第1話 1章
1
暗い地下室。防音設備のある、ほぼ正方形の広間だった。四方はフェンスで仕切られ、雑多にパイプイスが並べられていた。中央にはプロレスのリングが設置してあった。リングは、メンテナンスがなされていないことが一目瞭然であり、ここで行われるバトルは公式の団体が行うものではないことを物語っていた。そもそも、この試合の観客である以上、ここがどんな場所であるか知らない人はいなかった。
照明は天井にある安物のスポットライトだけで――そのうち二つも、ライトがついていなかった――真下のリングを照らしていた。他に光と呼べるものは、鈍い光を放つ緑の非常口表示だけだった。
ここにくる人間の顔ぶれは決まっていた。まず、賭博が好きで、違法と知っていても遊びたがる碌でなし。そして、女性同士によるキャッツファイトや悲鳴が好きな下種野郎。賞金目的に試合に参加する命知らず。自分の容姿を晒したくてたまらない自惚れ女。共通して言えるのは、誰も彼も褒められた人物ではないということだった。この地下室で行われているのは、スリリングなバトルと違法賭博なのだ。
ちょうど、二人の女性がリングに上がった。そのうち一人は黒いマスクを被っていた。このマスクの女性が望むものは賞金でも注目を浴びることでもなかった。彼女が求めていたのは、刺激のある戦いそのものだった。
ゴングが鳴った。リングに向かい合う二人の女性が身構えた。よれよれのボーダーを着たレフェリーは、息を呑んで火花を散らす二人を見つめた。一人は短髪の女性で、まだ年も若く女子高生のようだった。可愛らしい彼女は、この場には明らかに相応しくなかった。彼女は、見るからに戦いには不慣れな様子だった。レフェリーは彼女の顔を見るのは今日が始めてだった。彼だけでなく全ての観客がそうだった。それでも、この少女は2時間前の第一試合で、対戦相手をギブアップさせていたのだ。
一方、黒いマスクを被っていた女性は、顔はわからずとも『顔なじみ』だった。レフェリーは、いつもこの女性が不気味で仕方がなかった。マスクには何の柄も入っておらず、目と口に穴が開いているだけの質素なものであり、マスクに対する拘りは全く感じられなかった。マスクの穴から覗く目は猛禽を思わせる鋭さで、今にも敵を食い殺そうと襲い掛かってくるかのようだった。
体のラインから女性――それも、筋肉質でスタイルのいい――であることはわかるが、それにしても女性のマスクレスラーとは珍しいと誰もが思っていた。観客の多くは、その引き締まった素敵な身体の持ち主の顔を拝みたかった。観客たちは、どうして顔を隠してしまうのかと訝しがったり、ブサイクだから隠しているだけだろう。知らないほうがいいかもしれない。好みのビジュアルじゃなかったら微妙な気持ちになるかもしれない。……などと、好き勝手に適当な言葉を吐いていた。
まずマスクが動いた。左手を己の腰に当て、相手の腹にめがけて打ち込む。この試合は、リングこそプロレスのものだが、ルールは無いに等しいデスマッチだった。拳は反則ではないし、スリーカウントもなかった。いくつかの残虐行為が禁止なだけで、相手を戦闘不能にすれば勝利というシンプルなルールだ。
近距離からのパンチだったにも関わらず、相手はサッと左にかわすと、突き出た腕の手首を掴んだ。その状態で、自身の体をぐるっと一回転させマスクの手を捻る。すかさず肘打ちをしようとしたが、それよりも早くマスクは自身を前転させ、腕の捻りを正した。マスクは、掴まれた腕を振りほどくと、すかさず体勢を整えた。少女は、相手に休む暇を与えたくなくて、次の攻撃に移った。相手の顔に狙いを定めて、腰に重心を移動させた。右足でハイキックを放つ。少女の蹴りがマスクの横顔にヒットした。
一瞬、青白い光が、薄暗い会場を照らした。
マスクは、まるで漫画のように勢いよく吹っ飛んだ。比喩ではなく、常識では考えられないほどの勢いで吹っ飛んだのだ。物理法則から考えても、ありえないほどに吹っ飛んだ。マスクは、コーナーポストに背中をぶつけた。
観客席から、歓声が沸きあがった。「闘波だ!」「オーラだ!」と、観客が口々に叫んだ。
今日、一番の盛り上がりだった。
「とうは?」一体なんだというのだ? そんな疑問を頭に浮かべたのは、ハイキックをした張本人だった。彼女は信じられなかった。どうして自分の蹴りが、人間一人を、あれほど吹っ飛ばすことができたのか。大きなバランスボールでさえ、あそこまで吹っ飛ばないだろうに……
「まさか、こんなところに闘波使いがいたなんてね」と、さきほど吹き飛ばされたマスクが言った。かなり強い一撃を喰らったあとの言葉にしては、不自然な台詞だった。マスクの表情はわからなかったが、痛がっている素振りすらしなかった。
「あんた……アイドル活動っぽいことしてるでしょ?」
マスクの言葉に、少女は何も言わずに俯いた。この人は、どうして私が普段、地下アイドルやネットアイドルをやっていることを知っているんだろうか?
いや、それよりも、あの青い光だ。さっきのアレはいったい何なのだ? 少女は自分の体を見つめた。全身から、微かに青いモヤが、湯気のように湧き出ているではないか。もしかして……これが噂に聞く……
2
「まったく……あいつ、何やってんだろうね」と、長身の女性は苛立ちながら呟いた。桜が舞う4月、暖かな日差し。東京、台東区の美しい並木道を歩きながらも、彼女の気分が優れないのは、相棒が集合時刻になっても来ないからだった。
「美月!」と、若々しい端正な顔つきの青年が声をかけた。彼はグレイのスーツに赤いネクタイという服装で、この場には不釣合いだった。彼に「美月」と呼ばれた女性は振り向いた。
「マネージャー。あいつ、電話も繋がらなくて……」
「ああ。そのことなんだけどね。どうやら、この近くにいることは確かなんだけど……」
マネージャーと2、3言葉を交わすと、女性は艶やかな黒い髪を一つに束ねた。彼女がポニーテールにしたときは、激しく運動をする前触れだった。程よい筋肉のついた手足を伸ばし、そのあと手首、足首を念入りにほぐし、3回屈伸すると、目の前の雑多な群集を眺めた。
「マネージャー……ちょっと走ってくるよ」
「ああ。車で追いつくから。くれぐれも気をつけろよ」
美月は軽快なステップを踏むと、風を切って走り出した。素早くビル郡に入ると、軽やかに人ごみを避けながら走った。ビルとビルの間を颯爽に駆け抜け、どこかの会社の敷地内だろうと構わず駆け巡った。不法侵入したことに罪悪感は感じたが、止むを得なかった。どこぞの会社の駐車場に無断で入り込み、フェンスを跳躍して飛び越えた。クルりと一回転して綺麗に着地すると、勢いを落とさずに、ほぼ直角の壁をボルダリングの要領で駆け上り、あっという間に目的地に到着した。息は切れていたが、まだ楽なほうだった。趣味でやっているサバゲーに比べれば、これぐらいの運動は朝飯前だった。
赤信号を待ちながら、マネージャーはため息をついた。美月の体力に合わせるのはキツイものがある・・・・・・ましてや、もう一人なんか・・・・・・
3
「無意識のうちに目覚めちゃったんだ」とマスクの女性は呟いた。
「いったい、どういうことなの?」少女は尋ねた。試合中であるが、そんなことはどうでもよかった。不安でしかたなかったのだ。錯覚ではない。自分がハイキックをしたときに、青色のオーラが、その足に纏わりついていたのだ。そして、今も微かに青いモヤが自分を包んでいる。私の体は、いったいどうしてしまったのだろう?
少女は『闘波』という摩訶不思議な存在を思い出した。ここ数年で『忘れ去られたアジア神秘主義が蘇り、人類を一段階進化させる』という特集が、幾度も、テレビを中心にありとあらゆるメディアで取り沙汰された。それは、ありきたりなオカルトブームではなかった。国連機関、世界各国の政府が存在を認め、臨時の首脳会議が何度も開かれるほどの出来事だった。
それほどまでに、『闘波』の誕生は、人間の世界観を一変させてしまった。
闘波……当初は『不殺生』『アヒンサー』と呼ばれていたものであり、見た目はオーラのようだった。
闘波は、人体から発せられる”気”であることはわかっていたが、その実態は謎に包まれていた。正体が掴みきれていないために、テレビでは推測ばかりが述べられていた。特集と言うわりには実態がつかめていないお粗末な番組であると、少女は思ったものだ。あろうことか、その詳細不明な”気”を、現在、私が纏っているのだ。
「詳しく、教えてもいいけど……」マスクはそう言いながら、大げさにファイティングポーズを構えた。そして『周囲を御覧なさい』と目配せした。
「観客を退屈させるのはご法度!」いい終わらないうちに、右足のハイキック。少女はこれを両手で受け止めた。
「それに……時間がないから、もう終わらせてあげる」とマスクは言った。彼女が微笑んでいることは、マスク越しにもわかった。
マスクは重心を下げ、腰に力を入れた。そして右手に力を込めた。少女は目を疑った。その右手には、微かながら靄が漂っていたからだ。赤色の靄が、彼女の拳に纏わりついているのだ。
「ハッ!」と澄んだ声が会場に響いた。正拳突きが放たれた。少女は両手で拳を受け止めたが、体ごと大きく吹き飛んだ。
「なんて……威力……」少女はその場で跪いた。
そのとき、会場のドアが勢いよく開いた。
「警察だ!!」凛とした声が響いた。
観客の視線がリングの二人に釘付けになっているとき、ドアを開けた女性は、そう声を響かせた。声の主を確認する暇もなく、一目散に逃げ出したのはレフェリーだった。観客も蜘蛛の子を散らすように、大声で喚きながら反対側の出口から出て行った。
「……なんてね」と、満足げに女性は呟いた。
「げっ……美月!」と、マスクは呟いた。警察を名乗った女性は目元まで隠すほど帽子を深く被っていたが、マスクは、それが美月だとすぐにわかった。
「違法賭博なんとかの罪で・・・・・・えーっと、まあ、女性限定の如何わしい見世物やってる罪で、現行犯逮捕だぞ。変態マスクマン」
美月はマスクの女性に指をさした。
「違法! えー!? これって、違法だったんですか?」二人のやり取りを見ていた少女が驚いた。
マスクはため息をついた。まさか、違法賭博と知らずに試合に参加する人がいるとは……違法と知りながら参加する私もどうかと思うが。
「じゃあね。おマヌケさん」マスクは対戦相手だった少女に別れを告げた。「時間が来たから引き分け……いや、私の棄権、あんたの勝ちってことで」
マスクは、軽々とロープ飛び越え、リング外に出た。まだ残っている数人の観客を尻目に、偽警官の美月と共に会場の外に出て行った。残った人々は、何が起きたのかがわからず、呆然としていた。
一番、何が起きたのかわからなかったのは、リング上で膝をついている少女だった。
「全然・・・・・・痛くない」マスク女性の、重い正拳突きを受けた手首はじんじん痺れていた。しかし骨はひび割れていないし痛みを感じなかった。それに、どこか不思議な気分だった。心が落ち着いていたのだ。戦いを終えたあとの状態とは思えないほどに清清しい気分だった。少女は、いままで感じたことのない心境に戸惑いながら、動けずにいた。
「じゃあ、さっさと着替えてもらおうか……」会場を出ると、美月は相棒の手を引っ張った。「控え室はどこ? 荷物は?」
「ほんとごめん。試合が一時間ほど遅れててさ・・・・・・本来だったら今頃ゆうしょ・・・・・・」
「はいはーい。まず、マスクを取ろうね!」と、美月は相棒のマスクを強引に引っ張った。無機質なマスクが覆い隠していたのは、肩まで髪を伸ばしている美しい女性の顔だった。整えられた眉、鋭い釣り目はどこか威圧的だが、愛嬌ある口角の上がった口元は、大抵の男性の気を惹くには十分魅力的だった。
「うんうん。綺麗な顔のご登場だ」美月はそう言って、相棒を急かした。「マネージャーも、車でこっちに向かってるから、さっさと着替えちゃって!」
「わかったよ。美月。お願いだから、脱がそうとしないで・・・・・・」
4
「全く、社会人は時間厳守だろうが」マネージャーは、車を運転しながら小言を言った。「得意先に愛想つかされたら、会社全体に仕事が回らなくなるんだから。事務所の先輩たちのイメージダウンにもなるだろ」
「……本当にごめんなさい」
「それにしても、どうしてあんなところへ? 仕事前に怪我でもしたら大変だし、そうでなくても、あそこは違法の賭博所だろ?」
マネージャーは呆れていた。それこそ、遅刻どころの騒ぎじゃない。もし、バレてしまったならば、復帰不可能なレベルのイメージダウンになっていたのだ。
「まあ、私は、わからなくもないけど」横から美月がフォローになってないフォローを入れた。「戦闘狂の性ってやつね」
「いつもみたいに、魔が差しちゃったんだ……そういえば、どうして私が、あの場にいるってわかったの?」と、彼女は話をそらした。
「電話で同居人に聞いたんだよ」とマネージャーが答えた。「プロデューサーの娘さんなんだよね。プロデューサーのように礼儀正しい子だったよ」
「自慢の友人なんです」彼女は、にやけながら答えた。それは、先ほどまで怒られていた人間の態度としては、ふさわしくなかった。彼女は、それに気づいてまた反省した。たしかに二人が怒るのも無理はない。口の中を切って血を垂れ流した状態で仕事先に挨拶するとしたら、どんな風に思われるか……
二人に迷惑をかけてしまったことは、弁解の余地もなかった。しかし……やはり、この仕事はどうも真剣になれないのだ。こうしてストレスを発散しないと、気がおかしくなりそうなのだ。そもそも、私がこの業界に入った理由は……
「……そういえば、対戦相手……」
「どうしたの?」
「私の対戦相手……”闘波使い”だった」
それを聞いた二人の顔が険しくなった。
「闘波」……マネージャーが言った。「どこの芸能事務所か……いや、それはないか」
「まあ、バレたら逮捕されて、スキャンダルだからね。こんな奴でも、そこらへん考えてマスクレスラーになるぐらいだし……」美月がそう言いながら、視線を”こんな奴”に向けた。
「それが……あの子、闘波を知らなかったみたいで。私と戦っている最中に能力に目覚めたみたい……それで……」そこまで言って、彼女は頭を抱えた。自分も闘波を見せ付けてしまったことを思い出したのだ。
私はなんて馬鹿なんだ! 自分の正体がバレないように、普段から赤い闘波を抑え込んでいるというのに! ……顔を隠して闘波を隠さず。もし、その闘波が原因で、マスクマンの正体が自分だとバレたら、この仕事も続けることができない! いや、逮捕だってあり得るのだ!
彼女は、どうか自分だとバレないように祈った。まだ新人とはいえ、固定ファンも付いてきたところなのだ。
「そうなんだ」美月が言った。「……うちの事務所のファイターは、私とあんたの二人だけだし」そして、マネージャーに顔を寄せて「やっぱり少なすぎるよね」と囁いた。その言葉は催促を意味していた。
「まあ、ファイターは多いほうがいいからね」マネージャーは冷静に応えた。「とにかく、うちの事務所も、いつまでも細々とやってるわけにはいかないね……っと、そろそろ、到着。……約束の7分前、まあ許容範囲ってところか」
車から降りると、二人は深呼吸して自動ドアに向かった。二人とも戦いに行く面構えだったが、ドアを通り抜けるとその表情は急変した。
「はじめまして。五光プロの松野詩鶴です!」
「はい。お待ちしてました」依頼人は穏やかな表情で出迎えた。
「アイドル歴は短いですが、今日はイベントを精一杯、盛り上げていきたいと思います!」とてもあざとく、チャーミングな笑顔だった。プロのアイドルによる営業スマイルである。
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