第2話 2章

 7


 柳小風が、本家である日本の『アイドルファイト』初陣となる試合があった。

五光プロダクションに入った3人目のファイター。中国出身で、世界を賑わしたデモ活動の参加者、若くて可愛いカンフーアイドル。という肩書きは、注目を集めるには十分だった。この日、特に仕事のなかった詩鶴と美月は、彼女の応援に駆けつけた。

 「がんばってね小風!」詩鶴は初めての後輩にエールを送った。

 「コテンパンにしてやれよ」美月はカンフーの仕草をしながら言った。

 「いや、それは良くない手だと思う」小風は冷静に返した。その言葉の意味は、試合が終わるまでわからなかった。



 ゴングが鳴らされた。小風の対戦相手は『センチュリオン』所属の中堅ファイターであり、日本の『アイドルファイト』初戦の相手にしては、少々きついだろうと、誰もが思っていた。


 小風の攻撃は小気味良いテンポで小技を繰り出すものだった。昔のカンフー映画を連想させるもので、見ごたえは十分だった。しかし、決め手となる一撃を与えられないでいた。とても気持ちよくコンボが繋がるのだが、あと一歩というところで、攻撃を与えることができず、逆に反撃されてしまうのだった。そのような繰り返しのあと、とうとう、小風は負けてしまった。

 負けて、リングを去るときの小風の表情を、詩鶴は見逃さなかった。

 「あいつ、わざと負けたな」


 

 「負けた理由? ああ簡単なことだよ」詩鶴に問い詰められた小風は、わざと負けたことを隠そうともせずに、その理由を語りだした。

 「言っとくけど、『アイドルファイト』は、勝敗が全てじゃないってことは、わかってるよね」

 「え? そうなの?」

 詩鶴の言葉に、小風はため息をついた。

 「私が日本のアイドル事情を勉強してきたってのに、なんで日本人の詩鶴がそれを知らないの?」

 「え? え?」小風に窘められ、詩鶴は困惑した。

 「もう。私たちがなすべきことは、まずは闘波を蓄えることでしょ?」

 「闘波って、『蓄える』ものなの?」闘波の正体が何であるか、明確に定義されていないために、この力を使うことに関しては、様々な呼び方があった。

 「まあ『鍛える」でも『集める』でもいいけど、とりあえず多くの闘波を集めることによって、より身体は強くなるし、より大衆の心をつかむことができる。それを得るためなら、一回負けるぐらい、たいしたことないでしょう」

 「それは、そうだけど……」

 「まず私の対戦相手は、矢頭奈々やとうなな。彼女も今は波に乗ってるアイドルの一人で『ポスト紅露りぼん』である蝶野牡丹ちょうのぼたんの相棒よね? 新人である私が倒すのは分が悪いの」

 詩鶴は、試合前に美月が『コテンパンにしてやれ』と言ったのに対し、それを小風が否定した理由を理解した。

 「私は、見ごたえのあるファイターであるというアピールはできていたつもりだし、その一方で、あっちは特に見応えのある戦いをしていなかった。というより、させなかったの。日本人には『半官贔屓』っていう気質があるから、それも利用させてもらったよ」

 たしかに、さきほどのバトルは、小風を応援せざるを得なかったと詩鶴は思った。私は同事務所という理由から彼女を応援してたが、たとえ第三者でも、あの試合を見たら小風にエールを送りたくなっただろう。

 「私は映画の主人公のような振る舞いを意識して戦ってた。だから、あのバトルがテレビで放送されたとき、私の闘波はとても強化されるはず」

 一方、相手のほうはどうだっただろうかと、詩鶴は考えた。小風の小気味よいリズムで繰り出された技を、ちょうどいいところで反撃し、台無しにしてしまった。もちろん、そうするように小風が仕向けたのだが、視聴者としては、スッキリしなかっただろう。その苛立ちは、技をうまく繰り出せなかった小風よりも、面白みのない対戦相手に向かうだろう。

 小風は先ほどの試合で、己のアピールと、相手のネガティブキャンペーンを行ったのだった。


 「詩鶴!」と、自分を呼びかけ呼びかける声がして、詩鶴が振り返ると亜子が手を振っていた。

 「奇遇だね!」

 「こんなところで会うとはね。クリンゲルさん、今日は試合じゃないよね?」

 「同僚の応援しろって言われてね。ウチRSFのトップファイター白梅しらうめのね。ところで、大事な話があるんだ」


 8


 詩鶴は小風のことを不思議に思っていた。どこか納得できない点もあるが、その一方で、とても尊敬できるのだ。

 詩鶴は、自分がプロ入りしてからの『アイドルファイト』初陣の試合を思い出した。彼女の相手は『アイドル畑のファイター』であり、格闘技は、からっきしだった。

 愛嬌があり歌も上手い。アイドルとしてそこそこ人気がある。生まれつき闘波の素質もあった。そのような条件により強力な闘波を得て、彼女はファイターとしても十分にリングで戦えていたのだが、詩鶴は、そんな彼女をひと睨みしただけで泣かせてしまったのだ。殺しかねない凶悪な目つきに、アイドルは怯えてしまった。空手大会や、違法の賭博場で戦っていた詩鶴と違って、そのアイドルは『闘う』ことの意味を理解していなかったのだ。結果、詩鶴が不戦勝という形で勝利した。その後、その少女は戦うことを辞め、アイドル一筋として、今もファンのために歌い続けている。


 あのころは『軽々とリングにしゃしゃり出る小娘に、現実を教えてやった』と、いい気分で仕方がなかったが、今思えば失敗だったのかもしれない。事務所に彼女のファンから逆恨みの電話が掛かってきたこともあったし……詩鶴は反省した。


 今日の小風は『試合に負けて勝負に勝った』が、私の場合は『試合に勝って勝負に負けていた』のだろう。

 「重要なのは、試合に勝つことじゃなくて、ファンを増やすこと」と、小風は言っていた。そのためなら、負けることも、周囲から「弱い」と思われることも辞さないのだ。


 詩鶴は、自分の良き理解者であり、同居人でもあるくくるに、そのことを話した。

 「すごいよ。あの中国人は。私より日本人の性質を理解してる」詩鶴は素直な感想をもらした。

 「そうね。自分を強く見せたい気持ちを抑えるのって、難しいからね」と、くくるは言った。


 『カメラがあるときは、ずっと演じてればいい』小風は、あるとき、そんなことも言っていた。『リングの上では当然として、誰かに見られているときは、ずっと、愛される女性像を作っていろ』という意味だった。

 以前の詩鶴だったら『格闘技をショーとしか思っていない発言である』と一蹴していたかもしれないが、今の詩鶴には重く響いた。『愛されるキャラクター』を演じることは、詩鶴が昔から行っていたことなのだ。己の存在意義に悩まされていたとき、自分は正義のヒーローを演じることで安心感を得た。格闘技を習い、ストイックな空手家となることで、世間からの認証を得ようとした。その演技は、自分自身すら欺いていたのだった。自分を肯定したいために、また愛しき友人くくるを惹き留めたいばかりに『格好良い、頼れる女性』を演じ続けてきたのだ。

 正直なところ、詩鶴は『アイドルファイト』の本質を今の今まで理解していなかった。勝てば良いのではなく、たとえ負けたとしても観客から良い印象を持ってもらうことが大事なのだ。それが闘波を増幅させ、さらなる力を得ることに繋がるからだ。

 自己欺瞞により、無意識に理想を演じてきた詩鶴は、次は意識的に己を演者にしなければならないことに気づいた。

 小風は、その点では優秀だった。『アイドルファイト』の本質を見抜き、健気に戦う女性を演じきった。彼女は小柄だから、イメージとしては理解しやすいだろう。そして、おそらく彼女が同じ相手と対峙したとき、僅差で勝つつもりなのだろう。『不断の努力によりリベンジを果たす』という筋書きだ。一つのエピソードの作り、己の商品価値を高めるという策略だった。


 共産主義者は、掛け替えのない人間が、労働者として、掛け替えのある『商品』となることを批判する。小風は、己が『商品』となることを望み、商品価値を高めようとしているのだ。


 今や、闘波を持つ者は、新人類のような扱いを受けている。多くの人間が憧れる超能力者であり、スーパーヒーローだ。その闘波は個人としてではなく、偶像……アイドルとして……つまり代えの利く『商品』のみに宿るというのは、なんという皮肉だろうか。人々が最も特別視し羨望される神の力は、嘘に塗れて造られ、商品となった人間のみが得られるのだから。


 「そういえば……」詩鶴は、何かに気づきパソコンを立ち上げた。インターネットで5分ほど調べものをしたあと首を傾げた。あのとき小風はこう言った。『とりあえず多くの闘波を集めることによって、より身体は強くなるし、より大衆の心をつかむことができる』と。

 多くのファンを得ることで、闘波を増幅させることは、世間に知れ渡っている。闘波が増幅されれば身体そのものが強靭になることも周知の事実だった。しかし、逆に闘波が増幅されれば、それだけ大衆の心を掴むということは、どこにも書かれていなかった。詩鶴がそのことを知っているのは、亜子・クリンゲルから機密を聞いたからである。闘波の根源となるのは『シャングリラの光』という秘宝であり、その秘宝が放つオーラは、人々の心に影響を及ぼし、偶像崇拝を促すものである。だからこそ、闘波使いも、周囲の者を惹きつける力を得るのだと。


 「どうかしたの?」くくるが詩鶴に声をかけた。

 「ちょっと、気になることがあってね」

 どれだけサイトを巡っても望むことは書かれていない。小風の言葉は『強くなれば、それだけ注目されてメディア露出が増える。そして大衆に知られやすくなる』という単純な意味だったのだろうか。それとも彼女も知っているのだろうか。闘波に隠された恐るべき力のことを。


 9


 「張さん。私、アイドルやってるの。プライベートな時間で男と出会うのは致命的なのはわかるでしょう」小風は周囲を見ながら中国人の男性を窘めた。

 「人に見られれば……だろ?」男は、ここには誰もいないとジェスチャーした。

 「それで何の用?」

 小風の質問に、男は一枚の写真を差し出した。中年の女性が写っていた。

 「見覚えは?」

 「ないです」

 「彼女は夜帳雫よとばりしずく」男は写真の女性の詳細を述べはじめた「ベンチャー企業『カタン』の社長で『アイドルファイト』のスポンサーの一人。そして『アイドルファイト』が放送されてるNTKの社外取締役でもある」 

 「その彼女がどうしたんです?」

 「彼女は幹部クラスではあるが、ただの傀儡だ。色々と調べた結果、影で操っているのはドイツの『バトルライン』という企業だ」

 「どうしてそんな傀儡を?」

 「まあ、簡単なことだ。2035年。日本でひとつの法律が作られた。海外の企業や事業家は、テレビ局や新聞社の株式を一定以上所有できないというものだ。理由は……」

 「偏向報道を防ぐためでしょ?」

 「よくわかったな」

 当然だ。小風はそう思った。

 5年前、領海侵犯を犯した中国人が日本領の珊瑚を盗んだ事件で、あるテレビ局だけは、頑なにその報道をしなかった。そればかりか、同時期に手違いで中国領に入り込んでしまった日本の漁船を悪人のように叩き上げた。このことに憤りを感じた日本人は、そのテレビ局を責め立てた。テレビ会社の株主の三割が中国企業だと判明したとき、日本人の怒りがピークに達した。株主に媚び諂い、偏向報道をした売国奴だと思ったのである。その波は政治にまで及び、選挙での焦点にもなったほどだ。後に、外国人によるマス・メディア関連の株式所有に関する法律が設けられ、日本人は偏向報道から解放されると単純にも安心した。


 この件で問題だったのは、大手から個人にいたるまで、中国人の誰一人としてテレビ局に圧力をかけた者がいないということだった。それどころか、ある中国の株主は、事実を伝えないテレビ局の姿勢を非難していたほどだ。全ての行為に中国人は誰一人として絡んでおらず、日本人だけが意図的に偏向報道を行ったのだった。しかし、それを信じる日本人はおらず、日本撤退を余儀なくされた中国企業もあった。罪のない人間を痛めつけた敵国のナショナリズムに、小風は嫌気がさしたものだが、自分が日々こなしているナショナリズムに基づく仕事は、それに劣らないと感じていた。それを考えるときに、ふと疑問に思った。私は、ずっと国家の言いなりでいいのだろうか? 他に望んでいるものがあるのではないだろうか?


 「おい、どうした?」心ここに非ずな小風に、男は声をかけた。

 「え? あっごめんなさい。なんでもない。それで、どうしてドイツの企業が?」

 「それがわかれば苦労はないが、このドイツの企業バトルラインは、RSFの――お前んとこのライバル事務所だが――株式を所有していて社外取締役でもある」

 「要するにバトルラインの目的は経営に携わることで、株の売買ではないってこと?」

 「その可能性は高い。傀儡まで用意して日本のテレビ局の株を欲しがるとは思えない。『アイドルファイト』がいくら目玉とは言ってもな。それにこの女も……」

 男はそういってペラペラの紙を渡した。雑誌の切り抜きのようだった。それに写っている女性を見て、小風はハッとした。この女性には見覚えがあった。今日の『アイドルファイト』が終わり、詩鶴と立ち話をしていたとき、この女性が現れ、詩鶴に話しかけていた。そして、二人はひっそりと誰もいないところに行ってしまった。小風は二人を追跡して様子を眺めたが、雑談を楽しんでいる雰囲気ではなく、詩鶴は真剣にメモを取っていた。


 「NTKと芸能事務所……」男は再び話し出した。「この二つを裏で操つろうとするバトルラインは、例のドイツの組織と繋がりがあるはずだ。目的は、我々中国と同じに違いない。そしてドイツ人の――正確にはドイツ人と日本人のハーフだが――亜子・クリンゲルが忍び込んだスパイとするならば……早急にRSFへの移籍を考えてもいいんじゃないか?」

 「……検討します」小風は心にも無いことを言った。

 「まあ深追いは禁物だ。クリンゲルが何者であるか。連中と関係があるのか。それがわかったら知らせてくれ」


 男は立ち去った。亜子は当然として、詩鶴のことが気になった。過去の『アイドルファイト』で、彼女は亜子と対戦をしていない。過去、仕事で共演したかどうかは知らないが、ただならぬ仲であるのを感じた。彼女たちは、あそこで何を話していたのだろうか? いつ知り合ったのだろうか? もしかして……詩鶴もスパイだったりしないだろうか?


 小風はため息をついた。私は本当にこんなことをしていていいのだろうか? その疑問が増している。政府に言われるままにアイドルになった。闘波を習得し、ファイターになった。そのことは嬉しく思っている。……でも、何かが違うのだ。私は中国を立ち去る前日、とても清清しい気分だった。重大な任務を任されたからだろうか? そうではない。この来日は、つまらない任務の一つ程度としか思っていなかったのだから。

 日本など……日本人など、取るに足らない連中であると自分に言い聞かせていた。……それは本心だった? 本当は、楽しみにしていたんじゃないか? 彼女たち、自由に生きる人々と一緒に仕事をすることに……

 小風は今の自分を見つめた。自分に「正直になれ」と言い聞かせて。

 

 「私は……自由に……政府を離れて……普通の女の子になりたかったんだ」弱弱しく、そう呟いた。


 10


 「ねえちゃん……どうしてだよ」泣き叫ぶ弟の顔。勝ち誇ったように嘲る私。快楽に満ちた女性の嬌声。そして私を見下す父の顔。


 「やめろ!!」

 美月は大声を上げた。彼女は叫びながらベットから飛び起きた。上半身は汗でベタベタだった。時計は朝の4時を指していた。

 「夢か……」最近、目覚めが悪い。早くも親父の霊が悪霊になって祟りにきたのか?


 「わかってる。あんなのただの八つ当たりだって」反省していると誰かに聞かすように、独り言を呟いた。美月は二度寝する気にはなれず、寝巻きを脱いだ。流し台で鏡を見たが顔色が悪く、これがアイドルの顔であるなどと自分でも信じられなかった。

 今日はオフだった。気分転換にサバゲーをする予定だったのを思い出した。「美月ちゃんのおかげか、サバゲー人口が増えてると思うんだよ」と、少し前にサバゲー仲間が言ってくれたのを思い出し、笑みがこぼれた。恋愛感情は一切わかないが、戦友である彼らといると、とても気分が晴れやかになった。愛用の武器を揃えていると、また昔のことを思い出してしまった。「男じゃないんだから」と、露骨に嫌そうな顔をする母。「性別なんて気にしなくていいだろ。逞しくていいじゃないか」と言ってくれた父。全ては過去のことだ。捨ててきたことだと自分に言い聞かせた。

 



 「どうしたのよ。美月ちゃん」愛嬌のある中年男性が声をかけた。サバゲークラブの常連で、年の若い人たちの世話を焼いてくれる人気者だ。彼は試合になっても、調子の出ない美月を気遣った。

 「別に、どうってことないよ」

 「でも、さっきの危なかったよ」木陰に隠れながら、男は美月を心配した。

 「さっきは助けてくれてありがとう。右に2、左に1」

 「右は3だね。あの木に隠れてる。左を突破しよう」

 美月が闘波を発動させ、跳躍したが、着地後、彼女の身体をBB弾の波が襲った。

 「ヒット!」残念そうな顔をして、美月は降参した。今日はいいところ無しか……

 「ヒット!」対戦相手の一人も降参した。美月の相棒が笑顔を湛え、サムアップをして言った。

 「あとはまかせとき!」

 あの人が私のお父さんだったら……そう思うことは罪なのだろうか。男の笑顔を見ながら、美月はそう思った。


 父が大病を患って入院しても、私は一度もお見舞いに行かなかった。勘当されたのも同然だったから。棺の中にいる父を見たとき、こんな顔だったかと疑問に思うほどだった。顔も忘れるほど長い間会っていなかった。それに父は衰弱して変わり果てていたのだ。

 母は相変わらずだった。アレは『芒崎家』の名と世間体だけを大事にする、ろくでなしだ。アレに感謝したことがあるとすれば、アイドルという面白そうな職業があることを教えてもらったことだけだった。女の子の中の女の子『アイドル』に憧れを持つように母が仕向けたのだが、まさか、それが様々な経緯を経て『ファイター』という格闘家になるとは予想できなかっただろう。『争い』というものを頭ごなしに『悪』と看做していた母は、さぞ落胆したに違いない。いい気味だった。


 実家を離れてからも、父が入院してからも、私は『芒崎家』からは逃れられなかった。母は時代遅れにもお見舞い写真を送ってきた。まだ22歳だし、アイドル活動するなら今しかないこの時期に……「素敵な男の人だから」と言われるたびに、反吐が出た。嫌味のつもりだろうか。私が女性にしか興味ないということを知っているくせに。そんなに、家族に同性愛者がいるのが嫌なのだろうか。

 弟は、何もなかったかのように振舞ってくれた。いや、振舞っていたのではなく、本当に気にしていなかったのだ。弟は母と私を遠ざけようと計らってくれたし、昔と変わらず優しい子だった。でも、私は弟を傷つけたのだ。全てを水に流すと言ってくれても、私は一生、罪を背負わなければならない。弟の彼女を……弟の初めての恋人を寝取ったことは、人生の最大の汚点だった。


 11


 「変なメールが来る?」

 「うん。なんかインストールしちゃったのかな?」


 五光プロダクションでのミーティング後、詩鶴は自分の携帯電話に現れる妙な広告に悩まされていた。『ネット販売の家電が2割引き』や『会員登録すれば特典有り』など、昨日から迷惑メールが定期的にくるのだった。取り消そうとすると、漢字の羅列、中国語が出てきて適当にボタンを押すことも躊躇われた。今の時代の翻訳機能は20年前と比べ物にならないほどクオリティが向上していたが、携帯電話に組み込まれている翻訳機能は、カメラ認識で行うものであるために、携帯の文面を写して翻訳するには、携帯が二台必要だった。同居している幼馴染の携帯を借りれば済むことだが、翻訳したところで、誤訳の不安は残る。悪徳業者も、それを見越しているかもしれないのだから。それに、中国語ならば、うってつけの人物が事務所にいるではないか。


 「ああ、これね。私の携帯もこうなったよ」小風は言った。「ちょっと貸してみて。直してあげる」

 「うん」

 小風は詩鶴から携帯電話を受け取ると、右手に隠し持っていた特別な機械を携帯電話の端末に差し込んだ。機械が全てのメールデータを読み取り、スパイソフトが仕込まれたのを見届けると、迷惑なアプリをアンインストールし、詩鶴に携帯を返した。

 「謝謝シェイシェイ(ありがとう)。小風」

 「どういたしまして」小風の読みは当たった。文面を中国語にすれば、私を頼ってくるに違いないと。


 その夜、小風は自室で――都内の賃貸マンションの一室で、そこそこ気に入っていた――詩鶴の携帯データの解析を始めた。仕事の内容。大学の報告。家族とのやり取り。メールは色々とあったが、彼女の興味はただ一つ、彼女はドイツ企業バトルラインとの繋がりを見つけることだった。

 『亜子・クリンゲル』からのメールを見つけた。最近のものだ。小風はそのメール内容を見ると、息を呑んだ。

 

 『NTKの放送プロデューサー葛西ってやつは、私たちの仲間が潜り込ませたエージェントの一人だ。信用していい。彼はあの日、SEASSに行ってる。もちろん、当たってみたが、有力な情報は持っていなかった』


 詩鶴は例のドイツ組織のスパイだった!? いや、協力者か? あの日とは? 『SEASS』というのは、サウスイーストアジア・シースタジアム。つまり東南アジア海上スタジアム、『ファイター』たちの聖地だ。小風はさらに過去のデータを収集していった。そして、いくつかの結論にたどりついた。

 まず、松野詩鶴と亜子・クリンゲルは、失踪したカリスマアイドル鹿島紅葉の行方を追っていることがわかった。失踪したアイドルを探すために芸能界に入っただけかも……小風の期待は――詩鶴がスパイであってほしくないと願っていた――すぐに裏切られた。


 二人のメールの内容には『シャングリラの光』のことが書かれていたのだ。それはチベットから盗まれ、今は東南アジア海上都市のどこかにあること――少なくとも、ドイツの組織はそう考えていた――を匂わせていた。


 今すぐ中国政府に繋いで、この報告をすべきだ。そう思い、キーボードを打とうとしたとき、あることに気付き、小風の手は止まった。

 もし、この作戦が万事うまくいったら、私はどうなるんだろうか? 中国政府のことだから上手くいくとは思えないが、もしそうなったら?

 私はアイドルを辞めさせられて、次の仕事に回されるのだろうか? 私がこの身に宿している闘波はどうなるんだろうか? 中国政府は『シャングリラの光』を利用して、世界を牛耳るつもりなのだろうか? 次々と疑問がわいた。


 メールが来た。小風の携帯電話ではなく、詩鶴宛てのメールだ。彼女がメールを送受信したとき、パソコンにも転送されるよう罠を仕掛けたのだった。いまさらながら、どうも気が引けた。平気で人を殺めたことのある私が、メールを盗み見るだけで罪悪感を感じるなんて……小風は苦笑した。数百というアイドルたちが芸能界に入り、その内の何人かは不祥事を起こしているが、その中で最も重い犯罪を犯したのは私だろうと小風は思った。少し前までは、それは『自信』だったが、今では『足枷』となっているように思えた。


 メールの差出人は『小桐鳳』だった。

 「あのときの高校生か」小風は呟いた。


 『松野さん、がんばって中間試験でいい点取れましたよ!

  赤点じゃなかったから、先生にお願いできると思うんです。

  タイミングを見計らって、話を切り出してみます』


 「中間試験ねぇ……」小風はため息をついて、つぶやいた。

 高校生活を送りながら職に就く以上、勉学を疎かにするようにはいかないようだ。当然といえば当然である。学校に通い、教室で勉強し、テストに全力を出す。一般人は、このような経験があるのだ。そんな当たり前のことを大事のように思ってしまう自分がいた。

 二人の間に、こんなやり取りがあったなんて知らなかった。詩鶴は、アイドル活動をしながら、こんなふうに様々な出会いをしてきたのだろう。ふと、それを羨ましいと思ってしまう。


 小風は、しばらくするとデータファイルを開いた。有力な手がかりがないことはわかっていた。ただ、個人的に気になっていたのだ。写真フォルダは、ちょうど20枚あった。一番多く写っていたのは、眼鏡をかけた知的で温厚そうな女性だった。詩鶴とのツーショットもあり、夏祭りのときの写真もあった。おそらく詩鶴の同居人だろう。詩鶴は、よく彼女の自慢話に花を咲かせていた。プロデューサーの一人娘らしく、そう思うと、どことなく彼の面影があった。『遺伝』が存在するという科学的事実さえ、小風にとっては不快な事実だった。次に目が入ったのは、眼鏡をかけた40代くらいの男だった。彼も、前の写真の少女に負けず劣らず、いかにも温厚そうだった。――不覚にも、ときめいてしまった――その隣にいるおばさんが妻だろう。おそらく、この二人は詩鶴の両親だ。


 小風は、大事な報告を中国政府に知らせないことにした。

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