第3話 故郷
荒瀧村は山の奥地にあるせいで、高低差がなかなか激しい。コンクリートで固めた山道をひた走って、俺はなんとか村の出口まで辿り着いた。
荒瀧湖の隅、桟橋が突き出ただけの小さな船着場。人口100人足らずの陸の孤島・荒瀧村から出る方法は、船に限られている。
薄もやの晴れかけた巨大な湖は、悠然とそこに横たわっている。残ったボートの数からして、学校に行く子供はもう全員渡っているらしい。俺はいつも使う共用ボートを引き寄せて飛び乗った。
この誰が作ったかもわからない古びた木のボートを気に入っている。共用ボートのほとんどを占めるプラスチック製のものとは違う、手触りと軋み。湖の中央に放り出されたとき、握ったオールの植物としての名残が心を落ち着かせる。
教科書の詰まったリュックサックを足下に固定して、オールを思い切り引いた。緩めていたロープが杭からするりと離れて、ボートは湖へと漕ぎ出す。
他に船はなかった。この時間は、いつも俺ひとりだ。
目覚めるような自然のざわめきと、水を掬うオールの音だけが響く。汗をかくほど暑いのに、空気は凍てつくようにしんと静かだ。
水面から頭を覗かせる数本の枯木は、今日も変わらずに佇んでいる。
水面は空の青を飲み込んで、きらきらと輝いている。そこにナイフを入れるように、ボートは水をかき分けて進んでいく。
ちょうど真ん中あたりまで漕いだとき、俺はいつも手を止めて、空を見上げる。
青の中でかすかに、ゆらめく何か。
村の山の遠く向こうに見えるそれは白いリボンのように空を舞う。そうしていつしか、青の彼方に消えてしまうのだった。
毎朝俺が湖を渡るたびに見える、その不思議で美しい光景。誰にも喋ったことはなかったけれど、この光景は俺だけが知っているのだという確信めいたものはずっと持っていた。
静まり返った空に残った入道雲を背に、俺はまたオールを漕ぎ出した。
「渓ー! おせーぞ!」
湖畔でゴリラのような怒鳴り声を聞いた。振り返ってみれば、やっぱりそれはタケ兄だった。
「ごめーん!」
俺はボートから大声で叫び返す。毎朝恒例のやり取りだ。
いつも湖を渡って来るのが一番遅いのは俺で、そのたび惰性で謝ってはいるが、実は集合時間に遅れたことは一度もない。今日だってきっかり5分前だ。
荒瀧村の人間の朝は早い。なぜなら村人がほとんど年寄りだから。
縄を桟橋に括り付けて、ボートから降りる。
地面に足をつくたび、どこか現実に引き戻されたような、不思議な感覚がつきまとう。
「渓、今日も遅刻だ!」
「寝坊した?」
「わかった! ウンコか!」
「いや遅刻してねーから!」
タケ兄のところの三つ子・亜希、未希、悠希が飛びついてきて、危うく湖に落ちそうになる。
今日17歳になったばかりとはいえ、体力の塊のような小学1年生3人を相手に取るのはなかなかキツい。
「まぁいいじゃん。今日は誕生日に免じて許してやろうよ」
「だからしてないっての……」
栞が三つ子を剥がしてくれたお陰で、どうにか体制を立て直すことができた。
栞は村の土建屋の娘だ。中学2年生だというのに、ひょっとしたら俺よりしっかりしている。
「ほら中高生、さっさとチャリ積めー」
タケ兄がバンの荷台を開けて、三つ子は先に車に乗り込んだ。
中高生、といっても俺と栞の二人だけだ。車に乗るのは、あと三つ子と、仕事に行くタケ兄だけ。荒瀧村の子供はたった5人。若者はみな街へと出て行ってしまった。
自転車を積み終えて、俺と栞もバンに乗り込み、タケ兄も運転席に座る。
エンジンがかかった瞬間、俺はなんとなく後ろを振り返った。
三つ子たちの頭の向こう、リアガラス越しに荒瀧村が見えた。
薄もやはすっかり晴れていたが、距離があるせいか景色はおぼろげにしか見えない。
車が動き出す。
景色が遠ざかる。
故郷が消えてしまうというのは、どんな気持ちだろう。
俺は将来、家の神社を継ぐことになる。
大学は県外かもしれないけれど、いずれは戻ってきて、この村で死ぬまで生きるだろう。
そして俺は多分、いや必ず、この村が死ぬのを見届けることになるーー。
「鼻フック!」
「ぐぇっ」
鼻に突然の痛み。犯人は悠希だった。
子供の指は細いせいで結構奥まで刺さって痛い。この3人に隙を見せてはいけないことを、すっかり忘れていた。
「あーあ、イケメンが台無し」
「結構真面目なこと考えてたんだぞ、俺……」
鼻血出たらどうすんだ、と抗議しても子供はケラケラと笑うだけだ。茶化した栞も心なしかニヤついている。
「お前らシートベルト締めろよ。渓のせいで遅れてることだし、スピード出していくぜ」
「飛ばしたいだけだろ!」
助け舟かと思いきや、顔を見ればタケ兄がこの状況を一番楽しんでいる。
三つ子のやんちゃはタケ兄譲りだということも忘れていた。
「あたし酔うんだけど」
「文句なら渓に言えー」
スピード制限もない山道でぶっ飛ばされたら、車酔い体質でなくても酔う。タケ兄の運転が上手いのが唯一の救いではあるが。
「渓」
「何?」
急にタケ兄の声色が変わる。
何かあるのか。俺は思わず息を飲む。
「……誕生日、おめでとうな」
その瞬間、タケ兄はアクセルを踏み込んだ。
重力で頭が仰け反り、トランクに積んだ自転車が跳ねる。
「んな事いいから! 安全運転しろよ!」
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