第2話 4章②

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 「クリンゲルさん。どういうことなの?」

 詩鶴は驚きを隠せなかった。いきなり知らない人の家に呼び出されたと思ったら、そこには手錠をかけられた小風がいたのだ。小風の脚はロープでぐるぐる巻きにされ、椅子の脚に固定されていた。顔色は悪く、ぐったりとしており、生気が感じられなかった。

 「スパイを尋問していたところだよ」何事もないかのように、亜子は言った。

 「スパイって小風が?」詩鶴は小風を見つめた。

 「……詩鶴」小風は、詩鶴の姿を見ると、恐ろしいものを見たような顔をして、身体を震わせた。彼女の顔の血の気が引いているのがわかった。

 「前に、上野公園で呼び出しのメールを送ったよね? それに釣られてやってきたんだよ」

 「ただ、散歩してただけじゃ……」

 「盗聴機材やら、たくさん詰まったバッグを持ち歩いて?」亜子の視線が、小風の持っていたバッグに移った。その周りに怪しげな器具が置かれていた。


 「でも、どうして……」

 「詩鶴の携帯を盗み見られたか……それとも何か仕込まれたか……まあ、何も知らせなかった私も悪いんだけどね。中国が何かを計画していることは知ってた。同時に、私たちの組織の存在が中国に知られてしまったことも」

 昔、東南アジア海上都市で、八橋菖蒲の動向を窺っていたクリンゲルの所属する秘密結社『ノイス・ニーベルンゲン』は、中国系スパイと鉢合わせした。はじめは日本の上級国民――海上都市に住めるほどの富豪層は嫌味を込めて、そう称されていた――を相手に盗みを働いているだけだと思ったが、それは間違いだとわかった。彼らの動きがプロであり、目的は八橋が管轄するVIPゾーンであることが判明したからだ。

 スパイ同士による情報攻防戦もあり、結果は共に秘密を知られるという痛みわけに終わった。半年前、中国政府が、邪険に扱っていた闘波を掌を返して称揚し始めた理由がわかった。中国政府は『シャングリラの光』の存在を知ってしまったのだ。よりにもよって、自分たちの組織から情報を盗んでいたのだ。『ノイス・ニーベルンゲン』は、多くの中国人を警戒した。その一人が柳小風だった。彼女は先のチベット独立デモにおいて活躍したというが、それは全て、後から作られた捏造話だったことがわかった。


 『ノイス・ニーベルンゲン』は、このように考えた。敵対する中国スパイを野放しにしておくと、ドイツ企業バトルラインと芸能事務所RSFとの繋がりは、遅かれ早かれバレてしまうだろう。それが公になったとしても、法に触れているわけでもないし、イメージダウンにもならない。ただ、周囲から警戒されることになる。「ドイツは何を企んでいるのか?」と、八橋にもそう思われるのは致命傷なのだ。ただでさえ、鹿島紅葉の失踪に合わせて、何人かの同胞が消され、ドイツ人が怪しまれていると予想できるのに。そうなると、亜子や彼女の仲間のドイツ人は、芸能界で暗躍しづらくなる。なんとしても、中国スパイを牽制しなければならなかった。


 「私ははじめから」亜子が言った。「柳小風が中国政府のスパイだと思ってた。日本に潜入していたのは、日本の芸能界に闘波使いが集まっているからでしょう? あるいは、『アイドルファイト』で優勝してVIPゾーンに入り込むためか……」

 「クリンゲルさん。そこまで話したら……」

 「問題ないよ。彼女は『シャングリラの光』のことを知ってた。これはハインリヒ・ヒムラーが名づけた異名なの。だから『ノイス・ニーベルンゲン』や、ナチスの高官、第38SS擲弾兵師団、あるいはヒトラーの資料を全て回収したアメリカしか知らない呼び方。それなのに、どうして彼女が、その呼び方を知ってると思う?」

 「それは……」

 「それは、我々の持つ情報を盗んだから……でしょう? そして、『シャングリラの光』は八橋菖蒲が強奪したということも、そこで知ったんでしょう」

 「違う」と、今まで沈黙を守っていた小風が口を開いた。「中国は、道教発祥の地。大きな気の流れを感じ取る老人たちがいる」

 詩鶴は息を呑んだ。このときまで、亜子が何か勘違いをしており、小風は無実だと信じていた。しかし、小風の発言は、スパイ容疑を否定することなく、むしろ認めているようだった。

 「ドイツ人から情報を盗まずとも、東南アジアが怪しいことはわかってた」

 どうして詩鶴の前で、こんな意味もない強がりを言ってしまったのだろう。小風は後悔した。先ほどから、強い闘波を纏った攻撃を受け、精神がおかしくなっているのだ。

 「嘘だよね? 小風がスパイだなんて……」詩鶴は小風に近寄った。拘束されている彼女を解いてやりたかった。小風の息遣いは激しかったが外傷はなかった。

 「騙されてたってのに、お人よしだね」亜子は言った。

 「騙されてた?」

 「ああ。おそらく、貴方も監視対象だったはず。……というより、私がそう仕向けたんだけど」

 「どういうことなの?」

 「柳小風が怪しいと睨んだ私たちは、色々とエサを巻いた。不覚にも、私たちは正体を知られてしまったから、それを逆に利用してやったんだ。RSF所属、且つドイツ人である私を監視するということはわかっていた。だから、私は色んな方面に手紙やメールを使って敵をおびき寄せることにしたの。

 「その中の一人が私?」

 「『アイドルファイト』の会場で、詩鶴に声をかけたよね? 私はあえて、こいつに見つかるようにしたの。ところで、彼女に携帯を渡したことなかった?」

 心当たりがあった。ある日、変な公告メールが大量に送られることがあった。設定を変更しようにも、中国語が並んでおり、小風を頼るしかなかった。そのとき、小風に携帯を貸したのだ。まさか、そのときに?


 「私を囮にしたの?」詩鶴の怒りは、亜子に向けられた。

 「怒らないでよ。貴方は嘘が顔に出そうだったし……それにスパイをこんなにも早く見つけることができたんだから、よかったと思わなくちゃ」

 「でも……彼女の目的は……」詩鶴は声が詰まった。小風の今までの行動が、全て演技だとは思えなかった。本当にスパイならば、目立たないよう普通のアイドルを演じていたはずだ。しかし、彼女が事務所を訪れてからの一週間は、やけに問題を起こしていたように思う。主に、男性に対し秋波を送り、手当たり次第口説いてマネージャーを呆れさせていた。そんな彼女は、とても楽しそうだった。とてもプロのスパイが取る行動だとは思えなかった。しかし、現に彼女はスパイであることを認めているのだ。

 「彼女の目的は何であれ、結局は中国のためのもの。日本の芸能界を機能停止に追い込むことを考えてたのかもしれない」

 「違う!」と小風が叫んだ。

 それが亜子の気に障ったようで、彼女は小風の腹を殴った。

 「やめて! クリンゲルさん!」

 「ねえ知ってる? 取調べには、自白剤なんか要らないって」亜子がグリグリと拳を小風の腹にめり込ませて言った。

 「闘波による攻撃は、相手を傷つけない代わりに相手の闘争心や憎悪を払いのける。つまり、欺いてやろうと思う気力も、反抗する気力も無くしてしまう」

 「クリンゲルさん。もうやめて……」詩鶴が懇願した。

 「貴方も直接聞きたいんじゃない? 友達のフリしてた彼女が、貴方をどう始末しようと考えていたかを」

 亜子は、小風の鳩尾みぞおちに勢いのある膝蹴りを食らわせた。

 「教えなさい。あんたの一番の目的は何?」

 「わ……私は……」小風はおもむろに口を開いた。「詩鶴さんたちと……家族になりたかったの」

 しばらく間があった。

 「まだとぼける気!?」亜子が小風の頭を鷲づかみにし、闘波を込めた。黒い靄が小風の顔を覆い尽くした。

 「私は! 知りたかったの! 仲良くなりたかったの!」小風が泣きながら叫んだ。

 あまりの予想外の言葉に、亜子はあっけに取られた。


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 体外配偶子形成(IVG)。


 体外から配偶子を作り、新しい個体を誕生させる技術である。古くよりマウスのIVGには成功していたが、ネコやサルのIVGを成功させるには技術的にまだ未熟であり、ましてや人間のIVGに取り掛かることはできなかった。

 2015年、京都の大学チームがiPS細胞から配偶子の元となる『始原生殖細胞』の作成に成功する。それを皮切りに、IVGは発展していく。

 中国の研究機関と韓国のバイオテクノロジー企業との共同研究は、その分野において最先端であった。2018年、同性ながらも二匹の遺伝子を持つサルのIVGに成功した。

 中国人の科学者は、既に気づいていた。「自分たちは生命を自在に操ることが可能である」と。彼らは、精子か卵子片方だけでも、対となる体細胞を作ることができたし、受精卵から配偶子を作ることができたから、『二人以上の親を持つ子供』も作ることができた。そして、技術的には人間の細胞でも可能であると確信した。

 中国の科学者は、ふと思った。これを世界に公表すべきだろうか? 韓国企業との協力は一定の成果を出したところで終わった。もし、この技術を公表すれば、韓国は黙っていないだろう。実際のところ、この成果の多くは、彼らの知識と技術によるところが大きかった。

 最終目標は超人の誕生である。技術的な問題はクリアしたが、人間を誕生させるには倫理的な問題が付きまとう。科学者たちは、世間からとやかく言われたり、他国企業との交渉や、宗教のしがらみに振り回されることを煩わしく思った。

 私たちは科学の果てを目指し、突き進むのだ! そのためには、この実験を秘密裏に実行しなければならない!

 中国共産党の幹部と手を組んだ科学者たちは、国家の礎となるべく、デザイナー・ベイビーの実験に取り掛かった。


 中国政府は、美に優れる者、知力に優れる者、身体に優れる者、さらに気功を扱い、第六感に優れる者、計8人の中国人を選定し、彼らの体細胞を譲り受けた。彼らの遺伝子を持つ子供は、知性に溢れ、運動神経抜群で、高い霊感を持ち、恵まれた美貌と身体を持つことだろう。その者は政府に忠誠を尽くし、国家の希望となるだろう。

 かくして、2020年、四人の父親と四人の母親を持つ異例の娘が、代理出産によって生まれた。倫理から外れた方法によって、世界から隠され誕生した忌み子は、柳小風と名づけられた。


 

 「そこまでだ」詩鶴は、怒りを押し殺して亜子の腕を掴んで言った。「今すぐ小風の手錠を外して」

 「何言ってるの? 自由にしたら、こいつ……あんたを殺して逃げ出すよ」

 「いいから!」

 「できない。そんなことしたら……」

 詩鶴は、腕に闘波を宿した。

 「早くしないと、力尽くにでも」

 「わかった! わかったよ」亜子は憤怒の表情を向ける詩鶴に気圧された。「でも、手錠を外すだけ。こいつが今住んでる部屋は、調査させてもらう。こいつを部屋からも出さない。それでいいね?」

 「……わかった。ひとまずはそれでいい」

 亜子は小風の手錠を外した。小風はぐったりと床に倒れた。詩鶴は、彼女を抱きかかえた。気絶しているかのように、力がなかった。

 「詩鶴……ごめん。私……」

 「いったいどうしたの?」

 「皆を騙してたの」

 小風は、自分の生い立ちを語った。自分は中国のスパイであること。己の闘波を鍛えるためにファイターとなり、最終的には『シャングリラの光』を盗むことも視野に入れ、日本の芸能界の状態を探っていたこと。全てを晒した。

 「……で、これからどうするつもりだ?」亜子が行った。「私たちはこれからも、あんたら中国スパイに監視されるのか? それに、あんた自身はどうするつもり?」

 「どうするって……」

 「普通、捕まったスパイは処刑だよな?」

 「クリンゲルさん!」詩鶴は亜子を睨み付けた。

 「じゃあ、どうするの? 中国政府のスパイと一緒に、今までどおりアイドル活動していけるの?」

 「それは……」

 「何にせよ、私たちの組織とは、二度と関わらないことだ。あんたの命は、私たちが握ってると思え」亜子が冷たく言い放った。

 「……詩鶴、私は……もう、一緒にいられない」小風は涙を流した。詩鶴は疑問に思った。彼女は、任務に失敗したから泣いているのだろうか? いや、彼女は私に対して謝罪をしたのだ。普通、潜伏先の相手を騙していたからといって、プロのスパイが謝罪するだろうか? この涙の意味は……

 「小風、さっき言ったよね? 家族になりたいって……どういうこと?」

 「……私には、生まれたときから家族って呼べる人がいないから……欲しかったの。ここでなら……自由な日本なら、それが見つかるって思ってた」

 遺伝的に父と呼べる四人も、母と呼べる四人も、直接、彼女と出会ったことはなかった。彼女を代理出産した女性も、産んだ小風のことを全く愛していなかった。彼女は家族の愛を知らぬままに英才教育を受けスパイとなった。敵を知るためにと日本語と韓国語の二つ言語を学ばされた。その国の文化を知り馴染むようにと、組織の先輩が用意してくれたドラマは、どれも小風が知らない家族の姿があった。両親に手を繋がれて、三人横並びで歩く、そんなありふれた光景さえ、彼女にとっては未知の光景だった。彼女はひそかに憧れていたのだった。


 小風の本心を聞いた詩鶴は、小風が美月に対して嫌悪感を抱いていた理由を察した。

 美月が、世間体のためだけに父の葬式に出席したと言ったことや、その上、帰りに女性をホテルに連れ込んだことに小風は怒っていた。家族に憧れていた小風にとって、考えられないことだったのだろう。

 詩鶴は複雑な気分だった。持たない故の悩みもあれば、持っている故の悩みもある。美月は美月で、家族が重荷になっているのだろう。私自身も、自分が両親と似ていないことに悩んだことがあった。だから、小風の気持ちも、もちろん美月の気持ちも、両方理解できるのだ。


 「クリンゲルさん。この件は私に任せてくれないかな?」

 「どうして?」

 「私の事務所の問題だからだよ。うちの事務所にいる三人のファイターは、皆、どこか似てるんだよ。……だから私は……小風が何者だったとしても、見捨てることはしない!」


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 『取り返しのつかないことをした』これを意味するのに『パンドラの箱を開けた』という慣用句を使うことがある。闘波を世界中にばら撒いた、あのチベットの術士の行為を、そう表現することもあった。

 パンドラとは、ギリシャ神話における人類最初の女性の名前であり、その名の意味は『全ての贈り物』を意味する。パンドラは、神々から、あらゆる物を贈られた。しかし、それは人類に災いをもたらすために、神々が仕組んだことだった。

 柳小風は、遺伝において全ての贈り物を授けられていた。しかし、与えられたのは、あくまでも容姿と頭脳と肉体、そして霊感であり、彼女はパンドラと呼べるほどには、与えられるものが少なかった。まず、自由がなかった。そして家族の愛も与えられなかった。

 詩鶴は小風の生い立ちを知ったとき、パンドラを連想した。そして、彼女は自分たちに災いを齎すために遣わされたのかもしれないと、そんな考えも脳裏に過ぎった。 確かに小風の存在は、周囲に災いを齎す可能性がある。しかし、送り込まれた理由は何であれ、小風自身が望むことは……


 詩鶴は、彼女が本当に欲しかったものを、何としてでも与えたいと強く思った。

 「まだ希望は残ってる」そう強く信じた。



 翌日、小風が失踪せずに事務所に顔を見せたことに、詩鶴は安堵した。しかし、二人の関係は、まったく変わってしまった。小風が、自分たちに仕事仲間以上の関係を求めていたことに、詩鶴は困惑していた。彼女の力にはなってあげたい。しかし、相手が特殊な生い立ちをした中国のスパイであることに対しては、警戒心を持たないほうが無理な話だった。

 さらに自分の携帯に細工をして、プライバシーな面を盗み見られていたということに対し、詩鶴はまったく嫌悪感を抱かないわけにはいかなかった。

 小風は、昨日の件で亜子の強力な闘波に当てられたこともあり、精神的にも弱っていた。今の彼女にとって、自分の本心をぶちまけた詩鶴が、唯一の心の支えとなっていた。

 二人のぎこちない関係に、プロデューサー、マネージャー、そして美月の三人も気がつかないはずがなかった。


 「いったい、どうしたの? あの二人?」マネージャーは不思議に思った。

 「喧嘩? いや……小風が、やけにベッタリしてない?」美月も、いきなり人間関係が変化した後輩たちに戸惑っていた。


 仕事はしているものの、どうも本調子じゃない二人が気になったプロデューサーは、マネージャーと相談していた。

 「二人に聞いても、「なんでもない」の一点張りですよ……」マネージャーはお手上げという感じだった。

 


 美月は空気も読まずに、後ろから小風に抱きついた。「元気ないね! どうしたの?」

いつもは抵抗する小風だが、今日はそんな気力もないのか、美月に体重を預けていた。

 「ねえ、美月」

 「……どうしたの? 小風?」

 「私……ファイターやめるべきなのかな?」

 「え?」

 「ごめん、なんでもない。さよなら」小風は、彼女の腕を払い、振り返りもせずに事務所をあとにした。


 美月は何も言えないまま、小風を見送ってしまった。呆然と立ち尽くしたあと、心が苦しくなった。言葉にできない感情がこみ上げた。美月は狭い事務所を走り出した。

 「マネージャー! プロデューサー!」

 廊下にいた二人の姿を見つけると、美月は、今にも泣きそうな顔で助けを求めた。美月は自己嫌悪に陥った。どうして私は、こんなときまでふざけているんだろうか。小風に何か悩みがあるのはわかっていた。先輩として、年上の女性として真剣に彼女の相談に乗ることだってできただろうに。しかし、そんなことを思っても、自分で撒いた種だった。馴れ馴れしくすることはあっても、胸襟を開いて会話できるような関係を築いてこなかったのだから。そうすることを望んではいても、実行に移すことをせずに、逆に遠ざけることばかりしていたのだから。

 


 「お疲れ様。小風さんはどうだった?」

 詩鶴が寮に帰ると、事情を知っている同居人、くくるが労いの言葉をかけた。

 「事務所には来てくれたよ。でも、元気はなかった」

 「それは仕方ないよ。でも、彼女は気持ちを伝えられる相手がいてよかったと思うよ。本当の気持ちを隠し通すのは、とてもつらいからね」

 「そうだね」と、詩鶴が言った。その言葉には心当たりがあった。

 「それにしても、本当に詩鶴ちゃんは人を惹きつけるよね」

 「私が?」

 「うん。あの有名なファイター、鹿島さんや紅露さんの二人と仲良くなってるし、さらに理由ありの、小風さんの心も惹きつけてるんでしょ? そういう素質があるんだって」

 やはり、くくるは天使だけど、たまに小悪魔だ。詩鶴は思った。

 「だから、私が言うことじゃないと思うけど、小風さんの力に、なってあげてね」

 「うん。わかってるよ」

 私が一番惹きつけておきたいのは、目の前にいる貴方だというのに。これだけ長年一緒にいて、二人暮らしをする関係になりながらも、やはり口にしなければ気付いてくれないものなのだと、詩鶴は思った。口にしたら、今の関係が瓦解してしまいそうで、いつまで経っても進展させることのできない自分が悪いのではあるが……


 私は、くくるの全てが欲しい。彼女への恋心を隠し通すのは、ときに苦しくなる。それを考えると、美月は尊敬できる面もある。私がくくるに本心を伝えられずにいる理由のひとつは、同性であることが挙げられるが、彼女はそんなことを怖れずに、女性好きをアピールしているのだから。

 詩鶴は、すぐに、「そんなこともないか」と思って撤回した。美月も、本当の気持ちを伝えることを極端に恐れており、それを誤魔化すためにお調子者の振る舞いをしているのだ。鈍感な私にだってそれぐらいわかる。小風だけでなく、美月だって、自分とよく似てるのだ。


 26


 「私、嫌われちゃったのかな?」美月は弱音を吐いた。

小風との付き合い方を間違えてしまった? 

彼女がファイターを辞める理由は、自分にあるんじゃないか?

そんなネガティブな考えさえ浮かんだ。


 小風とは本当のパートナーになれる気がしていた。あの3対3の『アイドルファイト』で共闘したとき、これからもうまく付き合っていけると感じた。私たち3人は最強であるとさえ思えたのに。


 「嫌われるようなことを”あえて”したんだろ?」マネージャーは言った。「小風さんも何か理由ありだろうけどね。そう弱音を吐いてるんだったら、変わらなきゃいけないのは美月だと思うよ」

 「私が?」

 「ああ。自分の評価を下げるようなことばかりして……そうやっていれば、仮に嫌われたとしてもショックが少なくても済む。実に小賢しいやり口だと思うよ」

 美月は『小賢しい』と悪口を言われたことに少し腹を立てたが、自分の臆病さを自覚していたので、何も言い返すことができなかった。

 「前の事務所がトラウマだったり?」マネージャーが尋ねた。

 「何が?」

 「美月が、人と真面目に関わろうとしないところ。勢い乗ってきたところで相方が逮捕。そのショックのせいかなって……」

 「どうだろうね?」

 「まあ、悪気が無いのはわかってるよ。詩鶴さんとも、ずっと親友になりたい、パートナーになりたいって言ってただろ。でも、なぜかお前は茶化しちゃうんだよな」

 「やっぱトラウマなのかな……」

 「今の悪友って感じでもイケてると思うけどね。だとしたら……」マネージャーは真剣な表情で言った。

 「この前言ってた、家族が関係してるのかな?」

 美月の目の色が変わった。図星のようだ。

 「俺は、他人事に首を突っ込むような真似はしたくないから、深く立ち入らないつもりだよ。でも、美月が今も何かに縛られてるのはわかる。……父親のことだろ?」

 美月は静かに頷いた。

 「ただ家族仲が悪いだけなら、口を噤んでいればいい。だけど、あんだけ自分の父親を、ぞんざいに扱うアピールをしていればね……ワケありだと思うよ」

 そもそも、美月が自分の父の葬儀の後に女性と色事に耽っていたことは、彼女が自分から暴露したから発覚したもので、そんなことを口にしなければ、誰一人として知ることはなかったのだ。一週間前に違う女性との行為を説教されたばかりの彼女が、わざわざ、そんな馬鹿な真似をするには、それには何かしらの意味があると、マネージャーは推理していた。彼女の暴露は、思慮が足りてないからでなく、主張したいことがあったからだ。おそらく「私は反抗しています」という意思表示だったのだろう。そうマネージャーはそう思っていたのだ。


 27


 「ありえないほどに、闘波が漲ってる」事務所に出勤してきた詩鶴が開口一番に言った。

 「ああ、やっぱり」マネージャーは、知っていたかのように平然と言った。

 「やっぱり?」

 「そのことで、あとでプロデューサーと話し合いしてほしいんだ。社長もくると思うから……」

 「ちょっと待って! なんで私の闘波のことしってるの?」

 「あれ? 詩鶴さんは、知らなかったのか。たぶん、昨日の夜9時ぐらいからだろ?」

 「そうそう。日課の訓練をしてたら、体が軽くなって、超人になった気分。赤い闘波がいつも以上に見えるようになって……」

 「本当に闘波って、人気の量で変わるんだなあ。世界の神秘だよ」マネージャーは、そういいながら、パソコンのマウスを動かし、ディスプレイを傾けた。

 「これは?」

 「覚えてる? このまえ戦った『種っち』の配信放送だよ。昨日、放送されてたんだけど、詩鶴さんのことが……」


 《松野様は、本当に素敵な女性です》口にマスクをした彼女が、恍惚とした表情を湛えながら放送していた。余計なお世話かもしれないが、実際に会ったときより美人に見えると詩鶴は思った。いや、それよりも一体何なのだ? この生放送は?

 《たしかに、すごかったもんね。あのときの試合。敵なのに、ビルから落ちる種っちを助けたんだから》

 《ええ。あの逞しい身体と、優しい心を持つ彼女は、アイドルとしても格闘家としても素敵だと思いますわ。私、大ファンになってしまいました》


 「これは、参ったね」と詩鶴は呟いた。

 「ネット界隈で大人気の種っちからお墨付きをもらったわけだ。一気に知名度が上がっちゃったね」マネージャーは、嬉しそうに言った。「紅露りぼんといい、彼女と言い本当に詩鶴さんは、人を惹きつけるよね」

 「それ、くくるにも言われたよ」

 「ああ、プロデューサーの娘さん?」

 「うん。でも、あれだよね。私は、そんな大した人間じゃないのに、実力以上に持ち上げられてるようで……」

 「格闘家は、実力が伴っていなきゃ……だろうけど、アイドルの場合は、周りが持ち上げるもんだからね。ファイターの場合は、闘波によって、その持ち上げられた分が、現実で戦闘力になるから、帳尻が合うようになってんだよね」

 「ほんと、因果な力だよ」詩鶴は苦笑した。ちょっとしたきっかけで、世間に祭り上げられて、実力以上の力が伴うなんて……しかし、世の中とは、そのような理不尽で成り立っているのだろう。ネット界隈で祭り上げられている彼女だって、鳳と同じ高校に通う『種田香澄』という一般的な女子高生であり、教師に頭が上がらず、停学処分を受ける程度の人間なのだから。


 「それよりも」マネージャーは、話題を変えた。「本当に小風さんとは、何ともなかったの?」

 「え? なんでそんなこと聞くの?」

 「昨日、二人とも調子がおかしかったから」

 詩鶴の顔が引きつった。平常心を決め込んでいたつもりだったが、幾度も追求されるほどに態度に出ていたようだ。私に演技の才能はそれほどないらしい。

 「うーん。昨日も言ったけど、とくに思い当たる節はないかな」詩鶴はごまかした。

 「そうか。でも、詩鶴さん、どこかしおらしかったからね。俺としては、そんな雰囲気でもアリだったと……」

 こいつ一発ド突いてやろうか。詩鶴はそう思った。

 「まあ、何もないならいいけど、小風さんのほうは何かあったみたいだね。美月が心配してた」

 「美月が?」

 「そう。あいつ、ふざけてみえても仲間意識は凄いからね。気を使うくせに不器用な奴だから」

 仲間意識の強さなら、小風も負けていないだろうと、詩鶴は思った。そして不器用さだって……


 美月とは、それなりの付き合いではあるものの、彼女が私に胸襟を開いてくれたことは、皆無だろう。

 小風は私に本心を語ってくれたものの、私は、その彼女の想いに応えることができているとは言えなかった。小風には言えないが、このなんとも言い難い関係を続けていくのは苦痛でしかないのだ。現時点ではっきりわかることがあるとすれば、問題の解決には、しっかりと言葉で伝えなければならないということだった。 


 詩鶴は、社長とプロデューサーの二人と対談した。突然の成り行きから、ネット界隈において知名度が急上昇した詩鶴は、これから色々な企画に参加することができるだろう。そのタイミングを逃しては、もうチャンスはないかもしれないと、社長は言った。

 「私は」詩鶴は真剣な表情で答えた。「大事な仲間たちと、一緒に活動していきたいです。ですから美月と小風、それと……これから事務所に入ってくる新しい仲間と、良い関係を築かない限りは、ソロで進んでいくつもりはありません!」詩鶴はキッパリと答えた。一番不器用なのは自分かもしれないが、それでも構わないと思った。

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