2/夕闇に鐘は響く -1
事態は十日間で収束した。
事実関係の確認が内密に行われ、出羽崎家は中世末家から正式な謝罪を受けた。僥倖だったのは、サキサカホールディングスと、中世末家の保有する企業とが、密接な提携関係にあったことである。出羽崎氏は、〈ひとつ貸しができた〉と鷹揚に笑っていた。
ピカソに対しての外圧的な懲罰はなかったが、出羽崎家の玄関で自ら二度目の土下座を決めたと聞いた。ここまで来ると、いっそ清々しい。本人は、両親にこっぴどく叱られた挙句、ささみと窓海への自主的な接触を禁じられたらしいけれど。
「──それにしても、君は有能だな!」
サキサカ本社の副社長室で謝辞を述べたあと、出羽崎氏は呆れたようにそう言った。
自分が有能とは思わないが、年単位の仕事を三週間で終わらせた人間を前にすれば、おれだって同じことを言うと思う。
本当は、ただの偶然であると、誰より自分が知っているのだけれど。
ささみへの生活支援は、卒業まで続ける運びとなった。おれの学費は出羽崎氏の個人資産から支払われているのだから、当然の帰結だろう。二千万円の学費をもったいないと感じない人間なんて、日本には数えるほどしかいないはずだ。
そうして、怒涛の十日間は瞬く間に過ぎ去り──
「……と、まあ、そういうわけ」
「てことは、宗八の制服姿をまだまだ見られるってことだねえ」
コトラが左の口角を吊り上げる。
できれば勘弁してもらいたいところだが、星滸塾学園での生活に馴染みつつあるのも事実だった。昨日も、カミ・シモ・キートとのカラオケで喉を潰したばかりである。カラオケなんて十年近く行っていなかったから、歌える曲が懐メロしかなくて戸惑ったものだ。しかし、定番ソングは定番ソングとして連綿と残り続けており、その知名度に世代間差がさほどなかったことは不幸中の幸いと言えた。
「お茶のおかわりはいるかい?」
「頼むよ」
「そろそろささみが来そうだからね。あの子は猫舌だから、いまくらいの時間に淹れるとちょうどいいんだ」
「……前から思ってたんだが、どうやってささみが来るタイミングを察知してるんだ?」
「ふむ」
コトラが、腕を組み、答えた。
「なんとなく、だよ。経験則さね。連絡が来てることもあるし、外れることも多い。保健室に来ない日だって、そう珍しくはないしね。なに、宗八のアンサーシーカーに比べれば、児戯にも等しい芸当さ」
「だから、変な名前をつけるなって。漫画じゃないんだから」
「レール、まだ見えるんだろう?」
「……ああ」
荒野を行く唯一の寄る辺。
最善の未来へと続く赤錆びたレール。
おれが時折垣間見る幻視を、コトラは好んで〈
「だって、漫画みたいな能力じゃないか。極限まで拡大されたヒューリスティック。レールに従って歩めば、必ず目的地へと辿り着く。人生は選択の連続だ。もし、自動的に正しい選択肢を選ぶことができるなら、これほど楽な生き方はないよ」
肩をすくめ、コトラが続ける。
「もっとも、あまり羨ましくはないけどね」
「人生とは寄り道なり、とかなんとか言うんだろ」
「はは、鋭いねえ。ただ──」
コトラの視線が、一瞬だけ愁いを帯びた。
「自動的であることに慣れると、本当に大切な瞬間を逃してしまいそうな気がしてね」
「──…………」
わかってる。
おれたちは、思うほど自由じゃない。
正しいと信じられる道を見つけてしまえば、もはや逃れることはできない。
それに、レールに沿って歩いたところで、最善の結末には至れても、最高の結末に到れるとは限らないのだ。結局のところ、身の丈に沿った結果しか得ることは叶わない。
鼻先の成功を掴み取り、一歩先の石に蹴躓く。
そうして今のおれがあるのではなかったか。
「……大丈夫だよ」
嫌な予感を塗り潰すように、そう答えた。
「なら、いいんだけどね」
この予感は、きっと、赤錆びたレールの先に待ち受けている。本当に大切ななにかを問われるときが、いつか必ず来るだろう。避け得ぬ予測は、予定に過ぎない。いつになるかはわからないけれど。
コトラが差し出した茶をすする。
熱い。
渋い。
美味い。
ねばついた唾液を洗い流し、口を開いた。
「そんなことより、ひとつ質問いいか?」
「なんだい」
湯呑みをテーブルに置き、コトラを射抜くように見つめる。
「〈
「……!」
「ささみにとって、コトラ──さんは、ただの優しいお姉さんじゃない。監督教員でも、保健の先生でもない」
「──…………」
コトラがそっと目を伏せた。
「親子のつもり──だったんだな」
「答えなきゃ、駄目かい?」
「答えるさ。大切なことなら、いつだって答えてくれるんだろ」
「……そうだね」
テーブルを挟んで向かい側のソファに、コトラが腰を下ろした。
「かと言って、それほど話すことがあるわけじゃないんだ。ささみが特別監督生徒になったのは、たぶん、出羽崎父の過保護が原因だろうね。私が監督教員になったのは、ささみが小学生のころに家庭教師をしたことがあったからさ」
「ああ……」
思い出した。
大学時代、家庭教師先の子が可愛いだのなんだのと、自慢されたことがあったっけ。
「でも、コトラさんが就職したのって、普通の中学校じゃなかったか?」
「引き抜きだよ。宗八と同じさね」
「なるほど」
星滸塾学園なら、それくらいやってのけるだろう。
「私が〈まどれ〉になるまで、そう時間はかからなかった。愛情に飢えていた──なんて、陳腐な物言いも間違いじゃない。実際、寂しかったんだろうね。母親が与えられるものと、父親が与えられるものは、違う。もちろん、友達が与えてくれるものもね。私が与えられるものだって、本質的には違うはずだ。でも、私は、〈まどれ〉になろうと思った。たぶん同情さ。最初はね。本当の母親でなくても、近いものなら与えられると思った。守ることならできると思った。ささみを害するすべてから、ささみを守ろうと誓ったんだ。世間から。偏見から。──そして、父親から」
「出羽崎氏から?」
「私はね、宗八。ささみを最も傷つけてるのは、出羽崎父だと思うのさ」
意外な言葉だった。おれにとって出羽崎氏は、依頼主であり、雇い主でもある。その彼が言ったのだ。あらゆる脅威から、あらゆる悪意から、そして、あらゆる欲望から、ささみを守り抜いてほしい──と。
「過保護すぎる、ってことか?」
「まあ、それもあるさね」
過保護。
たしかにそうだろう。
星滸塾という極上の鳥かごにささみを閉じ込めたばかりか、コトラという世話係を雇い入れ、おれという番犬まで用意した。
しかし、それは必要あってのことだ。功を奏しているはずだ。コトラがいなければ、いまのささみはない。拠り所のない繊細なこころは、見る間に歪んでしまっただろう。おれがいなければ、ストーカー事件の真相は明らかにならなかった。あのまま解決を見なければ、コトラとささみが引き離される未来すらあり得たかもしれない。
「……出羽崎氏が良い父親だと信じるのは、間違ってるか?」
コトラが答える。
「間違ってないさ」
「なら──」
「宗八は間違ってない。出羽崎父は、これ以上ないくらい良い父親だろうさ。娘のために最高の居場所を用意し、足りないものはいくらでも補ってやろうとする。ささみにとって最善の環境を整えることに余念がない。そうそうできることじゃないさ」
「──…………」
「……でも、ね。良い父親だって、完璧じゃない。良い父親だって、子供を傷つけることはある。そうは思わないかい?」
「良い父親が──」
反論したかった。しかし、できなかった。
おれの両親はよくできた人間だが、傷つけられたことはある。約束を破られたり、見当違いのことで叱られたり、蚊帳の外にされたり──そんな些細なことであれば、いくらだって思い出すことができる。
「でも、そんなの、誰にだってあるじゃないか」
「そうだね」
「当たり前のことだ」
「そうさ」
ずず。
落ち着いた所作で緑茶をすすり、コトラが続ける。
「ささみは飢えてる。母親だけじゃなく、父親にもね。よくある話さ。求めていないものばかり与えられて、本当に欲しいものは、いつだって手の届かない場所にある」
「──…………」
「傷つけたっていいさ。治るのならね。でも、傷つけたくない、傷つけられたくないと願って、それでもなお傷ついてしまったら、その傷は誰にも認めてもらえないんだ。そして、治ることのないまま、いつまでも膿んでいる。いつまでもささみを苛み続ける。出羽崎父は、父親としての責任を果たしていると思ってるだろうね。果たしてるさ。あの子はまっすぐに育ってきたし、健全に生きて、それなりの幸せを掴むだろう。父親の思惑どおりにね。だから、私は、出羽崎父が嫌いなんだ。いいとか悪いとかじゃなくて、嫌いなんだよ」
「……そうか」
コトラの言葉すべてを理解できたとは思わない。親子の数だけ、有り様はある。幸福なだけの家庭なんてない。どんなに幸せに見える家族でも、喧嘩くらいするし、歯車が狂うことだってあるだろう。明らかな間違いはあっても、正解はない。
だが、コトラは「嫌い」だと言った。誰よりもささみに近い〈まどれ〉がそう言ったのだ。
出羽崎氏は間違っていない。ましてや、ささみをないがしろになんてしていない。それでもなお、認められない何かがあるのだ。
おれは、それを理解しなければならない。本当の意味でささみを守るために。
「──さ、辛気くさい話はおしまいさね」
両手をぱんぱんと叩き、コトラが立ち上がった。
「もっと面白い話をしようじゃないか。せっかく女子高生に囲まれてるんだから、宗八にだって、浮いた話のひとつやふたつあるんじゃないかい?」
「ねーよ」
「ないのかい……」
そんな目で見るな。
「おれはロリコンじゃないって」
「でも、告白なんてされたら考えちゃうだろう?」
コトラが両手をわきわきさせる。
「……考えない」
「へえ?」
「よりにもよって、星滸塾なんかで恋愛に現を抜かせるわけないだろ。おれが仕事で来てるってこと、忘れてないか?」
「ふうん、随分と硬派じゃないか」
「これが普通だ」
「健康な成人男子は、女子高生に言い寄られたりしたら、鼻の下伸ばしてイチコロリだと思うけどねえ」
「恋愛なんてのは、大抵は、同世代と行うものだろ。ジェネレーションギャップってけっこう大きいぞ。友人としてならまだしも、恋人となると、頭がついていかねーよ」
「──……おや?」
コトラの双眸が怪しく輝いた。
「おやおやおやおや、なるほどなるほど、ほほー、そういうわけですか」
「なにが」
「いやー、まさかの私ルートかい。そうさね、運命的な再会っちゃあ、運命的な再会だしね。まさかの大番狂わせだ」
「……なにが?」
「宗八と同世代の異性なんて、ここらにひとりしかいないだろうに」
「あー……」
言ってることがピカソと同レベルだ、と思った。
「そうだ、ひとつ相談事があったんだ」
「お姉さんのスリーサイズでも知りたいのかな?」
「クラスメイトからスマフォのゲームに誘われたんだけど、いまいち勝手がわからなくてな」
「スルーしないでおくれよう」
「はいはい、ないない」
緑茶をすする。
いざこちらが本気になったら、のらりくらりとかわすくせに。
「んで、コトラならゲーム詳しいからわかるだろ」
「うーん、スマホのゲームかい。私、いまだにガラケーだからねえ」
「コトラでもお手上げなのか……」
「でも、宗八よりはわかると思うよ。ガラケーでできるソシャゲもあるからね。私もひとつやってるし」
「クロザナってやつ?」
「いんや、アイドル育てるほう」
「そっちか……」
札束で殴り合うゲーム、などという評判を聞いたことがある。
「……コトラさんは、課金したことあるのか?」
「ちょっとだけね」
「いくら?」
「百二十円」
「百二十円……」
思っていたより桁が少なかった。
「五十円でガチャが引けるキャンペーンをやってたときに、試しに引いただけさ。SRなんて出やしなかったけどね」
「えすあーる……?」
「そこからかい」
苦笑を浮かべたコトラに指南を受けながら、なんとかチュートリアルを終えることができた。
これは、意外と面白いかもしれない。
「ザネリ、とりうり? ながしにいくの。ジョバンニ、お父さんから、らっこの──」
舌足らずな声が、銀河鉄道の夜の会話部分だけを拾っていく。
「ケンタウルス、露を降らせ。こんばんわ。こんばんは、ごめんなさい。あの、今日、牛乳が僕とこへ来なかったので──」
「ささみ、もういいよ」
朗読が止まる。
「読むぶんには問題ないんだよなあ」
「うん……」
「じゃあ、次は、セリフをいくつか暗誦してもらおうかな。どの部分で突っ掛かってるのかを知りたいから」
「……宗八くん、そんなに急がなくでも、いいで、よ」
「ああ、悪い。疲れたか?」
「ちょっと」
「ささみには悪いけど、俺、こういうの嫌いじゃないんだよな。現状を徹底的に調べ上げて、問題点を追い込んでいく。〈だいたいこのあたりにある〉を繰り返していけば、いつか限りなく点に近くなるだろう?」
「ふうん……」
あまり興味はなさそうだ。
「──…………」
ささみの様子を窺う。
ひとつ気になっていることがあった。手応えがなさすぎるのだ。一ヶ月という僅かな期間、僅かな時間ではあるが、雑談をし、朗読をし、LINEで送ったメッセージを読み上げ──それでも一切の改善が見られない。ささみの敬語癖がどれほど根深いものか、おれにはわからない。しかし、漠然とした道筋が見えてもおかしくない程度の練習は行ったと思うのだ。
「そんじゃま、休憩に──」
コトラがそう言いかけたとき、黒檀色の引き戸が乱暴に開かれた。
ピカソだった。
「ソーハッさん、ソーハッさん! とうとう! とうとう段取りできまし──、げっ!」
その双眸がぱっと見開かれ、ピカソがゆっくりと後退っていく。
「……?」
ピカソが自分との接触を禁止されていることを、ささみは知らない。もともと仲がよかったわけでもないから、事情を知っている誰かが教えない限り、気がつくことは永遠にないだろう。
「……ソーハッさん、ソーハッさん」
ピカソが手招きをする。仕方がないので、重い腰を上げた。
ピカソがおれのことを〈ソーハッさん〉と呼び始めたのは、ほんの数日前のことだ。本人は〈宗八さん〉と発音しているつもりらしい。
中世末家は、おれのことを、不肖の息子がお得意さまに失礼を働いていたことを指摘し、謝罪する機会を与えてくれた恩人である──と、捉えているらしい。黙ってさえいれば発覚しなかったことだ。余計な真似をしたと激昂されても仕方がないと思っていたくらいなので、本当に意外だった。ピカソの性格を鑑みるに、良くも悪くも、まっすぐで誠実な家柄なのだろう。
ピカソも同様に感じていたらしく、何故だか懐かれてしまった次第である。
カミ・シモ・キートの三人がちょっと引くので、教室に乗り込んでくるのはやめてもらいたいのだが。
「──で、なんだよ」
廊下に出て、黒檀色の引き戸を後ろ手に閉じる。
ピカソが差し出してきたのは、四つ折りの和紙だった。
「これ返事!」
「はあ?」
よくわからないままに紙片を開く。
さらさらとした達筆で、〈放課後、音楽室、待っています〉と書かれてあった。
「えー……、と」
よくわからない。
「誰が、誰を、待ってるんだ?」
「いやだなー! おい! 憎いね、こんにゃろ!」
「いてえ!」
ピカソに背中をバンバンと叩かれた。
「こないだ、ソーハッさんと惑ヰ先輩の仲を応援するきに、まかせんしゃいって言ったじゃないすか! ちょっと遅くなったけど、時間にルーズな人ってワイルドでセクシーって誰かが言ってた気がする」
「──…………」
有言実行、それはいい。よくないけど、今はいい。
嫌な予感がする。
「……お前、惑ヰ先輩をどうやって呼び出した?」
ピカソが満面の笑みで答える。
「手紙っす!」
「名義は?」
「ンなもん、ソーハッさんが書いたことにしてあるに決まってんじゃないスか。デートするのはソーハッさんなんだから! なんでも俺まかせはいかんよ!」
「ふごッ……」
思わず鼻が鳴ってしまった。
「──てめこの、やりやがったな! ンなろッ!」
「ぐぼ!」
ピカソの首を腕で絞め上げる。ああ、なんとなく、そんな気がしていたとも!
ここが保健室の外で、本当によかった。
行かねばなるまい。最低でも、誤解だけは解かなければ──
歴史を感じさせる飴色の扉は、見た目よりずっと軽い。扉の下、見えないところに、ほんの数ミリだけ顔を覗かせたキャスターが仕込んであるからだ。
その事実を知っているのは、理由が知りたくて廊下に這いつくばったことのあるおれくらいのものだろう。たまたま通り掛かった見知らぬ女子生徒にものすごい顔で見られたので、二度とするつもりはないけれど。
ト────ン……
一音。
ピアノの音が音楽室の静寂を破る。
グランドピアノの前に姿勢よく腰を下ろしていたのは、紛れもなく惑ヰだった。
「……弾かないんですか?」
「ウン、自分は、ピアノなぞ弾けないのさ」
「おれは、ねこふんじゃっただけ弾けますよ」
「ソレハ──マア、今度聞かせてあげておくれよ。窓海くんあたりに」
惑ヰが苦笑する。
すこし和んだ、と思う。
「えーと、あの手紙──」
「アア、君が自分にアレホド恋焦がれているなんて、知らなかったナア……」
「いえ、違います。違うんです」
ピカソ、お雨は手紙になにを書いたんだ。
「──……くふ」
おれがあたふたしていると、惑ヰがくすりと笑った。
「くふふ、ナニ、最初からわかっていたよ。単なるイメージで申し訳ないが、君はもう少し几帳面な字を書くように思えたから──」
惑ヰが鞄から紙束を取り出す。
どれも相当な悪筆だった。
あと、中身の文章も、月からスッポンへの往復を繰り返すほどあっちに行ったりこっちへ行ったりと、意味もなくせわしない。
「……おれ、ペン習字やってたから、字は自信あります」
「イメージどおりだったね」
ふたりでクスクスと笑い合う。
「──このけったいな手紙に応えたのは、ネ。君に、聞きたいことがあったんだ」
「言えることなら答えますよ」
「ヤ、大したコトじゃない……、本当に、大したコトじゃ」
惑ヰが首筋を押さえ、すこしだけ自分の首を絞めたように見えた。
「……大丈夫ですか?」
「ああ、スマナイ。癖なんだ。緊張すると──」
嫌な癖だ、と思った。
「……実を言うと、聞きたいのは、さみ──ささみくんのことなんだ」
「ささみの?」
覚えている。
あれは、初対面のときのことだ。別れ際、惑ヰが、ささみにだけ挨拶を躊躇っていたことがあったはずだ。それに関することなのだろうか。
惑ヰが、血色のいい唇を軽く舐め、言った。
「自分たちは、幼馴染だった──ト、思う」
「……思う?」
「外見が変わりすぎていて、わからないんだ。自分の知っている彼女は、まるで男の子のような出で立ちで、ひどく肌が白くて──イツモ、自分の家を探検して遊んでいた。自分は旧家の出でね。遊ぶ部屋には事欠かなかった」
「──…………」
いまの姿からは想像もできないが、男勝りの少女だったらしい。
なるほど、バイクに憧れるのも頷ける話だ。
「だから、彼女に会ったとき、驚いたんだ。名前も苗字も同じで、同じように肌も白くて──慎ましやかな少女に見えたこと以外、同一人物であるように思えたから。……あと、オオカミの上着のコトもね」
惑ヰ先輩が、言葉尻だけを冗談めかして言った。
「なるほど……」
片方の言い分だけで判断するのはフェアではないが、〈出羽崎ささみ〉という氏名の組み合わせがそうそうあるとは思えない。惑ヰの思い出の少女とは、ささみで間違いないだろう。
しかし──
「ささみは、惑ヰ先輩から距離を取っているように、おれには見えました。たしか──そう、ほとんど初対面だったおれの背中に隠れたんだ。彼女にも思うところがあるんでしょう。それが何年も前のことなのか、ごく最近のことなのか、別として」
「モシ、ささみくんが自分のことを覚えていてくれたら──、今の自分に気づいて、認めてくれたのなら──、そんなにステキなことはないね……」
一拍置き、小声で言葉を継ぐ。
「けれど、自分は、変わりすぎたから……、もう、いろいろなコトが、マッタク変わってしまったから──」
「──…………」
なんとかしてあげたいと感じたことに、自分自身が驚いた。純粋に助けたいと思った。成人して、大学を卒業して、就職して──いつの間にか、金銭の絡む行動しか取らなくなっている自分に気がついた。大人なんてそんなもんだろう、と思っていた。
しかし、いまのおれは大人じゃない。見返りなんていらない。
これも、きっと、〈本当にささみを守ること〉に繋がるはずだから。
「──……ッ」
ジグ。
初対面のときを深く思い出そうとして、刺すような痛みに動揺した。頭のなかで鳳仙花の種子がはじけたようだった。赤錆びたレールの幻視。フレームの右側と左側からそれぞれ身勝手に繋ぎ合わされてきたパズルのピースが、ちょうど真ん中で繋がり合うような──そんな、確信めいた予感。
胸に手を当てる。心音は正常。
「……惑ヰ先輩は、直観って信じますか?」
「直観──、かい?」
惑ヰが不思議そうな顔をする。
「結果を見れば明らかなのに、何故その過程を辿ったのかがわからない。途中式をすっ飛ばして答えに至ったように見える。そろばんではなく、計算機のように」
「よく、わからないナア……」
おれは超能力者ではない。実際には、過程を飛ばしてなどいないはずだ。無意識に収集した情報を、無意識に整理し、無意識に構築し直し、出力された結果を幻視という形で表層意識へと送る。それが〈アンサーシーカー〉の正体だ。つまるところ、大なり小なり誰もが持っている能力に過ぎない。ただ、おれの場合、他の人よりも幾分か精度が高いのだと思う。
「──…………」
胸に当てていた手を下ろし、おれは言った。
「話は変わりますが──いま、惑ヰ先輩が欲しいと思ってるものって、なにかありますか?」
「欲しいモノ、かい?」
「ええ。女子中等部に従妹がいて、ちょうど七夕が誕生日なんです。先輩とは似ても似つかないやつですが、だからこそ参考になるかもしれない」
女子中等部の従妹。窓海についた嘘だ。整合性をとるため、同じ設定を流用した。
惑ヰの誕生日は七月十一日である。そう、ピカソが言っていた。
「フム、ソウカ……。自分なんて、大したことは言えないと思うがナア……」
「いえ」
惑ヰをまっすぐに見つめ、言った。
「是非、教えてください。おれにも、まだ、はっきりとしたことは言えないんですが、そうすれば──きっとすべてが上手く行くような気がするんです」
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