第1話 4章②

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 「マネージャー、紅露ちゃんと何、話してたの?」マネージャーが運転する帰りの車の中で、美月が尋ねた。

 「ああ。『よくも、うちの松野をぶっ倒してくれたな!』と、恨む節をね……」

 「真面目に答えてよ」

 「まあ、本当は秘密にしておきたいんだが……美月にも関係するかもしれないからなあ」

 「で? 何なの?」

 「彼女が詩鶴さんを気にしていたようだから……トップアイドルからご指導を頂戴したんだよ」

 「……で、アドバイスとか貰えたの?」

 「いや……あちらも忙しかったようでね。今日はもらえなかった」

 「トップアイドルのアドバイス……ねえ」美月は神妙な顔付きで言った。

 「彼女自身は、あくまでも上から目線になるのを嫌っていたようだけどね」マネージャーは、りぼんが意味深なことを言っていたことが気になった。

 「詩鶴さんは、色々と複雑な事情でファイターやってるだろ。この状況を打破できたらよかったんだが……」

 「たしか、あの鹿島紅葉と空手仲間で、彼女の失踪の手がかりを掴むために芸能界に入ったとか言ってたよね」美月は、詩鶴からアイドルをやっている理由を教えてもらったことがあった。初めて聞いたときは嘘のように思えた。もちろん、今でも完全に信じ切れなかった。


 鹿島紅葉は、去年新星のごとく登場したかと思うと、一年でトップアイドルに上り詰め、最強のファイターの座を獲得した。そして失踪した伝説のアイドルだ。そんな彼女と詩鶴が友人だったとは思わなかった。

 そのことが事実だったとしても、彼女の行方を調べるためだけに、アイドルを志す人がいるとは到底思えなかった。いくらなんでも非現実的すぎる。どう考えても失踪事件などは警察に任せたほうがいいだろう。詩鶴のように知的な女性が、現実味のない理由で自分の進路を決定してしまうことがありえるのだろうか。美月は、それがずっと疑問だった。


 「そう。鹿島紅葉が原因らしいね」マネージャーは言った。「詩鶴さんにとってアイドルは目的じゃなくて、手段なんだよ。だから、いまいちファイターとしても、ぱっとしないというか、社会人の意識が足りてないというか・・・・・・」

 「うわぁ。マネージャーって、結構きついこと言うね」温厚な彼から、厳しい言葉が出てきたことに、美月は驚いた。マネージャーも、相当、参っているようだと美月は察した。

 

 「まあね。でも大事な仲間なんだ」マネージャーはため息をついて、そう言った。「高校卒業したばかりだし、至らない部分があるのは当然だと思う。まあ、そんなのはどうとでもなる。でも、そこじゃないんだよな。あいつは、なんか放っておけないんだよ。プライドとか信条とかが強すぎて、うまく前に進めないっての? へんに真面目すぎて楽に生きられずに苦しんでる。そんな哲学者みたいになっちゃうのって、なんかわかるんだ。俺もそうだったし、皆、そうだと思う」

 美月は黙っていた。彼女も考え事をしていた。

 「誰にでも秘密にしておきたいこともあるよな」マネージャーが言った。美月は一見、単純で楽観的であるが、詩鶴と同じく、彼女も何かしら問題を抱えているのが垣間見れるのだ。彼女は詩鶴のことを気にかけているようで、どこか冷たい面もあるのだ。美月も、本気で詩鶴と関わり、助け合っていけば少しは上手くいくだろうに……マネージャーはそう思わずにはいられなかった。馴れ馴れしく振る舞いながらも、一定の距離を置こうとする美月に対しても、訝しく思っていたのだ。


 二人は事務所に到着した。入り口に入ると、豪快な音が聞こえてきた。詩鶴はまだトレーニングを続けているようだった。

 「ところで美月は、なんでアイドルやろうと思ったんだっけ?」

 「そりゃ、可愛い女の子を侍らせたくて……」

 「男性交際スキャンダルの心配がないアイドルで俺は嬉しいよ」マネージャーは皮肉を言った。

 「それと、女の子の夢だからね。このお仕事は」


 五光プロダクションのトップアイドルグループ『ホワイトアイ』のメンバーの一人に、ドラマの仕事が入った。先週受けたオーディションに受かったのだ。マネージャーは、それを知ってもあまり嬉しくなかった。仮に昨日、詩鶴がりぼんを負かしたのならば、そのような結果にはならなかっただろうから。

 昨日の『アイドルファイト』では、りぼんが勝利し、詩鶴が負けた。これで『詩鶴が八百長を受け入れた』と解釈されたのだろう。労いとして、関係者が手を回したのだ。詩鶴は本気で戦って負けたことを悔しがったが、八百長を受け入れて負けたと思われているとしたら、なおさら悔しくて仕方がないだろう。この先、このような業界で、彼女のプライドは保つのだろうか。いや、彼女だけでない。自分も平生で淡々と仕事をこなしていけるのだろうかと、マネージャーは思わずにはいられなかった。


 事務所には、プロデューサーのほかに社長がいた。社長は、しばらくプロデューサーと話したあと、事務所を出て行った。

 「社長、お疲れ様です」

 「ああ、お疲れ様」社長は恰幅のよい体を軽やかに翻し、さっと事務所から出て行った。その顔は、やけに上機嫌だった。

  

 「坂月くん。美月くんも、ちょっとこっちに」先ほどまで社長と話をしていたプロデューサーは、入ってきたばかりの二人を手招きした。

 「さきほど、社長と話してたんだが・・・・・・私はファイター専属のプロデューサーになるそうだよ」

 「以前からファイターは別の事務所に移転するという話は聞いてましたが、正式に決まったんですね」とマネージャーが言った。プロデューサーは嬉しそうに頷いた。

 「では『ホワイトアイ』や『ハックルベリー』ともオサラバですか?」と美月が訊ねた。あまり長い付き合いではないものの、事務所の先輩と別れるのは寂しいものだった。

 「ああ。担当は、ほかの人がやるそうだから引継ぎをしなければな。それに『レイン』のメンバーも寂しがってたぞ」

 「まあ、会いたければ、いつでも会えるでしょう」マネージャーが言った。

 「そして、私たちは、新しい事務所でファイター事業に専念できるわけだ」

 「それはそれは」マネージャーは言った。「プロデューサーの奥さん自慢話を聞ける時間が増えるわけですね」

 「それと、もうひとつ」プロデューサーは、マネージャーの皮肉を無視して続けた。「新たなファイターが移籍してくる予定だ」


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 「話があるんだ」「話があるから会議室まで来てくれ」「ちょっとお話しない?」

プロデューサーに、社長に、メンバーに……誰かに会えば話を持ちかけられ、引っ張りダコのりぼんが一人になれたのは、夜の10時だった。机の引き出しから便箋を取りだした。ふと便箋の下に隠れていた写真に目が留まった。彼女のことは、手紙には触れないでおこう。りぼんはそう思った。そして、彼女のことを思い出した。

  

 「先輩は……闘波を使うことに、罪悪感があるのですか?」

 「本当に、君は何でもお見通しなんだね。どうしてわかったんだ?」

 「いえ、ただ……昔から人の表情を見ただけで感情を読み取ることができるんですよ。何故か……」

 「羨ましい才能だね。闘波も、そのような才能だったら良かったんだけど」

 「闘波は才能の一つではないのですか?」

 「どうだろうね? 人によって素質の有無があるんだったら、生まれつきの才能とも言えるだろうけど……」

 「先輩は才能の塊ですね。空手が強いだけでなく、アイドルとしても人気があります。闘波の量も、半端じゃないレベルです。たしかに……この力を不気味に思う人はいますけど、私はこの力を利用することは悪くないって思います」

 「そうか。でも、私はまだ答えが出てないんだ。ある人にね、ありえないほどの力を秘めてるって言われて、頼まれる形で芸能界入りしたら、本当に一年でトップファイターになってしまった」

 「私をスカウトしたプロデューサーと一緒ですね。第六感で闘波の素質の有無がわかる人なんですよ」

 「そういう人もいるみたいだね。まあ、そんな形で、この強大な力を持ってしまったわけなんだけど……そのことで、私が失ったものもあったんだよ」

 「誰を思い浮かべたんですか?」

 「え?」

 「すいません。変なこと言いましたね。忘れてください。『何を失くされたのですか?』と言うべきでしたね」

 「いや、そうじゃなくて……ある人のことを思い出してたから、びっくりしたんだよ。……本当に心が読めるみたいだね。……あの人だったら、どんな答えを出してくれるんだろうかって思ったんだ。闘波のこととか、私がこの闘波を利用した格闘技で戦ってることとか……それに、私がやろうとしてることは本当に正しいのかって……」

 「私の知ってる人ですか?」

 「いや、知らないよ。都の空手大会で決勝で戦った相手だ。いいライバルだよ。空手一筋なんだけど、聡明で……それでちょっと影がある奴なんだ」

 「影ですか?」

 「なんか、心に何か隠してるっていうか……いつも勇ましいのに、どこか寂しい人。君なら、その人の表情から、それを読み取れるのかな??」

 「さあ、どうでしょうか。でも先輩は、その女性のことがとても気がかりのようですね」

 「ああ、また正解だ。彼女はたぶん、今の私がファイターになったこと……知ってると思うけど、どんな風に思ってるんだろうか。できるなら嫌いにはならないでほしいけど、無理な相談かな。松野詩鶴って名前なんだけどね」



 りぼんは一息入れて、手紙を書き出した。あのとき、鹿島先輩が言った『私がやろうとしてること』とはなんだったのか。それを訊きそびれたことは心残りだった。その一ヵ月後、彼女が東南アジア海上都市で行方不明となったことと関係があるのだろうか? 事務所は違えど、実力が互角だったファイターとして、アイドルとして尊敬できる人だった。

 そして松野さん。まさか、鹿島先輩が言っていた彼女がファイターになってるとは思わなかった。彼女の表情から読み取ったのは、深い病だった。彼女は何か強大なものに抗おうとしているようだった。しかし、抗おうにも、その一歩が踏み込めないようにも見えたのだ。陳腐な表現になるが『自分が最大の敵』というものだろうか。その苦悩の”色”は、私もかつて見たことがある。


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 翌々日、事務所のポストの中に、マネージャー宛の手紙があった。

ちらほらファンからのファンレターがくることがあったが、彼宛てに手紙が届くのは、これが初めてだった。


 「とうとう、マネージャーにもファンレターが届くほどになったか」と、プロデューサーが冗談を言った。マネージャーは、差出人が誰であるか知られる前に手紙をポケットにいれて席をはずした。手紙の送り主が紅露りぼんだと他の人に知られたら、ややこしいことになるに違いないと思ったからだ。レターカッターをもってくればよかった。心の中でそう思いながら、ゆっくりと、手で封を切った。便箋が8枚出てきた。なかなかの長文である。

 

 『拝啓 坂月 菊 様』


 『先日は、ご相談いただきありがとございました。』



 マネージャーは、相談と言われるほどのことをした覚えはないと思いながら、読み進めた。

 

 『先日、質問いただいたことを返答させていただきたいと思います。必要ならば、この手紙を松野さんに渡していただいても構いません。これが、何かの力になれば幸甚です。』


 マネージャーは思った。やはり、女子高生にしてはしっかりしている。いまどきの若者は――このフレーズは、何十年と使われ続けているが――常識がない、学がない等、揶揄されているが、それはマス・メディアの印象操作だと疑わずにいられなかった。テレビのバラエティ番組で、少し頭の弱い天然キャラを見せる彼女はそれに一躍買っていたが、あれも演技だったわけだ。

 

 『私は街中でスカウトを受けアイドルになりましたが、そのスカウトを承諾したのにも理由があります。私が松野さんのことを気にしている理由も、私が今まで芸能活動を続けている理由も、ある一人の親友が原因なのです。彼女と出会ったのは小学生のときでした。私は幼少期から・・・・・・』


 手紙を読み終えたマネージャーは一息をいれた。なんとも考えさせられる内容だった。そう思いながら手紙を封筒にしまうと、これからどうするべきか考えた。ドアの向こうが少し騒がしかった。詩鶴や美月が自分を待っているのだろうか。少し空けすぎたようだ。

 事務所の広間には来客用のソファがあるのだが、この位置はテレビを見るのに最適な場所だった。休憩中などは、アイドルたちがここに屯することが多い。ドアを開けると、詩鶴がテレビを見ていた。ニュースが放送されていた。テロップにはこう書いてあった。


 『大人気アイドルグループ解散か?』


 「……勝ち逃げされるなんて」と、詩鶴は憎しみを込めて呟いた。

 テレビでは、紅露りぼんがアイドルを辞めるのではないかと報道されていた。芸能事務所の社長は『まだなんともいえない。出演が決まっている番組をキャンセルすることはない』と言うだけだった。肝心の当人や、彼女のグループメンバーは何も答えていなかった。緘口令が敷かれているのだろう。

 

 「そうか・・・・・・」とマネージャーは、一人で納得した。あの日、彼女が忙しそうだった理由は、この騒動のためか。


 「詩鶴さん」マネージャーは勇気を出して詩鶴にアプローチをかけた。

 「何? マネージャー?」

 「詩鶴さんは、アイドルとか関係なしに、これだけは譲れない信条とかあるか?」

 「いったい何の話?」いきなり漠然とした話題を出され、詩鶴は応えることはできなかった。彼との会話は、いつも具体的な話で、夢やポリシーについて語り合うことはないのだ。

 「まあ、世間話程度に思ってくれよ」マネージャーは、切り出し方としては、不自然すぎたと反省したが、なんとか彼女に、この手紙を読ませたかったのだ。

 「まあ、無いことは無いけど……一応、武人としてのプライドはあるし……」詩鶴はそう言いながらも、少し心苦しかった。去年、空手も辞めたり、ただの殴りあいの試合に参加したりして、堕ちぶれたと自覚していたから「私は武人である」と言うことが憚られるのだ。マネージャーは、彼女の顔に表れた翳りを見逃さなかった。

 「そんなところだろうと思ったよ」マネージャーは、先ほどの封筒を見せ付けた。

 「何? それは?」

 マネージャーは、一昨日、偶然にもりぼんと出会ったこと、彼女が詩鶴のことを気に掛けていたこと等、委細を説明した。

 「俺は説明苦手だから、直接読んでほしい。たぶん、詩鶴さんの力になると思うから」詩鶴が、如何なる闇を抱えているか知らなかったが、りぼんの観察眼を信じて、一か八かの賭けに出た。ある程度の感受性を持つ人ならば、ここに書かれている『エピソード』を読んで、心を揺さぶられないことはないだろうと、彼は思った。


 詩鶴は、手紙を受け取らなかった。

 「マネージャー……私、あいつが嫌いなの知ってるよね? その上で、私にそれを読ませるっていうの?」侮蔑を込めた口調で、詩鶴がはき捨てた。

 「言っておくけど」マネージャーが、少しむきになって言った。「彼女が乗り気で詩鶴さんにアドバイスしたわけじゃない。俺が頼んで、俺宛てに書いてくれたんだ。彼女は上から目線になったことなんて一度もないよ。彼女は……」

 「どっちにしろ、気に入らないよ! あんな格闘技を舐めたやつ」詩鶴は声を荒げた。


 これも闘波とかいう、ふざけた力のせいだ。詩鶴は毒づいた。

毎日、厳しい訓練に励む格闘家を愚弄する闘波が腹立たしい。

 その闘波をこの世から無くすためには、私自身が闘波を使いこなす必要があるというのも腹立たしい。

 あんな女のアドバイスを有難がっているマネージャーも腹立たしい。


 彼女は、ただ運がよかったのだ。生まれながらにして、闘波の素質を持っていたから強かったのだ。10年以上、空手をやっている人間に勝るくらいに……世の中、どれだけ努力しても恵まれた人間の足元にも及ばないこともある。そのように過酷なのだ。

 信じてたのに……マネージャーならば、今の自分のような『アイドル畑のファイター』に負けた『格闘家畑のファイター』の気持ちを理解してくれると期待していたのに……過酷な世界を耐え忍んでいる自分を慮ってくれると思ったのに……しかし、彼の言葉に救いはなかった。


 「そんな態度じゃあ、いつまで経っても彼女には勝てないだろうな」

 詩鶴はマネージャーを睨みつけた。彼のにべもない意見に苛立った。それに加え、あまりにも、りぼんを高く評価しているのが気に食わなかった。

 マネージャーは一詩鶴の鋭い目に怯んだが、ここで負けてはならないと思った。

 「彼女は忙しい中、俺に手紙をくれた。それは担当している駆け出しアイドルである詩鶴さんの助けとなりたかったからだ!」

 「余計なお世話だと言っといて! マネージャーが、あんな奴をどう思おうと、私が彼女の真似をする必要はないんだし」

 「人気や強さの秘訣でも書いてあると思ったか!?」マネージャーは、これ以上言うと、口げんかになってしまいそうだと思い、心を落ち着かせた。無理に読ませようとするのはよくない。それじゃあ、マネージャーとして失格だろう。

 「詩鶴さんは……ファイターとして戦っている自分を、心苦しく思うことがあるはずだ」マネージャーは口調をやわらかくして、尋ねた。

 「は? 無いけど?」詩鶴は咄嗟に否定したが大嘘だった。心当たりしかなかった。自分は、そこらのアイドルとも格闘家とも違う目的で、リングやステージに立っている特殊な人間なのだから。

 「そうか? だって自分の生き方とか美徳とか、そういうものを持っているんだろ。だとしたら……」

 「マネージャー……私は、そんなに馬鹿じゃないから」と詩鶴は吐き捨てるように言った。「誰にでも当てはまることを言って、心を開かせようとするコールドリーディングは通用しないよ」

 「コールドリーディングのつもりはなかったんだけどな。まあ、彼女にはハッキリわかったそうだけどね」

 「何が?」

 「詩鶴さんが、いつも苦しんでいることに……」

 「苦しむ? 私が?」どうして、りぼんが、私の苦しみを察することができるのだろうか?


 「見当もつかない? じゃあ答え合わせ程度に読んでみたらどうだ? 見当違いだったら、紅露りぼんを馬鹿にすればいい」マネージャーは手紙を押し付けた。

 詩鶴は、押し付けられた手紙を手にした。このまま読まずに破いてしまいたかったが、一応、これはマネージャー宛ての手紙であるし、このまま彼女を否定し続けるのも、こちらが一方的に怖がっているようで癪だった。詩鶴は一人になりたいと言い、事務所の外に出て行った。

 

 外に出て、空気を吸えば気分が晴れるかと思ったが、そうでもなかった。つい意地を張って、マネージャーと険悪になったことに罪悪感も感じた。それにしても、いつも弱気な彼をここまで強情にさせた原因はなんだろうか。


 詩鶴は胸が痛んだ。さきほどのマネージャーの言葉を思い出したからだ。どうやら、私は苦しんでいるらしい。それは原因不明のダウナーな気分のことだろうか? 

 それにマネージャーは、『美徳』と言っていた。私が誇りにしていた美徳は、格闘家ということである。そのストイックさである。それも、揺らいでいるように感じた。


 ……詩鶴は過去を振り返ろうとしたが、身震いしてしまった。鹿島紅葉の顔が思い浮かび、その後、亜子・クリンゲルと初めて話したときのことを思い出した。そうしたとき、自分の存在意義を壊してしまうような恐怖を感じた。何で、こんなにも怖いくて震えてしまうんだろうか? たまに襲うこの気分。憂鬱。不安定な精神。昔から続く私の病。

 「……くくる。くくるに遭いたい」詩鶴は、呟いた。親友である彼女なら、この恐怖を和らげてくれるだろうから。しかしながら、ここには彼女はいない。

 手に持っていた手紙に視線が移った。紅露りぼんは得体の知れない存在だ。彼女ならば……この私の言葉にできない苦しみの正体がわかるのだろうか?

 恐る恐る、おもむろに、詩鶴は手紙を開いた。

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