3/歌を忘れたカナリヤは -終
「──さて、覚悟はいいか?」
雑踏のなかに立ち、摩天楼を睨め上げる。
「はいよ」
「うん」
「──…………」
窓海と手を繋いだささみが、ぼんやりとおれを見つめていた。
「ささみ」
「はい」
「お前は好きにしろ。どうしたいかだけ、考えていろ」
「……はい」
サキサカホールディングスの本社屋は、二十三階建てのオフィスビルだ。一階と最上階とが四十五度ねじれた近代的なデザインをしており、壁面を斜めに走る二筋のシースルーエレベーターが、密かな観光名所となっていた。
「わー……」
ガラスにそっと手を添えながら、窓海が眼下を見下ろしている。
「このエレベーター、ほんとに斜めに動くんだ……」
「珍しいか」
「うん」
「ミツハシラは、いかにも鉄筋コンクリートです、って感じのビルだもんな」
ショールームを兼ねている部屋が多いため、中身はけっこうモダンなのだけれど。
エレベーターを二十二階で下り、案内プレートに従って、セラミックタイルの敷き詰められた長い長い廊下を抜ける。
そして、副社長室の前室である秘書室の扉を開いた。
「山本宗八、さ──ま?」
「はい」
秘書の金田女史が、おれの顔を見て凍りついた。
無理もない。
「この恰好については気にしないでください」
「は、はい……」
「あと、先程はたいへん失礼を」
「え、あ、あー……はい、大丈夫です、大丈夫です……」
深々とお辞儀をし、副社長室の扉の前に立つ。
「──…………」
振り返り、皆の顔を見る。
コトラは攻撃的な笑みを浮かべ、
窓海は緊張の面持ちで右手を胸に当て、
ささみは静かに目蓋を下ろし、ちいさくなにかを呟いていた。
「……大丈夫、きっと、大丈夫……──」
ああ、大丈夫だ。
誰も彼も、みんな、お前のことが大好きなんだから。
ウォールナット材でできた上品な扉をノックしようとして、やめた。
お行儀のいい用件ではない。
ドアノブを掴み、そのまま勢いよく押し開く。
「──…………」
宙に浮かんでいるような気にさえなる、一面ガラス張りの副社長室。
窓際に据え付けられたエグゼクティブデスクの奥で、出羽崎氏──サキサカホールディングス取締役副社長・出羽崎百矢が、こちらに背を向けて立っていた。
「やあ、山本君。随分と遅かった──、ね?」
出羽崎氏がおれを見て眉をひそめた。
「随分と可愛らしいお客さんだ……。山本君が来たら通してくれと、秘書に言っておいたはずなんだけれど」
気がついていないらしい。
当然か。
「いえ、合っています」
自身を示し、はっきりと口にする。
「山本宗八です」
「山本──山本君かい! へえー、なかなか似合っているじゃないか。どうしたんだい、その恰好は」
驚きこそすれ動揺はしていない。
すこしくらいはこちらのペースに持ち込めるかと思ったのだが、そうは問屋が卸さないようだ。
「……趣味です」
「けっこうな趣味をしているね」
「はい」
多少屈辱的だが、一から説明するよりマシだ。
「遅かったが、昼食でもとってきたのかな」
「昼時だったもので」
出羽崎氏が、悠然と視線を動かす。
「原君も、久しぶりだね。いつもささみが世話になっている」
「……はい」
「窓海君──は、どうしたのかな。なにか用事でもあったかい?」
「──…………」
ささみと繋いだ窓海の左手が、かすかに強張るのが見えた。
「……さて」
出羽崎氏は、ささみを見なかった。
一瞥すらしないまま、にこやかに口を開いた。
「山本君」
鷹揚に細められていた双眸が、ゆっくりと見開かれる。
「いまならば、なかったことにできるけれど」
「──……ッ」
息を飲む。
迫力に圧倒されたのではない。
その言葉が、あまりに甘く、おれの足元に絡みついたからだった。
「……お気遣い、ありがとうございます」
会釈し、きっぱりと言う。
「必要ありません」
「その選択は、あまり賢明ではないと思うがね」
わかってる。
おれは、成功への道を閉ざそうとしている。
最善の道に後ろ足で砂をかけて、道標のない荒野へと駆け出そうとしている。
「──…………」
しかし、どうしてだろう。
「……賢いとか、正しいとか、そんなことはどうだっていいんですよ」
腹の底から、こんなにも力強く、言葉が溢れ出てくるのは。
「おれは、ただ、納得したいだけなんだ。これからのことに。すべてのことに」
「そうかい」
出羽崎氏が、呆れたように肩をすくめた。
「──あ、あのう!」
窓海が、引き絞ったような声を上げる。
「ささみを──ささみを、転校させないでください! お願いします!」
そうして、深々と頭を下げた。
「困ったな……」
出羽崎氏が、ぼりぼりと後頭部を掻く。
「お願い、します……!」
「家庭の事情に口を挟むな、と、三柱会長はおっしゃっていなかったかい」
「……ッ!」
「このままでは、君のご両親に連絡を取らなければならない。サキサカホールディングスの副社長が、だ。その意味がわからないほど、君は愚かじゃないはずだね」
「──…………」
歯を食いしばる窓海をかばうように、前に出る人影があった。
「──卑怯だッ!」
コトラだった。
激昂したコトラが、出羽崎氏を怒鳴りつける。
「出羽崎百矢、あんたは卑怯だよ! 親友の父親の、それも、こんな大仰な職場に足を運んで、頭を下げて、必死にお願いして──それがどれだけ勇気の要る行動か、あんたにはわからないのかい!」
「……ふむ」
出羽崎氏がつるりと顎を撫でる。
「それはつまり、その勇気に報いろということかな」
「そうさ!」
「では、報いよう。その勇気は、いくらだい?」
「……いく、ら?」
コトラがきょとんとする。
「勇気に報いろと言うのだろう? いくらだい? 窓海君、言ってごらん」
「ふッ──、」
このままではいけない。
おれは、コトラを腕で制し、出羽崎氏に掴み掛かれないようにした。
「──ざけんなッ! なにがいくらだ! 言ってごらんだ! 出羽崎百矢ッ! あんた、人をなんだと思ってんだッ!」
「コトラ、落ち着け」
「落ち着いていられるかい!」
「……原君。君は、勇気に金額はつけられないと言いたいのかな」
「当然さね!」
「では、どうして──その勇気とやらと、ささみとを、交換できるだなんて思うんだい」
「……は?」
「勇気と金銭を交換できないのと同様に、勇気とささみを交換することはできない。君の言うとおり、当然の話だ。勇気をいくら示したところで意味はない。ささみと等価値のものなんて、ない」
「ぐ、ぬ……」
コトラが口をつぐむ。
「それでも……、それでも! ささみは連れて行かせない! あの〈鳥かご〉がささみの居場所なんだ! たとえ息苦しくても、閉ざされていても、あそこがささみの──」
「女子分校に、塀がないとしても?」
「──……えっ」
予想外の言葉に、コトラが絶句する。
「女子分校は〈鳥かご〉じゃない。そう言ったんだ。ど田舎だから近隣の町まで一時間以上かかるが、外出に関して制限はない。ただし、監視兼護衛役として、最低ひとりの付き人が常に同行することになるがね」
「──…………」
「それとも、いくらささみの〈マドレ〉とは言え、辺鄙な田舎は耐えられないかな」
「……っ」
コトラの両腕が、力を失い、だらりと垂れ下がる。
「原君はどうしたい? 僕はどちらでもいい。君の選択を尊重するよ」
「──…………」
「……まどれ──」
コトラとささみの視線が絡みあう。
一秒、
二秒、
三秒。
「──…………」
たった三秒のあいだに、ふたりはどれほどの感情を交わしたのだろう。
おれには、計り知ることすらできない。
「……行き、ます」
下唇を浅く噛みしめながら、コトラが憎々しげに頷く。そして、半歩だけ後じさった。
おれたちとコトラの目的は、似ているようで違う。コトラは、ずっと、ささみを解放したいと思っていた。〈鳥かご〉から自由にしてやりたいと願っていた。それが擬似的にでも叶うのならば、コトラには、もう、戦う理由がない。
「──そんなこと、関係ない」
呟くように口を開いたのは、窓海だった。
ささみと繋いでいないほうの手を硬く握り締めながら、悔しげに言葉を絞り出す。
「私、ささみと別れたくない! わがままかもしれないけど、そうなんだから仕方ないもん!」
「窓海……」
ささみが、不器用に微笑んでみせる。
「……わがままかもしれない、じゃないね。明確にわがままだ。これは、本当に、親御さんと話をつける必要があるな」
軽く腕を組んだ出羽崎氏が、指先でトントンと二の腕を叩く。
「……わがままなのは、おじさんじゃないですか」
「ほう」
「ささみの気持ちなんて、考えたこともないくせに! ささみのこと、道具くらいにしか思ってないくせに! 自分の都合でささみを転校させて──いまだって、ささみと話そうとしない! 見ようともしない! ささみのことが邪魔だから星滸塾に入れたんでしょう⁉ どうでもいいのなら、私たちのことなんて、ほうっておいてよ!」
「心外だね」
とぼけたように、出羽崎氏が答える。
「僕はささみを愛している。どうでもいいと思ったことなんて、ない」
「だったら──」
「娘にとって最善の環境を整えるのは、愛情とは言わないかな」
「……言わない、と、思う」
「どうして」
「だって、おじさんは、お金を使っただけ……。お金とささみは、比べられない。お金と愛情を比べちゃいけない! おじさんだって、さっき言ってたじゃない! ささみと等価値のものなんて、絶対、ない!」
「──…………」
「おじさんは、ささみを愛してなんかいないんだ……ッ!」
嗚咽混じりの声で、窓海が叫ぶ。それは駄目だ。レールが見えなくたって、わかる。
「……窓海。その道は間違ってる」
「宗、八……?」
細く柔らかい窓海の髪を手櫛で整えてやりながら、おれは言った。
「愛は金で買えないが、金は愛であがなえる。出羽崎氏は、この場にいる誰よりも深く、ささみを愛している。断言してもいい」
「──……そんな、こと」
窓海が、手の甲で目元を拭う。
「学生である窓海にはピンと来ないかもしれないが、金は、人生をすり潰したものだ。時間と自由を売り渡したものだ。そこに愛情が宿らないはずがない」
「だったら、どうして──どうして、惑ヰ先輩から、私から、みんなから、ささみを引き離そうとするの! そんなの、ささみは望んでない! 誰も望んでない! だれも、幸せになんて、ならない……!」
「──…………」
おれは、深呼吸をして、言った。
「──逆だ。出羽崎氏は、それこそがささみの幸せに繋がると確信している」
「えっ……」
窓海の瞳から、理解の色が消える。
「出羽崎氏は、ささみの幸福を、非常に長いスパンで捉えている。それこそ人生単位で、だ。恋愛を禁止しているのは、若気の至りを防ぐため。大人になり、結婚したとき、後悔しないためだ。あのとき、あんなことで──とな」
「でも! いま好きなひとと、将来結ばれることだって──」
「ささみは十七だ。二十歳になるまで、あと三年だ。本当に好き合っているのなら、三年くらい待てるはずだろう?」
「──…………」
窓海が目を伏せる。
「……宗八は、どっちの味方なの」
「もちろん──」
ぽん、ぽん、と。
窓海の頭を撫でて、出羽崎氏へと向き直る。
「みんなの味方だ」
「──…………」
出羽崎氏が、眉をひそめた。
「さて、くだらない会合はお開きだ。ハイヤーを呼ぶから、それで帰りなさい」
「──待った」
内線電話に伸ばそうとした出羽崎氏の腕を掴む。
「……それとも、警備員が好みかな」
「いえ。バイクで来たもので、タクシーチケットにしてください」
「そういう冗談は、あまり好みではないのだが」
「そうですか」
腕を掴んでいた手を離す。
「それでは、ささみの転校を撤回してください」
「──…………」
出羽崎氏が、はあ、と溜め息をつく。
「何度言わせれば気が済むのかな。君は、なんの権利があって、家庭の事情に口出しをする」
「権利くらいはあるはずですよ」
「何故だ」
「おれは、ささみの恋人ですから」
「──…………」
「──……」
副社長室に沈黙の帳が下り──
「──はァ⁉ なに言ってんだい宗八!」
「そ、そ、宗八! それ本当……?」
「え、ええ──ッ! あの、あの、いつ、私と宗八くんが──」
「なんでささみが驚いてるのよ!」
「あ、わかった! わかったよ! こいつは宗八のブラフさね!」
コトラ、バラすなよ。
「……この茶番が、どうかしたのかね」
出羽崎氏がおれを白眼視する。
「父親公認の恋人なら、多少の発言権はあるでしょう」
「公認? そんなこと、認めた覚えは──」
ブレザーの内ポケットからICレコーダーを取り出す。
再生。
『──ならば、どんな手段を講じてもいい。たとえば──ささみの貞操を守るためならば、ささみと交際してもらっても構わない」
『それは、本末転倒では……』
『もちろん、肉体関係を持たないプラトニックな交際であることが──』
停止。
「なにか、言うべきことはありますか?」
「……いや、君、実際には──」
「ささみ」
ささみの背後に回り、両肩に手を置いた。
「おれと付き合ってくれ」
「……え、と」
「付き合ってくれ」
コトラと窓海がものすごい顔で睨んでいるが、いまは気にしていられない。
「──……はい……」
首筋までを真っ赤にしながら、ささみがこくりと頷いた。出羽崎氏に向き直る。
「なにか、言うべきことはありますか?」
「──…………」
出羽崎氏が、わずかに視線をさまよわせる。動揺している。
「……君が言ったとおりだ。僕は、ささみの幸福を願っている。そのために手段は選ばない。たとえ──その、君が、ささみの恋人だとしても──だ」
「認めるんですね」
「──…………」
「おれとささみが恋人同士になることを、認めてくれるんですね」
「……仕方あるまい。ささみの、そんな顔を見せられてはね」
「──……?」
いま、ささみは、どんな顔をしているのだろう。
ささみの後ろに回ってしまったことを、すこしだけ後悔した。
「出羽崎さん。あなたがささみを転校させようとしたのは、惑ヰ先輩と恋愛関係に陥ることを危惧したからだ」
「ああ、そうだね」
「おれとささみは恋人だ。もう、その心配はない」
「そうかもしれないね」
「──では、ささみの転校を撤回していただけますか?」
「それは、できない」
そう上手くはいかない、か。
「仙太郎君という危険は失われたが、新たに君という危険が現れた。転校当日に娘を連れ去るような輩を、僕が信用すると思うかい?」
「……思いません」
「君とささみが本当に好き合っているのなら、三年待ちなさい。それで手打ちとしようじゃないか」
「──…………」
おれは、そっと溜め息をついた。わかってない。まるで、わかっていない。
「出羽崎さん。顔を上げてください」
「……? 上げているが」
「それで見ているつもりなら、さっさと目ん玉洗ってこいよ」
「──…………」
出羽崎氏の目つきが鋭くなる。
「あんたは誠実だ。誰よりささみのことを考えて、誰よりささみの幸福を願っている。だが、あんたは見ていない。ひとつだって、見えていない!」
「……なにをだい」
「いまのささみを、だ」
出羽崎氏が、ふん、と鼻を鳴らす。
「なにを言うかと思えば……」
「あんたは、未来のささみのことしか考えていない。いまのささみと目を合わせたことがあるか? いまのささみと話したことがあるか? いまのささみの願いを聞いたことがあるか?」
「その必要はない」
「何故」
「子供より、大人である僕が判断するほうが正しいからだよ」
「そうだな。その通りだ。この子たちの視野は狭い。先が見えてないし、考えなしだ。すぐにころっと騙されるし、思い込みが激しくて、厄介極まりないさ。……だが、いつだって、目の前のことに懸命だ」
一歩、踏み出す。
「おれは、いつも、先のことを考えていた。荒野を行く赤錆びたレールに頼って、最善の結果だけを追い求めていた。踏み出した一歩は、遙か遠い場所へと辿り着くための足がかり。そう信じて疑うことはなかった。でも、違う。この子たちは、違うんだ」
「──…………」
出羽崎氏が息を飲むのがわかった。
「最善の道を模索するんじゃない。近視眼的な世界のなかで、最高の一歩を作り出そうと足掻いている。──それが、たまらなく愛おしいんだ」
「……若さに当てられたかな」
「そうかもしれません」
「そんな言葉で、僕の意志が揺らぐとでも思ったかい」
「思いませんよ」
す、と右手を上げ、窓海に合図を送る。
「!」
窓海がわたわたと携帯を取り出すのが、気配でわかった。
「おれの言葉では揺るがない」
高々と右手を上げる。
「だが、
「なにを──」
出羽崎氏がくらりと頭を振った。
「──ささみ!」
「は、はい!」
「最後の魔法だ」
──ぱちん!
おれは、指を鳴らした。
「──…………」
「──……」
副社長室が、しん、と静まり返った。
出羽崎氏が呟く。
「……なんだ、なにも起こらないじゃ──」
着信音。
「あっ──」
スカートのポケットから、ささみがスマートフォンを取り出した。
着信音。
着信音。
着信音。
着信音。
着信音、
着信音、着信音、
着信音、着信音、着信音、着信音──
「わ、わあ!」
スマートフォン取り落としそうになりながら、ささみが画面を覗き込んだ。
「──……あ」
ささみの左手が、制服の胸元を掴む。
「あ、あ──ぅ、あは、ぁはは……」
「──ささみ、どうしたんだ」
出羽崎氏が、初めて、いまのささみを見た。話しかけた。
「──…………」
目を伏せたままのささみが、出羽崎氏にスマートフォンを差し出す。
そのあいだにも、ささみのスマートフォンは、幾度も幾度も震え続けている。
「なにが……、ッ!」
画面を覗き込んだ出羽崎氏が、絶句する。
「……わかりましたか?」
おれは、絶え間なく鳴り続けるささみのスマートフォンを受け取ると、その画面に視線を落とした。
《テバサキちゃん、行かないで!》《さみしいよー》《転校すんなら先言っとけよ! お別れ会できねーじゃん!》《本当に転校するんですか?》《来週! 来週まで待ちなさいよ!》《ドッキリだろ?》《マジかー……》《テバサキさん、勝ち逃げは許さんですよ!》《女子分校ってどこだっけ。週末遊び行ける距離?》《うちの実家分校の近くだから、夏休み友達誘って遊び行くぜーい》《おう、誰の陰謀か知らねえけど俺がボコしてやるからよ》《……ずっと言えなかったけど、LINEの使い方教えてくれて、ありがとうございました。友達、ちゃんとできました》《クマ! クマ出るから! 危ないから! 行くな!》《おーい、夏イベ参加できるよな! な! テバサキいねーとぜってー負けるって》《……サネカズラ。花言葉は、再会です》《いったん帰ってこい、いったん! 作戦考えようぜ!》《負けるなテバサキ! 美味いぞテバサキ!》《ばいばい……》《アフ夫がなんかアホなこと送ったみたいだけど、気にしないでね。夏休みは帰ってくるんでしょ?》《テバサキ先輩の部屋、掃除しておきますから!》──……
「──…………」
それは、ささみが、スマートフォンで紡いだ友情の証明。
「惑ヰ先輩とカミ・シモ・キートに、ささみと繋がりのある生徒を探してもらった。そして、集めた。いま、星滸寮の時計塔の前には、星寮生と登校生、合わせて百名以上が集まってる」
携帯で会話をする少女──そんな奇矯なキャラクターが築き上げた、無数の絆。
「ささみのことを聞いて回ったとき、驚いた。ささみのことを悪く言うやつが、誰ひとりとしていなかったからだ。携帯電話を使ってしかコミュニケーションが取れないのに、学級委員長なんて務めて──しかも、それなりの信頼を勝ち得てる時点で、すごいとは思ってたんだ。……でも、よく考えたら、すごいなんてもんじゃないよな」
ささみにスマートフォンを握らせながら、続ける。
「お前は、孤独に見えて、孤独じゃなかった。
その指先で、いつも、誰かと話していたんだな。
誰かと笑って、
誰かと泣いて、
誰かに同情して──
そのちいさな窓から、人と繋がり続けてきた。
お前が相談に乗ったやつも、
お前に救われたやつも、
お前と馬鹿を言い合ったやつも、
お前をライバルと認めてるやつも、
クラスメイトも、
友達も、
先輩も、
後輩も、
みんな、お前が大好きなんだ。
行かないでほしいと願っているんだよ」
「──…………」
ささみが、天井を見上げた。
溢れ出る涙のひとしずくが、ふっくらとした頬を滑り落ちた。
「お、とう、さん──」
「……ああ」
出羽崎氏が、見ている。
いまのささみを、しっかりと、目に焼き付けている。
「……わたし、転校、したくない……みんなといっしょに、いたいよう──」
ささみが、一瞬、頑是ない子供のように見えた。
「──……!」
出羽崎氏が、ささみを抱きすくめた。
「……ああ、そうだな。父さんが悪かった。すまない。……つらかったな。お前は、もう、十分に大人だ。自分で選び、自分で歩み、自分で責任を取りなさい。大丈夫。一緒に責任を負ってくれる人は、きっとたくさんいるはずだから」
「……おど、ざあん……!」
「ささみ……」
抱き合う親子の姿を見て、これまでの疲れが一気に襲ってきた。
「──…………」
終わった。
すべて、終わった。
「はー……」
エグゼクティブデスクにもたれかかる。
「──宗八、お疲れさん」
「やったね……」
「ああ、終わった。……本当に、いろいろとな」
これだけ好き放題やっておいて、お咎め無しというのは、いささか虫のよすぎる話だろう。
「宗八は、私たちみんなを、最高の結末へと連れて来てくれた。きっと、大丈夫じゃないかね。私が出羽崎父なら、昇進ものさ」
「結果を出したとしても、責任を問われることもある。……そういうもんだよ」
「もしものときでも大丈夫! 宗八は、うちが雇うんだから」
「だといいけどな」
ささみの姿を見て、いまさら気がついた。
おれは、どうやら、元の会社では、あまり好かれていなかったようだ。
出羽崎氏は、おれが有能だからだと言った。
しかし、それは違う。
おれと出羽崎氏は、とても似ている。出羽崎氏がささみの「いま」を見ていなかったように、おれは周囲の人たちの「いま」を軽視していた。明日へと伸びるレールしか見えていなかったのだ。
長期的にはそれもいいだろう。
だが、「いま」をないがしろにするような人間に、人望などあろうはずがない。
「──まどれ!」
「おっと」
泣き止んだささみが、コトラの胸に飛び込んだ。
「私、帰れます! みんなのところに!」
「よかったねえ。本当に、本当によかった……」
「窓海も、ありがとう! 私のために、こんなところまで──」
「そんなの、気にしなくていいの! 私が、ささみと、別れたくなかっただけなんだから……」
「──…………」
喜び合う女性陣からすこし離れ、ガラス窓に手を触れた。
街を見下ろす。
摩天楼と思われたサキサカホールディングス本社屋も、周囲のビルと比較すると、決して高いほうではない。サキサカはグローバル企業だ。全世界に支社が点在している。本社に勤めることのできる人間が、それだけ少ないということなのだろう。
「──なにか、見えるかい」
「乗ってきたバイクが見えないかと思って」
「ここは二十二階だ。真下は見えないと思うがね」
「そうですね」
「この結末は、君が用意したものかな」
「……結末だけは。そこへ至るための道筋は、なにも考えていませんでした。おれも、コトラも、窓海も、結局は言いたいことを言っただけです。ただ──」
ガラス窓に背を預け、タバコに火をつけようとしている出羽崎氏に視線を送る。
「もうひとつの結末に至らなくて、よかったかな、と」
「……もうひとつ?」
「無粋な結末です」
「聞かせてもらえるかな」
「──…………」
スマートフォンを取り出し、ピカソからのメッセージを呼び出す。ピカソの情報収集力は、相変わらず辣腕じみている。
「在米総領事・東清貴の息子、東奏。医療法人渓和会会長・大和渓の息子、大和久。与党議員・矢島常伸の娘、矢島千鶴。同じく矢島百花。株式会社城島鉄鋼社長・城島大の娘、城島蒼。アスピアス製薬社長・源流院朝日の娘、源流院・マリア・イソラ──」
「──……それは?」
「星滸寮に住む、ささみの友人です。あなたになら、この価値がわかるでしょう」
「……ああ。めまいがするほどね」
「これを出すと、美談では済まなくなる。目的は果たせるとしても、あなたとささみが抱き合う姿なんて、きっと、見ることはできなかった」
「──く、ははは、君は、どこまで……」
出羽崎氏が笑いをこぼした。
「──…………」
眼下の景色に飽きて、顔を上げる。
──薫風。
一面の窓ガラスの向こうから、爽やかな風が吹いた。
荒野を行く赤錆びたレール。
複雑に絡み合う、無数のレール。
ああ、そうか。
世界は、十円玉の表と裏だけではない。
おれは、いろいろな可能性から、目を背けていただけなのか。
「君は──、君は、これから、どうするつもりだい?」
は、と我に返る。
出羽崎氏の言葉に肩をすくめ、答えた。
「……とりあえず、ハローワークですかね。窓海がミツハシラで雇ってくれると言ってますが、恐らく無理でしょう。でも、いいんです。覚悟の上ですから」
「──…………」
出羽崎氏が紫煙をくゆらせる。
「……タバコ、どうだい?」
「吸えませんので」
「そうだね。高校生にタバコを勧めるのは、まっとうな大人のすることではなかった」
「──……高校生?」
思わず小首をかしげる。
「言ったはずだ。あらゆる脅威から。あらゆる悪意から。そして、あらゆる欲望から、ささみを守り抜いてほしい──と」
「しかし、それは──」
「君は、立派に仕事をこなしている。僕という脅威から、ささみを守り抜いたじゃないか。誰が君の陰口を叩こうと、僕だけは君を認めよう。だって──」
出羽崎氏が、にまりと笑った。
「君は、ささみの恋人なんだから」
「……えっ」
「違うかい?」
「そ、それは言葉の──」
そう言おうとしたとき、ぽす、と胸に飛び込んできたものがあった。
ちいさくて、あたたかくて、いいにおいがする。
「──宗八くん!」
「え、え、あっと──」
「これから、よろしくお願いしますね!」
どきり。
心音は異常。おれの胸は高鳴っている。
それもこれも、ささみが、色素の薄い頬を紅色に染めて、照れくさそうな笑みを浮かべていたからだ。こんなの、ときめかないほうがおかしい。
「あ──ッ! ささみ! 駄目! さっきのは言葉のあやってやつでしょ!」
「そんなの知りませーん」
「宗八はうちで雇うんだから! 離れて、ほら!」
「窓海には仙ちゃんがいるでしょ!」
「あ、あれは、その、憧れっていうか、目標っていうか──」
侃々諤々。
「……おれはロリコンじゃない、とかなんとか言ってなかったかい?」
「ぐ!」
「立派に鼻の下伸ばしちゃってからに」
コトラの視線が冷たい。
「……いやー、山本君。モテモテだねえ」
出羽崎氏の視線も氷点下だった。
「だーもー! ストップ! ストップ!」
一瞬の隙を突き、包囲網から抜け出す。
「ささみ! 窓海! コトラもだ! こんなトコでこんなコトしてる場合じゃないぞ!」
「……?」
ささみが小首をかしげる。
「星滸寮でお前を待ってる百人のことを忘れるなって!」
「あ、そっか」
リアル友達百人できるかなだぞ。
すげえな。
「集まってくれてありがとうとか、お騒がせしてごめんなさいとか、帰り際に言いたいこと、ちゃんとまとめておくんだぞ」
「はい!」
こくりと頷き、ささみが言った。
「帰ろう! ──私たちの〈鳥かご〉へ!」
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