1/逆説のジュブナイル -2
「──…………」
四時限目が終わり、おれは燃え尽きていた。
ただでさえ実年齢がバレないか戦々恐々としているのに、無数の質問に、過不足なく、それでいて矛盾のないように返答しなければならないのだ。嘘の整合性をとり続けることの難しさは知っていたが、だからと言って楽になるたぐいのものではない。
「よっす」
出羽崎ささみのように机に突っ伏していたおれの肩を叩くものがあった。
顔を上げる。
見覚えのある小太りの男子が、椅子に逆座りしておれを覗き込んでいた。
「えーっと……、たしか、
「そそ、お疲れっすねえ」
上別府が、にんまりと人好きのする笑顔を浮かべた。
「やっぱ九十分授業は珍しいか?」
星滸塾学園は、高校ではあまり見られない九十分授業体制である。二時限目と三時限目のあいだに昼休みがあり、四時限目のみが五十分授業。午後四時ちょうどに帰りのホームルームが終わる。
「いや──」
むしろ授業こそが休息時間だったのだが、馬鹿正直に答える必要もあるまい。
「……うん、九十分は長い。映画が一本観れると考えたら、くらくらするな」
「随分とつまんねー映画だなあ」
上別府が、ひっひと笑った。
実を言うと、星滸塾学園の授業は、この上なく面白く、興味深いものだった。生徒の興味を引くツボをすべての教師が熟知しており、聞き入っているうちに九十分など過ぎ去ってしまう。ところどころ忘れかけている知識がパズルのピースのように埋められていく感覚は、いっそ快感ですらあった。
「なに話してんのー?」
「──…………」
会話に割り込んだのは、さきほど話し掛けてくれた隣席の女子生徒だった。すらりと手足の長い美形の少年を引き連れている。
「星滸塾はどうだー、って話してんだよ」
「へえー。で、で、どーなんかな?」
女子生徒──たしか
「悪くない。と言うか、前の学校よりずっといいよ」
「ほー、なんでなんで?」
「前の学校は──これ何度か言ったと思うけど、男子校だったからさ」
これは事実である。
前と言っても、十数年も前のことだけれど。
「男子だけとか、どう考えたって拷問よなあ。な、シモ! あ、こいつは
上別府が、美形の少年の横っ腹をつつく。
「……なんで僕に言うのさ」
月下が、細い声で答えた。
「いや、お前ムッツリじゃん」
「……ムッツリだよ」
「自分で言ったらハッキリだろ!」
「……いや、ムッツリだから。ムッツリにはムッツリの矜持があるから」
「──…………」
会話に入れない。
適当にニコニコしていると、小央がスマートフォンを取り出し、言った。
「山本くん、連絡先交換しよーよ」
──来た!
おれは、内心でガッツポーズを決めていた。若者のあいだでスマートフォンが流行していると知り、よくわからないながらも機種変更を済ませておいたのだ。もちろん、無料電話やテキストチャットが行えるというアプリケーションも入れてある。抜かりはない。
「LINEでいい?」
「もちろ……、ん?」
LINEで連絡先を交換する場合、どうすればよいのだろう。
すこし考え、
「ごめん、おれスマフォにしたばっかで、やり方よくわからないんだ」
無理はしない。素直がいちばんである。
「あるあるー。いーよ、スマホちょい貸して貸して」
「ああ」
小央にスマートフォンを手渡す。
「あ、登録してんの? 俺も俺も」
「……僕も登録いい?」
掛け合いを終えたふたりが、ポケットからスマートフォンを取り出した。本当に、猫も杓子もスマートフォンであるらしい。
「あ、うん。こちらこそ頼むよ」
小央だけでなく、上別府と月下とも友達登録をさせてもらった。
「──…………」
なんだろう、わけもなく充足感で満たされている。
しばし余韻に耽ったあと、おずおずと口を開いた。
「……あの、さ。できれば、出羽崎さんも登録しておきたいんだ。これから校内を案内してもらうわけだし、今後もなにかと迷惑かけると思うから……」
そう、小声で頼んでみた。駄目で元々である。三人のうち、ひとりでいい、出羽崎ささみを友達登録していれば、あるいは紹介してくれるかもしれない。
しかし──、と小さく溜め息をついた。
可能性は低いだろう。出羽崎ささみは、相変わらず、両腕で作った空間に突っ伏したままだ。おれが観察した限り、顔を上げたのはたったの二度。昼休み、手作りらしきサンドイッチを寝ぼけまなこでもしゃもしゃ食べていたときと、三時限目の直後、恐らく用を足しに行ったときのみである。
誰とも会話せず、誰とも目を合わさず、机の下で携帯電話をいじっている。社交性のかけらも見当たらない。それでいて、いじめられているようにも見えないのは、ほのぼのとして上品な星滸塾学園の雰囲気によるものか、あるいは星寮生の〈特権〉に起因するものか、そのどちらかだろう。
恋人の有無を心配するより、友達がいないことを心配すべきではないか。
どう贔屓目に見てもクラスで浮きまくっている彼女の連絡先が、そう易々と──
「テバサキちゃんテバサキちゃーん、山本くんに連絡先教えていーいー?」
テバサキ?
ああ、なるほど。デワサキとササミからの連想か。
思わず頷いた次の瞬間、
「!」
小央のスマートフォンが、ぶるりと震えた。
「はい」
眼前に差し出された画面に、親指を立てた劇画タッチのイラストが表示されていた。
「……絵?」
「スタンプ。いーよってことじゃない?」
「出羽崎さんって、えー……、と、意外に友達多かったり、するの、か、も?」
「んえ、そんなに意外か?」
ぼき。
上別府が、首を鳴らしながらそう答えた。
「……テバサキさん、変なスタンプたくさん持ってて面白いよね」
「うんうん、返事もちょーはやいしね」
「──…………」
見た目よりずっと上手くやっているようだった。
内弁慶のネット版、に近いのだろうか。
そんなことを考えていたとき、小央の手のなかで、おれのスマートフォンが震えた。
「あい」
スマートフォンを受け取り、確認すると、〈テバサキささみ〉と記されたテキストチャット画面に、子供向けヒーローがニヤリと笑っているスタンプが表示されていた。
「……えー、と」
慣れないフリック入力で〈案内おねがいします〉と送信する。
直後、犬神家のスケキヨが水面から突き出た足でマルを作っているスタンプが届いた。
「ふふ」
思わず笑ってしまった。
これは、うん、面白いかもしれない。
「──あ、山本。悪い、俺たちそろそろ行くわ」
上別府が、太った体に似合わぬ小さな鞄を背負いながら、そう告げた。
「本当は、俺たちも付き合ってやろうかと思ったんだけど──」
「……収録、あるから」
月下が、呟くように上別府の言葉を継いだ。
「収録──、って?」
高校生とは縁遠い言葉のように思えるが。
「はい!」
小央が、姿勢よく右手を上げた。
「私たち、歌つくって動画サイトにあげてるんよー。私がボーカルで、」
「……僕が作曲してる。DTMで」
「で、俺がプロデューサー兼なんでも屋だ。作詞もするし、ベースも弾くし、最終的に動画に仕上げてるのも俺」
「はー……」
思わず溜め息が漏れた。そんなことが、個人、しかも高校生レベルの技術で可能なのか。
未来きてるな。
「まー、しゅーろくってもカラオケだし、再生数もせーぜー二千くらいだけど──」
「に、にせん!」
驚いた。
「二千──って、ちょっと待ってくれ! 半分が途中で止めたとしても、およそ一千人もの人間が君たちの曲を聞いたことになる。単純な数字で言うなら、全校生徒の前で歌うのと変わらないってことじゃないか!」
「……えー、そんなにすごいかな」
ついつい前のめりになってしまったおれに、小央がすこし鼻白む。
「ああ、凄いと思う。是非、今度動画を見せてほしい」
ぱん! と、上別府が両手を打ち鳴らした。
「山本、わかってるねえ! 俺たちは数字に惑わされすぎなんだよ。数字の向こうに、数字の数だけ、人間がいるんだ。それを忘れちゃなんねーぜ」
「……カミ、調子のりすぎ」
「うっせ! ──じゃあ山本、また明日な。シモ、キート、行こうぜ」
「じゃーねー、山本くん」
「……じゃ、また」
三人が、教室の外へと姿を消し──
「──山本!」
上別府が、扉の隙間から顔を出した。
「俺は、上別府でカミ! シモは、月下でシモ! キートは小央
「──…………」
苦笑する。
爽やかで良いトリオだと思った。
「わかったよ、カミ。おれのことも好きに呼んでくれ」
「あいよ!」
上別府──カミたちは、今度こそ帰宅の途についたようだった。
なんだ、おれが高校生のときと、なんら変わらないじゃないか。
初日にして、二〇一〇年代なかばにおける十代中盤の若者の考え方、ものの捉え方、世代全体の風潮などについて、おぼろげながら幾つかの傾向を見出すことができた。
まず、インターネットが強力なコミュニケーション媒体となっていること。見ず知らずの人間と容易に知り合うことができ、遠方の友人とも簡単に連絡が取れる。世界が狭くなった、と言うこともできるだろう。
次に、趣味嗜好の均一化。おれが高校生のころは、スポーツマンはスポーツマン、オタクはオタク、不良は不良など、目に見えない明確な壁が存在していた。しかし、少なくとも、このクラスにはそれがない。筋骨隆々の柔道部員から好きなアニメキャラを尋ねられたときなどは、思わず耳を疑ったものだ。
そして、男女の垣根が低いこと。おれの知る限り、男子は男子、女子は女子で、それぞれふたりから数人までの基礎グループを形成し、男女で遊ぶときやグループの誰かに恋人ができた際にも、その関係は崩れなかった。カミ、シモ、キートのように男女混合で基礎グループを構成する事例もあったようだが、ほとんどの場合、恋愛に発展して自壊していた。
彼らがそんな未来を辿らないことを祈ろう。
「──……ふう」
そっと胸に手を添える。心音が早い。緊張を自覚する。
教室には、もう、おれたちしか残っていない。
「……あの、出羽崎さん」
携帯が震える。
《そろそろ行く》というメッセージのあとに、クエスチョンマークの下の点を上の曲がった棒で打ち返しているスタンプ。
「あ、うん。お願いします」
「──…………」
出羽崎ささみが立ち上がり、オオカミの牙の下からおれを見上げた。色素が目に見えて薄い。真珠のような肌は怖いほど白く透き通っていて、触れるだけで傷つけてしまいそうだった。髪は淡いブラウンで、光の加減によっては金色にきらめいている。
今朝の少女とはまた違ったベクトルの美少女だ。ひどく華奢で、あどけない顔つきをしており、男性の本能的な庇護欲をそそる。
しかし、たかだか十数年しか生きていない子供に欲情したり、恋愛ごっこに熱を上げるほど、おれは変態ではない。そういうのは同世代の相手とすべきことだ。
携帯が震える。
《いかないの?》
「あ、ごめん。行こうか出羽崎さん」
「──…………」
こくり。
よくこれで学級委員が務まるものだ。
携帯が震える。
《でわさきじゃなくて、テバサキでいいよ》
「……いいの? 正直、変なあだ名──だと、思う、けど」
《実は、ちょっとオイシイかなって》
すぐ隣にいながら携帯でやりとりするのはオイシイじゃなくてオカシイだと思うが、今日一日の授業態度などから推し量った性格より、ずっと素直で社交的のようだった。
「うーん……、あだ名とは言えクラスメイトを食べものの名前で呼ぶのは……」
携帯が震える。
謎のゆるキャラが〈ぶーぶー〉と言っているスタンプ。
「昔から、友達はだいたい名前で呼んでたから、呼び捨てじゃ駄目かな」
勢いで言ってしまった直後、おれは即座に後悔した。
さすがに強引だ。
皆からニックネームで呼ばれている相手を下の名前で呼ぶことは、親密さのわかりやすい指標であり、幾分かのフィードバックを見込める、はず。
「──…………」
だが、初対面の相手にそれを求めるのは、いささか性急だったかもしれない。馴れ馴れしいと思われることは、フィードバックを覆すほどの悪感情を引き起こす。いや、しかし、こういうことは最初に決めておかないと、途中で変更がきかないものだ。
そっと胸に手を当てる。心音は異常。おれは緊張している。たかが子供と侮っていた相手に対し、ここまで動揺するものだろうか。
「──……ああ」
そうか。
ようやく気がついた。
おれは、いま、これまでの人生で初めて、女子高生という生き物とふたりきりなのだ。
理由がわかると、すこしだけ楽になった。
携帯が震える。
《いいよ》と、ダイイングメッセージとして血痕で描かれたマルのスタンプ。
いいのか悪いのか。
「……嫌なら素直にテバサキって呼ぶけど」
携帯が震える。
《冗談》と、にこやかにキラリと光る歯列をアップにしたスタンプ。
「ありがとう、ささみ。案内お願いするよ」
「──…………」
ぺこり。
ささみが、星滸塾の生徒らしい手本のようなお辞儀をした。
不束者ですが──みたいな意味だろう。
ささみに先導され、教室を後にする。あれほど騒がしかった校舎内が驚くほどに静まり返っていた。本校舎はあくまで勉学の場であり、部活棟や図書館は別にある。居残る必要が基本的にないのだろう。
携帯が震える。
《てけとーに、ぐるっと回ってみよか》
「ああ、頼むよ」
ひとりぶんの距離を空けてささみの隣に並び、おれたちは廊下を歩き始めた。
「へえー……」
誰もいない教室を見渡す。
「音楽室ひとつ取っても、違うもんだ」
星滸塾学園の音楽室は、奥へ行くほど広く、段が高くなっており、扇状の簡易ホールといった体をなしていた。
携帯が震える。
《山本くんの》
「……?」
意味がわからない。
顔を上げると、ささみがぼんやりと何かを思案しているようだった。
再び携帯が震える。
《山本くん?》
《宗八くん?》
《やまちゃん?》
《はっちゃん?》
《そうぱっつぁん?》
おれをどう呼ぶか悩んでいたらしい。
「……そうぱっつぁん、だけは勘弁だな。宗八くんが一番しっくりくる」
携帯が震える。
《わかった、ぱっつぁん》
可愛い女の子がペロリと舌を出しているスタンプ。
「──…………」
こういうときは、どうリアクションすればいいのだろう。
「……なんでやねーん?」
「──…………」
ささみが、両手を広げ、肩をすくめてみせた。
このやろう。
つかつかとささみに歩み寄り、オオカミパーカーにビシッと手刀を入れる。
「はう」
図らずも、ささみの声を初めて聞くことができた。
思っていた以上に、細く、高い。
ああ、そうだ。
せっかくオオカミパーカーに触れたのだから、確認すべきことはしておこう。
「──…………」
膝を折り、ささみと目線を合わせた。
「ひとつ聞いてもいいか?」
聞きたいことはいくつもあるが、質問攻めはよろしくない。
「──…………」
こくり、と頷く。
「どうして、そのオオカミのパーカー着てるんだ? 蒸し暑くないか?」
いやに毛並みの滑らかなオオカミパーカーの耳をいじりながら、メッセージを待つ。
しばし思案し、
《意外と通気性はいい》
「そっちじゃなくて」
はいはい、と言った表情を浮かべ、ささみがスマートフォンを操作する。
喋らないくせに、色々とわかりやすいな。
携帯が震える。
《光線過敏症って知ってる?》
「あー、なるほどな。名前は知ってる」
答えがわかっていただけに、返答が白々しくなってしまったかもしれない。
出羽崎ささみは軽度の光線過敏症である。日光を長時間浴び続けると、皮膚が赤みを帯び、かゆみを伴う僅かな腫れが起こる。要するに蕁麻疹だ。
「そのパーカーは、直射日光を遮るものなんだな」
「──…………」
こくりと頷く。
「なんでオオカミ?」
携帯が震える。
《食べられてるみたいで面白いとおもった》
面白いかどうかは知らないが、インパクトはある。
「授業中に突っ伏してるのも、紫外線を避けてのことか……」
「──……?」
ささみが、一瞬だけ小首をかしげ、すぐに得心が行ったような顔になった。
超速のフリック入力の直後、おれの携帯が震える。
《そうそう》
Vサインのスタンプ。
「……いま、おれの勘違いに合わせようとしなかったか?」
ささみの肩がぎくりと揺れる。
なんとなく、そんな気がしたのだ。
《夜のほうが好き》
ささみが話題をずらした。
《おひるは明るすぎるから》
そうだろうな、と思う。
「おれも、夜が好きだったよ──って、いまも好きだぞ。夜はいいよな、夜は!」
無意識に過去形にしてしまい、慌てる必要もないのに慌ててしまった。
「?」
「えー、そうだなあ……」
誤魔化すように、強引に言葉を続ける。
「おれは、日付が変わる瞬間が好きだったんだ。地続きの世界が、そこで切り分けられているような気がして、わくわくした。小学校のころは、帰ってきたら昼寝ばっかしてたよ。んで、夜は夜でまた寝ちゃうわけだ」
携帯が震える。
《ねてばっか》
「寝る子のわりに育ってませんね、ってやかましいわ!」
ぺし。
オオカミの額にツッコミを入れてみた。
「──…………」
「──……」
見つめ合う。
《いまのはごうかくてん》
「さいですか」
《宗八くんは、なかなかおもしろい》
バナナ一房のスタンプ。
意味がわからない。
ないのかもしれない。
《次は、視聴覚室行こうか》
「お願いします」
素直に頭を下げた。
視聴覚室、理科室、理科標本室、地質学資料室、コンピュータ室──
日本最高額の学費を誇る星滸塾学園と言えど、学校であることに変わりはない。カリキュラムも他の学校と大差ないはずである。オーバル型の連結会議テーブルが据えられたディスカッション用の会議室など、珍しい教室はあっても、わけのわからない素っ頓狂な施設は見当たらなかった。
しかし、ひとつ興味深い教室があった。
モダンな室名札に〈Dressing Room〉と表記された教室は、広々としたテレビ局の楽屋に鏡台を敷き詰めたような空間だった。
ささみ曰く、
《女子は選択授業で、化粧や身だしなみ、マナーなどを学べる》──らしい。
言うまでもなく、ささみは取っていないそうだ。
ちなみに授業名は、花嫁修業ならぬ花嫁授業、だそうである。コメントは差し控えておく。
二百名の収容が可能な観客席のある体育館、蒐集家の狂喜乱舞する稀覯本が無造作に置いてありそうな図書館などを巡り、ようやく本校舎へと戻ってきた。
携帯が震える。
《最後に保健室》
ささみは、すこし疲れているように見えた。
「ありがとうな。大方案内してもらったから、保健室ですこし休ませてもらったらどうだ?」
「──…………」
こくり、と頷く。
見た目通り、体力がない。
宵っ張りで外に出ないし、屋外での体育はすべて見学だろうし、寮から校舎までは比較的近いというし、声を出すことすらほとんどない。おまけに、まだ五月とは言え、オオカミパーカーはさすがに蒸すだろう。当然の帰結である。
「……保健室、か」
口内で呟き、永遠に続くかのような廊下の先に視線を向けた。
特別監督生徒。保護者である出羽崎氏の申請を受け、出羽崎ささみには、メンタルケアを目的とする専属の教員がついている。中学二年次から現在に至るまでささみの担当に当たっている教員は、元は女子中等部の養護教諭であり、ささみのためだけに高等部へと籍を移したと聞いた。徹底している。
目蓋を下ろし、出羽崎氏に見せられたメモの内容を思い出す。星滸塾学園の機密保持は折り紙つきだ。契約により、外部の人間への情報提供はかなりの制限を受けるらしく、保護者である出羽崎氏の権限をもってしても、手書きのペラ紙一枚をすら持ち出すことができなかった。
しかも、誰が書いたのやら、極端な癖字で読みにくいことこの上なく、この悪筆すら機密保持の一環なのかと勘繰ってしまうほどだった。
監督教員の名は、たしか、
そこまで記憶を呼び起こしたとき、携帯が震えた。
《保険の先生は、やさしい》
ポップなハート型のスタンプ。
お笑い要素のないストレートなスタンプは珍しい、と思った。
「──…………」
ジグ。
右側頭部に僅かな痛み。
なにかを見落としている。
おれとささみが初めて会話してから、まだ一時間と経っていない。出会ったばかりの相手との距離感を測りかねて、普段と異なる人格や行動を無意識に演じてしまう──なんてのは、よく聞く話だ。
だから、俺の予感には、直観には、なんの根拠もない。
シンプルでストレートなハート柄のスタンプには、恐らく、監督教員たる養護教諭への隠し立てのない好意が表れている。
原子、某。
その名に引っ掛かるものがある。
手札をめくるまで勝負はわからない──なんて、そんなものはまやかしだ。多くの場合、現実は既に確定している。観測されていないだけだ。
「──…………」
ここ、と言うように、黒檀色の引き戸をささみが示す。
室名札を見上げる。
保健室。
そっと胸に手を当てる。
心音は正常。正常。脳髄は冷えきっている。そうに決まっている。
「……?」
扉の前で立ち尽くすおれに、ささみが怪訝な顔を向けた。
こん、
こん、
こん。
ささみが黒檀の扉をノックした瞬間──
レールを幻視する。
荒野を行く、ただひとつの寄る辺を。
「──はいよー、ささみかい?」
「……っ」
ハッ、と我に返った。
聞き覚えのある声。
懐かしい声。
「まどれ!」
甲高い声でなにかを叫びながら、ささみが保健医の胸に飛び込んだ。
ささみが自分の意志で喋った。
発話障害を発症している可能性すら苦慮していたにも関わらず、至極あっさりと。
「──…………」
原子某。似た名前だと思っていたのだ。
それが、書き損じなのか、誤字なのか、ただの悪筆なのかはわからない。
「──……!」
養護教諭を見つめる。
まるい眼鏡の奥にある眠たげな瞳が、驚愕に揺れていた。
背中まである髪の毛は清潔にまとめられ、左肩から前に垂らされている。化粧っけのない、うすい唇。ふくふくとした頬。見るからに深い、鎖骨のくぼみ。
「ああ──……」
視線から逃げるように、寄せ木張りの廊下を睨みつける。
当たってしまった。
外れない予測は、避けられぬ未来でしかない。
心音は異常。
痛いくらいに高鳴っている。
「──ぷッ」
彼女が不意に吹き出した。
「くくく、くく……宗八、くくッ、制服、似合うじゃないのさ……、ばふう!」
「うるせえ、こっちだって必死なんだよ」
ある意味で、おれは、この展開を望んでいたのかもしれない。
このひどい制服姿を、誰かと一緒に笑い合いたかったのかもしれない。
「うく、くくく……ッ」
「──…………」
しかし、実際に笑われると腹立たしいものがある。
きょとんとした表情を浮かべているささみを横目に、おれは彼女の名前を呼んだ。
「……久し振りだな、コトラ」
「こら、年上の名前は正しく丁寧に。ことらさんとお呼びなさいな」
五年前と変わらない容姿のくせに、よく言う。
最後に会った日、お前は、念願だった中学校の養護教諭になれそうだと、居酒屋のカウンター席で嬉しそうに笑っていたっけ。
星滸塾学園高等部の養護教諭であり、
出羽崎ささみの監督教員であり、
──おれの、大学時代の友人である。
「まさか、本当に宗八が来るとはねえ」
「知ってたのか?」
「そら、ささみの監督教員だもの。名前くらいは聞いてるさ。同姓同名の別人だと思ってたけどね。サキサカだなんて、随分といいところに食い込んだじゃないか」
コトラがくつくつと笑う。
「身の上話は酒の席で、だ。話したいことが多すぎる」
「それがいいさね」
「……名前を知っていたなら、おれの目的も知ってるな」
「ささみのストーカー、かい。私の知る限り、そんなものいないけれどねえ。付き合ってる男子だっていない。あの子の様子を見ただろう? 異性と交際するためには、越えなきゃならない障害が多すぎる」
「たしかに……」
「まあ、友達は多いみたいだけどね」
「……そうは見えんけど」
黒檀の扉へと視線を向ける。ここは廊下で、保健室にはささみがいる。すこしのあいだベッドで休むと言っていた。気を遣わせてしまったようだ。
「だが、出羽崎家に男子生徒が押しかけたのは事実だ」
「そうだろうね」
コトラが、肩をすくめ、言葉を継ぐ。
「すくなくとも、登校生ひとりの学費ぶんくらいは、信頼できる情報だ」
「特別監督教員、だったっけ」
「そうだよ。正確には、特別監督生徒を指導する、監督教員。特別なのは生徒のほうさ」
「……コトラに向いてるとは、思えないんだけどな」
「ことらさん、だよ。随分な言い草じゃないか」
「おれの知る限り、原小寅は、皮肉屋のあまのじゃくだ」
「皮肉屋のあまのじゃくだって、人を愛することくらいあるさ」
おれは、目をまるくした。
「コトラ、すこし変わったか?」
「ことらさん。ハタチを越えた人間は、そうそう変わりやしないよ。変わるのは環境で、違うのは角度だ。宗八は、私の横顔を知らなかったというだけさ」
「……そう、か」
そういうものかもしれない。
「そういえば、コトラ──」
「ことらさん」
「随分とこだわるな」
「年齢を隠すつもりなら、保健の先生を呼び捨てにするのは、あまり好ましくないんじゃないかと思うけどね」
ああ、なるほど。
「コトラさん」
「なんだい」
「まどれ、だったっけ。あれは愛称か?」
聞き違いでなければ、ささみはコトラのことをそう呼んでいた。
「ああ、そうだよ」
「どういう意味だ?」
「教えない」
「教えない、って……」
特別な意味でもあるのだろうか。
「原小寅は、山本宗八をよく知っているし、信頼してる。でも、ささみの監督教員は、ぽっと出のわけのわからない人間を警戒しなければならないんだ。どうでもいいことと、本当に大切なこと。それくらいなら、いつだって答えるよ。でも、それ以外のことは、自分で調べて血肉にしてほしい」
「そういうもんか」
「そういうもんさ」
コトラは、個人と役割とを分けて考えている。それだけの責任を自負しているのだ。
「宗八」
「あん?」
「宗八は、ささみを守るつもりかい?」
「ああ、そうだよ」
それが仕事だ。
「守る、とは、どういう意味でだい?」
「──……えー、と?」
出羽崎氏の言葉を思い出す。
あらゆる脅威から。
あらゆる悪意から。
そして、あらゆる欲望から。
「私は、ささみに害をなすものすべてから、彼女を守っているつもりだよ。でも、ささみは悩んでる。苦しんでる。たったいまもね。私は大人だから、〈まどれ〉だから、包み込むことしかできないんだ。でも、もし、宗八が、本当の意味でささみを守ってくれると言うのなら──」
コトラが、深々と頭を下げる。
「ささみをお願いします」
「──…………」
おれは混乱していた。
何故こんな話になっている?
何故、コトラに頭を下げられているんだ?
難しいが、単純な仕事だったはずだ。
ささみと親密になり、恋人とは言わずとも親しい友人の立場を保ちながら、定期的に報告を上げるだけの仕事だったはずだ。
なかば呆然としながら、口を開く。
「……それが、おれの成すべきことなのか?」
コトラは、おれをまっすぐに見据え、こくりと頷いた。
「もしできないのなら、この場に宗八は必要ないよ」
「辛辣だな」
「事実だからね」
にやりと皮肉げな笑みを浮かべ、コトラが言葉を継ぐ。
「──でも、宗八にならできるだろう。私はそれを知っているし、信じている。すくなくとも、登校生ひとりぶんの学費なんかより、ずっと強くね」
ささみを助けなければならない。本当の意味で、守らなければならない。
ふん、と鼻を鳴らし、答えた。
「……望むところだ」
いいだろう。
やってやるよ。
おれにできることなら、なんだってしてみせる。
不意に、大学時代のことを思い出した。
おれとコトラは、いつだって、互いに互いを挑発しながら共に過ごしてきたのだから。
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