3/歌を忘れたカナリヤは -1
「ぶえー、ちかれたっすわあー……」
「お疲れさん。ま、パーティは片付けるまでがパーティってな」
内門へと至る道を、ピカソとふたりで歩いていく。夜の帳に隠れるように、人通りは多くない。世界で最も安全なこの街には、自然と同じ時間が流れているのかもしれない。
「ピカソは一番の功労者なんだから、わざわざ手伝ってくれなくてもよかったんだぞ」
「やー、そーゆーわけにもいかんしょ。手伝いもせず見てるだけってつまらんし」
先に帰っていてもよかった、という意味なのだが。
パーティ会場として貸し切りにさせてもらった喫茶店の片付けは、もともとおれとマスターのみで行う予定だった。コトラには、大量のプレゼントを惑ヰ先輩の個人寮まで運んでもらう必要があったし、カミ・シモ・キートは自前の音響設備を持って帰らなければならない。登校生である窓海には、カミたちを手伝うよう頼んであったので、てっきりピカソもそちらについて行くと思っていたのだけど。
「ここまでやったら、今日は惑ヰ先輩だけの誕生日じゃねっス。俺たちの誕生日! つーか、俺の誕生日も同然しょ!」
「いや、お前の誕生日ではないだろ」
「ハッピバースデイ俺! 今年二度目の誕生日!」
「近所迷惑だって」
相変わらず埒の明かない男だが、鬱陶しいとは思わなくなった。不本意ながらピカソのキャラクターに慣れてしまったこともあるが、それ以上に、純粋な一面を見すぎてしまったためだろう。ストーカーでなくなったピカソは、単なる愉快なハナタレ坊主である。
「──……あれ?」
高等部の敷地へと通ずる内門が見えた瞬間、おれは足を止めた。
「閉じてる……」
内と外の境界である隔壁には、およそ二十メートルほどの厚さがある。訪れたときには開いていたはずの内門の内側の門が、重々しく人を拒絶していた。
「あ!」
「……あ?」
ピカソが、ズボンのポケットから慌ただしくスマートフォンを取り出し、画面を覗き込んだ。
嫌な予感しかしない。
「あちゃー……」
「……なんかもう予測できるけど、いちおう、どういうことか説明してもらえるか?」
「いやー、あんね、もう八時過ぎちゃってたんスわ」
「うん」
「んで、星滸寮って、ほら、暗黒十二神のおぼしめしで、午後八時以降は寮外に出られない決まりじゃないスか」
「……うん」
「ソーハッさん、帰れない!」
ぶふー、と吹き出す。このやろう。
「つーか普通そういうのって門限の三十分とか一時間とか前に、なにかしら警告してくれるもんじゃないのか?」
「そらそーでしょう」
「……?」
「星滸塾って、超絶カムフラージュ術でどこにあるかはわからんけど、外内問わず監視カメラだらけだもん。顔ふんふふシステムでゲストがどこにいるかわかるから、最寄りの教師とか職員が帰宅を促してくれる手筈になってるはずっスよ」
「──…………」
しばし思案し、理解した。
「コトラ──さん、あの野郎……」
言い忘れてやがったな!
「てことは、おれはどうすればいいんだ」
「なんか、帰りそこねたゲストのための簡易宿泊施設がどっかにあるらしっスけど」
なんでもあるな、星滸寮。
「はあー……」
深く、深く、溜め息をつく。明日土曜日だし、休みだし、べつにいいけどさ。
「──うーす、俺俺! 中世末だけどー!」
隣を見ると、ピカソがどこかに電話を掛けていた。
「あんね、もー伝わってっと思うけど、うん、そうそう! やっちゃった系! んで、そう、うちにさ! あ、おげ? いえー! いえーす! ばいちー! ……通話終了、と」
「……?」
通話を終え、ピカソがスマートフォンをポケットに仕舞う。
「そーゆーわけっスから!」
「なにが」
「なにって、きーてなかったん?」
「いや、そもそも誰と電話してたんだよ」
「やだなー、うちの寮監に決まってるじゃねーの! っス!」
決まってるのか。
「だから、ソーハッさんが俺ん部屋に泊まるって話!」
「──…………」
一瞬迷ったが、ポジティブな反応を返すことにした。
「……えーと、いいのか?」
「いいよいいよー!」
おれは簡易宿泊施設でも一向に構わないのだが、厚意はありがたく受け取るべきだろう。
「……おれの寝場所、ちゃんと確保できるのか?」
「馬鹿にしちゃいかんよ!」
「あー、いや、すまん。普段のイメージがイメージだから、つい」
「横になるのが無理なら、立って寝ればいい! これをコペルニクス的回転タマゴと言う」
謝り損だった。部屋に着いたら、まずは大掃除だ。
「あ、そうだ。ソーハッさん、部屋戻る前に、温泉でひとっ風呂いかがスか?」
一献傾けるしぐさをして、ピカソが満面の笑みを浮かべる。酒ではないから、コーヒー牛乳かフルーツ牛乳のつもりだろう。
「温泉……」
ほんとなんでもあるな、星滸寮。
「いいけど、寮に風呂ってないのか?」
「個室にひとつずつあるけど、うちの風呂ってもう完全に物置なんスよ。冬物衣類と一緒に入るのもオツなもんかね」
「あー……」
ありがちな話ではある。
「疲れを取るなら広い風呂! 日本人なら温泉! そこんところは譲れませんぜ!」
「同感だ」
きびすを返したピカソにならい、いま来た道を遡っていく。温泉か。まさか、露天風呂なんてものはあるまいな。
……ないよな。
「──…………」
あった。
「ソーハッさーん! おっよごーうぜ──い!」
しかも、老舗旅館でも滅多にお目にかかれないような、立派な屋根付きの岩風呂だ。タオルで前を隠すのも忘れ、しばし呆然と佇む。星寮生って、修学旅行楽しめるのか?
「露天風呂なんて覗きの温床、絶対存在しないと思ったのに……」
「このあたりは女人禁制の男子寮区画やけんね! 女子寮区画には女子寮区画の大浴場があるはずっスよ! ぴゃー!」
湯けむりと水しぶきを上げながら、ピカソが露天風呂をクロールで横断していく。爪先が痺れるほどの水温にも関わらず、その動きには一糸の躊躇もない。熱くはないのだろうか。ないのだろうなあ。
「──それにしても、人っ子ひとりいないなんてな。この温泉って人気ないのか?」
「やー、たぶん、運よかったんスわ。ソーハッさん、このこのラッキーボーイ! 普段は個人寮の端からも人が来るくらい客足が絶えないんスけど、こんなことあるんね!」
それって、運でたまたまどうにかなる程度の確率なのだろうか。
「この時間帯は清掃中、とか……」
「清掃してないじゃないスか」
ぐうの音も出ない。
「そーいえば、このくらいの時間にフロ入りに来たのって初めてっスわ。俺、フロ上がったらすぐ眠くなっちゃうから」
「子供か」
ともあれ、気にかかる。
「出入口に看板とかなかったか、もういちど見てくるよ」
「えー、普通に入ったらいいじゃないスかー」
「そうなんだけどさ」
曇りガラスの引き戸に手を掛けようとした瞬間、脱衣所に人影が見えた。
清掃のおばさんだろうか。
いや、そのわりに肌色が多すぎるから──
──がら、が、がらがら
泉質のためか劣化の激しい引き戸を、突っ掛かりながら開いた。
「──…………」
「──……」
目が合う。見覚えのある造作。
当然だ。
ついさっきまで顔を突き合わせていた相手なのだから。
「惑、ヰ──先輩……」
その嫋やかな肢体を惜しげもなく晒しながら、惑ヰ先輩が答えた。
「オヤ、君も汗を流しに来たのかい?」
「──……えっ」
女性としては骨張った体。しなやかな筋肉とかすかな脂肪が、官能的な線でもって、思春期以前の少年にも似た美しさを醸し出している。髪の毛で隠されたふくらみは驚くほど薄く、タオルから伸びる足は目を見張るほど長い。
「──…………」
無言で回れ右をしながら、そっと胸に手を当てた。
心音は正常。脳髄は冷え切っている。
おれは知っていた。とっくに気がついていた。おれは、惑ヰ先輩がこの場にいることを、当然だと思っている。当たり前だと認識している。
「──嗚呼、ソウカ、そうだったね。君には言うべきだった。申し訳ない」
ぱさ。
タオルが落ちる音。
「こちらを見てほしい。自分は、こうイウものだよ」
「──…………」
導かれるように振り返る。そこに、惑ヰ先輩の裸体があった。男性。驚きはない。
「男、だったんですね」
「思っていたヨリ、驚かないんだね」
「ええ、まあ」
「気づいていたのかな」
「……そうみたいですね」
いつもそうだ。おれの賢しい無意識は、不都合のある情報をこちらに回してくれない。
「──…………」
まばたきの一瞬間、赤錆びたレールの果てが見えた気がした。
終点が近い。
最善の結末が、すぐそこにある。
「──うぶぶ、それにしても、ぶぶ、びっくりっスねー、あぶぶぶ」
湯になかばほど口をつけながら喋るピカソに、染み入るような声音で答えた。
「まさか、惑ヰ先輩が男だったなんてな……」
洗い場に視線を向ける。惑ヰ先輩がこちらに背を向けて髪の手入れをしているところだった。
男性だとわかっているのに、とっくに気づいていたはずなのに、背中から腰にかけての艶かしさに心臓を高鳴らせてしまう。
「え、そっちじゃないスよ」
「……?」
「そっちは一般ジョーシキ! 惑ヰ先輩が男だって知ってっから、惑ヰ先輩がフロ入る時間帯はみんな遠慮してるってコトじゃん? ソーハッさん、世の中ココやで、ココ」
ピカソが、自分の側頭部をトントンと指さしてみせた。ピカソに言われると、むしょうに腹が立つ。しかし、惑ヰ先輩に風呂を譲り続けている少なくない数の男子生徒の気持ちは、痛いほどよくわかった。あんな裸体を毎日見せつけられたら、性癖が歪んでしまいそうだもの。
「……じゃ、なにに驚いたんだ?」
「もーちーろん! ソーハッさんがそれを知らなかったって事実っスよ!」
「──…………」
思案し、答える。
「カミ・シモ・キートの会話から推測するに、登校生の大部分は知らないみたいなんだけど……」
「そうそれ!」
「どれだよ」
「こんなに星寮生と登校生で意識の差があるとは思わなかった! 俺、惑ヰ先輩が男だっての、入学したときからずーっと常識だと思ってたもん」
「……なるほどなあ」
〈登校生と星寮生のあいだには、明確で深い断絶がある〉。
出羽崎氏に見せてもらった手書きのペラ紙に書いてあった言葉だ。まさか、こんなところで再認識するとは思っていなかったけれど。
「ピカソ」
「うーい、ぶぶぶぶ」
それやめろ。
「……ピカソは、惑ヰ先輩が男だって最初からずっと知ってたんだよな」
「いま言ったじゃないスか」
「窓海が惑ヰ先輩と親密なのは知ってるよな」
「いまさらじゃんね」
「てことは、必然的に、惑ヰ先輩はお前の恋敵ってことになると思うんだが……」
「──……?」
ピカソが小首をかしげる。窓海は、当然、惑ヰ先輩の正体を知っているだろう。含みを持たせた言葉をたびたび漏らしていたし、そう仮定すれば辻褄の合うことも多い。
「……もしかして、気づいてなかった?」
「──…………」
機能停止していたピカソが、ぎぎぎと首を右に傾けた。視線の先には、惑ヰ先輩。ピカソがいつ暴挙に出ても無力化できるよう、ゆっくりと腰を持ち上げる。
「……ソーハッさん」
「ああ」
「俺、百合も行けるクチなんです」
「はあ?」
「親園が男子と乳繰り合うのは耐えられない! でも惑ヰ先輩とのギリギリプラトニックいちゃこらが見れなくなるのも嫌だ! ソーハッさん! ソーハッさん! これって寝取られ属性への片道切符っスか?」
「知るか」
心配して損したと溜め息をついたとき、
「──失礼スルよ」
おれより立派なものを堂々とぶら下げた惑ヰ先輩が、岩風呂に足を浸した。
「ヤア、なんの話をしていたんだい?」
「いやーハハハ、あのその」
「──…………」
惑ヰ先輩の全身に視線を這わせる。注意深く観察してみると、華奢とは言え、やはり男性らしい骨格が見て取れた。首から上は絶世の美女。その朱色の唇がいちいち艶めかしく動くものだから、つい無意識に見惚れてしまう。そのうちに、惑ヰ先輩が男性であることを思い出し、一瞬でも心惹かれた自分に恥じ入るのだ。
ジロジロと遠慮無く見入ってしまったためか、惑ヰ先輩が不安そうに言った。
「──不快、だったかナ」
その右手が首元に掛かっている。例の悪い癖だ。
それは、きっと、惑ヰ先輩がこれまでの人生のなかで、幾度も幾度も投げつけられてきた言葉なのだろう。
怯えている。当然だ。面と向かって拒絶されることに、慣れなんてない。あるとすれば諦念だ。予防線を張った割り切りだ。うまい逃げ方を習得するには、彼らの人生はまだ短すぎる。
「不快ではないです。ただ、その、思ったより男性らしい体つきなので、違和感が……」
惑ヰ先輩が、屋根の隙間から星を見上げる。
「こんなオトコが女装して学校に通っているだなんて、滑稽だろう?」
「──…………」
自虐スイッチが入っている。
「……あの、理由、聞いてもいいですか?」
「理由?」
「惑ヰ先輩が、女装をする理由です」
「アア──……ハハ、ハ……」
不器用な笑い声を上げて、惑ヰ先輩が口を開く。
「そんなコト、初めて聞かれたナア……」
「初めて、ですか?」
「ウン、ウン……。誰も、ネ、聞いてくれなかったんだ。踏み込んでくれなかった。教師すらね。自分は、どこまでも自由だった。ダカラ、こんなことに、なってしまったのカモね……」
「──…………」
「理由は、ね。そんなものは、本当は──本当に、ないんだ」
「……ない、ですか?」
「ああ。だって、似合うだろう?」
惑ヰ先輩が、挑発的な表情を浮かべながら、掻き上げた髪を耳に引っ掛ける。
「似合い──ます、けど」
「ありがとう。君に褒められると、なんだかトテモ嬉しいなア……」
「──…………」
「──……」
なんとなく見つめ合う。
ええと、なんだろう、この、なんだ、妙な雰囲気は。
「はい、はい!」
おれと惑ヰ先輩とを遮るように、ピカソが大きく手を上げる。
「俺も、惑ヰ先輩の女装好きっスよ! なんか、こう、エロくて!」
「エロ……」
もうすこし言い方はなかったものか。
「ハハハ、ありがとう、嬉しいよ」
「うス!」
「──……はは」
ピカソの天真爛漫さに救われた、気がする。
「……ささみと出会ったころは、まだ女装していなかったんですね」
「ソウ、だね……。あのころは、そう、いかにもお坊ちゃんな恰好が多かった気がするナア。ワイシャツに吊りズボンなんか穿いて、さみちゃんの後ろを、ネ……、よく、追っ掛けていたっけ……」
懐かしいナア、と呟き、惑ヰ先輩が目を閉じる。
「その、ささみはどんな──」
──遠くから着信音が鳴り響く。
「あ、おれの携帯かな」
「ソーハッさん、着信音デフォルトなんスかー?」
「いいだろ、べつに。──すいません、ちょっと出てきます」
「アア、わかった」
露天風呂から上がり、タオルで体を軽く拭きながら脱衣所を目指す。着信音は途切れない。わかってる。そう急かすなよ。
ロッカーの鍵を開き、スマートフォンを手に取る。
〈原 コトラ〉
そうら、来た。
「──もしもし」
『──……ひ、ぐ……、うぐ……』
押し殺した声が電話越しに耳朶を打つ。
『私──、私のせい、だ……。私が、浅はかだったんだ。最悪の可能性を考慮したつもりで──その実、なにも見えていなかった……。失敗したところで、どうにでもなる。本気でそう思ってた。お笑い草さね……。宗八に──宗八を利用しようとして、結局はこのザマさ……』
「なにがあったんだ?」
わかっている。知っている。アンサーシーカーに不備はない。
『……惑ヰくんと、ささみが、抱き合ってる姿が、監視カメラで撮影されてた。そこまでは織り込み済みだったんだ。本当だよ。その動画データと、惑ヰくんの素性が、出羽崎家に送られて──』
「──…………」
なるほどね。
『ごめん、宗八……。惑ヰくんは、本当は──』
「男なんだろう?」
『……知ってたのかい』
「ついさっき知ったんだ」
惑ヰ先輩が男性だったという事実が明らかとなり、大きく変わったことがある。
「コトラ。お前は、おれを誘導して、惑ヰ先輩とささみの仲を取り持とうとした。惑ヰ先輩が男性である以上、監督教員であるお前は身動きが取れない。なにも知らないおれは、恰好の道具だったろう」
『……ごめ、なさ……』
「べつに、怒っているわけじゃない」
『──…………』
「なにが起こったのか、当ててみせようか?」
『……宗、八?』
「ささみは特別監督生徒だ。しかし、必ずしも、男子生徒との接触が禁じられているわけじゃない。事実、おれと手を繋いだこともあるが、お咎めはなかった。校舎内のことだ。監視はされていただろうにな。出羽崎氏が問題にしているのは、そこに恋愛感情があるか否かなんだろう」
『──…………』
「惑ヰ先輩はささみの幼馴染だ。幼馴染の男の子と再会し、涙を流して抱き合った。そこに恋愛感情が介在しないと誰が言える? 惑ヰ先輩が男性であるとわかってしまったいま、事情を知っているおれですら断言はできないさ。これは、出羽崎氏の逆鱗に触れるに十分な事実だろうな」
『……レール、見えてたのかい?』
コトラの言葉を黙殺し、おれは続けた。
「出羽崎氏はこう考えるだろう。惑ヰ先輩とささみを引き離さなければならない。そのためのいちばん簡単な方法は、ささみを隔離することだ──と」
『……当たり、だよ。日曜日の朝、ささみは──ささみは、クラスメイトたちに別れの挨拶をすることもなく、北海道にある女子分校に身柄を預けられる。その予定さね……』
最善の結末。
赤錆びた線路の果て。
二年近くも高校生のふりを続けるより、できるだけ早くサキサカホールディングスに身を置き、キャリアを積んだほうが良いに決まっている。
「ささみを犠牲にして、おれは、晴れて社会人へと復帰できるわけだ」
『……ッ』
コトラが息を飲む。激昂しかけたのだろう、と思った。
『そんな言い方……、ないんじゃないかい?』
「事実だ」
『……そう、だ。そうだね……』
そっと、裸の胸に手を当てる。
心音は正常。
しかし、携帯を持つ手が、すこしだけ震えている。
『……宗八。こんなこと頼むの、厚かましいかもしれないけど──、ささみを転校させないよう、力を貸してくれないか……』
「──…………」
『後生だから──あの子は、あの子だけは、幸せにならなきゃいけないんだから……』
「……考えておく」
『本当、かい?』
考えるだけなら差し支えない。結論が変わるとは思わないけれど。
『なら、明日の午後、保健室まで来てくれないか。私はいま、ささみから離れるわけにはいかないから。作戦を、作戦を立てなくちゃ、ならないから……。手筈を整えて、力を合わせて……きっと、なんとかなる。なんとか、する』
「……それじゃあ、明日」
『また、あした……』
通話が切れる。
携帯を右手に持ったまま、ロッカーの扉に額を当てた。
冷たい。
気持ちがいい。
最善の結末。
小狡い賢しさが見出した、自己中心の最大幸福。
枯れ葉の束。
愚かしくあろうとすること。
ピエロ。
自らの尾にじゃれる犬。
たったひとりで荒野へと立ち向かっている。
青春のようなもの。
断面。
翡翠の鳥居。
丸く絞った青空。
そんなこと、できるわけがない。
「──…………」
意味のない幻聴と幻覚とが押し寄せる。
「……もう、やめよう」
考えるな。
考えるな。
浴場に戻る気にはなれなかった。
このまま服を着て、すこし夜風に当たることにしよう。
そう思ったとき、再び着信音が鳴り響いた。
〈サキサカ 出羽崎〉
「──…………」
脱衣所の大鏡に視線を向ける。ひどい顔をしている。
最善へと辿り着いたはずなのに、喜びはない。
スマートフォンの画面をフリックし、通話を開始する。
『──やあ、山本宗八君』
出羽崎氏の落ち着いた声が、電話越しに鼓膜を震わせた。
『すまないが、明日の正午、本社にある僕の部屋まで来てくれないか。直接会って話さなければいけないことがある。なに、時間は取らせないさ。君のことだから、わざわざ電話で呼ばなくたって、勝手に来てくれるとは思ったんだがね』
「──…………」
出羽崎氏の言葉に、無言で頷く。
すぐにその愚行に気づき、自嘲混じりに口角を吊り上げた。
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