第1話 あとがき

 心理学用語で『ハロー効果』というものがあります。『後光効果』とも呼ばれ、ある分野での評価が、ほかの分野にも影響を及ぼすものです。例えば、実績のある科学者は(道徳的に)誠実である人物でもあると思われたり、ギャグセンスのない人間は、仕事のセンスもない人なのだろうと思われたり。これは人間が陥りやすい誤謬です。


 日本人は特に「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」を重視する傾向があります。政治家に向いているかどうかもわからないのに、その分野では実績のあるスポーツ選手やタレントが出馬して、当たり前のように当選してしまうのを見ると、まともな思考のできない連中が社会を動かしているんだと実感します。

 『偶像の暁』は、そんな『価値の崩壊』をテーマに作りました。無能な人間が、最良の者となり、権力を得る不幸です。

 殊にビジュアル、愛嬌というものは、あらゆる専門分野において無関係な要素であるのに、マス・マディアが重視して報道することによって(というのも、大衆の理解力に合わせているため)それが大事な要素かのように看做されてしまう。そうして大衆に支持を得られた無価値な人間が実際に力を得てしまう。


 格闘において、重要なのは『相手より強いか』の一点です。強ければ勝ち、弱ければ負ける。単純な話です。『偶像の暁』に登場する『闘波』は、そんな単純な道理すらも変えてしまいます。『アイドル性』が戦闘能力に直結する。要するに『大衆から愛される』ことが重要な要素となり、実際に、現実的な力(戦闘力)を、そんな小娘に付与してしまう。そうなると、心技体だけでなく、ビジュアルやマス・メディアの戦略までもが、格闘の勝敗を分かつ要素となってしまいます。


 現実の世界においても「あいつは、仕事もできないのに美人だから優遇されていてずるい」というような愚痴は、ありがちだとは思いますが、『偶像の暁』の世界は、そのナンセンスを際立たせた架空世界となっております。これをシュールリアリズムと呼んでいいかわかりませんが、現実以上に現実の理不尽さに満ちた世界設定にしてあります。


 

 昨今のラノベは、「異世界転生系」とか「チート系」「俺ツエー系」だとか言われますね。私は、この類の話を好まないのですが、これらの作品が愛される理屈はわかります。

 主人公に感情移入して、気持ちよくなれるから……というのが、その理由らしいのですが、私はこれを聞いて「ポルノみたいだ」と思いました。

 誤解をして欲しくないのですが、ラノベを読むことが、エロビデオを観ているのも同義であると言いたいわけではありません。ただ、その『楽しみ方』『作品の意義』というものが、ポルノに近いと言いたいのです。作中の主人公と己を同化させて、自分が主人公になっている錯覚を楽しんでいるのですから。

 作中人物と己を同化させることによって「周囲から尊敬を得る」のも「異性を抱く」のも、たいした違いはないでしょう。「名誉欲を満たす」か「性欲を満たす」かの違いです。

 私は、そのようなラノベを否定する気はありません。ポルノが社会に一定数必要なように、そのような楽しみ方をする「俺ツエー系」ラノベも必要だと思っています。ただ、それは私の書きたい話ではないというだけのことです。


 私が書きたいのは、どちらかというと『異世界で努力を積んでいた人間』です。異世界転生系小説は、現実世界において全くの実績を残せていない落ちこぼれが、異世界に入ったとたんに、有能さを発揮し、周囲からは尊敬され異性にもモテる。だいたいがそういう話のようです。しかし、そのラノベには描かれていない人物がいるでしょう。

 生まれてから、ずっと懸命に生き、努力を積み上げていき、それが形になりはじめた頃、いきなり異世界から現れた主人公によって、そのポジションを奪われた者。世界の常識を覆すような、異世界から齎された力の登場によって、いままで自分が積み上げてきた努力、信じてきた美徳が『無価値』となってしまう。そのような状態に追いやられた人物がいたはずなのです。

 私が思うに、そのような人物の心情を描くことこそ、小説の意義があります。少なくとも、私は、そのような物語を描きたかったのです。その結果、生まれたのが『偶像の暁』の主人公、松野詩鶴です。


 松野詩鶴は、価値評価があやふやになっている世の中において『結果が全て』であるスポーツ。殊に、格闘技を愛し、優秀な空手家となり、それを自負していました。しかし、チベットで生まれた邪道の力『闘波』が世界中に蔓延してしまいます。それは偶像、つまり『アイドル』として人気を得た人間が、実際に強靭な肉体を得て、格闘においても勝利を収めてしまう。心技体を美徳として生きてきた詩鶴は、その心技体をあっけなく無価値なものにしてしまう『アイドル性』を憎み、世界の理不尽さに苦悩します。


 わかる人にはわかると思いますが『偶像の暁』というタイトルは、ニーチェの哲学書『偶像の黄昏』をもじっています。この1話は、そのパロディとなっております。価値の転換。ルサンチマン。その要素を盛り込みました。例えば、周囲からの嫉妬に苛まれ、自分の優れた部分を憎み、劣った部分を愛しく感じてしまった過去の紅露りぼんは、かつて強者であったものの、弱者が行ったルサンチマンの価値転換の成功によって、僧侶的価値に染まってしまった人々がモデルですし、自身がいじめの被害者の経験があったり、身体障碍者であることをわざと告白し、『理論』ではなく『空気』によって、論敵を打ち負かそうとしてしまったAさんは、僧侶的価値評価が蔓延した世界において、それを利用して勝利を収めようとする人々がモデルです。ニーチェは、このような形で勝利を収めようと企む人間を「恥知らず(unanständig)」と呼びました。Aさんも、冷静になって自分の卑劣さを恥じることになります。友人のりぼんは、むしろ、それを恥じることができたということに、彼女の偉大さを感じます。そのエピソードは、手紙を通じて詩鶴にも伝わり、彼女自身も、そのAさんと同じ過ちをし続けていたことを自覚します。

 詩鶴は、闘波以前に、世界中に蔓延していた『努力神話』を利用し、また自己欺瞞によって、己の欠点である暴力性を隠し続けていました。彼女は、そんな自分を恥じ、痛みを伴いながらもルサンチマンの克服に向かう覚悟を決めるのです。


 いままで人類が築いてきた美徳をぶち壊すような概念が、突如として登場したとき、人はどう対処するのでしょうか? 作中の『闘波』のように、努力し続けるスポーツ選手を愚弄するかのように、努力もなしに良成績を収めるような『力』が誕生してしまった場合、オリンピック協会は、どのような対処をするのか? そのような思考実験は、私の好きな話題であり、詩鶴とくくるとの会話でも『デザイナーズベイビー』『エンハンスメント』という、未だに議論され続けている社会学、倫理学の問題について取り扱ってみました。ナンセンスな世界の中で、登場人物がどのように生き、社会がどのように動くていくのか、それを全話通して、書いていきたいと思います。


 2話は、五光プロダクションに移籍した中国人ファイター柳小風と、五光プロ一番の問題児、芒崎美月にスポットライトを当てています。ちなみに、冒頭で詩鶴と戦った青の闘波使いも登場します。

 美月は、とにかく女性にだらしがない奴で、いつも可愛い女の子を口説きまわってマネージャーに叱られています。私が書くと、どうしても、日常系アニメ風のほんわかとした百合ではなく、重苦しい同性愛になってしまうのですが、そのようなテーマが好きな読者が現れると信じて、投稿していきます。

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