第1話 7章


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 詩鶴がりぼんと会えるチャンスが一回だけあった。ほかのアイドルを通じて得た情報によれば、りぼんが出演している番組の収録が、NTKで行われ、その日の夜には、詩鶴も『アイドルファイト』の試合があった。試合会場とテレビ局は近かった。詩鶴はその日を待ちわびた。

 あの手紙を読んでからというもの、詩鶴のアイドル業に対する姿勢は変化した。それは同じ事務所の仲間たちだけではなく、傍から見てもわかるほどだった。いままでは、どこか斜に構えた彼女であったが、今は真剣に取り組んでいるのがわかるのだ。


 りぼんは、あの日からマスコミに意見を求められ続けていた。『引退されるのですか!?』という質問は、これで何度目だろうか? 彼女はため息をついた。その質問に対する受け答えもテンプレートと化していた。「何を聞かれても答えるな!」と、上から釘を刺されていたが、あの人にだったら、話してもいいだろうと思った。その「あの人」には、そろそろ会えるような気がしていた。そして、その予感は見事、的中した。


 「やっと会えた。……りぼんさん」と、詩鶴は逸る気持ちを抑えて言った。

 「貴方にあえてよかったです。松野さん。最後になるかもしれませんから」と、りぼんは答えた。


 詩鶴は、しばらく二人きりで話したいと、りぼんに頼んだ。彼女は二つ返事で承諾した。二人は、誰にも見つからない場所に移動した。


 まず、何から話せばいいのか……リハーサルしたはずなのに、詩鶴は言葉が出なかった。

 「その……最近、忙しいみたいだけど」これは予定にはなかった言葉だった。この切り出し方はまずかっただろうか? 詩鶴は不安になった。

 「ええ。疲れが顔に出てしまってます」りぼんは答えた。「何日も質問攻めに会いまして……」

しばらくの沈黙が続いて、詩鶴が本題に入った。

 「手紙! その……手紙、読ませてもらった。……すごく助けになった」

 「それは嬉しいです」

 「いや、その……私じゃなくて、うちのマネージャーのために書いたんだよね。私も読んじゃったけど」

 「松野さんにも、読んでいただけて嬉しいです」りぼんはにっこりと笑った。

 「あの手紙の……表情で色々なことを読み取れるって本当?」

 「ええ。本当のことです。……どうやら松野さんは覚悟を決めたようですね。不安と苛立ちの色が消えています。私の友人……手紙ではAさんと書いた人ですけど、彼女も自分の弱さに悩んでいるときは、そんな色をしていました。今の貴方には、それがすっかり無くなっています」

 詩鶴は、りぼんが『色』と言ったことに興味を抱いた。おそらく彼女は共感覚者なのだろう。他者の表情に色彩を感じ取り、その色を見て隠された感情までも読み取るのだろう。

 他者の気持ちを色で認識するなど、ましてや、そこから具体的な思考を読み取るなど、その力は超能力の域に達していると詩鶴は思った。最高クラスの闘波の使い手ならば、そのようなセンスがあってもおかしくはないだろうと、一人で納得した。


 「私、あの手紙に書いてあった色々な話を読んで衝撃を受けたよ」

 「あまり人に話すことではなかったかと思いましたが……彼女のような立派な人のおかげで、今の私がいること……知ってほしかったんです」

 「りぼんさんの人生を知れてよかったと思う。よければ、私の今までの人生も聞いてくれるかな?」

 「はい。知りたいです。貴方のこと・・・・・・」


 詩鶴は、順を追って、伝えたかったことを伝えた。自分は彼女の書いた手紙に出てくるAさんのように立派ではなかったこと、視野が狭かったこと、今まで弱さと向き合ってこなかったことを正直に語った。そして、この手紙のおかげで、今までの過ちに気づくことができたと結んだ。


 「私、アイドルが嫌いだったんだ」詩鶴は白状した。「でも、それは私が女の子のように可愛らしくなれないコンプレックスからくるものだった。だから……私は華やかさよりも、格闘技のストイックさを……その美徳を説くことで、必要以上にその価値を重視したの」

 そう言いながら、詩鶴は、手紙を読んだあの日のことを思い出した。親友のくくるに対しても同じことを言ったのだ。


 数日前、詩鶴たちは、二人が住んでいる大学寮にて、とことん話し合いをした。


 「だから私は……私の持ってないものを見下すことによって、自分を安心させていたの」

 詩鶴が懺悔したとき、それを聞いたくくるは、詩鶴の気持ちを受け止めた。「そのようなことは誰にでもあるよ」と、詩鶴を慰めた。何も詩鶴だけじゃない。人間誰しも、そのような弱さを持っている。誰もが自分が優位に立ちたいばかりに、都合のいい価値を定めたがるものだと、彼女は語った。

 「例えば……」くくるは言っていた。「つまらない文系の人間は理系なんて価値がないものだと吐き捨てるし、つまらない理系の人間は、文系などなんの価値もないものだと吐き捨てるでしょう?」この言葉は、彼女の経験に裏打ちされたものだった。そして、彼女は、そういう人たちを皆「つまらない」と思っていた。

 「だから重要なのは、自分の欠点といえるものを直視することなんだろうけど……それは単純な発想よね。だって、その欠点は絶対に直すべきものとは限らないし、直せないものなのかもしれないから」


 人間は生まれながらにして、得意なものや苦手なものがある。それだけでなく、生まれながらにして目が見えない、耳が聞こえないなど障害として認識される差異もある。さらに言えば、身体的特徴だけでなく、環境にも差異が生まれる。出身国や人種が、人生の負い目となることもある。全ての者が恵まれた環境で生まれ、育てられるわけではないのだから。

 自分に何の落ち度もなく生まれた差異。その差異を意識することで感じる劣等感に「お前は、それと一生、向き合っていくべきだ」と強いるのは、あまりにも残酷なことだろう。だからと言って、その劣等感を無視して、全くなかったことにもできない。「どうして、こうなってしまったのだ!?」という、魂の悲鳴は消すことができないのだ。

 それらの効果的な逃げ道の一つは、別の何かを……ほかの価値を極端に重視することなのだ。このようにして安寧を求めてしまうことは、人間誰しも起こしうる間違いなのだと、くくるは考えていた。


 「……でも、自分自身を肯定したいために、他の人たちにまで、その価値感を押し付けるのも好ましいとは言えないよね」とも、くくるは言っていた。

 「例えば、これは昔、アメリカであったことなんだけど……聾唖者の耳に取り付けることによって耳が聞こえるようになる器具が発明されたの。素晴らしいことだと思うよね?」

 「うん」

 「もちろん、皆、耳が聞こえるようになりたいから、その器具を買うんだけど、ある聾唖者のグループが反対運動を起こしたの。なぜかっていうと『手話などの聾文化が廃れる』ってね。おかしな話だと思うでしょ」

 たしかに、それはおかしな話であると詩鶴は思った。聾文化を尊び愛するのはその人の勝手であるが、そのような文化を維持し続けることが、耳が聞こえるようになりたい他者を妨害する理由にはならないだろう。

 「もちろん、それは間違った運動なんだけど、私にはその運動をしてしまう人の気持ちもわかるの」くくるは、反対グループを擁護した。「その人たちは決して悪者じゃないの。ただ、自分の耳が聞こえないという特徴を『劣ってる』と看做されたくなかったんでしょう」

 彼らは幾度も自分に言い聞かせていたのだろう……『自分たちは劣っていない。少数派なだけである』と。


 「生まれながらにして」くくるが言った。「自分に何の落ち度もなく、明らかに不便な身体を持って生きなければならなかった人が、聾文化を愛することで、安心するのは当たり前のことでしょう? その価値にしがみついて生きてきた人が、耳が聞こえるようになりたいと願う聾唖者たちを軽蔑してしまうのも、わからない話ではないの」

 「皆がこぞって、その器具を買い求めたという事実が『聾唖者は、あってはならぬものだ』と言われてるように感じたのかもね」

 「うん。だから難しいのよ。皆、誰しもどこか劣ってたり、不運だったり、社会通念と照らし合わせて、ズレてたりする。その中で、なんとか肯定してみようとするんだけど、どれもこれも適切な方法で解決できるものじゃないから。詩鶴ちゃんは『自己欺瞞に陥った』って言ってたけど、それに気付けただけでも立派だと思うの」

 「私も一生、悩み続けるんだろうね」

 「そうね。でも、そうやって向き合い続けることで……誤魔化さないことで見えてくるものがあると思う。多くの幸せを与えることもできる。新しい価値を生むことだってあるんだから」

 新しい価値などあるのだろうか? と詩鶴は思った。コンプレックスが思わぬ役に立つのは、クリスマスの赤鼻トナカイぐらいのものだろう。

 「そうね……」詩鶴の表情で察したのか、くくるは具体例を挙げようとした。そう易々と具体例を挙げれるようなものであれば、皆、そこまで苦しまなかったであろうが。それでも一つは、見つかった。「私たちの親の世代の歌手なんだけど……その人は吃音症っていう障害を持ってたの。もちろん、彼には、それがコンプレックスでもあったんだけど、逆にその障害を利用して、新しい歌い方を生み出して、それは世界中で大ヒットしたらしいの」

 「そんな人いたんだ……」

 「うん。私は尊敬しちゃうなぁ。その人は、自分のできることを精一杯やって、同じ障害を持つ人たちに勇気を与えたんだから」

 詩鶴は、それを聞いてりぼんの手紙の内容を思い出していた。手紙にも『自分に何ができるか考えることを決めた』と書いてあった。


 「『くうに生きてる』のね」と、くくるは言った。

 「くう?」

 「仏教の大事な教えね。曹洞宗、道元の『修証一如しんしょういちにょ』に受け継がれていく考え方なんだけど、自分のなすべきことを自覚して、励んでいくこと。それが『空に生きる』ってことなの」


 

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 「素敵な友達がいるのね」詩鶴の話を聞いたりぼんは、そう感想をもらした。

 「うん。自慢の友達なの」詩鶴は嬉しそうに言った。「りぼんさんが手紙に書いたAさんみたいに、自分の視野を広げてくれる友達がいてよかったと思ってる」そんな彼女と一緒にいながら、今まで自分自身を省みることをしなかった自分が恥ずかしくなった。しかし、それに気付けたならば、まだ間に合うのだ。

 しばらく間があった。詩鶴は、そろそろこのトップファイターに、この底辺ファイターの宣言を聞いてもらわねばならないと思った。


 「私ね……わけあって、アイドルをやってるけど、アイドルに対して逆恨みしてた部分があってね。私の空手の技だけで全てのファイターを倒してやろうって考えてたことがあるの」

 「それって、どういうこと?」りぼんは、言葉の意味を読み取れずに詳細を訊ねた。

 「闘波が気に入らなかったの。それを利用しているアイドルたちもね。ただ歌って踊って人気を得ただけのアイドルが、地道に鍛錬してる格闘家より強くなるなんて馬鹿げてるって思ってたの。今まで努力してきた格闘家が馬鹿みたいじゃん。だから、私は証明したかったの。最低限の闘波だけで『アイドル畑のファイター』をコテンパンにしてやるってね。……逆に貴方にやられちゃったけど」

 「そういうことだったのね。でもファイターになった理由って、それだけじゃないよね?」勘のいいりぼんは尋ねた。彼女ほどの実力者が、恨みつらみだけで自分の人生を決定してしまうとは思えなかったからだ。彼女のようにプライドの高い人間が、それだけのためにファイターという、屈辱的な職業に身を置くことは考えられないのだ。

 「……もちろん。もっと重要な理由があるんだけど……」詩鶴は、ここで黙り込んだ。彼女に闘波の真実を話していいのだろうか? 『シャングリラの光』のことは、トップシークレットであり、亜子・クリンゲルとの約束で口外してはならなかった。その『世界規模の目的』のことは後に話すと断りを入れて、先にくくるとの対話の続きを語ることにした。

 「そんなことを友人と話してたら、彼女は陸上競技を例に、思考実験を持ち出してきたの」


 あの日、詩鶴はくくるとの対話によって『闘波、闘波使いは存在してよいものか』を明らかにしようとした。それは、あのドイツ人、亜子・クリンゲルから聞いた内容は度外視して、人間は、どのようにこの強大で魅力的な力と向き合うべきなのかを追求することにしたのだ。


 闘波を身に纏うことで、一部の人間は超人的な身体能力を得た。そのことに関して、一部の組織は『価値の崩壊』を危惧した。


 今年の2月に行われた冬季オリンピックにおいて、『闘波を用いることは禁止』とされた。つまりドーピング扱いされたのだ。しかしながら、闘波は、その本質が明らかになってない上に、簡単にコントロールできるものではない。『相手に負けたくない!』と踏ん張った際に、自然と発生することもある。大衆に人気のある女性選手が、本人の意図しないままに、周囲から視認できないほどの微弱な闘波を使用してしまうことも考えられるのだ。ならば、この新しい規則は何の意味も成さないのではないか? そのような意見は多かった。 

 いや、そうではない。これはアピールとして意味を持っているのだ。むしろ、『私たちは認めません』と言った証拠を見せ付けるのが目的であった。協会が闘波の使用を認めてしまえば、オリンピックの『権威』と『意義』が崩れるからだ。『民衆に人気がある女性』であることだけで、すさまじいアドバンテージを得るという事実は、真剣にスポーツに取り組む人々の心を抉るのだ。

 ここ25年以上、ウサイン・ボルトによる100m走の記録を塗り替えようと、何百、何千という選手が、己の限界を超えて鍛錬を積んだ。しかし、闘波を持つ小娘によって、その記録が軽々と超えられてしまったのならば――現に、そのようなファイターは存在する――選手たちはこう訴えたくなるだろう。「今までの俺たちの努力は何だったのか!」

 故に、それは『正統ではない』ゆえに、ドーピングさながらに『認めない』とアピールしなければならないのだ。


 「ここに、人間の弱さを感じるね」と、くくるは自分の見解を述べた。

 「弱さ?」

 「そう。闘波を『身体の特徴の一つである』と看做すことはできないのかな?」くくるは別の角度から闘波を捉えようとした。「生まれながらに、走るのに適した体格を持つ人はいるよね?」

 「うん」詩鶴は頷いた。あらゆる生物は、同種であっても、生まれながらにして体格は異なる。骨格や筋肉の付き方も、肺の大きさも違うのだから、速く走るのに恵まれた肉体で生まれる人もいれば、長時間走るのに恵まれた肉体で生まれる人もいる。早く泳ぐのに恵まれた肉体で生まれる人もいるだろうし、あるいは、どんなスポーツにも適さない肉体で生まれる人だっている。それは当然である。どれだけ道徳を持ち込もうと否定できない自然の理である。

 「そこで疑問に思うのは……」くくるは言った。「『闘波の素質を持って生まれた人』と『速く走る肉体を持って生まれた人』を比べた場合、どう違うのか? ってことだよね。どちらも”早く走れる要因”を持って生まれた人間なのに」

 「闘波は、肉体に依存していないから……とか?」

 「それが理屈に合わないことは、詩鶴ちゃんがよくわかってると思うけど?」

 くくるの指摘は尤もだった。格闘技もスポーツも、肉体だけでなく、精神力だって必要とされるのだから。それに判断力や洞察力も看過できない要素だ。オリンピック協会だって、肉体だけの優劣を競うものとは答えないだろう。

 「もちろん、ビジュアルをスポーツの評価点に加えるのはナンセンスだけど、ビジュアルの良さが、結果的にその人の精神面に良い影響を及ぼすことは、普通にありえるよね」

 カリスマ性があったり、庇護欲がそそられるような性質のために、多くの人間から声援を受け、その声援が糧となった選手は大勢いるだろう。ファンによる精神面での支えが、良い成果を導く可能性があり、それが違反でないのであれば、同様に、闘波の使用も違反と看做すわけにはいかないだろう。闘波は、大衆から受けるアイドル的な人気によって増減すると言われているので、『声援を受けて頑張れた』ことと、大して変わらないのだ。


 要するに『闘波の使用禁止』という規則は、競技の神聖視でしかないのだ。生まれながらにして、人間は肉体的にも精神的にも差があり、それは努力で埋まらないこともある。しかし、それを直視することは簡単ではない。それを認めてしまうと、なんともやるせないのだ。人は、この世界の残酷さを見つめることができないのだ。だから、人はひたすら努力を奉ることになる。


 スポーツに限らず、古今東西、努力を美徳とする傾向は多く見られる。例えば、運よく人気が出たネットタレント、動画配信者に対し、真面目なサラリーマンが罵声のコメントを書き込んでいる。多くの人間が、楽しいことして大金を稼いでいる人を非難している。そして「汗水たらして働いて稼ぐことが、何よりも立派なことなんだよ」と、子供に教え込んでいる。もし、彼らに、濡れ手で粟の大金を得る機会が訪れたのであれば、一も二もなく飛びついたであろうに。

 自分たちの平凡極まりない運命を呪いながら、心の底では彼らのようなスターを羨ましく思いながらも、それを認めまいと、『自分のような生き方こそが正しい』と信じ込むのだ。こうしてルサンチマンの価値転換を図るのだった。『努力していない人間は価値がない!』『彼らはチヤホヤされてるし、楽に収入を得ている。でも、それは本当の幸せじゃない!』『地道な努力こそが価値がある!』という大号令が、そこかしこで見られるのだ。

 そして、彼らのような人気者が、つい、ちょっとした不祥事を起こしてしまった際には、待っていたと言わんばかりに、糾弾するのだ。少しでも道徳的でない行為があれば、それをあげつらい、叩きのめして鬱憤を晴らす。『二度と、楽して金稼ぎをさせるものか!』そうして、足を踏み外した彼らを、自分たちの世界に引きずりこもうとするのだ。


 『エンハンスメント』『デザイナーズ・ベイビー』は、50年以上議論されても結論が出ない倫理問題を孕んでいた。詩鶴とくくるは、あるアメリカ人を例にした。

 2032年、あるアメリカ人が、オリンピックで異なる陸上記録に同時に出場し、ともに金メダルを取った。問題は彼が遺伝子操作によって、最高の肉体を持って生まれたことであった。彼は脳手術によって、ドーパミンなど神経伝達物質を理想的な形で分泌させることができた。このときから既に、倫理的によろしくないという批判があったが、その批判が最も盛り上がったのが、彼がオリンピックで成果を残したときであった。

 民衆は彼を『卑怯者』と批判した。彼を擁護する人たちは「ドーピングは行っていない。人間にもともと備わっている機能を補助しただけだ」と弁明した。「もし、これが認められないのであれば、眼鏡やコンタクトレンズをつけてオリンピックに出ることすら許されないであろう」と言った人もいた。手術をして身体能力を高めることが違反だというのであれば、レーシック手術をした全ての選手は、メダルを返還せねばならないだろう。

 彼を批判する意見の中には面白いものがあった。『努力もしないで金メダル取って嬉しいか!』まるで恨み言のようだった。結局、彼はどちらの競技においても、努力を欠かさなかったことを証明せねばならなかった。彼が努力をしたかどうかは論点ではないのに関わらず、その点ばかりが重視されたことが多くのことを物語っていた。


 「その選手は恵まれた肉体を持っていたけど」くくるが言った。「ほかの選手だって同じようなものだったでしょうね。彼の場合は、それが偶然ではなく計画的によるものだっただけで」

 「だけど、どこか卑怯な気がするね」詩鶴は、率直な感想を述べた。

 「そう思うとしたら『あるべき』という考え方に固執してるってことじゃない?」

 「うん。そうだと思う。だから私は闘波の存在を認めたくなかったんだよね。それは心技体以外の要素だから邪道だと思ってたんだ」

 詩鶴はくくるとの対話によって視野を広げることができた。そして自分が闘波を憎む、本当の理由を自覚することができた。


 「私も努力を盲目的に崇めていたんだと思う。今まで心技体を鍛えることによって、自分を肯定し続けるのに必死だったから。いきなり登場した闘波を認めたくなかった。……でも、もし、私の体が丈夫じゃなくて、アイドルに向いていたとしても、そんな風に主張していたのかな? たぶん、していないと思う。そのときは闘波を求めてたと思う」

 「それが普遍的に持つ弱さね」くくるはしみじみと言った。


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 「あの手紙を読んでね……」詩鶴がりぼんに言った。「私、思ったの。私は自分に都合のいい美意識を作り上げてたんだって」

 もし、王様や大富豪の娘として生まれたら、コツコツ労働してる人間を蔑んで、努力をあざ笑ったかもしれない。体力がなかったり、足に障害を持って生まれたら、スポーツ選手をただの「体力バカ」だって愚弄していたかもしれない。

 「私はただの体力バカとして生まれたし、練習とか鍛錬とか苦にならないタイプだったから……格闘技を尊重しまくった。でも、それじゃ駄目なんだってわかったよ」

 詩鶴は一息ついた。自分を否定されるのはつらい。現実の残酷さを直視するのは怖い。都合のよい価値観に染まっていくのは楽だ。道徳を利用して、群集心理を利用して、そうして生まれた『努力神話』を信仰して生きていくのは楽だ。しかし、そのようにして得た安寧は、同時に苦痛を孕んでいる。長くは続けられない。

 「……心がね。悲鳴を上げるの」なんて、詩的な表現だと、詩鶴は自虐的な笑ったが、そう表現するほかはなかった。

 「だから、私は自分の弱さから逃げないようにしたいの。りぼんさんの友人のようにね」

 「うん。そう覚悟するのは苦しいことだけど、私は、それが誇りある生き方だと思ってる」


 どう足掻いても追いつけぬほどに優れた相手を見たとき、己の無力さに絶望することもあるだろう。そのときは、何の言い訳もせずに、この無力が私なのだと、ひたすら肯定しようと思う。

 どう足掻いても、私の足元にも及ばないほどに無力な相手を見たとき……ひたすら努力をする相手の不憫さに心を痛めることだろう。この乖離かいりに、とてつもない罪悪感を覚えることだろう。それを誤魔化さずに受け止めていこうと思う。その姿を見つめ、心に傷をつけながら生きていこうと思う。そう上で己を肯定していこう。そうしなくてはならないのだ。


 詩鶴は気分がスッキリしていた。自分は、ただの弱虫であり、卑怯者であったと気付かされたとしても、そのことに気付けたことが嬉しかった。それを教えてくれた彼女に、自分の決意を聞いてもらうことができたのだからなおさらだ。

 りぼんも嬉しかった。小学生のころから卑下し続けた自分の能力が、またしても、一人の人間を救ったのだから。自分を誤魔化さずに生きていこうとした結果がこれだった。周りとの乖離を直視し、『自分のできることは何か?』を考えたからこそ、詩鶴を救うことができたのだった。この実践は、私の生涯で忘れられない思い出になるだろう。そう彼女は思った。


 「ところで、詩鶴さんがアイドルになった本当の理由って何なの?」りぼんが訊いた。

 「えっと……まず、何から話せばいいかな……」詩鶴は躊躇った。「……ある人との約束で、秘密にしなきゃならないこともあるけどいいかな?」

 「ええ、知られたくない秘密もあるでしょうし」訝しく思いながらも、りぼんは受け入れた。

 「じゃあ、まず、結論から。一つ。東南アジアの海上都市で失踪した友人、鹿島紅葉を探すためだよ」

 りぼんはリアクションに困った。鹿島紅葉は自分の尊敬できる先輩であり、目の前にいる詩鶴に興味を持ったのも、この先輩が原因だったからだ。

 「……そう」

 「まあ、そういう反応になるよね。彼女とは空手時代の仲間でね。大会の決勝で戦った」

 その試合なら知っている。と、りぼんは思った。気になってネットで調べたところアップされていた動画に行き当たったのだ。そのコメント欄は、アイドルになる前の鹿島紅葉のレア映像に喜ぶものが大半で、ほぼ互角だというのに、対戦相手である詩鶴の名前はどこにも載っていなかった。それでも、りぼんにとって、詩鶴の姿は惹かれるものがあった。観客席から撮られたその映像は表情まではわからなかったが、どこか胸騒ぎがした。あの先輩が気にかける理由がわかるような気がしたものだ。


 「そしてもう一つの理由は」詩鶴は続けた。「闘波を、この世から無くすため……」

 「無くす? 闘波を?」りぼんは目を丸くした。どうして? いや、どうやって?

 「……のつもりだったけど、考えが変わった。今は闘波とちゃんと向き合うことが大事だって思うから。だから、今の新しい目標は、トップファイターになることだよ」

 

 詩鶴は、自分の過去を詳しく語った。自分は空手の大会で、あの鹿島紅葉と戦ったときのこと。彼女と再会することが悲願であること。亜子・クリンゲルから聞かされた話は、フィクションを交えながら話した。その力が悪魔の力であることは口にしなかった。たとえ、この力が本当にそうだとしても、自分やりぼんならば、正しく使いこなせると信じていたからだ。


 話題は自分の過去から、りぼんの未来のことに移った。詩鶴は徐にりぼんに訊ねた。

 「ねえ……英語とか大丈夫なの?」


 りぼんはアイドル活動を辞め、闘波研究に協力するためアメリカに向かうことを決めていた。手紙にはそのことが記してあった。

 「うん。大丈夫だと思うよ。あっちも色々と配慮してくれるそうだし」

 「ほかのメンバーは、なんて言ってたの?」

 「もちろん反対された。……『せっかく絶好調ってときに』……って。当たり前だよね。事務所もノリ気じゃないみたいだったし」

 「でも、りぼんさんが決めたことなら、間違ってないと思うよ」

 「うん。私は……皆やファンを裏切ることになるんだけど、それ以上に得るものがあると思ったから」りぼんは立ち上がって、大きく背伸びした。

 「私ね……アイドルやってよかったって思ってる。町でスカウトされたこと……すごく幸運だったと思う。私の中にあったすごい能力を見つけ出すことができたし、それで病弱なのをカバーすることもできた。私の能力や努力が認められたのは嬉しかった。アイドル活動が多くのファンの支えになっているのも嬉しかった。……ねぇ、松野さん」

 「なに?」

 「アメリカの闘波研究は、ずっと行われていたけど、その研究成果で、一番貢献できると言われているのはなんだかわかる?」

 「うーん。エネルギーとかの物理学?」

 「それもあるけど、闘波は人間の進化の鍵。それによって一番恩恵に与るのは医学方面だって言われてる。それも身体だけでなく精神医学もね。いつか、闘波によって、多くの病気や障害に苦しむ人を救うことができるかもしれない。私の病弱な体も、すっかり健康体になったし」

 「医学……」

 「そう。私ね。アイドルやっていて、自分のことをとても好きになれたの。だから、私の分はもう十分。あとは、この力を、全人類の未来に捧げたいと思う」

 あまりにもスケールの大きいことを語るりぼんに詩鶴は驚いた。詩鶴は全世界に広まった力、闘波を無くすためにファイターとなり、世界でも指折りの権力者の一人と対峙することを選んだ。しかし、実際にファイターとなってすぐに、それが自惚れであることを思い知らされた。全世界に闘いを挑むには、自分はなんてちっぽけな存在なのだろうと思い知らされたのだ。しかし、何故だろうか、彼女の場合は……りぼんが語る理想には、とてつもない可能性を感じるのだ。


 「それで……その研究の成果が、大好きな人の障害を取り除いて……また一緒に……」りぼんは語るのを辞めた。語ることができなくなったのだった。彼女は目に涙を浮かべていた。詩鶴は、彼女がAさんを想っているのを察した。思わず、後ろから彼女を抱きしめていた。「また彼女と一緒に遊べるようになるよ」そう言葉をかけるつもりでいたのだが、うまく言葉がでなかった。励ましでも同情でもなく、彼女の偉大さに気圧され、伝えるべき言葉が喉に詰まった。彼女の健気さが愛しすぎて、ただ抱きしめる力を強めた。詩鶴は、りぼんを後ろから抱きしめながら彼女と一緒に涙を流した。


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 紅露りぼんが緊急記者会見は、賛否両論を巻き起こした。人類の未来のために立ち上がった少女を「英雄」と称える声、今まで応援してきたファンに対する裏切りだという非難の声、そもそもアメリカの研究がうまくいくものなのかを疑問視する声、根も葉もない噂に左右された意見や、妬みや僻みの声もあった。しかし、どのような意見を前にしても、話題の中心人物である彼女は、常に曇りのない目で、まっすぐ前を見つめていた。


 成田国際空港では、日本を代表するアイドルであり、最強クラスのファイター出国の瞬間を、多くのマスコミがカメラを構えて待ち構えていた。しかしながら、彼女は一向に現れなかった。直前になって、乗る飛行機を変更したのだ。アメリカ政府が手配したジェット機が、多くのSPと共に彼女を迎えた。

 「大統領のお迎えみたいね」と、りぼんは独り言を言った。彼女と苦楽を共にしたメンバーは、事務所で別れた。ここでも涙の別れだった。

 空港で彼女を見送ったのは、彼女の両親、そして詩鶴だった。周りに車椅子に乗った少女がいないことから、詩鶴はりぼんの心中を察した。

 「アイドル活動、ファイターの活動も頑張ってね」と、りぼんは詩鶴に微笑みかけた。

 「……勝ち逃げされたのは、人生で二人目だよ」と、詩鶴は握手を求めた。

 「もっと貴方と話したかったな。松野さんも色々と過去がありそうだし。闘波を無くす方法とか、気になってしかたなかったんだけど……」

 「ごめん。それはトップシークレットなんだ。それにもう無くそうとは思ってないよ。私たちはこれから、闘波を活かす方法を探していこう」

 二人は、熱い握手を交わした。

 「ねぇ。お願いがあるんだけど……」と、詩鶴が恥ずかしそうに言った。

 「何かな?」

 「私、最初は貴方のこと何も知らずに邪険に扱ってしまってたね。よく知れば、素敵な人、強い人だってわかったのに……それで、すっかり言うタイミングを失っちゃってたんだけど」

 「うん?」

 「私のこと、詩鶴って呼んでくれるかな」詩鶴は耳まで真っ赤にして、言葉を伝えた。

 りぼんはクスクスと笑ったあと、満面の笑みで言った。「ええ、詩鶴。私の大切な友達」



 はじめは嫌いで嫌いで仕方なかったのに……あんなにも尊く思えるなんて……あんなにも愛しく思えるなんて……

詩鶴は、空港内にある喫茶店のカウンターに腰を下ろし、見送ったりぼんを思い出していた。

 「アイドルってすごいなー」

 「……君もアイドルでしょ」ほかに席が空いているにも関わらず隣に座った女性が、詩鶴の独り言にツッコミを入れた。金髪碧眼の凛々しい女性。9ヶ月ほど前、詩鶴の元を訊ねた外国人だった。

 「貴方は……」

 「亜子・クリンゲルだよ。久しぶりだね。松野詩鶴さん」

 久しぶりにあった彼女は敬語を使わず、ずいぶんとフランクな喋り方になっているが、その美しい横顔は何一つ変わっていなかった。

 「何しにきたの?」

 「注文を……」と言って、カウンターの男性に呼びかけた「すみません、アイスコーヒーをひとつ」

 「……りぼんさんを追ってたってことはないよね?」詩鶴は探りを入れた。

 「さあ? 松野さんこそ、どういうつもりなの? 闘波は全人類を二分させる悪魔の力。蔓延させる前に、手を打たないといけないのに、あの強烈な闘波使いをアメリカに送っちゃうんだもん」

 「彼女の意思を変えるのは、誰にもできないよ。それに……彼女なら正しい闘波の使い方を見出すことができると思う。社会福祉とか……」

 「それだといいんだけどね。……でも、アメリカはねぇ……」亜子は明らかに嫌そうな顔をした。

 「どうしたの? 確かにアメリカは、何かと軍事に結び付けられることはあるけど」

 「わかってるじゃん。あのね。第二次大戦でドイツが負けたせいで、総統に関わる資料がアメリカに回収されてる。アメリカは間違いなく知っているでしょうね」

 「何を?」

 「『シャングリラの光』の効果と、そこから導き出される闘波の本当の効果のこと。つまり……ファイターを抱えた組織は、あらゆる面で優勢となるってことだよ。案の定、紅露りぼんの国籍をアメリカにするように勧めるらしい」

 コーヒーが、亜子の前に置かれた。彼女はストローを挿して飲みだした。

 「それってヤバいことなの?」

 「さあ? でも、ヒトラーの予言にあったように、闘波がこのまま広がれば、人類は二分される。支配する層は、ますます人を支配しやすくなり、支配される層は、自分の頭で考えることをせず、家畜に近づいていく。100年も経たないうちに、国家や組織が、強大になるためにアイドルたちをスカウトして育成する世界がくるかもしれない。そんなアホみたいな世界は、核兵器の開発競争する世界と、どちらがマシかわかったもんじゃない」

 詩鶴は、亜子が危惧している最悪の未来を受け入れるわけにはいかなかった。ただし、本当に闘波を消滅させてしまっていいとも思えなかった。 


 「なんか、浮かない顔ね。紅露が気になるの?」

 「彼女は大丈夫だよ。私ね、クリンゲルさんがきっかけで、ファイターになったでしょ。貴方の言葉を信じて闘波をこの世から一掃してやるつもりだった。でも、ちょっと考え方が変わっちゃってね。彼女……りぼんさんのように、闘波をありがたく感じちゃったの。これで人類に貢献しようと考えてる人がいる中で、消し去っていいんだろうかって……」

 「冷たいこと言うようだけど、希望に満ちていると言われてることも、将来を見据えて考えれば、マイナスになることだってある。ニーチェが同情は悪であると言ったようにね」

 「それならそれでいいよ。私は自分の持っているものと向き合うって決心したんだから。この力が善であれ悪であろうとね。それに、世界に喧嘩を売るのは変わってないからね」

 「喧嘩?」

 「鹿島さんの行方を知るためなら、どんな組織でも相手にしてやるってこと」

 「そう。そこは利害が一致するね。私だって、彼女を使い捨てにした覚えはない。うちの組織は、まだ彼女を探す責任がある。そのために私もファイターになったんだし」

 「え?」

 「あれ? 知らなかった?」亜子はそう言って、マイナーな芸能雑誌をカバンから取り出した。パラパラとめくって、とあるページを指差した。


 『RSFの期待の星。ドイツでのアイドル経験もあり。黒き闘波を扱うファイターが来日参戦! 亜子・クリンゲル(22)』


 「本当にファイターになったんだ」

 「しかも、あのRSF。鹿島紅葉と同じね。貴方も本気で東南アジア海上都市に行くつもりだったんなら、そんなちっぽけな会社じゃなくて、もっと大きいとこを……」

 「ちっぽけ言わないでよ。私の親友の父親がプロデューサーしてるところなんだから」

 「ああ、コネね」

 「コネじゃないって! ちゃんと、オーディション受けたっての!」

 「それはごめんなさい。まあ、何よりね。お互いがんばりましょう。乾杯」亜子はコップを近づけた。

 「乾杯」そっけなく、詩鶴は自分のコップを当てた。

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