1/逆説のジュブナイル -終

「──ゲームアプリ?」

 シモとキートに問い返す。

「そー。せっかくスマホにしたんだから、ソーハチも一緒にやろーよ。うちのギルド枠余ってるし、ノルマないから初心者向けだよー」

「はあ……」

 ゲームと名のつくものとは縁遠い人生を過ごしてきたおれに、いきなり協力プレイだなんだと言われても困る。

「えー、と。カミもやってるのか? その、なんとかってやつ」

 キートから逃げるように、カミに話を振った。

「クロザナ4.5だろ? 俺はやってねえよ」

「……カミは、ソシャゲ嫌いだから」

「違うっつの」

 シモの額を突き、カミが言葉を継ぐ。

「ソシャゲ自体がどーこーじゃなくて、ソシャゲで安易に稼ごうとするメーカーが嫌いなんだよ! 4.5ってなんだ4.5って、おい。ナンバリングタイトルだかなんなんだか、いちいちやることが半端なんだよ。とにかく、俺は、ルナイモがコンシューマで続編出すまでプレイしません! 決定事項!」

 そう明言して、カミは不機嫌そうに両腕を組んだ。

「……そのころには、とっくに廃れてるかもね」

「ッさい!」

「──…………」

 ふたりの会話を聞き流しながら、おれは考えていた。

 できればプレイしたくない。

 これは、単純な時間対効果の問題だ。ソーシャルゲームがコミュニケーション媒体として優秀であることはなんとなく理解しているが、それはゲームをプレイしたことに対する副次的なもののはずだ。おまけに、その交流は、キートの言う〈ギルド〉のメンバーに限られる。交友関係を無闇に広げるべきではない。

「……無課金でも課金勢と渡り合えるし、バランスのいいゲームだと思うよ。一緒にプレイしてくれると、心強い」

「そーそー」

 ド素人を捕まえて心強いもないと思うが。

「いちおう落としておいて、暇なときにチュートリアルだけやってみるとか、どかな?」

「──…………」

 チュートリアルか。

 現実的な落としどころだ、と思った。ちょっとやって、合わなかったと放り出せば、容易に終わりにできる。それで、いちおうの義理は果たしたことになるはずだ。

 おれはまだ、この三人と確固たる関係を築けていない。当然だ。なにしろ、先月転校してきたばかりの新参者なのだから。彼らのグループに両足を浸すつもりなら、五個に四個は譲歩すべきだろう。

「……ああ、とりあえず、チュートリアルだけな」

「やた! よかったね、シモ」

「……うん。でも、その言い方だと、僕だけが嬉しいみたいなんだけど」

「イイネ!」

「……腐りかけている」

 理由はわからないが、キートが妙にはしゃいでいた。

 三人が動画の話題に移行したことをきっかけに、おれは、ささみへと視線を移した。相変わらず机に突っ伏したまま、下ろした右手でスマートフォンをいじっている。

 ささみが教室で顔を隠している理由を悟ったのは、ごく最近のことだ。おれの知る限り、彼女の光線過敏症は、そこまで重篤なものではない。つまるところ、ささみは、誰にも話し掛けたくないし、誰からも話し掛けられたくないのだ。

 しかし、ささみの指先は雄弁である。ささみを知る生徒で、彼女の孤独を憐れむ者は、恐らくひとりもいないだろう。コミュニケーションは不得手どころか辣腕じみており、日常会話をスマートフォンに頼っていることに目をつぶれば、いささか不真面目ながらも一般的な生徒と呼んで差し支えない。

 ささみが第三者との直接的な対話を拒否するのは、敬語でしか会話ができない自分を恥じているからだ。だから、オオカミパーカーを着て、顔を隠して、目の前の人間に気づかないふりをする。当たらずとも遠くはないだろう。星滸塾で敬語なんて、いかにもだと思うのだが、本人が嫌だと言うのだから仕方がない。

 スマフォ弁慶のささみとて、クラスの全員と友達登録を交わしているわけではない。いわゆるガラパゴス携帯を使っている生徒もいれば、携帯電話自体を持たされていない生徒もいる。それでも学級委員長を務めてしまうのだから、もしかすると、かなり有能なのかもしれない。

 ちなみに、敬語を使って然るべき相手──たとえば教師などに対しては、ごく普通に、当たり前のように、すべてが嘘だったかのように、すらすらと話し始める。その場に居合わせたときは、思わず耳を疑ったものだ。

 ささみに吃音はなく、敬語での会話に難はない。ただ、同年代の人間に対して敬語を使うことを、頑迷なまでに拒絶している。なんとなくで済ませるには強すぎる明確な理由があるはずだ。コトラはきっと知っている。だが、教えてはくれないだろう。言葉で表面をなぞっただけでは、表層の問題しか解決できない。

 コトラは、ささみを守ってくれと言った。俺は頷いた。しかし、それが出羽崎氏の意向と一致するとは限らない。

 どうすべきかは、まだわからない。

「──…………」

 思考の舵を戻す。

 ささみとは対照的に、窓海はわかりやすく社交的だった。特定の基礎グループに所属せず、それでいて浮いている様子はない。まるで渡り鳥のように一処に留まらず、すっと入って、すっと抜けていく。主にファッション、時にメイク、またはドラマに芸能人といったテンプレートな話題をこなし、八方美人にならない程度に嫌味なく振る舞っていた。

 ただ、男子とは明らかに距離がある。当の男子たちも、窓海のことをいないものとして扱っているようだった。いじめかと思ったが、そうではない。むしろ、窓海のことを恐れているようにさえ感じられた。

 そういえば、転校初日に、窓海から妙なことを言われていた気がする。一緒に帰ると、おれの身に災難が降り掛かる──と。注意していたつもりだが、結局、なにも起こることはなかった。不発だったらしい。

 しかし、蜘蛛の巣が肩に触れたような不快感だけが、うっすらと残り続けている。

 どういうことだったのかと窓海に尋ねたことがあるのだが、校内での彼女はひどく素っ気ない。校内では近寄らないで。話し掛けないで。そう言われたことを思い出す。

 妙なことがひとつある。登校時には快く世間話に応じてくれるのに、下校時には挨拶もそこそこに足早に去ってしまうのだ。そのような事情から、まとまった時間が取れず、疑問に対する答えを得られないまま現在に至っている。

 なにか、後ろ暗いことでもあるのだろうか。出羽崎家ほどでなくとも、窓海の実家だって十分な資産家であるはずだ。もし、生徒の誰か、職員の誰か、教員の誰かが、おれと似たような立場であり、かつ窓海自身がそのことを知っていたと仮定すれば──

「──…………」

 いつでも逃げられるように、ビラーゴの手入れを入念に行っておこうと思った。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと窓海に視線を向ける。窓海は、珍しく誰の会話にも加わらず、自分の席でひとり下腹部を撫でているように見えた。

 しばらくして、窓海が腰を上げた。目が合ったおれに向けて、力ない笑顔を作る。下腹部から手を離し、おもむろに教室を後にする窓海の背中を眺めながら、デリカシーという言葉について思いを馳せた。

「……さて、と」

 キートとシモが薦めるゲームアプリをダウンロードしておこう。たしか──クロザナ? 有名なタイトルだから名前くらいは聞いたことがある。しかし、なんの略称かを忘れてしまっては意味がない。とりあえず検索して──


 ──がしゃ


「──……?」

 窓際から音がした。


 ──ぎい、がしゃ、ぎい、がしゃ


 クラスの視線が窓際に集中する。

 音量自体は、そう大きなものでもない。ただ、異質だった。窓から聞こえるには不自然な物音。発信源がわからない。それが、うっすらとした不安を呼び起こす。


 ──ぎい、がしゃ、ぎい、がしゃ


 怪音は、一定のリズムで、断続的に聞こえてくる。

 窓をよく確認してみると、銀色をした二本の棒が僅かに覗いていた。


 ──ぎい、


 数人の生徒が、窓際から離れた。

 賢明な判断だ。


 ──がしゃ、


 銀色の棒のあいだから、黒いものが覗いた。

 それが、目の粗い夏用のニット帽であると気がついたのは、ほんの一秒後のことだった。


 ──ぎい、


 何者かが、教室内を窺うように、半分ほど顔を出したのだ。

 事ここに至り、おれは、なにが起こったのか理解せざるを得なくなった。

 見たことのない男子生徒が、ハシゴを用い、窓から教室へ入ろうとしているのだ──と。

 男子生徒は、わずかに教室を見渡すと、

「……よし、いない! でも心配だ!」

 と、かなり大きめの声で呟いた。

 なんだろう、ジェネレーションギャップの向こう側にある新しいギャグだと言われたら、いまなら信じてしまうかもしれない。

「──…………」

 そのわりに、クラスメイトたちが軒並みドン引きなのは、その推測が的外れだからだろう。

 カミが、おれの肩に手を置いた。

「ソーハチ、いまは関わらないほうがいいぜ。たぶん、いつもの発作だから」

「はあ……」

 忠告に従い、隠れるように上半身を折り畳む。再び、慣れない手つきでスマートフォンを操作し始めたところ──

「──とぉウッ!」

 男子生徒がハシゴを一気に駆け上がり、バク宙をしながら教室内へと着地した。

 あまりの身体能力にぽかんと口を開いていると、

「山本宗八! 往生際がわりーぞ! さっさと姿を現せい!」

 理屈の通じる相手ではないことが、一瞬で理解できた。

「……あー、今回はソーハチか。やっちゃったね」

「話しかけてたもんねー……」

 シモとキートが、幾分かの哀れみを含んだ瞳をおれへと向けた。

 いったい、なにをしてしまったというのだろう。

 大柄なカミの陰に隠れていたおれは、首をかしげながら素直に立ち上がった。

「──バカ! 隠れてろって!」

 制服の裾を引くカミを無視し、おれは口を開いた。

「……山本はおれだけど、なにか用ですか?」

 逃げて解決する問題なら、逃げたほうがいい。だが、多くの場合、時間の経過と共に状況は悪化していく。そして、後回しにしたことによって被った多くの損害は、不思議と意識にのぼることがない。

 だからおれは、〈保留〉という選択を行わないことにしているのだ。

「おうおうおーう! ついに出てきたな、セクハラ戦隊サワルンジャー! てめえ、チカソノにちょっかい出しやがってくれましてますますご健勝のことと申し上げるぞコラァ!」

 親園?

 聞き覚えはあるのだが、男子生徒のがなり声に遮られて思い出すことができない。

「俺の情報収集力を舐めんなよ! 思春期真っ盛りで土手を這いまわる少年探偵七人分に匹敵すると言って過言!」

 突っ込みたくないが、突っ込まなきゃいけないのだろうか。

「転校して以来、話しかけたり、話しかけたり、話したり、話しかけたり、挨拶したり、目を合わせたり、頬を染めたり、談笑したり、六角形の鉛筆に〈好き〉〈嫌い〉〈宇宙暗黒意思統一大権現〉って書いて宇宙暗黒意思統一大権現になったり、他にもいろいろハッピーセット、おもちゃ、俺、もらえない、堪忍袋の緒、切れ、ワルクナイ、人間、人間すき、でも、人間、災い呼ぶ、森、出て行く、サダメ……」

「──…………」

 日本語のように聞こえるが、まったく意味がわからない。

 クラスメイトの誰かが、くすくす笑いを漏らしている。その感性が理解できない。笑いのセンスばかりは世代間格差が大きいのか、単に当事者だから笑えないのか。

 しかし、ひとつわかっていることがある。

 ふざけているようにしか見えないが、この男子生徒は本気で憤っているらしい。

 クラスメイトの視線がおれたちを中心として交錯しているのを肌で感じながら、かろうじて意味のとれた部分にのみ返答した。

親園ちかその? もしかして窓海のことか?」

「──ふんぬ、オあーッ!」

 男子生徒が雄叫びを上げた。

「呼び捨てしやがったな! 呼び捨てにしやがったな! てめえ、俺が親園の下の名前を呼び捨てにすると胃が荒れ血管が収縮し最悪の場合ほっぺが赤くなることを知りつつ、その所業! ああ、忌々しい、忌々しい、忌々しい! お前のかーちゃんちんちん取れろ!」

「おれの母親に男性器がついてるみたいに言わないでくれ……」

 理解した。

 窓海の言っていた〈大変なこと〉とは、この状況を指していたのだ。

 前言を撤回する。今回に限っては一時的に〈保留〉を選択すべきだった。窓海は男嫌いだ。そういうことになっている。バイクを通じて親しくなったのが事実とは言え──否、事実だからこそ、その印象と相反することを暴露すべきではない。それは不誠実というものだ。

「──えーと、その、悪い。窓海……さん、は、クラスメイトからよく下の名前で呼ばれてるみたいだったから、苗字を覚えていなかったんだ。だから、つい」

 適当に誤魔化してみる。嘘だが、完全な嘘ではない。窓海の苗字は知っていたが、報告書を書く際に字面で覚えていただけで、音で聞いたことがあまりなかったのだ。

「……本当か?」

「本当だよ」

「目ぇ見せてみろ!」

「はいはい」

 長身の男子生徒を仕方なく見上げる。

 一発くらいなら、殴られてやっても構わないだろう。

 クラスメイトには、武道系の部活動に打ち込んでいる生徒もいる。目撃者にも事欠かない。顔を腫らすくらいでアドバンテージを得ることができるなら、むしろ好都合だ。

「──…………」

「──……」

 しばし見つめ合う。

「目ぇ閉じんなよ」

「ああ」

「閉じたら反射的にキスしてしまうかもしれん」

「……や、やめてくれ」

 よく見るとふつうに美形なものだから、余計に気持ち悪い。キートが喜びそうだ。

「なあ」

「はい?」

「嘘をついてる目って、どう判断したらいいの?」

「──…………」

 あ、わかった。

 こいつ馬鹿なんだ。

「お前さあ──」

 付き合いきれないと文句を言おうとしたとき、ちょうどチャイムが鳴った。引き戸の前で待機していたのか、チャイムの終了と同時に教師が入室する。担任だった。彼の担当は現国であり、文学作品を読み解く授業が多いためか、評判は悪くない。

 窓海はまだ帰ってきていなかった。保健室で休んでいるのだろう。

「──さあ、皆さん席につきましょう!」

 担任教師が手のひらを二度打ち鳴らしたときには、ほとんどの生徒が授業を受ける姿勢を整えていた。優れた教育は、優れた生徒を育てる。しかし、すべての生徒を高い水準に保つことはできない。働きアリのなかに必ず怠けアリが混じるように、例外の発生を止める術はない。

「──…………」

 教師の言葉を無視し、席につかない生徒がいた。

 正確に言うと、席につくことのできない一部の例外がいた。

「……中世末ちゅうせいまつ光尊ぴかそさん」

「はい!」

 ピンと腕を伸ばし、無駄に見事な返事をする。本名だとすれば、とんでもない名前だ。破天荒、という意味で、名は体を表しているのかもしれないが。

「2-Aへ戻ってください。このままでは、どちらの授業にも支障が出ますので」

「わかりました!」

 ビシィ!

 ピカソが海軍式の敬礼し、踵を返す。

 そして、制服のポケットをまさぐると、マッチ箱大の物体をおれに握らせた。

「俺の皇帝眼エンペラーズ・アイは、嘘は見抜けずとも、真実と睡眠不足は見抜けるのだ! じゃッ!」

 無駄な大声でそう告げて、ピカソは窓へと駆け出した。

「中世末さんっ!」

 担任教師の制止も聞かず、

「──トぅあッ!」

 ハシゴに飛び乗ったピカソが、猿もかくやという滑らかな動きでするりと姿を消す。ハシゴが外されるまで数秒と掛からなかった。

「…………はあ……」

 担任教師が、溜め息と共に、大袈裟なくらい肩を落としてみせた。

 隣のクラスなら、素直に廊下から行けばいいのに。

 そもそも、ハシゴを掛けてまで窓から侵入する理由がわからない。意味があるならまだいいが、〈なんとなく〉である可能性が高すぎて、推測するのが馬鹿らしくなってしまう。あんなことを仕出かせば、反省文どころか停学すら──

「……なあ、キート」

「?」

 隣席のキートに小声で話しかける。

「えー……と、中世末だっけ。あれ、なに?」

「ソーハチ、ご愁傷様だねー。バカソは窓海ちゃん公式ストーカーなのさ」

「……公式?」

「知っててほっといてるってこと。バカソはわかってないみたいだけどねー」

「なるほど……」

 転校初日、窓海がなにを考えていたのか、ようやく確信できた。これ見よがしにおれと仲良く振る舞ってみせることで、自分のストーカーであるピカソを扇動し、おれにけしかけようとしていたのだろう。

 しかし、下校の際にささみを交えたためか、たまたま見逃していただけか、厄介極まりない爆弾はうまく起爆しなかった。頭が冷えた窓海は、自分の行為がやり過ぎだと思い直し、おれから距離を取ることでピカソの暴走を抑えようとしていたのだろう。

「あいつ、停学になったりしないのか?」

 おれの通っていた高校の基準では、諸々合わせて五翻満貫、初犯であれば反省文、常習であれば停学一週間が妥当なところだろう。

「──…………」

 キートが眉根をひそめ、口を開いた。

「……この学園は、星寮生のためにあるの。私たちは間借りしてるだけ。だから、私たちがすれば厳罰もののことでも、星寮生なら許されちゃうのさ」

「ふうん……」

 おれは、相変わらずのオオカミパーカーに視線を投げながら、ちいさく頷いた。

 間借りしている。

 その認識が登校生に共通のものであるとすれば、待遇の差に不満が見られないのも、むべなるかな、といったところである。星寮生と登校生、それぞれの学費に十倍以上の開きがあるのは周知の事実だ。また、学園の中枢たる〈内側〉へと入るための切符は、星寮生にしか与えられていない。登校生が〈内側〉へと入るためには、必ず星寮生の招待が必要となる。

 ここまで徹底しているとなれば、登校生が自分たちのことを〈借りてきた猫〉と揶揄するのも無理はない。星滸塾学園は星寮生のもの──誰もがそう考えている。

 登校生は、その軒下を借りているだけなのだ、と。

 「──…………」

 考察を終え、手のひらを開く。

 それは目薬だった。

 昨日、徹夜であったことは間違いない。しかし、あのピカソという男子生徒は、いったい何者なのだろう。馬鹿だし、わけがわからないし、言動や行動が宇宙人としか思えないが、そう悪いやつではないような気もする。

 久し振りにさした目薬は、思っていたよりスーッとしなかった。

「……ソーハチ、それより窓海ちゃんのこと聞きたいなー」

「授業始まってるから、後でいいか。本当に隠すことないし、適当に端折るけど」

「それはそれでつまんないにゃあ……」

「残念ながら、色気のある話なんて、そうそう起こりやしないんだよ」

 特に、おれには。

 キートとの雑談を打ち切ると、おれは教科書を開いた。




「──……おい」

 高等部正門へと通ずる道を敢えて外れ、舗装されていない林道を行く。青く生い茂る木々は、道の先にあるものを教えてはくれない。ささやかな青い香り。下生えは薄く、錆色の地面が覗いている。

「おーい」

 学園の樹木には、一定の比率で巧妙な模造品イミテーションが混じり込んでいるという噂がある。模造品の内部には監視カメラが仕込まれており、決して少なくない人員が二十四時間体制で学園の監視を行っているという。不純異性交遊を抑止する、ただそれだけのために。

 最初にこの話を聞いたとき、なにを大袈裟なと思った。しかし、いまは真実だと確信している。ここは星滸塾学園だ。他に理由を並べ立てる必要など、ない。

 恐らく、噂の出処は学園の関係者だろう。噂が広まれば広まるほど、定着すればするほど、不純異性交遊の禁止を謳う星滸塾学園はその恩恵を受ける。そもそも抑止が目的なのだから、周知されなければ意味はない。

 そして、それはきっと、一定の成果を上げているのだろう。

 転入から一ヶ月と経たないおれが、こうして知っているくらいだから。

「おい、聞いてんのか! 山本宗八!」

 さて、このあたりでいいだろうか。

「聞いてるから無視してるんだ。聞いてなかったら無視できないだろう?」

「あ、そうか……、ん?」

 くるりと踵を返し、中世末光尊へと向き直る。

「こんなところまで呼び立てて、悪かったな」

「まったく、本来なら交通費を請求してるところだぞ」

「請求したいならしても構わないが」

「ひゃくおくえん」

 差し出されたピカソの手のひらに、そっと目薬を置いた。

「ほら、これでいいか」

「なんだ、こんなもん。山本菌がついてるからいらんぞ」

「小学生か」

 早くも頭が痛くなってきた。

 しかし、窓海に関する諸問題は、穏便に、そして秘密裏に解決すべきである。万が一こじれたとしても、窓海の名誉を傷つける心配のない場所を選んだつもりだ。窓海はささみの友人である。今後、事あるごとに突っ掛かられてはたまらない。

 今度こそ、この馬鹿を言いくるめなければ。

「えー……と、ピカソでいいか。いいな。とりあえず、おれと窓海の関係について──」

「グェ──ッ!」

「⁉」

 ズザザッ!

 雑巾を引き裂くような悲鳴と共に、ピカソが不自然に後ずさり、膝をついた。

「お、おれと窓海のカンケイ、だと……」

 そこからか。

 まあいい。

 よくはないが、いい。勝手に話を進めさせてもらおう。

「聞いてくれ。おれと窓海は、単なる友人──どころか友人の友人くらいの関係だ」

「友人の、友人……」

「気にするほどでもないし、挨拶したって不自然じゃないだろう?」

「羨ましい……」

 羨む基準が低すぎるだろう。

 まあ、ストーカーだし、そんなものかもしれない。

「……出羽崎ささみは知ってるか?」

 知ってるに決まっているけれど。

「ああ、知ってる。身長一五一センチ体重は四〇キロ台前半で僅かに上下、誕生日は四月二日のおひつじ座、血液型はAB、母親とは七歳のときに死別、趣味はバイクのカタログを眺めること、星寮生で、原小寅養護教諭と非常に──」

「待て待て待て怖い怖い怖い怖い!」

 総毛立つ全身を必死に撫でつける。

 ストーカー。

 言動の間抜けさで油断していたが、中世末光尊はたしかにストーカーだ。その存在の恐ろしさを、おれは、いま初めて実感した。

「おま、お前、窓海本人じゃないんだぞ? 窓海の友人だぞ! どうしてそこまで調べ上げているんだよ!」

「──…………」

 視線を僅かに逸らし、頬を掻き、ニット帽を片手で深くかぶり直しながら、ピカソが答えた。

「……愛、かな」

 やばい。

 怖い。

 気持ち悪い。

「いちおう──いちおうだ。いちおう尋ねるだけ尋ねるぞ。ちゃんと答えなくていいからな。窓海の──、本人の情報は、どれくらい握ってるんだ……?」

 ぽ。

 ピカソの頬がりんごのように紅潮し、噛みつくように口を開いた。

「ば、ばかやろう! 親園の、し、しし身長と体重なんて、知るわけねーだろ!」

「──…………」

「ハレンチだぞ、山本宗八! 見損なったぞハレンチ学園! ケモノ! ケダモノ! 村人! オーク! 女性の個人情報をなんだと思ってんだ、このう!」

「……ささみの個人情報は、いいのか?」

「なんで?」

「窓海の個人情報は、駄目なのか?」

「いいわけねーだろ!」

 ひどいダブルスタンダードを見た。

 しかし、このいかにも童貞くさい紳士ぶりが、窓海公式ストーカーと呼ばれる所以かもしれない。事実はどうあれ、排除するほど危険ではないように見えるからだ。クラスメイトたちは、ピカソの派手な登場をイベントとして楽しんでいるふしがある。ゆえに、馬鹿にはされても嫌われてはいないように思われた。

 当の窓海が歯牙にもかけていないのは、彼女が興味を抱く範囲が狭いからだろう。窓海は自分を〈男嫌い〉と称していたが、そうでないことは明白である。恐らく、カテゴライズの基準が男女とは無関係なのだ。知人か、友人か、親友か、はたまたそれ以上か──自分との距離のみで推し量っている。無関係の人間には関心がないから、ピカソが誰をどうしようと知ったことではない。

 だから、ささみの友達であるおれに対し、ピカソをけしかけようとしたことに罪悪感を覚えた。そうでなければ、ピカソの〈起爆〉を阻止しようとは思わないだろう。

「──……はあ」

 深く溜め息をついた。

 とにかく、ここまで話が通じないと、いっそ痛快ですらある。

「窓海は単なる知人だし、名前で呼んだことに他意はない。いい加減、納得してくれ」

「嘘つけ!」

「どうしてだよ……」

「親園を見て、よ、よよ、欲情しない男なんているはずがねーからだよ! 言わせんな馬鹿!」

「断言するじゃないか」

 ピカソが、うっとりと目を細めた。

「ああ、触れたい。舐めたい。撮りたい。掻きたい。指を入れたい。掃除したい──」

「──…………」

 おれも男だ。その気持ちは、わからないでもない。

 しかし──

「ああ、耳! 親園の耳ッ! あれ以上美しい耳を、俺は見たことがない!」

「──……は?」

 わからないでもないでもなかった。

「あのイヤーカフも決まってる。イヤーカフは耳のメガネ! なくてもいいけど、あったらもっといいよね! でも、ピアスは勘弁な。耳の穴はひとつで十分だからな、なーんちゃって! 俺はメガネフェチじゃないけど、やつらの気持ちはよー……く、わかる。親園の耳に欲情する山本宗八の気持ちも理解すること極まれりだが、あの耳を穢すものは何人たりとも──」

「おい待て馬鹿……」

 くらくらと目眩がする。

「──ピカソ。お前は、つまり、窓海の耳が好きで、惚れ込んでいるんだな」

「当たり前だろ」

「……おれ、耳フェチじゃないんだが」

「なにい⁉ そんな特殊性癖の持ち主が存在するのか!」

 するんだよ。

「──…………」

 指のにおいを嗅ぐような姿勢のまま、ピカソが動かなくなった。

 考えごとをするときの癖なのかもしれない。

「──つまり、山本宗八は、親園のことが──、嫌い?」

「嫌いじゃない。でも、付き合いたいとはまったく思わないな」

 おれはロリコンではない。

「じゃあ、誰のことが好きなんだ! それを教えてくれたら、山本宗八の言葉を信じてやらなくなくなくなくもない」

 どっちだ。

「……そんなこと、言う必要ないだろ」

「俺の好きな人は知ってるくせに!」

「いや、お前、そんなもんお前が勝手に──」

「はッ! 俺は常に細心の注意を払ってる! 誰にも気づかれちゃいない! 山本宗八、お前を除いてな!」

 どん! というオノマトペが似合いそうなポーズで、ピカソがこちらを指さした。

 本気で言っているのなら、とんでもない大物かもしれない。

 大きく肩をすくめる。

「……おれ、転校してきてから一ヶ月経ってないんだぞ。そんな相手がいるわけないだろ」

「いる」

「いない」

「いる!」

 げんなりと口を開く。

「なんで断言できるんだよ」

「山本宗八が野獣の眼光をギラギラと輝かせているからだ! こいつはやべえ、女を知っている──いや、男すら知っている目だ! や、やめろ! そんな目で俺を見るな! 俺のアスタリスクはそう簡単に開かねえぞ! うんこのときしか!」

「はあ……」

 十数回目の溜め息。

 いい加減、面倒になってきた。好きな人を教えれば解放してくれると言うのだから、適当にでっち上げてしまおう。答えずに帰ってもいいが、そうすると、明日にでもヘリコプターの縄梯子に捕まって現れるかもしれない。やりかねないのが恐ろしい。

「──…………」

 さて、誰にすべきか。仲の良い女子など、そうはいない。

 真っ先に思い浮かんだのは、ささみだった。

 しかし、ヘリウムガスを注入された風船くらい口の軽そうなピカソのことだ。情報が漏れた場合、仕事に支障が出ることは疑いないだろう。

 コトラ? 妥当な選択肢だが、ささみとの関係に妙な愛憎を持ち込みたくはなかった。

 窓海では本末転倒、論外だ。

 キートと答えると、せっかく築かれ始めた友人関係に傷がつく。

 となると、消去法で──

「……えー、その、惑ヰ……先輩?」

「──…………」

 一瞬、ピカソが固まった。

 ばん、ばん!

 おれの両肩を痛いほど叩き、グッと熱く親指を立てる。

「……山本宗八、見直したぞ」

「はあ」

「俺はお前を見直した! やはり、俺の目に狂いはなかった! まさか惑ヰ先輩だなんて、そんな禁断の愛の線路をひた走る手漕ぎトロッコでふたりの汗がキラリと光るよな!」

「そうだな」

 疲れてきたので、相槌だけ打っておくことにする。

「ちなみに、惑ヰ先輩のプロフィールは身長一六七センチ体重は五十キロ台なかば、誕生日は七月十一日の──」

「ああ、もういいもういい」

 眼前で手を振りながら、〈もうすぐ誕生日なのか〉などとぼんやり考えていた。

「よし、わかった! この光尊さまが、お前の恋のファッショナブルデザイナーとなってやろう! なに、気にしろ!」

「遠慮──」

「明日だ! 明日を待て! 乞うご期待!」

「──……はあ」

 人生のなかで、これほど溜め息を強要された時間も他にない。

 本当に、本当に、悪いやつではなさそうなのだけれど。

「……人の心配より、自分の心配をしたほうがいいんじゃないか?」

「それは大丈夫!」

 腰に手を当てたピカソが、華奢な胸を大きく反らしてみせた。

「なにしろ、親園の御父上には既に、挨拶を済ませているからな!」

「──……ん?」

 どこかで聞いたような。

「……えーと、それは、窓海と一緒に交際の挨拶をした──ということ、じゃないよな」

「そそそそんなことできるわけないだろろろ」

 でしょうね。

「じゃあ、ひとりで?」

「当然だ! 親園が隣にいて、俺がまともに話せるわけねーだろ!」

 威張ることか。

「ゆゆゆ勇気を出して、ち親園がいない隙を狙って、土下座しながら言ってやったとも! 娘さんを俺にください! 政略結婚とかどうです、興味ありません? ──とな!」

「──…………」

 ジグジグと頭痛が止まらない。

 額に手の甲を当てる。熱がありそうだった。

「……親園の家は、どうやって知ったんだ?」

「笑止! 俺の情報網を舐めるな! 騎士道に反するが、武士は食わねど高楊枝! 春休み、帰宅する親園を尾行させていただいたとも!」

 ピカソが、やりきった男の顔で親指を立てた。

 情報網関係ない──ああ、逃げるな逃げるな。そんな些細な部分は問題ではないだろう?

「──…………」

 そっと胸に手を当てる。心音は正常。脳髄は冷えきっている。

 だいたいわかった。

 あとは、確認するだけだ。

「最後の質問をする」

「なんだよ」

「窓海を尾行したとき、ささみが一緒にいなかったか?」

「──…………」

 しばし思案したピカソが、

「いた」

 と答えた。


「うううぉまえかあ────────ッ!」


 ピカソの制服の下襟を掴み、思いきり前後に揺さぶった。

「な、なんじゃゴるァ──ッ⁉」

「いいか、教えてやる。お前が挨拶したのは、窓海の父親じゃない!」

「……はあ?」

 ブレザーの襟から手を離す。

「たぶん、帰りしなに直接遊びにでも行ったんだろう。中世末光尊、お前がどうやって窓海を尾行したのかは知らないが、とにかく、とにかくだ。お前が辿り着いた先は──」

 すう、と息を呑む。

 なにもかもが理解できないでいるのか、ピカソはきょとんとした表情を浮かべている。

 おれは、ピカソのニット帽を剥ぎ取り、きっぱりと告げた。

「お前が挨拶したのは、窓海の父親じゃない。

 お前が親園家だと思い込んでいたのは、出羽崎家だ。

 お前は確認を怠った。

 どうして住所まで調べておかなかったんだ。

 いいか、よく聞け。

 お前が窓海の父親だと思っていたのは、ささみの父親だ。

 つまり!

 お前が求婚したのは!

 窓海じゃなくて、ささみなんだよ!」

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