってないくせに! 自分の都合でささみを転校させて──いまだって、ささみと話そうとしない! 見ようともしない! ささみのことが邪魔だから星滸塾に入れたんでしょう⁉ どうでもいいのなら、私たちのことなんて、ほうっておいてよ!」

「心外だね」

 とぼけたように、出羽崎氏が答える。

「僕はささみを愛している。どうでもいいと思ったことなんて、ない」

「だったら──」

「娘にとって最善の環境を整えるのは、愛情とは言わないかな」

「……言わない、と、思う」

「どうして」

「だって、おじさんは、お金を使っただけ……。お金とささみは、比べられない。お金と愛情を比べちゃいけない! おじさんだって、さっき言ってたじゃない! ささみと等価値のものなんて、絶対、ない!」

「──…………」

「おじさんは、ささみを愛してなんかいないんだ……ッ!」

 嗚咽混じりの声で、窓海が叫ぶ。それは駄目だ。レールが見えなくたって、わかる。

「……窓海。その道は間違ってる」

「宗、八……?」

 細く柔らかい窓海の髪を手櫛で整えてやりながら、おれは言った。

「愛は金で買えないが、金は愛であがなえる。出羽崎氏は、この場にいる誰よりも深く、ささみを愛している。断言してもいい」

「──……そんな、こと」

 窓海が、手の甲で目元を拭う。

「学生である窓海にはピンと来ないかもしれないが、金は、人生をすり潰したものだ。時間と自由を売り渡したものだ。そこに愛情が宿らないはずがない」

「だったら、どうして──どうして、惑ヰ先輩から、私から、みんなから、ささみを引き離そうとするの! そんなの、ささみは望んでない! 誰も望んでない! だれも、幸せになんて、ならない……!」

「──…………」

 おれは、深呼吸をして、言った。

「──逆だ。出羽崎氏は、それこそがささみの幸せに繋がると確信している」

「えっ……」

 窓海の瞳から、理解の色が消える。

「出羽崎氏は、ささみの幸福を、非常に長いスパンで捉えている。それこそ人生単位で、だ。恋愛を禁止しているのは、若気の至りを防ぐため。大人になり、結婚したとき、後悔しないためだ。あのとき、あんなことで──とな」

「でも! いま好きなひとと、将来結ばれることだって──」

「ささみは十七だ。二十歳になるまで、あと三年だ。本当に好き合っているのなら、三年くらい待てるはずだろう?」

「──…………」

 窓海が目を伏せる。

「……宗八は、どっちの味方なの」

「もちろん──」

 ぽん、ぽん、と。

 窓海の頭を撫でて、出羽崎氏へと向き直る。

だ」

「──…………」

 出羽崎氏が、眉をひそめた。

「さて、くだらない会合はお開きだ。ハイヤーを呼ぶから、それで帰りなさい」

「──待った」

 内線電話に伸ばそうとした出羽崎氏の腕を掴む。

「……それとも、警備員が好みかな」

「いえ。バイクで来たもので、タクシーチケットにしてください」

「そういう冗談は、あまり好みではないのだが」

「そうですか」

 腕を掴んでいた手を離す。

「それでは、ささみの転校を撤回してください」

「──…………」

 出羽崎氏が、はあ、と溜め息をつく。

「何度言わせれば気が済むのかな。君は、なんの権利があって、家庭の事情に口出しをする」

「権利くらいはあるはずですよ」

「何故だ」

「おれは、ささみの恋人ですから」


「──…………」


「──……」


 副社長室に沈黙の帳が下り──


「──はァ⁉ なに言ってんだい宗八!」

「そ、そ、宗八! それ本当……?」

「え、ええ──ッ! あの、あの、いつ、私と宗八くんが──」

「なんでささみが驚いてるのよ!」

「あ、わかった! わかったよ! こいつは宗八のブラフさね!」

 コトラ、バラすなよ。

「……この茶番が、どうかしたのかね」

 出羽崎氏がおれを白眼視する。

「父親公認の恋人なら、多少の発言権はあるでしょう」

「公認? そんなこと、認めた覚えは──」

 ブレザーの内ポケットからICレコーダーを取り出す。


 再生。


『──ならば、どんな手段を講じてもいい。たとえば──ささみの貞操を守るためならば、ささみと交際してもらっても構わない」

『それは、本末転倒では……』

『もちろん、肉体関係を持たないプラトニックな交際であることが──』


 停止。


「なにか、言うべきことはありますか?」

「……いや、君、実際には──」

「ささみ」

 ささみの背後に回り、両肩に手を置いた。

「おれと付き合ってくれ」

「……え、と」

「付き合ってくれ」

 コトラと窓海がものすごい顔で睨んでいるが、いまは気にしていられない。

「──……はい……」

 首筋までを真っ赤にしながら、ささみがこくりと頷いた。出羽崎氏に向き直る。

「なにか、言うべきことはありますか?」

「──…………」

 出羽崎氏が、わずかに視線をさまよわせる。動揺している。

「……君が言ったとおりだ。僕は、ささみの幸福を願っている。そのために手段は選ばない。たとえ──その、君が、ささみの恋人だとしても──だ」

「認めるんですね」

「──…………」

「おれとささみが恋人同士になることを、認めてくれるんですね」

「……仕方あるまい。ささみの、そんな顔を見せられてはね」

「──……?」

 いま、ささみは、どんな顔をしているのだろう。

 ささみの後ろに回ってしまったことを、すこしだけ後悔した。

「出羽崎さん。あなたがささみを転校させようとしたのは、惑ヰ先輩と恋愛関係に陥ることを危惧したからだ」

「ああ、そうだね」

「おれとささみは恋人だ。もう、その心配はない」

「そうかもしれないね」

「──では、ささみの転校を撤回していただけますか?」

「それは、できない」

 そう上手くはいかない、か。

「仙太郎君という危険は失われたが、新たに君という危険が現れた。転校当日に娘を連れ去るような輩を、僕が信用すると思うかい?」

「……思いません」

「君とささみが本当に好き合っているのなら、三年待ちなさい。それで手打ちとしようじゃないか」

「──…………」

 おれは、そっと溜め息をついた。わかってない。まるで、わかっていない。

「出羽崎さん。顔を上げてください」

「……? 上げているが」

「それで見ているつもりなら、さっさと目ん玉洗ってこいよ」

「──…………」

 出羽崎氏の目つきが鋭くなる。

「あんたは誠実だ。誰よりささみのことを考えて、誰よりささみの幸福を願っている。だが、あんたは見ていない。ひとつだって、見えていない!」

「……なにをだい」

「いまのささみを、だ」

 出羽崎氏が、ふん、と鼻を鳴らす。

「なにを言うかと思えば……」

「あんたは、未来のささみのことしか考えていない。いまのささみと目を合わせたことがあるか? いまのささみと話したことがあるか? いまのささみの願いを聞いたことがあるか?」

「その必要はない」

「何故」

「子供より、大人である僕が判断するほうが正しいからだよ」

「そうだな。その通りだ。この子たちの視野は狭い。先が見えてないし、考えなしだ。すぐにころっと騙されるし、思い込みが激しくて、厄介極まりないさ。……だが、いつだって、目の前のことに懸命だ」

 一歩、踏み出す。

「おれは、いつも、先のことを考えていた。荒野を行く赤錆びたレールに頼って、最善の結果だけを追い求めていた。踏み出した一歩は、遙か遠い場所へと辿り着くための足がかり。そう信じて疑うことはなかった。でも、違う。この子たちは、違うんだ」

「──…………」

 出羽崎氏が息を飲むのがわかった。

「最善の道を模索するんじゃない。近視眼的な世界のなかで、最高の一歩を作り出そうと足掻いている。──それが、たまらなく愛おしいんだ」

「……若さに当てられたかな」

「そうかもしれません」

「そんな言葉で、僕の意志が揺らぐとでも思ったかい」

「思いませんよ」

 す、と右手を上げ、窓海に合図を送る。

「!」

 窓海がわたわたと携帯を取り出すのが、気配でわかった。

「おれの言葉では揺るがない」

 高々と右手を上げる。

「だが、ささみの言葉なら──どうかな?」

「なにを──」

 出羽崎氏がくらりと頭を振った。

「──ささみ!」

「は、はい!」

「最後の魔法だ」


 ──ぱちん!


 おれは、指を鳴らした。


「──…………」

「──……」

 副社長室が、しん、と静まり返った。

 出羽崎氏が呟く。

「……なんだ、なにも起こらないじゃ──」


 着信音。


「あっ──」

 スカートのポケットから、ささみがスマートフォンを取り出した。


 着信音。


 着信音。


 着信音。

 着信音。

 着信音、

 着信音、着信音、

 着信音、着信音、着信音、着信音──


「わ、わあ!」

 スマートフォン取り落としそうになりながら、ささみが画面を覗き込んだ。

「──……あ」

 ささみの左手が、制服の胸元を掴む。

「あ、あ──ぅ、あは、ぁはは……」

「──ささみ、どうしたんだ」

 出羽崎氏が、初めて、いまのささみを見た。話しかけた。

「──…………」

 目を伏せたままのささみが、出羽崎氏にスマートフォンを差し出す。

 そのあいだにも、ささみのスマートフォンは、幾度も幾度も震え続けている。

「なにが……、ッ!」

 画面を覗き込んだ出羽崎氏が、絶句する。

「……わかりましたか?」

 おれは、絶え間なく鳴り続けるささみのスマートフォンを受け取ると、その画面に視線を落とした。


《テバサキちゃん、行かないで!》《さみしいよー》《転校すんなら先言っとけよ! お別れ会できねーじゃん!》《本当に転校するんですか?》《来週! 来週まで待ちなさいよ!》《ドッキリだろ?》《マジかー……》《テバサキさん、勝ち逃げは許さんですよ!》《女子分校ってどこだっけ。週末遊び行ける距離?》《うちの実家分校の近くだから、夏休み友達誘って遊び行くぜーい》《おう、誰の陰謀か知らねえけど俺がボコしてやるからよ》《……ずっと言えなかったけど、LINEの使い方教えてくれて、ありがとうございました。友達、ちゃんとできました》《クマ! クマ出るから! 危ないから! 行くな!》《おーい、夏イベ参加できるよな! な! テバサキいねーとぜってー負けるって》《……サネカズラ。花言葉は、再会です》《いったん帰ってこい、いったん! 作戦考えようぜ!》《負けるなテバサキ! 美味いぞテバサキ!》《ばいばい……》《アフ夫がなんかアホなこと送ったみたいだけど、気にしないでね。夏休みは帰ってくるんでしょ?》《テバサキ先輩の部屋、掃除しておきますから!》──……


「──…………」

 それは、ささみが、スマートフォンで紡いだ友情の証明。

「惑ヰ先輩とカミ・シモ・キートに、ささみと繋がりのある生徒を探してもらった。そして、集めた。いま、星滸寮の時計塔の前には、星寮生と登校生、合わせて百名以上が集まってる」

 携帯で会話をする少女──そんな奇矯なキャラクターが築き上げた、無数の絆。

「ささみのことを聞いて回ったとき、驚いた。ささみのことを悪く言うやつが、誰ひとりとしていなかったからだ。携帯電話を使ってしかコミュニケーションが取れないのに、学級委員長なんて務めて──しかも、それなりの信頼を勝ち得てる時点で、すごいとは思ってたんだ。……でも、よく考えたら、すごいなんてもんじゃないよな」

 ささみにスマートフォンを握らせながら、続ける。

「お前は、孤独に見えて、孤独じゃなかった。

 その指先で、いつも、誰かと話していたんだな。

 誰かと笑って、

 誰かと泣いて、

 誰かに同情して──

 そのちいさな窓から、人と繋がり続けてきた。

 お前が相談に乗ったやつも、

 お前に救われたやつも、

 お前と馬鹿を言い合ったやつも、

 お前をライバルと認めてるやつも、

 クラスメイトも、

 友達も、

 先輩も、

 後輩も、

 みんな、お前が大好きなんだ。

 行かないでほしいと願っているんだよ」

「──…………」

 ささみが、天井を見上げた。

 溢れ出る涙のひとしずくが、ふっくらとした頬を滑り落ちた。

「お、とう、さん──」

「……ああ」

 出羽崎氏が、見ている。

 いまのささみを、しっかりと、目に焼き付けている。

「……わたし、転校、したくない……みんなといっしょに、いたいよう──」

 ささみが、一瞬、頑是ない子供のように見えた。

「──……!」

 出羽崎氏が、ささみを抱きすくめた。

「……ああ、そうだな。父さんが悪かった。すまない。……つらかったな。お前は、もう、十分に大人だ。自分で選び、自分で歩み、自分で責任を取りなさい。大丈夫。一緒に責任を負ってくれる人は、きっとたくさんいるはずだから」

「……おど、ざあん……!」

「ささみ……」

 抱き合う親子の姿を見て、これまでの疲れが一気に襲ってきた。

「──…………」

 終わった。

 すべて、終わった。

「はー……」

 エグゼクティブデスクにもたれかかる。

「──宗八、お疲れさん」

「やったね……」

「ああ、終わった。……本当に、いろいろとな」

 これだけ好き放題やっておいて、お咎め無しというのは、いささか虫のよすぎる話だろう。

「宗八は、私たちみんなを、最高の結末へと連れて来てくれた。きっと、大丈夫じゃないかね。私が出羽崎父なら、昇進ものさ」

「結果を出したとしても、責任を問われることもある。……そういうもんだよ」

「もしものときでも大丈夫! 宗八は、うちが雇うんだから」

「だといいけどな」

 ささみの姿を見て、いまさら気がついた。

 おれは、どうやら、元の会社では、あまり好かれていなかったようだ。

 出羽崎氏は、おれが有能だからだと言った。

 しかし、それは違う。

 おれと出羽崎氏は、とても似ている。出羽崎氏がささみの「いま」を見ていなかったように、おれは周囲の人たちの「いま」を軽視していた。明日へと伸びるレールしか見えていなかったのだ。

 長期的にはそれもいいだろう。

 だが、「いま」をないがしろにするような人間に、人望などあろうはずがない。

「──まどれ!」

「おっと」

 泣き止んだささみが、コトラの胸に飛び込んだ。

「私、帰れます! みんなのところに!」

「よかったねえ。本当に、本当によかった……」

「窓海も、ありがとう! 私のために、こんなところまで──」

「そんなの、気にしなくていいの! 私が、ささみと、別れたくなかっただけなんだから……」

「──…………」

 喜び合う女性陣からすこし離れ、ガラス窓に手を触れた。

 街を見下ろす。

 摩天楼と思われたサキサカホールディングス本社屋も、周囲のビルと比較すると、決して高いほうではない。サキサカはグローバル企業だ。全世界に支社が点在している。本社に勤めることのできる人間が、それだけ少ないということなのだろう。

「──なにか、見えるかい」

「乗ってきたバイクが見えないかと思って」

「ここは二十二階だ。真下は見えないと思うがね」

「そうですね」

「この結末は、君が用意したものかな」

「……結末だけは。そこへ至るための道筋は、なにも考えていませんでした。おれも、コトラも、窓海も、結局は言いたいことを言っただけです。ただ──」

 ガラス窓に背を預け、タバコに火をつけようとしている出羽崎氏に視線を送る。

「もうひとつの結末に至らなくて、よかったかな、と」

「……もうひとつ?」

「無粋な結末です」

「聞かせてもらえるかな」

「──…………」

 スマートフォンを取り出し、ピカソからのメッセージを呼び出す。ピカソの情報収集力は、相変わらず辣腕じみている。

「在米総領事・東清貴の息子、東奏。医療法人渓和会会長・大和渓の息子、大和久。与党議員・矢島常伸の娘、矢島千鶴。同じく矢島百花。株式会社城島鉄鋼社長・城島大の娘、城島蒼。アスピアス製薬社長・源流院朝日の娘、源流院・マリア・イソラ──」

「──……それは?」

「星滸寮に住む、ささみの友人です。あなたになら、この価値がわかるでしょう」

「……ああ。めまいがするほどね」

「これを出すと、美談では済まなくなる。目的は果たせるとしても、あなたとささみが抱き合う姿なんて、きっと、見ることはできなかった」

「──く、ははは、君は、どこまで……」

 出羽崎氏が笑いをこぼした。

「──…………」

 眼下の景色に飽きて、顔を上げる。


 ──薫風。


 一面の窓ガラスの向こうから、爽やかな風が吹いた。


 荒野を行く赤錆びたレール。


 


 ああ、そうか。


 世界は、十円玉の表と裏だけではない。


 おれは、いろいろな可能性から、目を背けていただけなのか。


「君は──、君は、これから、どうするつもりだい?」

 は、と我に返る。

 出羽崎氏の言葉に肩をすくめ、答えた。

「……とりあえず、ハローワークですかね。窓海がミツハシラで雇ってくれると言ってますが、恐らく無理でしょう。でも、いいんです。覚悟の上ですから」

「──…………」

 出羽崎氏が紫煙をくゆらせる。

「……タバコ、どうだい?」

「吸えませんので」

「そうだね。高校生にタバコを勧めるのは、まっとうな大人のすることではなかった」

「──……高校生?」

 思わず小首をかしげる。

「言ったはずだ。あらゆる脅威から。あらゆる悪意から。そして、あらゆる欲望から、ささみを守り抜いてほしい──と」

「しかし、それは──」

「君は、立派に仕事をこなしている。僕という脅威から、ささみを守り抜いたじゃないか。誰が君の陰口を叩こうと、僕だけは君を認めよう。だって──」

 出羽崎氏が、にまりと笑った。

「君は、ささみの恋人なんだから」

「……えっ」

「違うかい?」

「そ、それは言葉の──」

 そう言おうとしたとき、ぽす、と胸に飛び込んできたものがあった。

 ちいさくて、あたたかくて、いいにおいがする。

「──宗八くん!」

「え、え、あっと──」

「これから、よろしくお願いしますね!」

 どきり。

 心音は異常。おれの胸は高鳴っている。

 それもこれも、ささみが、色素の薄い頬を紅色に染めて、照れくさそうな笑みを浮かべていたからだ。こんなの、ときめかないほうがおかしい。

「あ──ッ! ささみ! 駄目! さっきのは言葉のあやってやつでしょ!」

「そんなの知りませーん」

「宗八はうちで雇うんだから! 離れて、ほら!」

「窓海には仙ちゃんがいるでしょ!」

「あ、あれは、その、憧れっていうか、目標っていうか──」

 侃々諤々。

「……おれはロリコンじゃない、とかなんとか言ってなかったかい?」

「ぐ!」

「立派に鼻の下伸ばしちゃってからに」

 コトラの視線が冷たい。

「……いやー、山本君。モテモテだねえ」

 出羽崎氏の視線も氷点下だった。

「だーもー! ストップ! ストップ!」

 一瞬の隙を突き、包囲網から抜け出す。

「ささみ! 窓海! コトラもだ! こんなトコでこんなコトしてる場合じゃないぞ!」

「……?」

 ささみが小首をかしげる。

「星滸寮でお前を待ってる百人のことを忘れるなって!」

「あ、そっか」

 リアル友達百人できるかなだぞ。

 すげえな。

「集まってくれてありがとうとか、お騒がせしてごめんなさいとか、帰り際に言いたいこと、ちゃんとまとめておくんだぞ」

「はい!」

 こくりと頷き、ささみが言った。


「帰ろう! ──私たちの〈鳥かご〉へ!」

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