2/夕闇に鐘は響く -2

「──…………」

 私服姿の窓海が、つんけんしながらおれの隣を歩いている。

 胸の下で絞るタイプの、ペールブルーのワンピース。左肩には、補色を意識しているのか、落ち着いたダークブラウンのトートバッグを掛けている。

「窓海の私服姿って初めて見たけど、さすがにオシャレだよなあ」

 ファッションに詳しいとは口が裂けても言えないおれだが、マルかバツかくらいはわかる。

「ええ、まあ、隣にいる人よりは」

 ずり下がった伊達メガネの位置を直しながら、窓海が皮肉交じりに言った。いつものイヤーカフは装着していない。

「ははは……」

 苦笑しか出ない。

 窓海が、耳の後ろをとんとんと示す。

「ヘルメット癖ついてる」

「マジか」

 慌てて後ろ髪を撫でつける。バイクのバックミラーは、身だしなみを整えるにはちいさすぎるのだ。

 自分の服装を改めて確認する。我ながらひどい格好だ。

 くたくたのジーンズに、栃木県みやげのご当地ゆるキャラTシャツ。近所のスーパーくらいならまだしも、休日の学園へと出向く服装ではない。理由は単純、寝坊である。

「悪いな。自分でも、さすがにだらしないと思う」

 窓海と目を合わせないように前を向きながら、独白のように口を開いた。

「……べつに、それで困ってるわけじゃない」

「本当か?」

「もお! わかって言ってるでしょ! 宗八が〈内側〉見たことないって言うから案内してあげようと思ったのに、どうして、中世末くんと一緒なのよう!」

 絞り出すようにそう言って、窓海が背後を指さした。

 数十メートルほど離れて歩いていたピカソの姿が、さっと木立に掻き消える。

 さすがストーカー。

「だって、星寮生がいないと、ナツショー? ドーナツ通り商店街、だっけ。そこも含めて〈内側〉に入れないだろう」

「ささみでいいでしょ、もう……」

 瞳のなかのおれ自身を見つめるように、窓海と目線を合わせた。

「ささみじゃ駄目だ」

「え?」

 窓海がたじろぐ。

 それは、たぶん、正しくない行為だ。

 パズルのピースが埋まるにつれ、全容が見えはじめる。今はまだ、穴だらけのまだら。なにが正しいかはわからない。しかし、間違っていることくらいはわかる。

「うー、わかったわよお……」

「意外に素直だな」

「──だって、中世末くんを宗八にけしかけたのは私だもん。責任は感じてるよ」

 窓海が能動的に行動を起こさなくとも同じ結果になったと思うが、もちろん口には出さない。

「ところで、そのピカソなんだけど──」

 木立のどこにいるのやら。

「今は、本人の許可がないと、窓海に近寄れないんだってさ」

「……なんで?」

 例の件は、窓海にも伝えられていない。内々で処理することが決まっていたからだ。

「たぶん反省でもしたんだろ。ちょいちょいっと呼んでやったら、たぶん出てくるから」

「えー……」

 露骨に嫌そうな顔をする。

「そう言えば、いつの間にか宗八の子分みたいになってたねえ。なにかあったの?」

 ひとつ、わかったことがある。

 女子高生とは、好奇心の強い猫のようなものだ。ひとたび興味を持てば、ある程度納得の行く理由を見つけるか、それを自分で作り出すまで諦めることはない。

「たまたま助けたんだよ。自分で説明するのも武勇伝めいてて無粋だから、教えないけど」

「ふうん?」

 興味津々といった顔である。

「──ストーカーなんてのは、満たされないからこそ欲求が肥大していくんだろう? その点、ピカソなんて可愛いものだよ。女性の個人情報を調べるのはハレンチだって、窓海の身長も体重も知らない」

 窓海を尾行して親園家の場所を探ろうとしていたし、周辺の人間の個人情報を調べ尽くしたりしていたが、情状酌量の余地ありとして今回だけは伏せておく。

「あれがどんな人間かわからない。だから気持ち悪いんだと思う。ピカソの人となりを知ってからも生理的に受け付けないなら、それはもう仕方ない。どうなるかはわからないけど、いちおうおれが諭してみるよ。ただ、あいつがどんな人間であるかわかっていたほうが、どちらにせよ対処もしやすいだろう──とか、まあ、思うわけだ。情がわいたのかもしれないな」

「──…………」

 ピカソは馬鹿だ。掛け値なしの大馬鹿だ。

 なにも考えていないし、考えるつもりもないから、考えようがない。

 しかし、いつだって全力だ。

 アリとキリギリスの寓話──錆びた鉄釘をを必死で運ぶアリのようなものである。明らかに間違っているのに、ただ意味もなく全身全霊を捧げている。決して気づくこともなく。

 しかし──と、おれは思う。

 誰しもがピカソと変わらないのではないだろうか。ピカソを指さして笑うおれたちの背中にあるものが、お菓子のかけらであることを、いったい誰が保証してくれる? わからない。なにもかもが不確実だ。唯一真実があるとすれば、ピカソが常に本気だということだけだろう。

 もし、誰かが、正しい方位を示したら?

 ピカソを導き、修正し、目標を与えたとしたら?

 化けるかもしれない、と思う。

 今はただ、迷走しているだけだ。しかし、可能なら、いつか部下として育ててみたいと思う程度には伸びしろを感じている。そんな日が訪れることはないだろうけれど。

 だから、なんとなく──打算も計算もなく、窓海と会話をするためのお膳立てくらいはしてやってもいいかな、と、思ってしまったのだった。

 苦笑する。

 自他共に認める仕事の鬼であった自分が、ひとまわり年下の子供たちの恋愛を応援しているだなんて、四月までのおれなら考えもしなかっただろう。

 随分と高校生らしくなってきたじゃないか。おれは、自嘲の笑みを浮かべた。



「こ、ここ、こここコココココココココ──」

「ホチキスかお前は」

 ばし!

 ピカソの背中を、思いきり叩く。

「……窓海。もしかして、ピカソと話すのって初めてだったりするか?」

「うん」

 よくそれでストーカーなんぞ務まったものだ。

 ピカソは、窓海の耳の造形に惚れ込んでいる。窓海自身を耳の付属物であると考えているわけではないと思うが、この男に関しては、なにがあっても驚かないと決めた。

「ここ、こ、こ、こんぬづわ!」

 どうしてなまった。

「……うん、こんちにわ」

「うハァ──ッ!」

「⁉」

 ズサササササッ!

 ピカソが、凄まじい速度のムーンウォークで十メートルほど後退った。

「畏れ多いです! 畏れ多いです!」

 生地の薄い夏用のニット帽を引っ張り、鼻の下までを覆い隠す。

 思いきり顔が透けている。

「──…………」

「……えーと、な、面白いだろ」

「面白い、かな……」

 窓海が、苦味九割笑顔一割の苦笑を浮かべた。気持ちはわかる。ピカソの面白さは、遠くから見てこそのものだ。当事者になると笑えない。

「おーい!」

 ピカソに呼びかける。

「これ! この門はどうしたら開くんだよ!」

 正門より大きく、外塀よりも高い境界線は、星滸塾学園の〈内側〉と〈外側〉との隔絶を象徴するものである。この隔壁の内部には、星滸寮や、ナツショー──ドーナツ通り商店街、及び中央管理施設といった、星滸塾学園の中枢がすべて詰まっている。

 招かれざる者は、決して足を踏み入れることはできない。

 招かれた者とて、原則として午後六時には退出しなければならない。滞在するに足る特別な理由がある場合は、その限りではないけれど。

 なるほど、学費が一桁違うわけだ。

「い、い、今、いま──」

「さっさと来い」

 ピカソの腕を掴み、正門とは打って変わって近未来的な内門の前へと放り出した。幾何学的な模様に彩られた漆黒のそれは、門と言うよりも壁に近く、コンソールのようなものも見当たらない。どこをどうすれば開くのか不思議に思っていると──

「宗八、ほらほら!」

 窓海が指し示す方向へと視線を向ける。

「おお……」

 幾重もの薄い層によって構成された内門が、物音ひとつ立てずに開いていく。

「──え、なんで開いたんだ? なにかしたか?」

 ピカソに尋ねる。

「さあー……」

 漫画のような角度で首をひねられた。聞くだけ無駄だった。

「たしか、す──っごい精度の顔認証システムが導入されてるんだってさ」

「ほう?」

 おれが興味を示していることに気をよくしたか、窓海が得意げに言葉を継ぐ。

「模様に見えるのは無数のカメラで、人の顔を立体的に認識するの。だから、登録されてない人はすぐわかる。ふつうの監視カメラにも顔認証システムはついてるんだけど、精確さが段違いなんだって。噂だけど、身長体重に肌年齢までわかるとか……。あと、正門の近くに黒いポールが何本か立ってるよね。あれ、ここと同じシステムを使ってて、外出許可が下りてない星寮生が正門に近づくと、自動的に閉じるようになってるみたい」

 ほとんど軟禁である。

 だから窓海は、星滸塾学園を〈鳥かご〉と呼ぶのだろう。

 青い鳥を大量に飼育する、巨大な鳥かご。

「それじゃあ、行こっか」

 窓海の隣に並び、門をくぐる。

 内門の先は薄暗く、遠くにちいさく光が見えた。しばらくトンネルが続くようだ。

「……すこし前にも同じようなことがあったな。窓海が声を掛けてくれてさ」

「一ヶ月って、すこしかなあ……」

 転校初日のことを思い出す。たった一ヶ月前の出来事が、狂おしいほどに懐かしい。

 長いトンネルを抜けると、視界が晴れた。

「──……おお」

 そこにあったのは、街だった。

 そっと胸に手を当てる。予想外の光景に心臓が高鳴っていた。

 計画に則って築かれた不自然で幻想的な街並み。赤レンガの多用された街路は、どこかフィレンツェを彷彿とさせる。細い家、高い家、薄い家──もちろん大きな家もあるが、モーテルとコテージを併せたような小ぢんまりとした邸宅ばかりが並んでいるように見えた。

 数秒ほど思考を停止して、ようやく気がついた。

 この一軒一軒が個人寮なのだ。

「初めて見たら、びっくりするよねえ」

 窓海が楽しげに笑った。さぞかし、おれの驚く顔が面白かったと見える。

「ちょっと──というか、いろいろ聞いていいか?」

「どうぞ!」

 窓海が胸を叩いてみせた。

 星滸塾学園の〈内側〉はひとつの街である──そう聞かされたことはあるが、比喩ではなく、文字通り本当に街だとは思いもしなかった。しかし、潤沢な資金さえあれば、合理的な選択かもしれない。

 星滸塾学園女子中等部から大学部まで、星寮生はおよそ千人。それに加え、運営、教員、管理・保全スタッフ、監視員等々、〈内側〉に住まう人々は、三千人から五千人程度にはなるはずだ。彼らの生活を十全に支えるためには、街という形式こそが理にかなっているのだろう。

「個人用の寮があるのはわかったけど、普通の寮はないのか?」

「あるよお」

 窓海が視線を上げる。種々様々な高さの建造物が、適当に配置されているようでいて、実のところ緻密な計算の上に成り立っているのではないかと思われた。建造物の適切な配置、目的地までの最短距離を容易に弾き出せるランドマーク、緻密な区画整備、日照と景観を意識した無数の尖塔──。

 完全計画都市、という言葉が脳裏をよぎる。

 場当たり的な対処を行ってきた歴史を持つ尋常の市区町村に対し、意図的に設計された星滸塾学園の〈内側〉は、三十年前から基本的に変わっていないと聞いたことがあった。近未来的な顔認証システムのように、時折、新しい技術を取り入れるのみだ。

 すこし視点を変えるだけで、いろいろなことに気がつく。平屋建ての個人寮が外周部に多いのは、高層建築によって太陽光を遮られないためである。建造物の一部がキラキラと光っているように見えるのは、日光の反射率を高め、物陰を減らす工夫だろう。大通り以外の路地が細く思えるのは、夏場の輻射熱を避けるためかもしれない。

「──それで、ささみの部屋は、女子寮区画J棟の二階。二階まるまる、ささみの部屋! 女子寮区画に男子は入れないけど、ナツショーのはしっこからちょこっとだけ見えるよ」

「すごいな……」

「と言っても、J棟は縦に細長いから、そこまで広くはないけどね。ふつうの2LDKくらい──なのかなあ。よくわかんないけど」

 十二分に広いと思うが。

「あ、ことらセンセも同じ寮に住んでるよ」

「へえー」

 さすが〈まどれ〉である。

 女子寮区画と言うからには、男子寮区画もあるのだろうか。となると、このあたりは個人寮区画? 興味は尽きない。

「──…………」

「──……」

 なんとなく会話が途切れた。ふたり同時に、背後の気配について思い出したのである。

「……えと、あのさ!」

 窓海が振り返り、げっそりと頬のこけたピカソに声を掛けた。

 星滸塾学園の〈内側〉に興奮を抑えきれず、ピカソの存在をポカンと忘れ去っていた。ストーカー行為を働くほどに憧れている女の子が、自分を無視し、自分以外の異性と楽しげに会話を繰り広げているさまを目の前にすれば、それはもう、そうなるだろう。

「あの、中世末くん?」

「は、は、は、はははい!」

 ピカソの背筋が過剰に反った。

「いままで、あまり気にしてなかったけど──そろそろやめよう? 宗八の件があって、ようやくわかったんだ。私たちは、みんなに迷惑をかけすぎてる。これは、私と中世末くんの問題だもの。他のひとを巻き込むのは、筋違いだと思う」

「──……はい」

 反り過ぎた背筋が元に戻り、可哀想なくらい猫背になった。中間はないのか。

「だから、私と中世末くんだけの問題にしよう」

「……?」

 猫背のまま、ピカソがきょとんとした表情を浮かべる。

「遠くからじっと見られても落ち着かないから、言いたいことがあったら言ってほしい。他のひとたちに当たったりしないでほしいんだ。言葉にしてくれれば、ちゃんと聞くから。無視なんてしないから」

 ぴっ、と人差し指を立てた窓海が、とどめとばかりに口を開く。

「ね、──ピカソくん?」

「──…………」

 やるなあ、と思った。窓海には悪女の才能がありそうだ。

「ピカソくん?」

「──……あ、あ」

 真っ白になってすべてが抜け落ちたピカソが、ほんの僅かにうめき声を上げた。

「よかったな、ピカソ。下の名前で呼んでもらえるなんて、格段の進歩だぞ」

 ピカソの肩をぽんと叩く。

 その瞬間、抜け出ていた魂が戻ってきたのか、ピカソがハッと顔を上げた。

「……ソーハッさん、俺、俺……、走ってきます!」

「はあ?」

 ばっ!

 ニット帽が宙を舞い、ピカソがクラウチングスタートの体勢を取った。

「おい、どこへ──」

 レンガ敷きの道路を蹴り出す音。そして、土煙。

「行くぜ、明日に向かっ──……」

 言葉尻さえ耳に届くことなく、あっという間に見えなくなった。

「──…………」

 窓海と顔を見合わせる。

 登校生のふたりが取り残されてしまったのだが、大丈夫なのだろうか。

「……行こうか」

「うん」

 ピカソのニット帽を拾い上げ、再び歩き出した。



「うー、わあー……」

 ドーナツ通り商店街とはよく言ったものだ。

 高さ七、八メートルほどの、無骨な石造りの時計塔を中心に、半径百メートルはあろうかという巨大な噴水池が広がっている。噴水池の中心からは、正五角形を描くように五本の眼鏡橋が伸びており、通行の便を改善しようという努力が窺えた。

 この噴水池が、いわゆる〈ドーナツの穴〉なのだろう。

 噴水池に沿ってぐるりと周回する幅二十メートルほどの広すぎる街路をドーナツの内縁部とすれば、外縁部は、ギュウギュウに押し込まれたとしか思えないほど手当たり次第に軒を連ねた無数のテナントである。

 アパレルショップの店主らしき三十代の男性を視界に入れながら、尋ねた。

「ああいう人って、職員扱いなのか?」

「ううん。星滸寮のOBとか関係者が経営してるんだって」

 なるほど、徹底している。

「……なんか、小腹が空いたな。どこか入ろうか?」

 窓海とピカソに奢るつもりで、財布にはそれなりの額を入れてきた。

 やはり、すこしくらいは良いところを見せたいものだ。

「あ、たぶん駄目だよ」

「駄目、って?」

 十枚も入れてきたのだから、いくらなんでも足りるだろう。

「ナツショー、というか〈内側〉では、学園で発行したお金でしか支払いができないんだ」

 どこの地下労働施設だよ。

「基本的に一円=十セイクくらいの変動──へん、へんそう」

「変動相場制か」

「そう、それなんだけど、寮生の権限だと円をセイクに換金することができなくて、親にお小遣いをねだるか、アルバイトをするかのどっちかになるんだってさ」

「へえー……」

 よく考えられているものだ。

 円高、円安に合わせて、学園内通貨の相場が変わったりするのだろうか。

「と、いうことは──」

 フランクフルトの屋台に視線を向ける。一本、二千セイク。つまり、およそ二百円。

 思っていたよりずっと常識的な価格だった。

「私、日雇いのバイトで三万セイクくらい持ってるから、なにか奢りますよー」

「いや、その──」

 当初の予定と逆である。しかし、窓海の持っている学園内通貨と円を両替し、それで奢るというのもわけがわからない。今回は、素直に甘えておこう。



「はー……、食った、食った」

 胃袋のあたりをポンと叩く。

「……美味しいけど、多かった、ねえ」

 窓海は少食らしく、注文した鉄板スパゲティの半分を、おれがたいらげることになってしまった。残すという選択肢を選ばないあたり、窓海はまだ一般人の感覚を捨てていないようだ。

 ドーナツ通り商店街の賑わいに反し、その喫茶店は閑散としていた。個人経営の電器店とコンビニのあいだにあった細い路地を試しにくぐってみたところ、絵本のような店を見つけたのだ。特注らしい丸っこい歪んだ扉。〈OPEN〉と書かれた札が掛かっていなければ、入店することはなかっただろう。

「いちかばちかで入ってみて、よかったかもしれないな」

「うん」

 よく言えば趣味に徹した、悪く言えばやる気の見当たらない店だが、落ち着いた雰囲気と言えば言える。こんなところで読書ができたなら、ページを繰る手がさぞ捗ることだろう。

 ヘルメットによる髪型崩れ対策グッズのことなど適当な会話を交わしながら、窓海の胃袋が落ち着くのを見計らい、おれは本題を切り出した。

「ささみのこと──、なんだけどさ」

「──…………」

 窓海の表情が強張るのを、おれは見逃さなかった。

「ささみが敬語癖を矯正しようとしてるのは、知ってるよな」

「そうなんだ?」

 ちいさな氷をひとつ口に含み、頬のなかで転がしながら、窓海が視線を逸らした。

「──…………」

 事ここに至り、おれはようやく自分の行動の意図を理解した。

 おれは、とっくに気がついていた。無意識に確信していたのだ。

 敬語癖。

 出羽崎ささみが他者との直接的な対話に消極的である現状は、友人であるはずの親園窓海にとって都合の良いものだった。だからこそ、初対面でありながら敬語癖を押してまで口頭での対話を行っていたおれに対し、過剰とも言える拒否反応を起こしたのだ。

 おれの知る限り、窓海は、おおよそ常識的な性格の少女である。自分のストーカーを他人にけしかけようだなんて、思いついても実行はしないはずだ。しかし、一時の気の迷いであったにせよ、窓海はそれを行った。たった一瞬の激情。それを引き起こした原因が、必ずある。

「おれは、もうすこしだけ、ささみのことが知りたい。敬語癖のことについて。どうして直そうとしているのか。どうして直そうと思ったのか。ささみといちばん仲が良いのは、たぶん、コトラ──さん、だけど、先生だから守秘義務がある。なにもかも教えてくれるはずがない。だから、おれの知る限り、頼れるのは窓海しかいないんだ」

 窓海が、うつむき加減で問い返す。

「……どうして、そんなこと知りたいの?」

 仕事だから。そんなことは、口が裂けても言えない。

「友達だから」

「友、達……?」

「コトラさんは、自分には無理だと言った。守ることしかできないって。ささみは、手伝ってほしいと言った。みんなと普通に話したいって。おれは、可能な限り手を貸してやりたいと思ってる。それは、たぶん──大切な友達だからだ」

「──…………」

 しばしの沈黙ののち、窓海が口を開く。

「……そんなの、ずるい」

「そうかな」

「ずるいよ。そんなこと言われたら、断れるはずない」

 そうだな。ずるい大人のやり方だ。

「約束する。おれは、ささみの敬語癖を必ず矯正すると誓う」

「……わかった」

 はあ、と溜め息。

「今とそう変わらないよ。敬語を直そうとして、でも直らなくて、クラスで孤立しているように見えた。去年は違うクラスだったから、ずっと心配してたんだ。でもささみは、いつの間にか、携帯を使ってクラスメイトと仲良くなってて──私の心配が杞憂なくらい上手く立ち回ってた。あの子、ほんとは、私なんかよりずっと社交的だから。星寮生の奇行についても、みんなとっくに慣れっこだったしね」

「ふうん……」

 微妙にはぐらかされているのがわかった。窓海には、言いたくないことがある。

「──足りないよ、窓海」

「足りない?」

 窓海が眉をひそめた。

「ああ、足りない。おれは、〈どうして〉と〈いつから〉が知りたいんだ」

 どうして敬語癖を直そうとしているのか。

 いつから敬語癖を直そうとしているのか。

「──…………」

 がり。

 窓海の口から、氷の噛み砕かれる音がした。

「……どうして、そんなこと知りたいの?」

 先程と、一言一句同じ言葉。しかし、篭められた意味は僅かに異なっている。

「わからない」

「わからない、って──」

 呆れたような表情を浮かべ、窓海が絶句する。

「それは、知ってから決めることだろう。それに、方位が正しいことはわかってる。だから聞かせてほしい。──ああ、そうだ。切るべきカードが、ひとつあったっけ」

 舌が滑らかに動く。おれは、にやりと笑ってみせた。

「取り引きしようか。スパゲティには支払いを。情報には情報を。スマートだと思わないか?」

「情報……、って?」

 窓海が気圧されているのが、手に取るようにわかる。自動的な自分から乖離し、離人感と共に客観視を行っているおれが、胸中で呟いた。なるほど、そういうことだったのか、と。

「そうだな。惑ヰ先輩が、いま、なにを欲しいと思ってるのか──なんてどうだ?」

「──…………」

 窓海が息を呑む。

 適切な情報を引き出すためには、窓海にとって対価となり得る情報を提示することが手っ取り早い。おれは、そのことについて、かなり早い段階で気づいていたらしい。

 レールを幻視する。不毛の荒野をまっすぐに伸びていく、赤錆びたレール。

「そろそろ惑ヰ先輩の誕生日だものな。惑ヰ先輩を驚かせたいけど、欲しいものをそれとなく聞き出すことが、どうしてもできないでいるんだろう?」

「え、なんで……」

 窓海が、以前と同じ手に引っ掛かった。

 もっとも、窓海は、鎌をかけられたことにすら気がついていないだろうけど。

「そわそわして、ずっと浮かない顔をしてたから、そんなところだと思ったよ。本人に尋ねれば確実だけど、その瞬間から、窓海のプレゼントは〈予定〉の欄に書き込まれてしまう。おれも、弟や妹の誕生日に毎年サプライズを企画したりしてたから、よくわかるよ。惑ヰ先輩にとって、高校生活最後の誕生日だ。驚かせたい。喜ばせてあげたい。……もしかして違った?」

「──……ううん」

 窓海が首を横に振った。

 ジグ。

 鳳仙花のような頭痛。


 直観──最善に繋がる最短の一歩を見出すこと。

 予感──最善へ至る道にある障害を察知すること。


 おれは、誰かさんの敷いたレールの上を歩く、出来損ないの木偶人形だ。最も善い未来へ繋がっていると疑いもせず、ただただ歩き続けるよりほかにない。

 おれたちは自由じゃない。最善には逆らえない。誰しもがレールを探し求めている。確約された成功を掴もうと足掻いている。賢しらでありたいと願う。

 愚かであろうとすることは、賢しくあろうとすることより、ずっと難しい。

 たとえ、賢者より愚者のほうが幸福だったとしても、賢者は愚者を蔑むのだから。

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