3/歌を忘れたカナリヤは -2

 革靴のソールが床を叩くたび、ざらざらとした擦靴音が閑静な廊下に満ちる。滑り止め加工の施されたオフホワイトのセラミックタイル。おれは、いつも、足元ばかり気にしている。

 サキサカホールディングス本社屋、二十二階。

「山本宗八さま、ですね」

「──…………」

「副社長がお待ちになっております」

 秘書に会釈を返し、高級感のあるウォールナット製の扉をノックした。

「どうぞ」

 ドアノブをひねる。

 物音ひとつ立てずに開いた扉の向こうに、一面ガラス張りの光景が広がっていた。質素だが決して安物ではない絨毯の上に、古めかしいデザインのエグゼクティブデスクが置かれ、来客用のソファとテーブルがしっとりと据え付けられている。

 副社長室に入るのは、これで二度目だ。

「この短期間で、君とまた顔を合わせることになるとは思わなかったよ」

「お世話になっております」

 深々と頭を下げる。

「世話になっているのは僕のほうだ。まさか、彼が──惑ヰ仙太郎君が、星滸塾に通っているだなんて思いもしなかった。盲点だったよ」

「お知り合いでしたか」

「わかっていて聞くんだな、君は」

「すみません」

「惑ヰ家とは、以前、懇意にしていてね。姻戚だったんだ。僕の姉が、仙太郎君の叔父と離婚して、それ以来縁が途切れてしまった」

「……それだけですか?」

「それだけだよ」

 出羽崎氏が肩をすくめる。

「なにか、気になることでも?」

「いえ。ただ、反応がいささか過剰ではないかと思ったもので……」

「女子分校への転校の件かい?」

「はい」

「言っただろう。僕は、ささみを守りたいだけなんだ。仙太郎君とささみは幼馴染だからね。それが劇的な再会を果たしたとなれば、恋愛関係に発展する可能性は低くない。他の男子生徒は大目に見てもいい。だが、仙太郎君は駄目だ。これは、過剰かな?」

 明らかに過剰だ。だが、一貫している。

「さて、君の処遇についてだが──」

「あ、いえ」

 出羽崎氏の言葉を遮る。

「先に、聞いておきたいことがあります」

「構わないよ」

「……あの、監督教員の、コトラ──原小寅は、どうなりますか?」

「──…………」

 出羽崎氏が、街並みを見下ろしながら、答えた。

「……僕は、ね。ささみから、なにもかもを奪おうというわけじゃない。ささみの築いたものを軽んじているつもりもない。友達は新しく作り直さなければならないが、いまの友達とだって、携帯電話がある限りいつだって連絡が取れる。やりとりできる。便利な世の中になったものだね」

 その通りだ。いつだって話せる。いつだって交流できる。長期休暇を利用すれば、会うことだって難しくない。世界は急速に縮まっている。

「しかし、原君は違う。マドレ──だったかな。彼女は、ささみにとって、何者にも代えがたい存在だ。そのくらいのことは、唐変木の僕とてわかっているつもりだよ」

「──…………」

 ほっ、と胸に手を当てる。心音は正常。肩の力が抜けるのを自覚する。

 そうか。

 ささみとコトラは、引き離されない。

「なんだか、嬉しそうな顔をしているね」

「そうでしょうか」

「安心したかい」

「……正直に言うと、すこし」

「そうか。ささみのことに心を砕いてくれて、ありがとう。君でよかった。お世辞を抜きにして、そう思うよ」

「いえ……」

 目を伏せる。胸がチリリと痛んだ。

 ささみを守らなかったおれだ。

 ささみを見捨てようとしているおれだ。

 コトラは、ささみを最も傷つけているのは出羽崎氏だと言った。

 本当に、それは、正しいのだろうか。

「──あとひとつだけ、いいでしょうか」

「なんだい」

「守るとは、なんでしょう。あなたは、ささみの──なにを守ろうとしているのでしょうか」

 かつてコトラに問われた言葉を、今度は出羽崎氏に投げかける。

「──…………」

 しばしの沈黙ののち、出羽崎氏が口を開いた。

「僕にとっての〈守る〉とは、傷ひとつないまっさらな状態で、〈大人〉を始められるようにすることだ。それが、父親としてすべきことだと思っている。ささみを守るということだと思っている」

「──そう、ですか」

 やはりそうだ。

 出羽崎氏は、間違っていない。

 親としての責務を愚直に果たそうとしているだけだ。

「僕の話はもういいだろう? そろそろ、君の処遇について話そうか。なに、肩肘張らずに聞いてくれ。君は有能だ。恩もある。君にとって、絶対に、悪いようにはならないから」

「……はい」

 出羽崎氏から告げられた待遇は、二十八歳の男性としては破格のものだった。

 嬉しくないと言えば嘘になる。

 だが、どこか現実味に欠けていた。

「──…………」

 たぶん、まだ高校生気分が抜けきれていないだけだろう。

 そうに決まっている。




 ──こん、こん。

 黒檀の引き戸をノックし、開く。

「宗八、おそーい!」

 声を上げたのは、私服姿の窓海だった。

 コトラがいる。

 惑ヰ先輩もいる。

 ささみは、いない。

「このままじゃ……このままじゃ、ささみが転校しちゃうよう! みんなで力を合わせて文殊の知恵しないと──」

 コトラに視線を送る。

「ささみは?」

 爪先を見つめ、唇を噛み締めながら、コトラが答えた。

「……ささみは、いま、自分の部屋にいるよ。誰にも会いたくないって。誰にも迷惑を掛けたくないって」

「そうか」

 好都合だ。必要以上に罪悪感を覚えずに済む。

「オヤ、今日の君は、なんだかシャンとした恰好をしているね……」

「先輩、それどこじゃ──あれ? 宗八、なんでスーツなんか着てるの?」

「ナカナカ似合っているよ」

「ありがとうございます」

「──……宗、八?」

 コトラが顔を上げる。目が合った瞬間、その顔が不安に翳った。

「ああ。ちょっと、サキサカホールディングスの本社に寄ってきたもんでね」

「宗八ッ!」

 コトラが立ち上がる。

「サキサカ──って、ささみのお父さんの会社じゃん! え、え、宗八、もしかして、直談判してきたの⁉」

「いや──」

 おれは、窓海に向かい、首を横に振った。昏い喜びが胸中を這いまわる。いまここですべてをぶち撒けてしまえば、窓海はどんな顔をするだろう。

「──…………」

 そうだな。

 そうしてみようか。

「──仕事が無事終わったと、報告に上がったんだ」

「しご、と……?」

 きょとん、と窓海が呟いた。

「ああ。ささみを守るのがおれの仕事だった。ささみが女子分校へ行くからには、御役御免というわけさ」

 惑ヰ先輩と窓海が顔を見合わせる。わからないやつらだ。

 おれは、すこし苛立ちながら、告げた。


「学生ごっこはもう終わりだ。そう言ってるんだよ」


 ──しん、と


 保健室に静寂の帳が下りた。

「……そうかい。それが、宗八の答えかい」

「え、なに、どういうこと……」

「親園。宗八は、私たちの味方じゃない」

「え……」

「宗八は、ずっと、お前たちを騙していたのさ。宗八は高校生じゃない。大学時代の私の同級生だ。二十八歳の社会人だ。ささみを監視するために星滸塾へ来て──ささみがいなくなるから、元の仕事に戻るんだろう」

「なに、それ……」

 窓海がふらりとよろめいた。

「そうはち、うそ、ついてたの……?」

 肩をすくめる。

「おれは嘘つきだからな」

「……ぜんぶ、嘘だったの?」

「ああ、全部嘘だよ」

「──…………」

 窓海がおれの前に立つ。


 パァン!


「──最ッ、低!」

 苦渋に満ちた表情を浮かべて、窓海が保健室を飛び出した。

「──…………」

 頬を撫でる。

 痛い。

 ビンタされるのって、こんなに痛かったっけかな。

「……君、大丈夫かい? 頬が赤くなってしまッタけれど……」

「大丈夫です」

 これは、必要な痛みだ。決別のための儀式のようなものだから。

「……惑ヰ先輩は、怒らないんですか」

「呆れ半分、納得半分といったところ、カナ……。ナルホド、だから君は、突拍子もないコトを当たり前にこなしてしまうんだね。もっとも──君のような人物は、自分の知っているオトナのなかには、ただのひとりもいないけれど、ね……」

「──…………」

「自分は知っている。君は嘘つきかもしれないが、誠実であろうとした。自分は信じているよ。君が、この二ヶ月間を、楽しんでくれていたのだというコトを」

 惑ヰ先輩──いや、惑ヰが、おれにちいさく微笑みかけた。

 その笑顔に焦燥を覚える。

「……君が、おれの、何を知っている。おれは嘘つきだ。みんなを騙していた。たったそれだけの事実を、どうして認めてくれない」

 惑ヰが、おれの胸元を指さした。

「自分はもう、君自身より、君のことを信じている。それだけだよ」

「そう、か……」

 罪悪感の棘が、おれの心臓を突いた。

「……宗八」

 コトラがおれの名を呼ぶ。

「ささみを助ける気がないなら、帰って。お願いだから、帰って。このままだと宗八を罵倒してしまうから。ヒステリーを起こす姿なんて、宗八には──宗八には、絶対に見せたくないから……」

「わかった」

 きびすを返し、保健室を出る。

 引き戸を閉じるとき、コトラの姿が視界をかすめた。

 コトラは、目を伏せたまま、白衣の裾を握り締めていた。

「──さよならだ」

 誰にも聞こえぬよう、自分自身にすら届かぬよう、声に出さずに呟いた。



 門番の黒服に会釈し、星滸塾学園の正門を見上げた。

 左右非対称の扉。鮮やかな緑の蔦。三メートルに届こうかという偉容は、夢と現との境界だ。おれはこれから現実に戻り、二度と夢見ることはない。

「──…………」

 胸に手を当てる。心音は正常。感傷なんて、ない。

 この世の果てまで続いているかのような、高く、長い塀に沿って、月極駐車場へと歩いていく。足早に。かたくなに。逃げるように。

 やがて──

「──…………」

「──……」

 おれのビラーゴ250の前で仁王立ちしている窓海と目が合った。

「……なんだ、最後に乗せてほしいのか?」

「そんなわけないでしょ」

 だろうな。

 窓海を無視してヘルメットホルダーに手を伸ばしかけたとき、さっと手首を掴まれた。

「なんのつもりだ」

「このまま大声あげたら、どうなると思う?」

「──…………」

 それは、困る。慌てて一歩だけ距離を取るが、窓海は手首を離さなかった。

「……なにか用か?」

「よく考えたら、馬鹿らしくなっただけ」

「──…………」

「宗八は嘘つき。私たちを騙してた。なら、どうして──」

 窓海が、軽く鼻をすする。

「……どうして、この二ヶ月の全部が嘘だなんて言葉だけ、無条件で信じなきゃいけないの?」

「それは……」

 言葉に詰まる。

「ほら、答えられない」

「──…………」

 ぎり、と奥歯を噛み締める。窓海も、惑ヰも、どうして放っておいてくれない。どうして見限ってくれない。そんなことをしたって、別れがつらくなるだけなのに。

「……答えを導き出すものアンサーシーカー

 だったら、呆れさせてしまえばいい。

 荒唐無稽なことを言って、愛想をつかされてしまえばいい。

「アンサー……?」

「おれには、ある特殊な能力がある。勘違いしないでくれよ。名付け親はコトラだ」

 左手で片目を隠し、言葉を継ぐ。

「目を閉じれば、時折、荒野をどこまでも行く赤錆びたレールが見える。たぶん、これがおれの原風景なんだろうな。レールは常に〈最善の結末〉へと伸びている。実のところ、おれは、このレールに沿って自動的に歩いていただけでね。嘘だとか、本当だとか、そういった話ですらないんだよ」

「……なに、言ってるの?」

「おれたちは、思うほど自由じゃない。最善の道筋を提示されてしまえば、それに逆らうことはできない。──それは、絶対に」

「そんなわけ、ない!」

 窓海が声を荒らげる。

「宗八がなに言ってるのかわからないけど、それが違うってことはわかる!」

「……どうして?」

「人間は──私たちは、自由だから! そうじゃなきゃいけないから!」

 引き絞るような声。おれの手を離し、窓海が空気を掻き抱く。

 それは、主張ではない。

 青臭くて純粋な〈願い〉だった。

「自分自身がそう信じなきゃ、誰もそれを認めてくれない! 私たちは、どこへだって行ける! なんだってできる! 信じることさえ奪われたら、そんなの──そんなのって、あんまりじゃない……」

「──…………」

 窓海は代弁者だ。

 ささみの──いや、鳥かごに閉じ込められたすべての青い鳥の代わりに、泣いて、叫んで、駄々をこねている。

「どうかな……」

 曇り空を見上げる。夜半から雨になるらしい。

 右のポケットに手を入れると、数枚の硬貨とレシートの感触があった。

 ちょうどいい。

 十円玉を取り出し、指で弾いた。


 ──キン、


 澄んだ音を立てて回転する硬貨を、空中で掴み取る。

 握り締めた両手を窓海に差し出して、言った。

「さて、十円玉はどちらにある?」

「宗八、ふざけ──」

「自由なんて幻想だ。選択肢は常に、合理的で、不公平だ。それを教えてやる」

「──…………」

 窓海がおれを睨みつける。

「……ん」

 そして、存外素直におれの右手を指さした。

「本当にこっちでいいのか?」

「いい」

「実を言うと、十円玉は、左の手にあるんだ」

「──…………」

 だからなに、という顔をする。

「本当に、右でいいのか?」

「……えっ」

「十円玉は左手にある。窓海が選ぶのは、右でいいのか?」

「なに、そんなの──」

 両手を開く。

「ほら、左手にあっただろう」

「……あの、宗八、なに言って……?」

「次だ」


 ──キン、


 十円玉を掌中に収める。

「十円玉は右にある。窓海、お前はどちらを選ぶ?」

「み、みぎ……」

 両手を開く。

「正解だ」


 ──キン、


 十円玉を掌中に収める。

「次も右だ。どちらを選ぶ?」

「……そんなの、わかりきってるじゃない」

「どちらを選ぶ?」

「右に決まってる」

 両手を開く。

「正解だ」


 ──キン、


 十円玉を掌中に収め──


 パン!


 窓海に払いのけられた。

「ふざけないで! こんなゲームになんの意味があるの!」

「わからないか?」

「わからないよ!」

 声を荒らげる窓海の手を掴み、優しく口を開く。

「……窓海。お前はいま、自由だったか?」

「──……?」

「自由に選択できていたか?」

「そんなの、できるわけない! 宗八が勝手に答えを教えてくるんだか、ら──」

 窓海が、言葉を詰まらせる。

 気がついたようだった。

「おれたちは自由じゃない。最善には逆らえない。答えからは、逃げられない。これは、なにも、答えを導き出すものアンサーシーカーに限ったことじゃない。明確な答えはわからなくても、これは間違っていると判断できることは多い。そこに責任が伴うとして、窓海は、確実な失敗を選ぶことができるか? 確約された成功を目の前にして、そこに至るための道のりを知っていて、それでもなお迷いなく破滅への道を突き進むことができるのか? 仮に選べたとして、それこそが、本当に自由なのか?」

「それは──……」

「……おれには、できない。できなかった。戯れに失敗してみたことなら、一度くらいはあるさ。だが、それをずっとは続けられないだろう? 年を食うごとに、ひとつの失敗が致命的になっていく。綱渡りになっていく。どんなに足掻こうと、結局のところ、〈最善の結末〉へと収束していくに過ぎない」

 拳を握り締める。

「そこに自由があるか? ありはしない! 自由なんて幻想だ。青春時代の戯れだ。おれたちは、否応なしに生きている。愚かにも自分で選び取った気になって、鼻高々で生きている。だから──」

 視線を落とす。傷だらけの革靴が、鈍い輝きを発している。

「……おれには、ささみを助けられないよ」

 絞り出すような声音で、そう言った。

「もう、いいだろう」

「宗八……」

「あんまり、いじめないでくれ」

「──……っ」

 ビラーゴの前に立ち塞がっていた窓海が、一歩だけ後じさった。

「宗、は──」


 ──通知音と共に、携帯が震える。


「──…………」

「……携帯、見ないの?」

 いま確認する必要はない。

「メッセージ、来てるんじゃない?」

 窓海の言葉など、無視すればいい。

 しかし、

「──……ささみ、か」

 開いてしまった。

 読んでしまった。


《宗八くん、まどれとけんかしたの?》

《けんかしちゃ、だめだよ》

 うさぎっぽいキャラが胸の前でバッテンを作っているスタンプ。

《けんかしたら、かなしい》

《なかなおり、してほしいな》

 目をうるませているアジの開きのスタンプ。


「……はは、人のことばっか」

 苦笑する。

 明日には転校させられるのに、原因の一端は間違いなくおれにあるのに、文句も言わず、責めもせず、ただただ他人のことを心配している。

 お人好しにも、程がある。

「これだから──」

 これだから、助けたくなってしまうのだ。見捨てたくないと思ってしまうのだ。

 目蓋を閉じ、足元を覗き込む。赤錆びたレール。

 ひとつの終点を迎え、また別のレールが荒野を貫いている。

 レールの向かう先は──


 ぱん!


 はっ、と目を開ける。

 窓海の両手が、おれの両頬を挟み込んでいた。

「足元、見ないで。顔を上げて、ちゃんと私を見て」

「──…………」

「……私は、間違ってると思う。宗八の、あんさーしーかーが導き出すものは、きっと、唯一絶対の道筋じゃない。最善の道なんて、本当はないんだ。だって──」

 強い意思を瞳に湛え、窓海が言葉を継ぐ。

「だって、宗八、泣きそうな顔してる……」

「──ッ」

 指先で目元を拭う。すこしだけ濡れていた。

「……あくびだ」

「してなかったじゃん」

「窓海がほっぺたを叩いたから、止まったんだ」

「そういうことにしといたげる」

 窓海がくすりと笑ってみせた。

「私が宗八だったら、きっとこう言うと思うな。──泣くほど悔しい最善なんてない。そんなのは、コウゾウテキにおかしい。最善の結末なんてのが本当にあるとすれば、それはきっと、笑顔と喜びに満ち溢れているはずだ──とかね」

「──…………」

 おれの物真似らしいが、ちっとも似ていなかった。

「私ね、どうしたらいいか、わかった。私にしかできないこと、ひとつだけわかったの」

「……どういうことだ?」

「カンタンな話だよ。宗八が、〈最善の道筋〉しか歩けないのなら、私が〈最善の結末〉を用意すればいい。舵を取ればいい。そしたら、なんの問題もないでしょ?」

「そりゃ、まあ、そうかもしれないけど……」

 窓海が、腰に手を当て、自信満々に言った。

「もし宗八がサキサカをクビになっても、うちの会社で雇ったげる! 私だって、会長の孫なんだからね!」

「……うーん」

「なに、文句あるの?」

 出羽崎氏から提示された待遇があまりに破格だったものだから、とは言えない。

「……もしかして、サキサカとうちの会社、くらべてる?」

「うっ」

 図星である。

「サキサカは大会社だけど、うちだって歴史では負けてないよ! 老舗だよ! 宗八だって、聞いたことくらいあると思う」

「どこだ?」

「ミツハシラ」

「ミツ、ハ──って、ええッ!」

 聞き覚えがある、どころではない。

「家具業界の最大手、ミツハシラ! どう、どう? 入りたくならない?」

「──…………」

「?」

「……そこ、二ヶ月前までおれが勤めてた会社……」

「え」

 窓海の動きが止まる。

「え──ッ! 宗八、うちの会社にいたの⁉」

「係長やってました」

「はー……」

「──…………」

「……ふふっ」

「はは、は……」

「あはははは! 宗八、うちの会社にいたんだあ! ぜーんぜん知らなかった!」

「くく、はははっ! 窓海が三柱みはしら会長のお孫さんだって知ってたら、もうすこし丁寧に接したんだけどな!」

「くふ、ふふ、そんなのいらないよう」

 腹を抱えて笑いあう。

 なにもかもがどうでもよくなって、溶けて、混じって、消えていく。

 かたくなだったつまらない決め事も、

 常識も、

 最善も、

 すべて、

 すべて。

「……なあ、窓海」

「ひ、ひー! なーに、宗八!」

「もしミツハシラに戻ったら、係長じゃなくて、部長待遇にしてくれ」

「宗八、野心家だねえ」

「いや、直属の上司と反りが合わないんだよ……」

 本部長の顔が脳裏をよぎる。

「──てことは、協力してくれるの⁉」

「ああ。どうやらおれは、そうしたいみたいだ」

 目を閉じる。

 赤錆びたレールは、そこになかった。

 寄る辺のない荒野。

 なんたる茫漠とした景色だろう。

 わかっている。わかっているのだ。

 いくら窓海が三柱会長の孫娘とは言え、既に退職した人間を部長待遇で再雇用できるほどの発言力を持っているはずがない。確約された成功など、そこにはない。

 だが、歩く。レールがなくとも、歩かねばならない。

 たぶん、それが、生きるということなのだろうから。

「やったーッ!」

「うお!」

 窓海が、おれに、思いきり抱きついた。

「ありがとー、宗八ぃ!」

 甘い香り。

 やわらかな体。

 熱いくらいの体温。

「──ちょ、離れろ! 離れろって!」

「えー……」

「えーじゃなくて! ほら、コトラ! 惑ヰ先輩も待ってる! 保健室に戻らないと!」

「はーい」

「──…………」

 胸に手を当てる。心臓がバクバク言っている。ロリコンではないと自負していたのに、抱きつかれただけでこのザマだ。もしかして、素養があったのだろうか。軽く落ち込む。

「ほら、行こ!」

「ああ……」

 窓海に手を引かれながら、おれは、来た道を引き返していった。

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