1/逆説のジュブナイル -3

 保健室に戻ると、ベッドで横になっていたはずのささみが起き上がっていた。

「まどれ、お茶、いれておきました」

「む、ありがとうな」

「……宗八くんのも」

「悪いな」

 湯呑みの呑み口から緑茶をすすり、ほっと一息ついた。冷めても美味い。備品の茶葉すら高級なのだろうか。

「?」

 携帯が震える。

《まどれと宗八くんは、どういう関係?》

 仔犬が首をかしげているスタンプ。

「どういう関係って──」

 コトラに目配せをする。

「それは、ねえ」

 背後に回り込んだコトラが、おれの両肩に手を掛けた。

「私と宗八は、従兄弟同士なんだな」

「いとこ……」

 さきほど、その設定で押し通すと決めたのだった。

 兄弟姉妹では近すぎるし、友人知人では遠すぎる。従兄弟であれば、無理も矛盾も最低限で済むはずだ。

「──…………」

 ささみが携帯を制服のポケットに仕舞い込む。

 どうしたのだろう。

 不意の行動に首をひねっていると、ささみがおれに一礼した。

 そして──

「あらためて自己紹介しま、自己紹介する。出羽崎ささみです。宗八くん、よろしくお願いし、する」

 そう言って、おれに右手を差し出した。

 握手に応じると、細く高い声でささみが話し始めた。

「わた──ぼくは、ずっと厳しく育てられてきま、たから、どうしても敬語が抜けないん、ないんだ」

「……なるほど」

 吃音のように思えるが、吃音ではない。ささみの場合、反射的に出てしまう敬語を、理性で押さえつけているかのように感じる。

「だから、教室では話さないんだな」

「はんぶんは」

「半分?」

「もうはんぶんは、眠いからです、だよ」

 さすが宵っ張りである。

「ささみ、ちゃんと授業受けてるかい? まどれはいつだって心配だよ」

「真面目に受けてま──てるよ?」

 あの状態が真面目ならば、不真面目なときはどうなってしまうのだろう。

 ああ、寝るのか。

「ね、宗八くん」

「どうかしたか?」

「保健室でとか、ふたりでいるときとか、携帯じゃなくて、ふつうに話しても、いい、かな。宗八くんは、まどれの従兄弟だから。信用できると思い、思うから、できたら練習した、んだ」

 コトラと目配せをする。願ってもない提案だ。

「わかった。放課後とか、暇なときで、できれば曇りの日がいいのかな。適当に示し合わせよう。校舎内は案内してもらったけど、学園の敷地内はまだまだだから」

「──…………」

 携帯が震える。

《それは、ちょっと、死ぬカモ……》

「……ついでに体力つけろ」

 和気藹々とした空気に、コトラがくつくつとと笑みをこぼした。



「──…………」

 保健室を後にし、おれはコトラの言葉について思案を巡らせていた。

 ささみを守る。

 なにをどうすればいいのか、皆目見当がつかない。果てしのない荒野に敷かれたレールの終着は、まだ遠く見えない。現時点では情報が足りないのだろう。情報がなければ処理できない。処理できなければ出力できない。当然の帰結である。

 コトラは、ささみの悩みを、苦しみを、決して教えてはくれなかった。理由はなんとなくわかる。うわべだけを言葉でなぞったところで、理解したことにはならない。自分で気づかなければ意味はない。

「──寮、というか、〈内側〉は、ここから近い、んで、だ。一キロないくらい」

「感覚が麻痺してきたなあ……」

 今度、万歩計でも持ってきてみようか。

「すぐに慣れま、慣れる、と、思います、う、よ」

 この敬語癖も、ささみの持つ悩みのひとつだろう。敬語を使えないのは問題だが、敬語でしか話せないだけであれば、社会に出て困ることはない。しかし、当の本人が矯正したいと思っているのだから、たとえ言いくるめたとしても、問題を解決したことにはならないだろう。

 おれは、ひとつ溜め息をついた。

 ままならないものだ。


「……──しょうよー」

「ああ、ウン……」


 すぐ近くの教室から、女生徒の声が漏れ聞こえた。

 ささみと顔を合わせる。

 校舎内に残っているのはおれたちだけだと、ただなんとなく思い込んでいたのだ。

 3ーCと書かれた室名札を確認し、無造作に開かれた扉の隙間から、大した理由もなく教室内を覗き込む。

「──…………」

 あ、やべ。見てはいけないものを見てしまった気がする。

「……?」

「ささみ、行こう。教育に悪い」

 ささみの手を取り、歩き出そうとして──

「あーッ!」

 軽やかな足音と共に、ひとりの少女が教室から飛び出した。

「ささみい! 転校生から離れなさい!」

 繋いでいた手を慌てて離す。

 それは、今朝おれを案内してくれた自称男嫌いの少女だった。

 なるほど、と首肯する。男嫌いというのは、相対的な意味だったのか。

「優しそうな人だと思ったから親切にしてみれば、とんだ女たらしだわ!」

「いや、学級委員に校舎を案内してもらうのは──」

「じゃあ、どうして手なんか繋いでたのよ!」

 気づかれないように、ちいさく溜め息をつく。

 感情的になった相手への対応は、いつになっても慣れることがない。

「手を繋いだんじゃなくて、手を引いたんだよ」

「なんで!」

「……教室のなかの光景を、見せないほうがいいんじゃないかと思ったんだ」

「──…………」

 少女の頬が、みるみるうちに紅潮していく。

 いかがわしい行為が行われていたわけではない。

 監視カメラ網の張り巡らされた星滸塾学園の校内で、そんなことは起こりえない。

 ただ、今朝の少女が、先輩らしきもうひとりの少女に、猫撫で声で甘えている瞬間を目撃してしまっただけである。

「宗八くん、窓海まどみは──」

「……そ、う、は、ち、くん?」

「あっ」

 ささみが慌てて口を押さえる。

「ささみ、こっち来なさい! どうして、今日会ったばかりの相手と、親しげに、しかも携帯抜きで話してるのよ! キリキリ事情を吐いてもらいますからねえ!」

「あー!」

 ささみが連れ去られていく。

 今朝の少女──窓海と呼ばれていた少女のイメージが、がらがらと崩れる音がした。

「……ま、いいか」

 あの少女は、ささみの友人だろう。もしかすると親友なのかもしれない。ささみの身に迫っているかもしれない危険──つまりおれに対し、見事な啖呵が切れるのだ。すこしだけ救われた気持ちになった。

 ささみは、決して孤独ではないのだ、と。

 しみじみしていると、携帯が震えた。キートからだった。

 カラオケボックスでの収録風景を撮影した写真らしい。ノートパソコンに、コンデンサマイクに、ベースに、アンプに──ちゃんとしたスタジオを借りたほうが、安上がりのような気がするのだけれど。

 そう返信しようとしたとき──

「……ヤア、窓海くんは、何処へ行ったかな」

 背後の声に振り返る。教室にいた、もうひとりの女生徒だった。

「──…………」

 はっとした。

 ささみや窓海は、造作こそ整っているものの、細部にまだ幼さが残っている。少女の域を踏み越えてはいない。

 しかし、目の前の女生徒は違う。

 深く落ち着いた目鼻立ちに、細めた切れ長の目。色のよい唇。くらくらするようなハスキーボイス。高校生とは思えないほど、完璧で、洗練された美女だった。大人っぽいが、老け顔というわけではない。制服を自然に着こなし、たおやかに振る舞っている。

「……?」

 違和感。

 あれ、この人、もしかして──

「君──いえ、あなたは、先輩でしょうか?」

 女生徒が答える。

「自分は三年生だよ。モシ、君が、窓海くんたちと同じ学年であれば、自分は先輩ということになるね……。好きに呼んでくれて構わない。名前なんて、識別できればいいのだからね」

「はあ」

 よくわからない人だ。

 先輩が──とは言え、ずっと年下ではあるのだが、彼女が自分の胸元を親指でさして、告げた。

「……惑ヰまどゐ

「──……ええと」

 それが自己紹介だと気づくのに、数秒かかった。

「惑ヰ先輩、ですか」

「ウン、そうか、ソウカ……惑ヰ先輩かア……。結局のところ、そこに行き着くのだね。ところで──君は、ウン……窓海くんの言っていた、転校生の君、かな?」

 独特の間とリズムを持った惑ヰの話し方には、自然と聞き入ってしまうような不可解な魅力がある。狐っぽいイメージも相俟ってか、その名のとおり、惑わされているような気分だった。

「ええ、まあ。わた──おれは、山本宗八です。今日、県外から転校してきたばかりの──」

「ソウカ、ソウカ。それはトテモ素敵なことだね。……外は、変わらずかな」

 言葉尻から察するに、惑ヰは星寮生であるようだ。彼女が、登校生である窓海と──まあ、十升と言おうか、千勺と言おうか、とにかくそれに近い関係であるとすれば、寮生と登校生とのあいだに絶対的な隔絶はないということになる。事実、星寮生のささみと登校生の窓海は友人同士だ。事前情報のすべてが正しいとは限らない。

「外は変わりませんよ。ここだって、そう変わり映えしないでしょう。これほど穏やかな場所は他にない」

「フム……」

 惑ヰが頭を掻く。その仕草すら優雅に見える。

「自分には──ソウ、随分といろんなコトが、マッタク変わってしまったように思えるんだがね……」

 廊下の奥を見やる。ささみと窓海を待つあいだ、雑談に興じるのもいいだろう。

「──変わったのは、世界じゃない。自分自身ではないですか?」

「自分?」

「有名な逸話です。夏目漱石は、〈I love you〉を〈月が綺麗ですね〉と意訳した。明治の日本人の感性であれば、ただ、その一言だけで伝わるからと。月は綺麗ですが、中秋の名月でもなければ、そう大差はありません。だから、変わったものがあるとすれば、それは観測者のこころに他ならない。隣に好きな人がいて、なにもかもが素晴らしく見えた。だから、月でなくとも構わない。樹の影でもいい。虫の声でもいい。自分のこころ次第で、なんだって綺麗に感じられたんですよ」

 それは、コトラの受け売りだった。初めてこの話を聞かされたとき、深い感銘を受けると同時、反射的に「似合わねー」と言ってしまい、イカの燻製を投げつけられたことを覚えている。

「ナルホド、ね……」

 惑ヰが、幾度か頷いてみせた。

「……変わったのは自分、か。ソノ考えはなかったなァ……」

 惑ヰが、不意に、おれの顔を覗き込んだ。惑ヰとおれの身長は、だいたい同じくらいである。まるでキスでもするような体勢で、思わずどぎまぎしてしまった。外見は別として、相手は十七、八の子供だというのに。

「君は、トテモ面白いね。転校初日だというのに、緊張しているようには見えない」

「誤魔化すのが得意なんです」

「……ドウかな?」

 惑ヰが肩をすくめる。

 ポーカーフェイスに徹してはいるが、内心では本当にヒヤリとしていた。今後、惑ヰと接触する際には、〈面白い人〉以上の認識をされないよう気をつけなければなるまい。

 ゆっくりと歩を進めていけばいい。焦る必要はない。足元を見つめて、細心の注意を払いながら。



「──私、君と一緒に帰ることにしたから」

 ささみの手を引いて戻ってきた少女が、開口一番そう言った。

「事情はわかったけど、なんとなく信用できないのよねえ。ことらセンセと従兄弟っていうのも出来過ぎだし、いくらなんでも手が早すぎると思う。……悪く思わないでね」

 なかなか鋭いところを突いてくる。

「窓海、だめで、よ。そんな、宗八くん、たいへんなことに」

「大変なことって……」

 ただ一緒に帰るだけで?

 どうにも想像が追いつかない。

「すみません、惑ヰ先輩。ナツショー回るの、次の機会でお願いします……」

「アア、ウン……自分は構わない。ドチラにせよ、今日は気分が乗らなかったしね……」

 改造されたとしか思えないほど分厚い学園指定の鞄を手にし、惑ヰが教室を後にする。

「ソレジャア、またね。窓海くんに、転校生の君。それから──」

 惑ヰが視線を迷わせ、

「──…………」

「?」

 その視線から逃れるように、ささみがおれの背中に隠れた。

「ジャア、ね……」

 ささみに挨拶を告げず、惑ヰがきびすを返した。

 なんらかの確執があるのか、単に苦手なだけなのか。それはわからないが、おれは、この出来事を覚えておくことにした。どんなにちいさなことでも、なにかの役に立つかもしれないから。

「──……はあ」

 少女が溜め息をつく。ささみか、惑ヰか──あるいはその両方に、呆れているように見えた。

「まーいいです。転校生、帰ろっか」

「嫌だと言ったら?」

「わたし、長距離走は得意なのよねえ」

 満面の笑顔。

 女子とは言え、現役高校生に持久力で勝てるはずもない。

「……宗八くん、とちゅうまで、わた、ぼくも一緒に」

「ささみは来ないで。わかるでしょう?」

「──…………」

 おれは、ささみの手を取り、固く繋いだ。

「よし、帰るか!」

「おい! おーい!」

 少女が、繋いだ手を外しにかかる。

「……なんだかよくわからんが、ささみと一緒じゃないと帰らない」

「どうして」

「自衛のため」

「女の子に頼るなんて情けない」

「だって、女子生徒にはなんの影響もないはずだろう?」

「──え、どうして」

 少女が目に見えて動揺する。

 おれは、胸中でにやりとした。

 まだまだ人生経験が足りないようだ。おれは、当たりも外れも考慮せず、ただ適当に答えただけである。確信を持っているように振る舞えば、正しければ驚くか狼狽えるし、間違っていれば嘲笑する。それが人間というものだ。

 ささみに害が及ばないことは確認したので、

「ささみ、頼むよ」

「は──うん」

 手を離し、下足場へと歩き出した。

「あ、ちょっと待って! 鞄持ってくるからあ! 待ちなさい!」

 待たない。

 この様子であれば、勝手についてくるだろう。



 漆塗りの桁橋──今朝、少女が立ち止まった場所でささみと別れ、ふたりで正門までの道をとぼとぼと歩いていく。

「はあ……」

 大きな溜め息をつき、首と肩をゆっくりと回す。

 今日は長かった。本当に、長かった。

「おっさんくさい」

 おっさんだから仕方がない。

 そんな胸中の諦念を知らず、少女が話しかけてきた。

「……ねえ、転校生」

「そろそろ名前で呼んでほしいんだけど」

「名前、なんだっけ」

「山本宗八」

「宗八でいい?」

「ああ」

「ささみのこと呼び捨てにしてるんだし、私も窓海でいいよ」

「了解した、窓海」

 少女──窓海が立ち止まる。

 数歩遅れて振り返ると、窓海が自分の胸に手を当てていた。

「……わたし、感情にまかせて突っ走って、あとから後悔することがよくあるんだけど」

「──…………」

 誰しもあることだ、と思った。しかし、口は挟まない。

「今まさに後悔してる、かも」

「一緒に帰ることが?」

 さっきから、点と点とが一向に繋がらない。殴りかかってくるわけではないし、罠があるようにも思えない。いたって普通に、ただ並んで歩いているだけである。

「……いったい、なにが起こるんだ?」

「たぶん、明日くらいにはわかるよ。わからなければ、そのほうが幸せだと思うし……」

「はあ」

 ぽつぽつと内容の薄い雑談をしていると、いつの間にか正門をくぐっていた。窓海には、いろいろと尋ねたいことがあったのだが、既に〈手が早い〉と警戒されている以上、罵倒された上に情報も手に入らない公算が高い。

 門番の黒服に会釈し、この世の果てまで続いているような塀に沿って──

「待て待て、待って!」

「ぐ」

 窓海が、おれの制服の襟首を掴んだ。

「地下鉄の駅は、正門を出てまっすぐ! 道順忘れるほど緊張してたの?」

 窓海が呆れ顔で両腕を組んだ。

「いや、違う違う。俺んち、駅までかなり遠いから、バイクで通学してるんだよ。学園の許可も取ってる。それで、近くの月極借りてるんだ」

 バイク通学であることを隠す気はなかった。

 ついでと言ってはなんだが、たまたま併設されていたトランクルームを月三千円で借り上げ、学園生活に必要そうなものを片っ端から放り込んである。

「──バイク!」

 窓海の唇から、深い吐息が漏れた。

「宗八、免許取ったんだあ……」

「ああ」

 十年前にな。

「だから、髪型がオールバックみたいなんだねえ」

「余計なお世話です」

 たしかに、ヘルメットのせいで癖がついてしまったことは事実だ。しかし、手櫛で整えると、整髪料で撫でつけたような髪型になるので、特に困ったことはない。

「……おれがバイク通学してることは、秘密にしといてくれないか? まあ、いつかバレるんだろうけど、転校生として囃し立てられるあいだは勘弁してほしい」

「別にいいよ」

 直情的ではあるが、素直でまっすぐなところが、この子の長所かもしれない。

「ね、バイク乗ってみたい」

「駄目」

「えー……」

 窓海が嘆息する。駐車場までついてきそうな勢いだ。

「悪いけど、タンデム用のヘルメットは持ってきてないんだよ」

「そっか、仕方ないねえ……」

 予想外の食いつきに戸惑いながら、尋ねた。

「バイク好きなのか?」

「うん」

 窓海が、少女らしく素直に頷いた。

「宗八はなに乗ってるの?」

「ビラーゴのニーハン」

「宗八はアメリカンな人かなあ?」

「ネイキッドとかレーサーレプリカは嫌いじゃないけど、アメリカンのほうが好きだな」

「どうして?」

「純粋に、カッコいいと思うから」

「お、宗八、わかってるねえ。私も好き。いつか、ハーレーをチョッパーにして、風光明媚な道をブイブイ言わせて走るんだあ!」

「日本だと、ちょっとつらいかもなあ」

「最悪、海外でレンタバイクを借ります」

「いきなり現実的になった」

「でしょ」

 バイクのことが好きな人と話せることが、素直に嬉しかった。前の会社では、バイク乗りがほとんどいなかったのである。数人ほど見かけたことがあったが、他部署で、縁遠かった。話しかけてみればよかったと、いまになって思う。

 窓海が、曇り空を見上げながら、うっとりと笑みを浮かべた。想像のなかで惑ヰとタンデムでもしているのだろうか。

 バイク好きな女子、というのは、かつては珍しい存在だった。これもまた、趣味嗜好の均一化を裏付けるひとつの証左と言えるかもしれない。万が一を考えて、タンデム用のヘルメットをトランクルームに置いておこうと思った。

「で、荒野を走りながら、ステッペンウルフの〈Born To Be Wild〉を流すわけだな」

「──……?」

 あ、通じてない。

 メロディを口ずさんでみせると、なんとか通じたようだった。

「すてっぺんうるふの、ボーン・トゥ・ビー・ワイルドね。あの曲、そんな名前なんだあ」

 感心したように頷いてみせる。

「ちなみにだけど、ささみが欲しいバイクはもっとゴツいよ」

「──……えっ?」

 思わず、間の抜けた声が漏れてしまった。

「ささみもバイク好きなのか」

 人は見かけによらないが、限度はあるはずだと思う。

「うん。てゆーか、ささみが好きだったから、わたしも好きになったんだ。ささみは──たしか、1300ccのハヤブサに乗ってみたいって。それで、海岸線をいつまでもどこまでも走るのが夢なんだって、言ってた」

「よりによって大型か……」

「そう、大型」

 なるほど、いい趣味をしている。

 ささみの体格で大型二輪は難しいが、乗って乗れないことはない。同じバイク乗りとして、是非、応援したいところである。

 バイク雑誌やカタログを女子高生ふたりで読みふけり、いつか買うバイクについて、あーだこーだと話しあう──そんな微笑ましい光景が、不意に脳裏をよぎった。

「応援はするけど、いきなり大型はおすすめしないぞ。まず、原付免許でも取ったらどうだ?」

「カブ?」

「カブはいいバイクだと思うけど、シフトチェンジに癖あるからなあ」

「ロータリー式でしょ?」

「詳しいじゃないか」

「えへー」

 窓海が、にんまりと笑みを浮かべた。

 そして、

「──…………」

 気のせいか、暗い面持ちでおれの瞳を見据えた。

「……本当はさ、ハヤブサじゃなくたっていいんだと思う。カブだって、モンキーだって、ベスパだってチョイノリだって構わない。ささみの──ささみにとって、バイクは自由の象徴なんだ。身の丈に合わないバイクに憧れるのは、それが絶対に叶わないんだって知ってるからなんだと思う」

「──…………」

 無言で先を促す。

 窓海は、どこまでも続く高い塀を見上げた。

「ここは〈鳥かご〉なんだ。青い鳥を逃がさないように、かごのなかにいるんだって気づかせないように、巧妙に、老獪に、大規模に、清々しいほど思いきり騙そうとしてる。たくさんのお金を使って、たくさんの青い鳥を捕まえて──」

 その瞳になにが映っているのか、おれにはわからなかった。

「……あ、そうだ。今度、〈内側〉でナツショー案内したげる」

「ナツショー?」

「正式名称は知らないけど、みんなドーナツ通り商店街って呼んでる。略してナツショー。学園の敷地の、ちょうど中心にあるんだよ。星寮生がいないと入れないんだけどね。時計塔と噴水池のまわりに、テナントがたくさん並んでるんだあ。ちょっと用事があるからさ、行くとき誘ってあげるよ」

「ああ、頼む。興味ある」

〈内側〉。

 中枢。

 星滸寮。

 そこを指す言葉は数あれど、実際に足を踏み入れた者にしか、その内実はわからない。情報が制限されており、インターネットですら詳細を知ることが叶わないのだ。

「──……ね」

 窓海が、遠慮がちに言った。

「宗八のバイク、見るだけ見てもいい?」

「構わないよ」

「やったあ!」

 学園内では気取ったように見える窓海の無邪気な笑顔に、すこし和んだ。

「メットかぶっていい?」

「いいけど──朝から思ってたんだが、お前、本当は男嫌いじゃないだろう」

「はて……」

 小首をかしげる。

 確信した。絶対に違う。好きかどうかは知らないが、少なくとも抵抗はないはずだ。

 なにか事情があるのならば、深くは尋ねないけれど。

「そういえば、梅雨入りしたらどうするの?」

「そりゃもちろん──」

 月極駐車場のなかで、しばらく窓海と談笑していた。




「──ただいま」

 玄関の電灯をつけ、上がり框に腰を下ろす。

 疲れた。

 本当に、疲れた。

 まだ新入社員だったころ、真夏の外回りと接待から流れで午前四時に帰ってきたときより疲れきっている。もっとも、あのときは今より幾分か若かったけれど。

 彼らは、おれよりも密度の濃い時間を過ごしている。

 ジャネーの法則。年齢を重ねれば重ねるほど、体感する時間は短くなっていく。分母が大きくなるからだ。彼らは十六歳で、おれは二十八歳だ。単純計算で、彼らの一時間は、おれにとっての三十分強となる。

 彼らは、この濃密な時間を有意義に過ごせているのだろうか。

「……どうだろうな」

 おれは、自分の高校時代を思い返した。

 貧乏だった我が家では、教科書とノートだけが遊び道具だった。いつか、両親と年の離れた兄妹のために、立派な大学へ行き、立派な大人になると誓った。憧れていたバイクも、教習料金も、すべてバイト代から捻出した。

 実家の財政状況が上向いたいまでも、仕送りは欠かしていない。いつかなにかの役に立つかもしれないから。

 おれの青春時代ジュブナイルには、貧乏ながらも笑顔の絶えなかった我が家の光景、微分積分アッバース朝as soon asモル濃度──のような知識しかない。

 ヘルメットを抱き、その場で横になると、アパートの奥の窓から西日が射し込んでいるのが見えた。恐ろしく密度の濃い一日だった。わけのわからないもの、意味のわからないこと、その奔流に飲み込まれていた。おぼろげにしかルールを覚えていないポーカーに大金を賭けているような気分だった。

 あのころに思いを馳せる。高校時代のおれに、青春など、一欠片も存在しなかった。かつておれと家族とを苦しめた貧窮も、今はもう存在しない。両親は健在で働き盛りだし、年の離れた兄妹たちは、中学と高校にそれぞれ無事に入学できた。

 以前は空だったものに、なにかが詰め込まれようとしている。

「──…………」

 小さくかぶりを振った。

 仕事だ。

 すべての行為は、すべての人間関係は、ささみを守るために集約しなければならない。

 それでも──それでも、青春に似たものなら掴めるのかもしれない。

 よくわからなかった。自分がどうしたいのかすらも。

 とりあえず、今後の方針は決まっている。ささみに交際相手がいないことは明らかだから、しばらくは主な人間関係を洗い出すことに注力すべきだろう。簡易的な人物相関図でも作成しておこうか。

 問題は、ストーカーらしき男子生徒のことだ。こればかりは、なるべくささみの傍にいて、直接守る以外に方法がない。敬語癖の矯正を手伝うという名目を得られたことは、本日いちばんの収穫と言えるだろう。

「──…………」

 しいん、と。

 耳慣れたはずの無音が、ひとりきりの部屋が、妙に落ち着かなく感じた。

 コトラと再会したせいかもしれない。

 感傷的な自分に苦笑していると、携帯がぶるりと震えた。

 確認すると、ささみからだった。スタンプが連続して届く。六匹の猫がそれぞれ《ゴ》《メ》《ソ》《ナ》《サ》《イ》のポーズを取っていた。いろんなスタンプがあるものだ。さりげなく《ん》ではなく《そ》を入れるあたり、芸が細かい。

 窓海によると、明日なにかが起こるらしい。楽しみすぎて吐きそうだ。

 ささみへの返信に、こちらもスタンプを使おうと思ったが、どうすればいいのかがよくわからなかった。仕方がないので、《大丈夫》とだけ返信した。スタンプの使い方は、明日にでも誰かに尋ねればいいだろう。

 滞っていたキートへの返信を行うと、既読無視だと言って拗ねられた。このアプリケーションには、相手が自分のメッセージを読んだかを判別する機能があるらしい。監視社会のようで好ましくはない。そのときの状況を素直に説明すると、〈惑ヰ先輩に会ったなら仕方ないねー〉と納得された。ある意味では当然かもしれない。その美貌も理由のひとつだが、なにをしても衆目を集めてしまう人間というのは、まれにいるものだ。

 カミからURLが届いており、リンクを開くと動画サイトが立ち上がった。

 どうやら、三人が作った楽曲のようだ。

 キートの歌声は、正直、荒削りだと感じた。しかし、高校二年生であることを差し引くと、十分すぎると言えるかもしれない。このまま正しく成長して行けば、プロの歌手にはなれずとも、プロ並みの歌唱力は手に入るだろう。

 シモの手がけた曲の良し悪しはは、いまいちよくわからなかった。そもそも基準が曖昧すぎるし、DTMなるものを知ったのがついさっきである。ジャンルは、アンビエント・テクノとでも言うのだろうか。ひとつひとつの仕事が丁寧で、神経質そうなシモの性格が表れているようだった。

 カミが手がけたというPVは、現時点で既にかなりの完成度を誇っていた。画面が上下に分割されており、下画面ではスタジオで歌うキート、上画面では空を早送りした動画が映し出され、それが曲に合わせて目まぐるしく入れ替わる。さらに、要所要所で、歌詞に関連した写真が一秒あたり数枚というペースで表示され、しかも、見たところ使い回しがない。相当な労力が掛かっているのだと容易に想像できた。

 ひとしきり褒めたあと、問題点を正直に指摘した。曲に対してキートの歌声が馴染んでいないように感じたのである。すると、カミから《シモはミックス苦手だかんな》というメッセージが返ってきた。よくわからないが、そのミックスという行為によって完成度が落ちているのなら、とてももったいない気がした。

「──……さて、と」

 上がり框から腰を上げ、ひとつ伸びをした。

 やるべきことは、まだ残っている。毎週末に提出する報告書のテンプレートをExcelで作成し、転校初日に起きたこと、感じたこと、そして進捗を、草案としてまとめておかなくてはならない。特殊な体験ゆえに、書くことが多すぎて、本日中には終わりそうにないけれど。

 ぱん!

 と両頬を叩き、気合いを入れた。

 今日の夕飯は、豪盛に、ねぎ塩カルビ弁当にしよう。自炊しようと思わないでもないが、おれは料理が得意ではない。確実に作れるものと言えば、目玉焼きと、不味いチャーハン、あとはちょっとしたケーキが焼けるくらいのものである。ついでにサラダも買って、健康に気を使っている気分に浸るとしよう。

 制服から部屋着に着替え、近所の弁当屋へぶらぶらと足を向ける。ここのおばちゃんはよくおまけしてくれるので、正直助かっている。

 学生と勘違いされているふしがあるが、訂正するほどのことでもない。

 今のおれは、一点の曇りもなく、本物の高校生なのだから。

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