第1話 『欺瞞』

第1話 プロローグ


 悲しい話ではあるが、能力や成果が純粋に評価される事例は少ない。特に日本においてはそれが顕著である。

 昨今の音楽業界を例にしてみよう。音楽の質を評価する人は少なくなった。話題性で評価する人のほうが圧倒的に多いのだ。大衆がそうなのだから、業界も商売のために、その話題性を重視することになる。音楽に限らず芸能界は、どこもそんな感じだった。

 実力派と呼ばれる俳優は以前よりも活躍の場が減った。演技力よりも外見が重視されており、同じく話題性ばかりが重視された。適役とは言えなくても、話題のタレントを起用したドラマのほうが視聴率が稼げるというのが業界の常識だった。所謂、『硬派』と呼ばれる俳優が出演した映画よりも、若い美青年タレントとアイドル主演の駄作のほうが興行成績がよかったことは、苦々しい現実だった。


 科学の世界は、純粋に実績が評価されているような印象を受けるが、そうとは限らない。当然のことながら、ある科学的発見が、どれほど偉大であるかを正しく評価できる人間は、その専門性が上がるにつれて少なくなる。大多数の人々、大衆に評価される基準は『どれだけ有益か?』の、ただ一点である。

 良い研究を行うためには資金が必要である。研究者は国から支援金を募る必要があった。そのために行わなければならないこと。それは、政府に対し『どれだけ科学を発展させられるか』ではなく『どれだけ国家・世界に貢献できるか』を説明することなのだ。それも素人にも理解できる説明によって……

 アメリカの哲学者トマス・ネーゲルは、論文『価値の分裂』において、価値と呼ばれるものは5つのカテゴリーに分けられると説いたが、そのうちの一つ『完全主義的な目的または価値』という内在的な価値は『功利性』という価値の前では、見劣りしてしまうのである。


 そもそも、そのような価値を計る役目を担う政治家たちは、どのように選ばれていたか? これもまた、政治能力が期待されたからではない。日本においては、国民による一人一票の投票によって代表が選ばれているが、選ばれた理由は、全てが全て『政治家としての能力があるから』と認められたからではなかった。多くの政治評論家が『人気投票』と揶揄したように、外面や知名度だけで選ばれた人物がいる。毎年のように、誰の目から見てもパフォーマンスだけが取り柄の無能な人間が出馬する。おろかにも、大衆は嬉々としてこの無能に一票を投じるのだ。去年は、元グラビアアイドルが選ばれたが、彼女は自分の所属する政党のマニフェストさえ知らなかった。


 文学などの作品においては、純粋な評価がなされているかと言えば、これもそうとは言い難かった。『文学の評価』そのものが、論争の的とされてきたのだから。作品の評価方法は様々である。”仕掛け”のみを批評するロシア・フォルマリズム、作品だけを純粋評価するニュークリティシズム、反対に、作品は受容する読者の意識に与えられるものとして、受容の歴史に焦点を合わせるものもある。

 資本主義社会においては、売上は一つの尺度であるが、売上が高ければ『作品』の質が高いというわけではない。売上というのは、消費者の教養や趣味に大きく左右されるからである。


 では、日本のアイドルはどうだろうか? これも他の芸能界の事情と同じである。実際に評価されているアイドルは、事務所が「売り出そう」と決めたから評価されているのだ。あるアイドルが絶世の美女であり、歌唱力に優れていたとしても、事務所が売り込もうとしなければ、評価される機会すら得られないシステムとなっている。


 『これが流行だ』マスメディアがそう謳えば、大衆はそれに群がる。「これは面白いものである」と、マスコミが騒げば、それは絶対に面白いものであり、それを面白いと思わなければ、「変わり者」「時代遅れ」のレッテルを貼られる。これは大衆の――特に日本人の――悪い性質であると多くの識者は論じていたが、このような指摘があっても、その傾向がなくなることはなく、むしろ年々悪化していった。スペインの社会学者オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』が世に出回って一世紀が過ぎたが、彼らはそこから何も学ばなかったというわけだ。

 しかし、考えてみるに、アイドルの価値を計る『評価基準』とは何だろうか? 格別に歌が上手いからといって、アイドルとして優れているわけではない。格別にルックスが優れているからといって、それだけでアイドルになれるわけではない。日本のアイドルは、むしろ意図的に発展途上をアピールすることもあるのだ。

 アイドルの評価基準とは、『民衆からの支持率』だと言えるだろう。優れたアイドルとは、民衆のレベルに合わせて、自分を愛してくれるように計らう・・・・・・たとえば、民衆が賢ければ、その賢い人たちから好かれるように振る舞い、民衆の知能が低ければ、その知能に見合った振る舞い方をする。民衆が愚鈍で嫉妬深く傲慢で好色であるのならば、彼らの惨めさを決して傷つけることなく、高飛車な態度を抑え、彼らの自尊心を満たしてあげ、たまに色気を出してやる・・・・・・ということだ。そのためにアイドルは、目敏く流行を感知し、市場のニーズに添うように己を変えなければならない。大衆の好みに合わせるカメレオンとなる。

 アピールはファンに向けるものだけではない。まず事務所を相手に・・・・・・そして、芸能関係者、マスメディアに注目されるようアピールするのだ。

 さらにアイドルは、ライバルとは鎬を削りあう。その駆け引きを行う器量と度胸も、アイドルの評価基準と言える。何かしらの能力が評価されるのではなく『世間から評価される』そのことが能力である職なのだろう。


 あらゆる評価方法がナンセンスなものとなっている世の中において、実績が直接評価に繋がるものがあった。

 それは競技である。50m走の成果は、選手の外見、周囲からの好感度、財力に左右されずに、そのまま記録される。野球などのスポーツも、人気の有無に関わらず、強い選手がチャンスを掴み、点数を稼ぐことができる。資金力のあるチームは、才能ある選手を寄せ集められる点で有利であるが、そのような例外を除けば・・・・・・いや、そのことを認めたとしても、強い方が勝利を手にするという事実は変わらない。


 松野詩鶴という少女がいた。彼女は、そのようなスポーツが大好きだった。やましいことひとつなく、純粋に成果が残せるスポーツが好きだった。そんな彼女が、最も愛したのは格闘技であった。心技体の全てをぶつけて勝敗が決まる、神聖なる儀式。格闘技こそが一番納得できる事柄であると、幼いころから感じていた。

 詩鶴は小学生のときに空手を学んだ。鍛錬を重ねて黒帯を手に入れたときなどは、自分の全てが認められていると感じ、このうえない幸福を味わった。

 そのような格闘技の世界において、今までの常識が通用しなくなるなどと、誰が予想しただろうか? 心技体だけでなく、あの忌々しい――詩鶴はそう感じていた――『アイドル性』が格闘技の勝敗を分かつ要素になるとは、このときの彼女には知る由もなかった。

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