2/夕闇に鐘は響く -3

「うーん……」

 おれは悩んでいた。

「スタミナの回復が早すぎて、余剰時間がもったいないなあ……」

 LINEでシモに愚痴ると、

《そんなの、最初だけの贅沢な悩みだよ》

 と返ってきた。

 スタンプを使わない主義のシモとのやり取りは、自然、落ち着いた雰囲気のものになる。

 カミとキートに押されて学園での印象は薄いけれど、スマートフォンを介した一対一のやり取りでは意外に饒舌だ。LINEでのトーク履歴が最も長いのは、恐らくシモだろう。次いでささみ、同率でキート、あとは友達登録したクラスメイトたちやグループチャットなどが団子のように連なっている。

 カミとのトークは、非常に簡素で事務的だ。聞くところによると、カミは、PCでのコミュニケーションに比重を置いているらしい。スマートフォンを使ってちまちまとやり取りするのは苦手なのだそうだ。

 ちなみに、窓海はガラケーなので、LINEは使えない。メールのみである。

《僕なんて全回復するのに半日以上かかるから、イベントのときいつも〈マイキャンディ〉が半分くらい減るよ》

 なるほど、レベルが高ければ高いなりの苦労があるのだろう。

「ところで、〈マイキャンディ〉と普通の〈キャンディ〉に、なんの差があるんだ?」

《効果に差はないよ。スタミナ全回復。でも、普通の〈キャンディ〉はトレードとオクのとき実質的な通貨になる》

「通貨はゴルトだろう?」

《〈キャンディ〉は課金で買えるけど、ゴルトは買えないでしょ? だから、リアルマネーの唸ってる社会人が万単位で突っ込んでURを奪い合ってるわけさ》

 報告書をまとめる片手間でChronicle of XANADU 4.5をプレイする。これが、なかなか悪くない。行き詰まったときに進めると、ちょうどいい気分転換になるのだ。手軽にできるクエストばかりこなしているおかげでストーリーが随分と溜まってしまったから、そのうち一気に読んでしまおうとは思っているのだけど。

 なんだかんだでハマってしまっているおれだった。

 ああ、そうだ。

 忘れないうちに頼んでおこう。

「シモ、七月十一日って用事あるか?」

《なにもなければ暇だよ》

 そりゃそうだろう。

「惑ヰ先輩って知ってる?」

《すごい美人の先輩でしょ? なんとなく覚えてる》

「そう」

《見かけたことはあるけど、話したことはないよ。高嶺の花ってあんな感じかな。そもそも、うちのクラスの親園以外と会話してるところなんて、あんまり見たことないし》

「見かけたことがあるだけ、のわりに、しっかり覚えてるんだな。ムッツリめ」

《節度を守ってると言ってもらいたいね。さておき、あの人本当に目立つからね。うちの学園は美人率高いと思うけど、それにしたって目に留まる。なんか変だよね》

「……変、か?」

《惑ヰ先輩は大和撫子って感じの淑やか系の美人でしょう。派手派手の後輩とか、僕なんかにも声を掛けてくるコミュ力高い同学年の子もいる。でも、名前は知らないし、覚えてない。惑ヰ先輩だけ、あ、惑ヰ先輩だって思う。同じくらいの美人はいるのに》

「それ、シモの好みってだけじゃないか?」

《カミもキートも覚えてるよ。ときどき話題に出てくるから》

「ふうん……」

 なにをしても衆目を集めてしまう人間は、たしかにいる。

 しかし、その理由がわからないのは、なんだかもどかしい気分だった。

《たぶんだけど──》

 長考に入ったらしく、シモからのメッセージが中断した。

 しばらくクロザナのクエストを進めていると、スマートフォンが再び震えた。

《なんか、なにか、違和感があるんだ》

《意識にのぼらないくらいの》

《それで、つい見ちゃうんだと、思う?》

 疑問形にされても困る。

 さて、話題を戻そう。

「おれ、惑ヰ先輩とすこし縁があってさ。七月十一日は、惑ヰ先輩の誕生日で──」




「ありがとうございました──っ!」

 二の腕に包帯を巻いたバレー部らしき少女が、下足場のほうへと駆けていく。

 一見して楽そうに思える養護教諭の職務だが、これでいて忙しいものらしい。こころのケアが必要な生徒はスクールカウンセラーが担当するが、ちょっとした相談事くらいであれば、だるだるで話しやすい雰囲気を持つコトラを頼る生徒も少なくない。

 女子高生の生々しい恋愛話などを事あるごとに聞かされれば、おれなら胸焼けしてしまうだろう、と思った。

 こん、こん。

 黒檀色の引き戸をノックする。

「──宗八かい?」

 そっと引き戸を開き、室内を窺う。

「よくわかったな」

「ささみはとっくに来てるからね」

 そう言って、左の口角を吊り上げる。

 答えになっていそうで、実はなっていない。べつにいいけど。

 保健室をぐるりと見渡すと、ベッドを間仕切るカーテンの隙間からオオカミがひょいと顔を出した。

「ちょうどいい、ささみに用があったんだ」

「──……?」

 肌の白い小柄な少女が、カーテンを揺らして現れる。

 そのままシンクへ向かおうとしたので、

「あ、お茶はいいよ。それほど長居はしないから」

「そう?」

 三人掛けのソファの左端へ、どっかと腰を下ろす。

「どうかしま、した?」

 対面に据えられた一人用のソファに腰掛けたささみが、肘掛けの上で両手を重ねた。よく見かける仕草だ。癖のようなものらしい。

「あー……、と、なにから言えばいいかな」

「……?」

 ここは、舌先三寸でどうにかするしかないだろう。

「ささみは、敬語癖を直したい。間違いないか」

「えっ」

「間違いないか?」

「うん……」

「なら──、いつまでに、直したいんだ?」

 浅く切り込んだ。

「──いつ、まで?」

「ああ。目標があると頑張れるだろう?」

「そう……だ、ね。うん」

 なにかを隠すように、取り繕うように、ささみが笑みを浮かべた。

 まだだ。まだ核心には至っていない。

「そこで、勝手ながら、おれが目標を決めてみたんだが──」

「え……」

 異論が出る前に告げた。

「七月十一日だ。この日を過ぎると、意味がない」

「──…………」

 ささみが絶句する。つばを飲み込む音がかすかに聞こえた。ささみの理解が追いつく前に、コトラが言葉を差し挟む。

「宗八、さすがにそれは──」

 卓上カレンダーに視線を向ける。


 七月三日(木)


 あと八日間。たったの八日間。

 不可能なことは最初からわかっている。

 一年間で直らなかったものが、八日ぽっちで矯正できる謂われはない。

 しかし、どうしても、この日を逃すわけにはいかなかった。

「ささみ」

「──…………」

 なかば呆然としながら、ささみがこくりと頷いた。

「過ぎたことは、過ぎたことだ。いまさら追い詰めるようなことは言わないよ。体育会系のノリで、頑張れば必ずできる、報われる──なんて、視野狭窄なことも言わない。おれは、たぶんだけど、すべての事情を知っている。それを念頭に置いてほしい。おれがなにを言いたいのか、すぐにわかると思うから」

「なに、を……?」

 当惑するささみを無視し、言葉を継いだ。

「おれは知ってる。ささみが敢えて言わなかった、ほとんどすべてのことを。……勝手に調べたんだから、ピカソのことは言えないな。窓海に尋ねた。去年のクラスメイトに訊いて回った。何故なら、おれは知らなければならなかったから。いつから、どうして、いつまでに──」

 一呼吸置いて、言った。

「敬語癖を直さなければならないと、お前は思ったんだ?」

「──…………」

 俯いたままのささみがスカートを握りしめる。スカートがよれて、膝小僧が見えた。オオカミのガラスの瞳がこちらを睨んでいるように思えた。

 中学時代、ささみは、敬語を使うことを除けばごく普通の生徒だった。これは、窓海から聞いた事実である。星滸塾学園に入学した当初も、敬語を使った口頭でのコミュニケーションに抵抗を覚えてはいなかった。少なくとも、クラスメイトからはそう見えた。この時点まで、ささみは、敬語癖にコンプレックスを抱いていなかったと断言して構うまい。

 ささみは敬語でしか話せない。かつては、敬語での会話ができていたのだ。それが、できなくなった。あるいは、しなくなった。

 徐々に、ではない。

 最初から、でもない。

 唐突に、なのだ。

 ささみの様子が一変したのは、二学期の始まりだったという。他人を拒絶するオオカミパーカーと共に、ささみは、クラスメイトとの交流を携帯電話越しに限定した。当時のクラスメイトは困惑したらしい。当然だ。

 具体的になにがあったのか、それはわからない。だが、見当はつく。

 以下は推測に過ぎないが──


 最初は、ささやかな決意に過ぎなかった。あるひとと、あのときと同じ言葉で、あのころと同じように話したいと思った。外見は変わったとしても、自分はなにひとつ変わらない。そう伝えたかったのかもしれない。

 ささみの失敗は、最短の道のりを安易にを選択したことだ。自分自身に敬語を禁じ、常語での会話を課した。さながら、たった一歩でゴールを目指す短距離走者だ。明らかに間違っている。

 段階を踏まなければ──彼女は、そう思い直したに違いない。

 会話のすべてを常語に置き換えることは不可能だ。そこで、スマートフォンを利用することにした。LINEを介して友人たちとコミュニケーションを図り、口頭でのやり取りが避けられない場合にのみ、敬語を捨て、常語を意識する──たぶん、そのようなことを考えていたのだと思う。

 誤算があるとすれば、〈口頭でのやり取りが避けられない場合〉とやらが存在しなかったということだ。スマートフォンを使った意思疎通に不備はなかった。それどころか、絵文字やスタンプを駆使することで、実際の対話以上の情報量を交換することができてしまった。

 敬語は、自らの手によって禁じられている。しかし、スマートフォンを利用したコミュニケーションに不足がない限り、常語を発する機会はない。不運なことに、ささみは、馬鹿正直なくらい生真面目だった。自分ルールなんて好きに改竄すればいいものを、決してそれを是としなかった。自ら課した規則と現実との齟齬に足を取られ、腕を取られ、気づけば身動きがとれなくなっていた。自らが作り出した糸に絡め取られたのだ。

 かつて抱いた決意は、言葉だけのものに成り下がった。実現できるだなんて思ってはいない。しかし、矯正のために支払った時間を、努力を、無意味と認めることもできない。そうして残されたものは、〈スマートフォンで会話をする少女〉という、いかにも星寮生らしい奇矯なキャラクターだけだった。

 星滸塾学園では、誰も彼女を否定しない。それどころか、誰もが彼女に好感を抱いている。クラスメイトも、男子も、女子も、先輩も、後輩も、教師ですら、彼女を悪く言うものはいなかった。だから、脱却する強い理由もない。いままでそうであったのだから、これからもそうあり続ければいい。

 惰性。惰性だ。

 いつしか、そのひとと再会することが恐ろしくなっていた。向き合っている自分が想像できなくなった。現状の維持を努力と呼ぶようになった。無意識に手を抜いていた。〈保留〉、し続けた。

 それが、きっと、真実なのだと思う。


「──…………」

 返答はない。

 しかし、人間は、与えられた問いに対し反射的に思考する。口には出さなくとも、脳裏をよぎったはずだ。思い出したはずだ。自分の目的を、再確認したはずだ。

「……宗八」

 コトラが、ささみの傍に膝を突き、軽く抱き寄せた。

 おれから守るように。

 世間から、

 偏見から、

 父親から、守るように。

「──…………」

 コトラの腕に包まれて落ち着いた様子のささみが、スマートフォンを取り出した。

 携帯が震える。

《どうして十一日なの?》

 きっぱりと告げる。

「惑ヰ先輩の誕生日だからだよ」

「……ッ」

 ささみの顔から、さっと血の気が引いた。

「惑ヰ先輩にとって、高校生活最後の誕生日だ。これ以上の機会はない。この日を逃せば、敬語癖が直ることは永遠にないだろう。理由は霧散して、日常へと還っていくだけだ。目的が果たされないままに」

 すう、と。

 思いきり息を吸い、吐いた。

「──ささみ。お前は、ずっと、惑ヰ先輩と話したかったんだろう? あのころ交わした言葉で。あのころと同じ呼び名で。だから、自分のことを〈ぼく〉と呼ぼうとしていたんだな。あのころのささみは、まるで男の子のようだった──そう言って、惑ヰ先輩は笑ってたよ」

「!」

 ささみが目蓋を見開いた。

「仙ちゃん、気づいてたんですか……」

 せんちゃん。ささみはそう口にした。

 そう言えば、おれは、惑ヰ先輩の下の名前を聞いたことがなかった。しかし、いま尋ねる必要はない。いつか本人に訊けば済むことだ。

「……さて、と」

 鞄を拾い、立ち上がった。

「人間は、結局のところ、できることをするしかない。できるかどうか判断がつかないのであれば、試してみるより道はない。ああ、そうだ。惑ヰ先輩の誕生パーティを開こうと思うんだが、どうすればいいのかな。〈内側〉で開くとすれば、許可が必要になると思うんだが──」

「──宗八くん」

 ささみが、おれを見上げた。おれの双眸を見つめた。

「どうして、ここまでしてくれるのですか?」

 ささみが流暢な丁寧語で言った。ふつうに喋ると、こうなるのだ。

「んー……、そうだなあ」

 シックな飾り天井を見上げながら、唸る。

 仕事だから。それだけではない。この行為は、明らかに仕事の範疇を越えている。

 胸のなかで、なにか、チリリと痛むものがあった。

「おれは〈保留〉が嫌いだ。ささみの指のあいだから、とても大切なものがこぼれ落ちていくのが見えた。だから、止めなきゃって思ったんだ。それに……、それに──」

 去来した感情に当惑しながら、告げた。

「……家族以外の誰かに、ありがとうと言われてみたくなったんだ。それだけだよ」

「──……?」

 ささみの表情が不理解に曇る。

 打算のない行動。たったそれだけのことを、おれはずっと忘れていたのだから。

「──…………」

 ささみに寄り添うコトラと、かすかに視線を交わす。

 たったそれだけで通じ合うものがある。

 レールなんて見えなくても、わかる。

 この道は正しい。

「ささみ、七月十一日までに敬語癖を直せ。そのあとのことは考えなくていい。ささみの意思とは関係なく、誕生会は開かれる。主役はもちろん惑ヰ先輩だ。だから──」

 ささみの手を取り、続けた。

「あとは、ささみの自由だ。諦めたいなら、それで構わない。頑張って、頑張って、それでも無理だったとしたら、それはささみのせいじゃない。無茶を言ったおれが悪いんだから」

「──…………」

「……ただ、俺は、ふたりが笑い合う姿を見たいと思う」

 ささみは答えなかった。背中を押す強さは、これくらいで十分だと思った。結局のところ、おれは無力である。舞台を整えることしかできないのだから。

 ささみを信じよう。どちらの選択をしても構わない。〈保留〉から抜け出すことができれば、ささみはきっと成長するだろう。

 願わくは、ささみにとって、充実した八日間でありますように。

「……ああ、そうだ。いくつか本を借りてきたから、参考にしてくれ」

 ずしりと重い鞄から、数冊の本を取り出した。

「心を揺さぶる名言集、親しい人へ贈る手紙の綴り方、腹式呼吸ダイエット、晴れの日に傘をさして──これはエッセイ集だな、アレクサンダーとぜんまいねずみ、相手を意のままに操る社会心理学的実践会話講座、新現代和歌川柳、サラリーマン川柳──」

 どさどさとテーブルの上に積んでいく。

「そ、そんなに読めないです」

「いいんだよ、べつに。適当に借りてきたんだ。敬語癖の直し方なんて、ピンポイントな本があるわけないし。逆はあるかもしれないけどな。ぺらぺらめくって、たまたま役に立つ一文があれば、それで十分だろう?」

「そんなもの?」

 ささみが小首をかしげた。

「そんなものだよ」

 にいっ、と笑ってみせた。

「あと──、まあ、これは、気に入らなければ返してくれて構わないんだが、よかったら」

「?」

 言い訳混じりに舌を回しながら、一冊の分厚い本を取り出した。

 心音は異常。すこしだけどきどきしていいる。

 窓海から聞いてはいるものの、見当違いだったら恥ずかしいことになるからだ。

「じゃーん、完全保存版 最新バイクカタログ 国産、外車、全部見せます──、なーんて」

「あ、バイク!」

 ささみの顔が、見るからに晴れ晴れしくなった。

「しかも、二〇〇三年度版」

「えーっ!」

 胸中で、ほっと胸を撫で下ろした。

「そ、そんなの、どこで手に入れたんですか!」

「いや、たまたま家にあったんだ。窓海から、ささみはバイク好きだって聞いてたから、気分転換にどうかと思って」

「なります! なります!」

 ささみが、ぶんぶんと首を縦に振る。

「二〇〇三年って言ったら、わたしが、まだ六歳のときですか……」

「──…………」

 おれは、いまのささみと同じ年齢だった。改めて世代の差を感じる。

「二〇〇三年なら、なんと言ってもジーストですよね! あれカッコよかったです!」

「あー、あれ販売してほしかったよな。欲しくはないけど一度乗ってみたい」

「ですです。あとは──そう、SV1000Sもそうでしたっけ。カクカクした立派なトラスフレームで、あれもよかったなあ……」

「ささみ、スズキ好きなの?」

「だんぜんスズキです! 次点でヤマハでしょうか」

 ああ、だからハヤブサが好きなのか。

「宗八くんも、バイク好きなんですね!」

「……あ、うん、乗ってるからな」

 思った以上の熱量でぐいぐい来るものだから、思わず白状してしまった。

「えーッ! なに、なに乗ってるですか!」

「俺はヤマハ派だから、ニーハンのビラーゴだよ」

「250cc、なるほど現実的ですね」

「車検ないからなー」

 しばらくのあいだ、バイク談義に花を咲かせる。

 窓海も、女子としては珍しいくらいのバイク好きだったが、ささみは輪を掛けてディープだった。たぶん、知識量だけで言えば、おれなんかより遥かに上だろう。

 おれは、なんだか嬉しくなってしまった。

 最後にツーリングへ行ったのは、三年ほど前のことだ。なんでもいいから有給を消化しろと言われてできた連休を利用し、北海道ツーリングを敢行したのだ。

 不意に、ささみにも、あの空気を引き裂いていく感覚を味わってもらいたくなった。

「よかったら、今度──」

 慌てて言葉を止める。

 今度、後ろに乗せてあげようか。

 そう言いかけてしまった。

 青い鳥。

 そんなこと、できるはずがないのに。

「──…………」

 ささみも、おれが言おうとしたことを察したようだった。

「……宗八くん、大丈夫です。大丈夫。カタログを見るだけで、友達と盛り上がることができるだけで、こんなにも満たされるんです。これ以上は、溢れてしまいます」

 ささみを、本当の意味で守るということ。コトラと視線を交わす。答えはまだ見えない。しかし、こんな痛々しい笑顔を強いることが正しいはずはない。

「……それで、いいのか?」

 ささみは目を伏せた。

「わたしは良い子です。ずっと、ずっと、良い子でした。父は厳しいけど、とてもやさしいひとです。母が亡くなってからも、非の打ち所のない父であり続けました。だから、わたしも、非の打ち所のない、良い子でなければいけないんです」

「──…………」

 取り引きのようだ、と思った。良い子であることを条件に、庇護されている。そんなことはないのに。出羽崎氏は、ささみのことを、無条件で愛しているのに。

「──さて、と」

 思考を無理に押さえつけて、おれは立ち上がった。

「それじゃあ行くよ。パーティの準備があるから、誕生日の前日にでも、また顔を出そうと思う。本の貸出期間、一週間だしな。回収がてら進捗を見せてくれ。なにかあれば、LINEで適当に絡んでくれればいいから。愚痴だっていい、付き合うさ」

「できれば、びっくりさせたいです」

「奇遇だな。おれも、びっくりしたい」

 くすくすと笑い合う。

「ささみも、コトラ──さんも、またな」

「はい」

「あいよー」

 二者二様の挨拶を微笑ましく思いながら、黒檀色の戸を開いた。



「──…………」

 後ろ手に引き戸を閉じる。

 右手の気配に視線をやると、窓海が掲示板に背中を預けていた。

「保健室、入らないのか?」

「……どこも痛くないし、具合も悪くないもん」

「そうか」

 なんとなく、窓海の隣にうずくまった。言わなければならないことがあった気がする。聞かなければいけないことがあった気がする。ただ、それは、ひどくとりとめのないもので──

「……どうしようか、悩んでた」

 先に、窓海が口を開いた。

「わたし、ぜんぶ知ってた。惑ヰ先輩が、楽しそうにささみの昔話をするのが、たまらなく嫌だった。だから言わなかったの。隠してた。親友の、憧れのひとの心のなかで、わたしがちいさくなっていくのが怖かった」

「──…………」

「ねえ、宗八は気づいてたかなあ。わたし、ささみといるときは、いつだって怯えてたんだ。だって、ささみがいつ心変わりするか、わからなかったもん。生真面目で頑固でヘンな子だから、敬語癖が抜けない限り惑ヰ先輩に話しかけることはしない。そんなこと、わかってるのに──、もし引き合わせてほしいと頼まれたら、断れないって思うから」

 些細な告白。ささやかな懺悔。

「窓海はいい子だな」

 頭を撫でようかと思ったが、やめた。そこまで子供ではない。

 窓海は、ふるふると首を横に振り、

「嫌なやつ、だよ」

 と自嘲気味に言った。

「窓海は悪くない。悪いのが窓海だけのはずがない。窓海が悪いと仮定した場合、構造的に、他のふたりも自業自得──つまり、悪いってことになってしまう」

「……こうぞうてき?」

 窓海の頭上に、はてなマークがともる。

「要点をまとめよう。窓海は、ささみと惑ヰ先輩が再会することに怯えていた。再会して、ふたりが親密になって、自分の存在がちいさくなることを危惧した」

「あ、うん……」

 実際には、そんなことにはならないと思うが、窓海が不安に思っていたことは確かだ。

「惑ヰ先輩もまた、ささみとの再会を恐れていた。ささみが幾度となく惑ヰ先輩を拒絶するような行動、言動を、繰り返していたから。そして、ささみもまた、再会に怖気づいていたんだろう。すっかり変わってしまった自分をオオカミパーカーで隠して──本人には敢えて突っ込まなかったけど、あれ、今の今まで気づかれてないつもりだったらしいぞ。変身ヒーローじゃないんだから前より目立ってどうする、と思うが、顔を隠すことに必死で気が回らなかったんだろうな……」

「あはは、辛辣だあ」

「みんな等しく再会を恐れていた。等しく隠していた。だから、窓海だけが罪を背負うことはできない。窓海が悪いなら、ふたりも悪い。ふたりが悪くないなら、窓海も悪くない。きっちり三等分だ」

「……へんな慰めかた」

「うるさいな」

 女子高生の慰め方なんて、知るものか。

「もしかして、わたし、言いくるめられてるのかなあ」

「いいから、くるまれときなさい」

「はーい」

 窓海が、幾分か明るい笑みを浮かべた。

「よし、そろそろ行く!」

 ぱん!

 窓海が、自分を鼓舞するように両手を打ち鳴らし、保健室の引き戸に手を掛けた。

「──矯正、付き合ってあげるのか?」

 制服のズボンを払いながら立ち上がった。

「言ったでしょ。親友が困ってたら、放っておけない。そういうものだよ。ささみの敬語癖を直せば、惑ヰ先輩も喜ぶ。たったひとつの冴えたやりかた。親友と、憧れのひとを、同時に手伝えるんだ。どうしていままで気づかなかったんだろうねえ」

 どこか爽快さを感じさせる笑顔を浮かべ、窓海はそう言った。

 無理をしているようには見えなかった。

「その結果がどうあろうとも?」

「宗八が責任とってくれるんでしょう?」

 保健室での会話を立ち聞きしてたな、こいつ。

「……ま、いいや。ささみのことを頼むよ」

「はいはーい」

 窓海が引き戸に手を掛けた瞬間、おれは尋ねた。

「ずっと気になってたんだけど──」

「うん?」

「……あの、惑ヰ先輩とささみも、女性同士で──こほん、そういうアレ、なのか?」

 当然のように語られるから、質問する機会がなかったのである。

「あー……」

 幾度か頷いてみせたあと、窓海がニヤリといやらしい笑顔を浮かべた。

「なんだよ」

「そのうちわかるよ」

「気になるんですが……」

「じゃ、ひんと。惑ヰ先輩──は、まあ、よくわからないんだけど、わたしは、自分のこと普通だって思ってるよ。変態みたいに言ってほしくないなあ」

「はあ……」

 さっぱりわからない。

「それに、いまは、憧れてるだけだよ。そういうアレは、まだピンと来ないから……」

「そういうもんか」

「んじゃねえ」

 窓海が保健室へと消えていく。その足取りは軽い。本当は、ずっと、手伝いたかったのかもしれない。ずっと機会を待っていたのかもしれない。目を閉じたまま足踏みを続けるささみを見て、ずっと気を揉んでいたのかもしれない。

 一年だ。

 彼女たちにとっての一年間は、時間を押し潰したかのように濃いのだから。

「さて、まずは──、と」

 まず、惑ヰ先輩にアポイントメントを取り付ける必要がある。サプライズ演出より、主役の有無のほうが優先順位が高い。本人不在の誕生会ほど空虚なものはないだろう。既に誕生パーティを企画している同学年の友人がいれば、そちらと併合する必要がある。また、派手にすべきか、地味にすべきか、参加者の希望についても詳細を詰めておこう。

 パーティの主役は惑ヰ先輩だ。

 よって、骨子の部分だけは、主役の好む形式をとるべきである。

「──…………」

 おれが誕生パーティに入れ込むのは、子供のころの経験に由来する。

 誕生日。

 それは、一年に一度だけ、王様になれる日のことだった。貴重な金色の折り紙をあしらった手作りの冠をかぶり、なんだってわがままを言うことができた。プレゼントがなくても、それでよかった。ケーキがなくても、満足だった。

 王様ごっこなんてすぐに飽きて、王冠は、次の誕生日まで押し入れに仕舞われていた。あとは、いつもどおり。ほんのすこしだけ豪華な夕食を楽しんで、誕生日は終わっていく。このささやかな遊びは、小学校を卒業するまで続いた。

 楽しかった。満たされていた。

 祝う側になってからは、いろいろと趣向を凝らした。ビーズを使って王冠を作り直し、赤い生地でマントを繕い、弟や妹の友達に平民役を頼み、アルバイトで得た給料でプレゼントを購入し、ケーキを焼き、下手な料理を振る舞い、命令とあらば肩車をして町内を練り歩いた。

 どうして忘れていたのだろう。おれは、そういうことが好きだったはずなのに。

 色褪せない記憶にかぶりを振って、スマートフォンから惑ヰ先輩の連絡先を呼び出した。


 レールが見えた気がした。

 おれは、きっと、上手くやるだろう。




「──惑ヰ先輩の誕生会ィ⁉」

 素っ頓狂な野太い声を上げたのは、カミだった。

「嫌か?」

「そりゃ嫌ってわけじゃねーけど、惑ヰ先輩の誕生日だやったぜイヤッフウゥッ! とはならねーよ」

 なられても困るが。

「ね、ね、どーしてそーゆー話になったん?」

 キートが身を乗り出した。

「それは、聞くも涙、語るも涙の物語──プレイ時間の目安は三十分です。スタートしますか? はい、いいえ」

「……言う気がないってことだけは伝わった」

 カミが、深く深く溜め息をついた。

「単に、最近お世話になったからってだけだけどな」

 嘘ではない。

「じゃ、じゃ、私の誕生日のときもパーティ開いてくれるー?」

「何月だ?」

「九月二十二日!」

「わかった、夏休み中に計画詰めとくよ」

「やた!」

「……つまり、ソーハチは祝い事お祭り事が好きってだけの話かな」

「端的に言えばそうなるなあ。祝われるより祝うほうが性に合ってる」

 これもまた、嘘ではない。

「べつに行くのは構わねーんだけど、パーティで俺たちだけ浮くのは嫌だぜ? 惑ヰ先輩とだって挨拶くらいしかしたことないのに、見知らぬ三年ばっかだったりさ」

「あー、それ嫌だねー……」

「特に、シモなんて人見知りだし、いきなり言われても──」

 シモがちいさく右手を上げ、言った。

「……あ、僕は、あらかじめ聞いてたから」

「なんでシモだけ!」

「ずるいーっ!」

「どうどう」

 とりあえず、ふたりを落ち着かせる。

「たったいま答えが出たばっかだろ。まさに、シモが人見知りでいきなり言われても困るだろうから、先に言っただけのことだよ」

「あ、なるほど」

 キートが納得の声を上げた。

「星寮生の誕生パーティだからって、貴族の社交会みたいに大仰なものじゃない。参加者はカミたちを数えても多くて十人ちょっと、半分は知り合い──の、予定だ。養護教諭の原先生も監督として来るぞ」

「あ、ことらちゃん来るんだー」

「……まあ、原先生がいれば、気は楽だよね」

 シモがそんなことを言うのは、すこし意外だった。人望あるじゃないか。

 本題を切り出す。

「三人に頼みたいのは、参加者じゃない。音楽隊として、だよ」

「おんがくたい?」

「そう、歌ってほしいんだ。生演奏をしてほしい。俺の前で。俺たちの前で」

「はー……」

 とすん。

 キートが自分の席に腰を下ろした。

「……箱は?」

 カミの瞳が真剣味を帯びる。

「悪いが小さい。喫茶店を貸し切りにする」

 非日常は、ただの集会をイベントに変える。三人の音楽は、その大任を果たすに十分だ。最低でも、パーティの始まりと終わりに一曲ずつ、あとは折を見て臨機応変に歌ってもらうことになるだろう。──そう告げた。

「──…………」

 すこし考えて、カミが呟いた。

「……ミニライブ、か。経験にはなるかな」

「やるの?」

 キートが問う。

「やる」

「……やろうか」

 三人が、一斉に頷いた。

「でも、いくつか問題があるな……」

 カミが、生えかけの無精ひげを撫でつけた。

「いくら音響を揃えても、PC音源だけで歌うとカラオケになっちまう。この際なんでもいい、とにかく楽器が欲しい。もちろん弾けるやつもセットでな。シモはベースできるけど、PC操作に専念してもらわなきゃなんねーし、俺もベースしか弾けないし」

 どうしてベースがかぶってしまったのか。

「できれば、もうひとり引っ張ってきたいところだが──」

「安心してくれ、喫茶店にピアノがある。アップライトピアノだけどな」

「ソーハチ、弾けるのか?」

「弾けない。でも、弾けるやつを知ってる」

「だれー?」

「ピカソ」

「……え、マジで?」

 三人が絶句する。

「しかも、なんだったかのコンクール入賞クラスの腕前で、ジャズピアノもお手の物っす! なんだか知らんがまかせんしゃい! だとさ」

「バカソって、ほんとよくわからんバカだねー」

「腐ってても星寮生っつーことだな……」

 今回の件では、ピカソにおんぶにだっこである。一段落したら労ってやらねばなるまい。

「ちなみに報酬は、その喫茶店の料理食べ放題な。パーティで忙しければ、後日機会をとってもいいし。鉄板焼きスパゲティがおすすめだ。ナポリタンスパゲティがジュウジュウと音を鳴らし、やがて、特製ケチャップの焦げる独特の香りがふわりと漂いはじめ──」

「なにそれ食いてえ……」

 よし、カミの懐柔完了。

「伴奏がピカソで悪いが、七月十一日までに生演奏できるくらい合わせておいてくれ。なにやら無茶を言ってる気がするけど、頼む」

「おう、鉄板スパゲティのために!」

「……インストもけっこうあるから、歓談中はそっちを流すよ」

「おっけーい! 惑ヰ先輩のために、しっとり歌い上げましょー!」


「「「おーッ!」」」


 友情。

 若さ。

 青春。

 はっきりしないもの。

 煮え切らないもの。

 カッコつけて、憧れて、知ったかぶりをして──


 二度目の少年期ジュブナイルリロード


 いま、適当に思いついた言葉。確かめるまでもなく、英語として間違っている。

 でも、響きが気に入った。ジュブナイルリロード。再装填されたおれは、再び与えられた青春を弾丸のように駆け抜ける。

「青春、かあ……」

 思わず呟くと、カミに背中を叩かれた。

「ソーハチ、ジジくせーなあ。青春について考えたとき、それはもう過ぎ去りはじめているんだぜ。青春の渦中は狂気の沙汰だ。ぐちゃぐちゃのドロドロで、自分の指先すら遠すぎて見えない。自分の意思で自由に動いているようでいて、その実は逆だ。ゴルフのパットが芝目に沿うように、環境に反応して自動的に動いてる。結局のところ、自分で選択できるほど大人じゃないってことなのさ」

 どきりとした。

 荒野に敷かれたレール。その上を歩く自分自身を言い当てられたような気がしたから。

 高校生らしくない観察眼だ、と思った。カミのことだから、それらしいことを調子よくぺらぺらと喋っているだけかもしれない。追求する気は起きなかった。

 ともあれ、音楽隊は確保した。あと必要なものは──




 中世末家の財力によって当日貸し切りにした件の喫茶店の主人と共に、提供すべき料理を詰めていく。ピカソと中世末家には、本当に頭が上がらない。

 ピカソの父親は、

「これで山本さんに恩返しができますな!」

 と、電話越しに呵呵と笑っていたけれど、いずれ菓子折りかなにかを用意して挨拶へと伺うべきだろう。少なく見積もっても六桁の金額が動いていることは確かなのだから。

 まず、前菜のオマール海老とトリュフのチーズソースと共に、パーティをしっとりと始め、その途中で乱入するようにカミ・シモ・キートのミニライブ演出、その後は半立食形式での参加者同士の歓談へと移行する。

 ミニライブ以外に、イベントがひとつは必要だ。本来であれば慎むべき行為だが、プレゼントの披露会などは非常に都合がいい。ここは星滸塾学園である。参加者の虚栄心を満たすことにも繋がり、演出次第では相当に盛り上がることだろう。まさか、包み紙を開くとHBの鉛筆が半ダース──ということもあるまい。

 披露するかどうかは選択式とし、抵抗のある参加者のプレゼントは別に取り置いておけば、これといった問題はないはずだ。参加者各人のプレゼントは、幹事兼司会者のおれにあらかじめ申告してもらい、その内容を加味した上で、順番をくじで決定する。

 当然だが、くじには細工を行う。

 大した吟味はしない。

 本当に重要なことは、そう多くはないからだ。


 やるべきことは、いくらでもある。

 おれの一週間は、またたく間に過ぎ去っていった。

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