3/歌を忘れたカナリヤは -4

 私立星滸塾学園高等部区画へと繋がる第二正門の正面には、片側三車線の丁字路がまっすぐに伸びている。

 ビルなどの大きな建造物はあまりなく、警察署と消防署が隣接している他は民家がずらりと軒を連ねるのみで、地下鉄星来線第二正門前駅への入口が少々浮いて見えるほどだった。

 地下鉄駅周辺であるにも関わらず栄えていないのは、恐らく、地下鉄が誘致されたのが比較的最近の出来事であるためだろう。

「──…………」

 そんなことをぼんやりと考えながら、腕時計で時刻を確認する。

 午前八時二十二分。

 そろそろ来るころだろうと肩越しに振り返ると、門番の黒服の片方と目が合った。

「──…………」

「……あははー……」

 薄笑いを浮かべながら、そっと会釈をする。

 バレていないだろうか。いないはずだ。

 付近に人通りはなく、物珍しいものなど何一つない。

 おれしか見るものがないだけだ。

 おれはいま、を着ている。門番の黒服も、恐らく、待ち合わせかなにかだと勘違いしていることだろう。頭ではわかっている。わかってはいるのだが、足のあいだを通り抜ける落ち着かない風が、それを許してくれないのだった。

「……本当に大丈夫かよ」

 独りごちる。

 大丈夫、大丈夫、似合う似合うと褒めそやされて、最終的にその気になってしまったが、よく考えると変態だ。考えなくても変態だ。

 だが、最良の一手なのは間違いない。

 レールが見えなくなったとしても、おれはおれだ。積んできた経験も、研鑽した技術も、培った実力も、何一つとして失ってはいない。

「──…………」

 午前八時二十五分。

 背後から話し声が聞こえてきた。黒服ではない。女性の声だった。


「──……で、……、──……」


「………………、……また──、──……」


 午前七時過ぎ、ささみを迎えに来たのは、出羽崎氏本人ではなくその秘書だった。

 出羽崎氏が直接出向いてくるのが理想だったが、想定の範囲内ではある。しかし、おれと彼女は顔見知りだ。目を合わせるべきではない。

 腰の後ろで手を組み、澄んだ青空を見上げる。夜半に降った雨は朝方にやみ、清冽な空気だけを残していった。とにかく上さえ見ていれば、たとえ真正面に回られても、ある程度は誤魔化せるはずだ。

「──……仙、ちゃん?」

 ふと、背後で、ささみの声がした。

 おれは目蓋を閉じた。振り返ることができないから、すべてを想像に託す。

「……惑ヰくん。わざわざ見送りに来てくれて、ありがとうね」

 今度はコトラの声だ。前を向いたまま、ちいさく頷いてみせる。

 コトラが続けた。

金田かねださん。ほんのすこしで構いませんから、ささみと惑ヰくんをふたりきりにしてあげたいんです。……許可、していただけないかい?」

「でも、副社長は、まっすぐ連れて来いと──」

「ほんの十分──いや、五分だっていいんです。何年も再会を夢見続けてきた幼馴染同士が、たったの一日で引き離されるんだよ。ほんのすこしだけ、彼女たちに、時間をくれませんか」

「──…………」

 しばしの沈黙ののち、

「……わかりました。五分だけですよ」

「ありがとうございます!」

 コトラが深々と頭を下げるさまが、目蓋の裏に再生された。

「──ほら、あんたたちも!」

「いや、俺たちは──」

 唐突に男性の声。門番の黒服だろうか。

「ふたりの話を盗み聞きするつもりかい? 野暮だねえ」

「……ま、いいんじゃねえ? 今日は日曜で誰も来ないし、ほんの五分で何ができるってわけでもないだろ」

「そう、ですかね……」

 コトラの口車に乗せられて、出羽崎氏の秘書と門番ふたりの気配が正門の奥へと消えて行くのがわかった。

「仙ちゃん、わたし──」

 ささみに背を向けたまま、しー、と口元で人差し指を立てる。

「──ささみ。いまからひとつ、魔法を見せてやる」

「え、あの……、仙ちゃん……?」

 おれは、右腕を高々と持ち上げて、


 ──ぱちん!


 と、指を鳴らした。


 ──ゴ、ゴゴゴゴ、ゴゴ……


 靴底越しでも振動が伝わるほどの地響きを鳴らしながら、第二正門が閉じていく。

 顔面を真っ青に染めながらきびすを返す黒服の姿も、事の重大さをまだ理解していない秘書の姿も、片手を上げて不敵に笑うコトラの姿も、すぐに見えなくなってしまった。

「──…………」

 ささみが呆然と正門を見つめている。

「これで、お前は自由だ」

「仙、ちゃん……」

「どこへだって行ける。なんだってできる。好きなだけ付き合うよ。魔法が解けるそのときまで、な」

「──…………」

「あと、いい加減に気づけ」

「?」

 小首をかしげる気配。

 黒髪ロングのつやめくウィッグを右手で払いながら、オオカミパーカーを着ていない私服姿のささみへと向き直る。

「仙ちゃんじゃなくて、宗ちゃんだ」

「……?」

 しばし放心していたささみが、きっかり十秒後に再起動した。

「え、え────ッ!」

「驚いたか」

「驚きますよ!」

「そりゃースネ毛を剃った甲斐があったってもんだな!」

「なんか、すごい──その、似合ってます! かわいいです!」

「ありがとう!」

 なかばヤケクソ気味に言い放ち、ささみの手を取った。

「あの」

 困惑が肌越しに伝わってくる。

「ここは危険だ。急ごう」

 いつ正門が再び開くかわからない。こんなところでうだうだしている暇はないのだ。

「あの、危険って──」

「行くぞ」

 ささみの手を引き、駆け出した。

「説明は道中でする。だから、いまは走れ。窓海が待ってる」

「窓海、が……?」

 しっとりとした小さな手のひらを握り締めながら、外塀沿いの道を走っていく。瑞々しい蔦が雫を落とし、アスファルトを黒く濡らしていた。

「──はッ、は、は……」

 ささみの吐息。

 おれの鼓動。

 スズメの鳴き声。

 風を切る音。

 なんだか、青春小説ジュブナイルに迷い込んだ気分だった。

「──…………」

 空いた左手で頬を叩き、前方へと向き直る。

 月極駐車場までは距離がある。ささみの体力がもたないだろうと判断し、おれは、すこしだけ速度を緩めた。

「──おれたちは、お前の転校を阻止しようとしてる」

「えっ」

 繋いだ手に、一瞬、力が込められた。

「そのための女装だ」

「えー……、と?」

 小首をかしげる。戸惑っているらしい。

「……まあ、聞いてくれ。趣味じゃないんだ。不可抗力なんだ」

 おれは、なにがどうしてこうなってしまったのかを、途切れ途切れに語り始めた。



「嫌じゃ────ッ!」

 おれは思わず力の限り叫んでいた。

「嫌だ嫌だどうしてこの歳で女装なんかせにゃならんのだ!」

「キット似合うと思うよ……」

 惑ヰ先輩の目が期待に輝いている。

「似合うとか似合わないじゃないんです! 嫌なんです! そら惑ヰ先輩くらい女性らしいならいいかもしれんが、こちとら男ひとすじ二十八年だぞ! なにが悲しくていまさら女子高生のコスプレなんぞに興じなけりゃならん!」

 頭をバリバリと掻きむしりながら、保健室のソファとベッドのあいだを忙しなく行ったり来たりする。

「……でも、それしかないと思う」

「そうさね……」

 神妙に呟く窓海に、コトラが追随する。本気の目だ。

「宗八は、出羽崎父に信頼されすぎてる。たとえささみを連れ去ったところで、夕方までには帰すだろうと高をくくられてしまう。だって、実際その通りだからね」

「……ああ。日を跨いでしまえば、刑事事件に発展する公算が高い。それは避けたい」

「そんじゃ、出羽崎父を交渉のテーブルにつかせることはできない。だって、ささみの身の安全は保障されているも同然なんだからね。口約束してポイ、がオチさ」

「──…………」

「ささみを連れ出すのは、宗八であってはならない。私でも駄目だ。最も適当なのは惑ヰくんだけど、彼は免許を持ってない」

「……だから、身長が近く、背格好も似ているおれが惑ヰ先輩に扮し、ささみを連れ去ることで、出羽崎氏に対し脅迫めいた圧力をかける」

 選択の余地がないほど最良の一手だ。わかってはいるのだ。

「うう……」

 嫌だ。

 女装は嫌だ。

 しかし、慈悲はないのだった。



「──正門を閉ざすのには、〈鳥かご〉を利用させてもらった。コトラが三人を引きつけたあと、星寮生である惑ヰ先輩が監視システムに近づき、作動させたんだ。星滸塾学園という〈鳥かご〉は、星寮生を閉じ込めることに特化している。部外者を敷地に入れないことより、星寮生を逃がさないことを優先するのさ」

「はっ、はっ、そんなこと、しても、い、いんですか?」

「さあ?」

 肩をすくめる。

「だって、前例がないだろうからな」

「まどれと、仙ちゃん、おこられる、かも……」

「怒られたっていいんだ。そんなこと、どうだっていい。もっと大切なものがあるから」

「たいせつ、な、もの……?」

 見当もつかないといった様子のささみに、すこしだけ呆れてしまう。

「……それくらい、自分で考えろ」

「──…………」

 足を止め、ささみの手を離す。

「あ、あの、私、やっぱり──」

 その瞬間、

「お──い! ささみぃー! こっち、こっち!」

 見慣れた月極駐車場。

 おれのビラーゴ250の前でタンデム用のヘルメットを抱えた窓海が、こちらに思いきり手を振っていた。

「あ、ビラーゴ!」

「えっ」

 肩で息をしていたはずのささみが、気がつくと窓海の傍にいた。

 素早い。

「本物のバイクだ! ビラーゴだ! そ、宗八くんのですか! 触っていいですか!」

「いいけど……」

「わあ!」

 黄色い声を上げたささみが、ビラーゴのシートを撫で回す。

「くふ、くふふふ、新品とはまた違う使い込まれた撫で心地……。あ、そうだ、ビラーゴと言えば空冷Vツインエンジンでした! はー、美しいフォルム……。マフラーは、うん、純正ですね。ヤマハは純正でいいんですよ、純正で! あ、でも、裏側ちょっと錆びてますね。駄目ですよサビ取りしなきゃ。サビ取りしないと、サビはどんどん広がってくんですからね!」

「あ、はい」

「ハンドルは──あ、ちょっと重い……。250でもこんなに重いんですね。ハヤブサはもっと重いんだろうなあ。XV250の乾燥重量は137kg、対してGSX1300Rは215kgだから、だいたい1.5倍だもんね……。お風呂あがりの腕立てを二十回に増やさないと──」

「──…………」

 ちょっと怖かった。

「ささみ、よだれよだれ」

「はっ」

 ささみが手の甲で口元を拭う。

「ほら、これつけて!」

「わぷ!」

 窓海が、タンデム用のハーフヘルメットをささみの頭にかぶせた。

「ほら、乗って乗って!」

「待て、おれが先に乗らないと──」

「え、え、のの、乗っていい、乗っていいんですか?」

 ウィッグの上からジェットヘルメットをかぶり、いつものようにビラーゴにまたがる。

 セルでエンジンを起動すると、駆動音が鼓動のように車体を震わせた。

「ほら、いいぞ!」

「は、はい!」

 ささみの両腕がおれの腰に回される。

「おい、窓──」

 今後の手筈を確認しようと視線を投げると、

「ぴ!」

 妙ちきりんな声を上げ、窓海が明後日の方向を向いてしまった。

「窓海?」

「い、いまは、こっちみないで……」

「……? あとの段取りはわかってるな。コトラと合流したあと、すくなくとも正午までは──おい、聞こえてるか」

 窓海の様子が明らかにおかしい。

「あの、宗八、その──」

 顔の前で人差し指同士をつんつんと合わせながら、こころなしか紅潮した頬を隠すように足元を見つめている。

「へ、ヘルメットも、バイクも、に、似合ってるよう!」

「……ありがとう?」

 いまばかりは嬉しくないが。

 そもそも、おれがバイクに乗る姿なんぞ、何度も見たことあるだろうに。

「あー……」

 おれの背中に張り付いたささみが、ちいさく頷く感触がした。

「宗八くん。窓海は、仙ちゃんみたいな、じょ──」

「わあ、わああ!」

 唐突な窓海の叫び声が、ささみの言葉を掻き消した。

 難聴ではないので、普通に聞こえた。

 なるほど。

 そういえば、昨日ためしに女装したときも、様子がおかしかったものな。

 ピカソといい、窓海といい、複雑な性癖が流行っているわけでもなかろうが、あるいは星滸塾という土地柄がそうさせるのかもしれなかった。

「コトラと合流したあと、とりあえず正午までは逃げまわること。学園内にいてはいけない。サキサカ本社を目指して、その付近に潜伏するんだ。優先すべきは現場判断。想定通りには、絶対にならないと思え」

「……うん、わかってる」

 今度こそ真剣な瞳で、窓海が頷いた。

「おれたちは、そろそろ行くよ」

「宗八」

「どうした」

「……今度こそ、私も乗せてね」

「──…………」

 口をとがらせながらねだる窓海の姿に、噛み殺しきれなかった微笑みを右手で隠した。

「ああ、好きなだけ乗せてやるさ」

「やた!」

 おれは、ささみの転校を阻止するために、おれ自身を消費すると決めた。

 成功したとしても、失敗したとしても、確実な別れが待っている。

「──……でも」

 口のなかで呟く。約束した。約束したのだ。

 おれは嘘つきだが、約束を破るのは好きじゃない。

 青春小説ジュブナイルの表紙を閉じたとしても、この二ヶ月間はなくならないのだから。

「──行くぞ!」

 ギアをニュートラルからローに落とし、クラッチを切りながらアクセルを回す。ぶおんぶおんと空吹かしの音を月極駐車場に響かせたあと、ビラーゴがゆっくりと走り出した。

「わ! わ! わあ!」

 ささみが嬉しげな悲鳴を上げる。

 二速。

 月極駐車場を出る。

 三速。

 わずかに蛇行した外塀に沿って走る。

 四速。

 耳元を風が通り過ぎていく。

 五速。

 景色が急速に流れていく。

 小走りで十分かかった道のりを僅か一分で走破し、クラッチを切りながらブレーキをかけた。

 第二正門。

 そこは、喧々囂々の騒ぎとなっていた。

「──だーかーら、私は知らないってば! センサーでも壊れてたんじゃ──」

「こ、このままじゃ副社長に叱──」

「おい、どう考えてもタイミングが──」

「中央から責任者が来るまで──」


 ──ビィー!


 ホーンを鳴らすと、四人が一斉にこちらを向いた。


 ──ビィー!


 もう一度鳴らし、挑発的に右手を上げる。

「この──」

 門番のひとりが駆け出そうとしたところで、アクセルを強めに回した。

 嫌がらせが目的ではない。

 出羽崎氏の秘書と門番の黒服に、ささみを連れ出したのは女性であると──ひいては惑ヰ先輩であるのだと、誤った情報を植え付けるためだ。

 無関係の三人には申し訳ないが、こちらもなりふりかまってはいられない。

 上手く逃げろよ、コトラ。



「──…………」

 星滸塾学園から離れると、視界が急に開けた。

 風はなく、天気は上々、絶好のツーリング日和だった。

「──どうだー、乗り心地は!」

「最高です!」

 ささみが、おれの腹部に回された右手で、器用に親指を立ててみせる。

「ハヤブサじゃなくて悪かったな!」

「十分です! だって、ビラーゴも大好きですから!」

 ささみに言わせれば、どのバイクだって大好きになってしまう気がするけれど。

「……あれ? 私、ハヤブサ好きだって宗八く──宗八さんに言いましたっけ!」

「窓海から聞いたんだ。あと、宗八くんでいい」

 いまさら変えられても落ち着かない。

「──…………」

 ぎゅ。

 両腕に力が込められる。

「……こんな体格で、大型だなんて、分不相応だと思いますか?」

「いんや」

 すこしだけ速度を落とし、首を横に振ってみせた。

「ソロツーしてたらいろんな人に会うもんでな。身長一四〇センチくらいなのにカワサキの1400GTRをガンガン乗り回してるねーちゃんとか見たことあるぞ」

「か、かっこいい……」

「だから、乗りたいなら好きなもん乗ればいいんだ。窓海が言ってたよ。私たちは自由だって。自分自身が信じなきゃ、誰もそれを認めてくれないんだって」

「──…………」

 加速度がすべての言葉を後方へと置き去りにする。

 しばしの沈黙ののち、ささみが口を開いた。

「……あの、それで、どこ行くんですか!」

「あらかじめ知ってるのと、行ってからびっくりするの、どっちがいい?」

「──…………」

 ささみは、しばし悩んだのち、

「ついてからがいいです!」

 と、元気よく答えた。



「──出羽崎氏を焦らすんだ」

「焦らす……」

「出羽崎氏は、心当たりのある人物に、手当たり次第に連絡を取ろうとするだろう。おれにも、コトラにも、可能なら窓海にもだ」

「まあ、私でもそうするだろうね」

 コトラが頷く。

「だが、ふたりは、その電話に出ないほうがいい。焦れれば焦れるほど交渉はやりやすくなる。電話ひとつで主導権を握れるのなら、しめたものだ」

「……あの、宣戦布告しちゃったほうがいいんじゃないかな。ささみはうちが預かった! 返してほしくば転校を撤回しろー、って」

 窓海の言葉に反駁する。

「コトラや窓海も、おれと同じだ。関わっていることがわかった時点で、出羽崎氏は安心してしまうだろう。動揺を誘うためには、惑ヰ先輩の単独犯ということにしたほうがいい。いずれバレるにしても、な」

「ナルほど……」

「コトラと窓海は、うまく合流したあと、サキサカホールディングス本社の近くで待機していてほしい。たぶん、出羽崎氏はそこから動かないだろう。焦らすのはいいが、時間を与えすぎるのも問題だからな。タイミングを見極めて、サキサカに直接乗り込むのがいいと、おれは思う」

「……さみちゃんのお父さんと交渉スルのは、先生と、窓海くん──というコトで、いいのかい?」

「ええ、他にいませんから」

「それでは、ケッキョク、同じことにならないかな」

「同じ?」

「……安心、シテしまうのでは……」

「ええ、それでいいんです」

「……?」

 窓海が小首をかしげる。

「だって、窓海とコトラが出てきたら、出羽崎氏はほっとするだろう?」

「あ、そうか!」

 コトラが膝を叩いた。

「焦らすだけ焦らされて、いたずらに時間が過ぎて、心配して、心配して、その挙句にドッキリみたいなものと知らされたら、誰だってほっとする。それが、心の隙になるって寸法かい」

「でも、それ、怒られるんじゃ……」

 不安げな窓海の双眸を見つめ、おれは言った。

「怒られるんじゃない。怒らせるんだ。余裕を奪え。平静でいられなくしろ。なに、怖ければ、コトラの後ろにでも隠れていればいい。そのためにおれたちがいるんだから」

「おーい……」

 コトラが苦笑する。

「こちらが本気であることを示さない限り、相手にされないと思え。いくら言葉を連ねたところで意味はない。行動でしか伝わらない。アドバンテージも、決定権も、すべてが出羽崎氏にある。向こうの胸先三寸なんだ。ここまでやって、ようやく交渉の場につける。おれたちが相手取ろうとしているのは、そういう人物なんだよ」



「う、み、だぁ────ッ!」

「わあーッ!」

 靴を脱ぎ、靴下を引き抜き、砂浜に向かってふたりで駆け出した。

「あち、はちちち!」

「宗八くん、海! 海!」

「冷やせ冷やせ!」

 海開きの済んでいない初夏の海は、爪先を冷やすのにちょうどいい温度だった。

「──ささみ!」

「わ!」

 羽織っていたブレザーを脱ぎ、ささみの頭にかぶせる。

「光線過敏症」

「……宗八くん、覚えててくれたんですか」

「忘れないだろ、普通」

「そっか……」

 くすくすと笑う。

 スカートを膝まで持ち上げながら、おれは言った。

「ささみ! 楽しいことは、たくさんあるだろ!」

「はい!」

 ささみが水面を蹴り上げる。

 水しぶきが舞い、水面に無数の波紋を描いた。

「おい、やめろ! 濡れる!」

「あははは!」

「タオルねーんだぞ!」

「そんなの知りませーん!」

 出羽崎ささみは、もともとは、こういう少女だったのだ。



「──……はあ、はあ」

「ひー……」

 防波堤に寝転がり、びしょびしょになった制服を乾かす。

「楽しかった、な……」

「はい……!」

 惑ヰ先輩から借りた制服を海水まみれにしてしまった。

 クリーニングに出してから返却しないとなあ。

「……海なんて、久しぶりです」

「どれくらいだ?」

「たぶん、母が──ううん、十年ぶりくらいです!」

「……そっか」

 ささみが母親を亡くしたのは、七歳のときだ。

 つまり、そういうことなのだろう。

「──…………」

「──……」

 沈黙。

 言わなければならないことがある。

 伝えなければいけないことがある。

「ささみ」

「はい」

「楽しいことは、これだけでいいか?」

「──…………」

「失うことは、怖くはないか?」

「──…………」

 ささみが上体を起こし、水平線の向こうへと視線を向けた。

「……怖い、です」

「だったら──」

「でも、いいんです。だって、父は正しい。知ってるんです。母を亡くしてから、父が、どれだけの苦労を強いられてきたか。私の幸せのために、どれだけ気を払ってきたのか。どれだけのお金をかけてきたのか。だから、私は──」

「父親の言うことを聞かなければならない、か」

「……はい」

「──…………」

 深呼吸する。

「そんなのは取り引きだ。すくなくとも、親子の情愛なんかじゃない」

「そんなこと……!」

「父親の愛は本物だ。そう言いたいんだろう?」

「──…………」

「おれが言いたいのは、お前のことだよ。愛は取り引きじゃない。すくなくとも、おれは、そうは習わなかった」

「──…………」

「愛情を取り引きにしているのは、お前だ。ささみ」

「……そんな、こと……」

「愛してくれたから愛し返す──じゃ、ないんだ。自分を愛してくれる人を、たまたま愛することができた人が、幸福なんだ。そうでない人たちなんて、たくさんいる。愛は、綺麗ばかりじゃない。わかっているはずだ。……コトラはお前に、なにかを求めたか?」

「──…………」

「愛は惜しみなく与う。一方通行だ。返さなければならない、なんて、窮屈なものじゃない。いつしか、自然と返しているものなんだ。義務感に縛られている限り、父親と向き合ったことにはならない。お前は、出羽崎氏が病気で寝たきりになったら──つまり、形としての愛情を与えてくれなくなったとしたら、見捨てるか?」

「──…………」

 ささみが無言で首を横に振った。

「ああ、そうだな。わかってるよ。でも、そういうことなんだ。愛してくれるから愛し返すというメソッドは、相手が愛するのをやめた時点で破綻する。だから、これは正しくないはずだ」

「……めそっど?」

「お前が父親を本当に愛しているとするならば、逆説的に、その行為は取り引きではなくなる。取り引きではないのだから、必ずしも期待のすべてに答える必要はない。おれはそう考える」

「ぎゃくせつてき……」

 ささみが困っている気配が伝わってきた。

「もしかして、怒ったか?」

「んーと、なんか、変なかんじです。言葉がよくわかんないけど、すっとしたような……」

「──…………」

 たしか、窓海も同じようなことを言っていた気がする。

 友人同士、似るのだろうか。

「おれたちは、いま、お前に与えようとしている。機会を。できるなら、未来を。返そうだなんて思わなくていい。父親と天秤にかける必要もない。お前は自由だ。悔いのない選択さえしてくれるなら、おれたちも──たぶん、出羽崎氏も、満足なんだよ」

「そっ、か……」

 ささみが頷くのを確認し、おれは、その場で伸びをした。

「──んーッ! あー疲れた! 体力回復しねえ!」

「宗八くん、おじさんみたいですね」

「おじさんなんだよ」

「見た目はかわいいお姉さんなのに」

「言うな……」

 せっかく忘れかけていたのに。

「──おっと、そうだ。ひとつだけ言い忘れてたな」

「?」

「ささみ。お前は、自分を、ひとりだと思ってるかもしれない。もしかしたら、価値がないだなんて、馬鹿なことを考えてるのかもしれない」

「──…………」

「でも、そんなことは許さない。お前がどれだけの人間に好かれているか、愛されているのか、ちゃんと教えてやる。それが、おれの役割だと思うからだ」

「あの、それって──」


 ──ささみの言葉を遮るように、携帯が震えた。


〈サキサカ 出羽崎〉


「──…………」

 出ないほうが不自然だと判断する。

 スマートフォンの画面をフリックし、通話を開始した。

「もしもし」

『……やあ、山本宗八君』

「ご用件は」

『なに、大したことはない。ささみを返してもらおうかと思ってね』

「──…………」

 背筋を悪寒が走った。

『北海道行きの航空券を無駄にしてしまった。それは構わないがね。ただ、急がないと、明日の授業に間に合わなくなってしまう』

「……コトラと窓海は、どうしましたか?」

『コトラ? ──ああ、原君か。まどみ、というのは、たしか、ミツハシラの三柱会長のお孫さんだったね。さあ、よくわからない。さきほどアポイントメントのない客が来たらしいから、もしかするとそのことかもしれないね』

「星滸塾が情報を開示するまで、もうすこしかかると思っていました」

『目論見が外れたかい』

「はい」

『君は嘘つきだね』

「ささみに代わりますか?」

『……いや、いい。ささみを連れて副社長室まで来てくれ。できるだけ早く、だ』

「わかりました」

 電話越しに会釈をし、通話を切る。

「……っ、はー……」

 緊張した。

 惑ヰ先輩の外出申請の有無から辿っていったのだろうが、それにしたって情報の確定までが早過ぎる。あるいは、ブラフだったのかもしれない。わからない。嘘をつくのは慣れているが、嘘をつかれるのには慣れていないのだ。

 いずれにしても、さすが出羽崎氏といったところだろう。

 だが、想定していた状況とそう離れているわけじゃない。どうとでもなる範疇だ。

「あの、いまの電話──」

「ああ、その想像で合ってる」

 改めて携帯の画面を確認すると、メールが数件ほど届いていた。海で遊んでいて気がつかなかったようだ。いずれもコトラと窓海からで、出羽崎氏にすべてバレているという内容が事細かに記されていた。しばし待機と返信し、横になる。

「……あの、行かなくていいんですか?」

「行くともさ」

「えと……」

「だって、まだ乾いてないし、疲れてるし、もうすこし休んでこうぜ。濡れた服でバイクなんて乗ったら、それこそ風邪を引く」

「……いいんですか?」

「いいのいいの。いくら出羽崎氏でも、いまおれたちがどこにいるかなんて、さすがにわかりっこないんだから。急いできましたー、って顔だけしとけばいいんだよ」

「えと、GPS……」

「──…………」

「──……」

「ま、いいか」

「いいのかな……」

「多少はお目こぼししてくれるさ。たぶんな」

 大の字になって目を閉じた。

 目蓋越しの赤い世界は、熱気と安らぎに満ちている。

「──いずれにせよ、惑ヰ先輩とピカソから連絡が来るまでは動けないからな……」

「仙ちゃんと中世末くん、ですか?」

「気にするな。そのうちわかる──かもしれない。……それより、腹減ったな」

「はい……」

「ここ来る途中に小奇麗な喫茶店あったよな。制服乾いたらあそこで昼飯食って、そのあと帰れば、午後二時くらいにはサキサカ本社に着くだろ。それでいいか?」

「はい、おまかせします」

「了解」

 目蓋を開き、手のひらで目元を隠す。

 初夏の太陽が影の色を濃くしはじめていた。

 もうじき夏が来るだろう。



「……自分は、ドウすればいいんだい?」

 惑ヰ先輩が不安げに口を開く。

「窓海くんと、原先生は、さみちゃんのお父さんと交渉をスル……。君は、さみちゃんを連れ出して、説得する……。ソレでは、自分は、どうしたらいい?」

「──…………」

「正門を閉じるためには、外出許可があってはイケナイ……。自分の役目は、ソレだけかい? 自分が、さみちゃんのタメにできるコトは、それで終わり──なのかい?」

「いえ」

 ゆっくりと首を横に振る。

「惑ヰ先輩にも役割がある。してもらわなければいけないことがある。だから、そんな顔をしないでください。これは、切り札です。最後の切り札。──いや、本当の意味での最後の切り札は、ピカソになるかもしれないな」

「ピカソくんが?」

 窓海が、意外そうな声を上げた。

「惑ヰ先輩にも、ピカソにも、役割がある。カミ・シモ・キートにも手伝ってもらおう。猫の手だって借りたいんだ。ただ待っているだけなんて、許しませんよ」

「……アア」

 首筋に伸びかけていた右手を下ろし、惑ヰ先輩が安心したように頷いた。

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