第5章 ふたつ星の誕生(4)

 再び騒然となったのは想像にかたくないだろう。なにせあのかわいい犬は、巫女がたいそう気に入って昼も夜も常に側にいたのだから。そうでなくても、沢霧の村の伝説には、巫女と勇士と犬が村を救うと言われてきた。

 村人らは、勇士の病を取り払うためにミウのいけにえが必要なのだと理解した。だが、巫女を見ると地に倒れ込むように座り、呆然としている。

「あたし……今、一体何を言ったの……」

 精霊が降臨している間、記憶を失っていたわけではない。エナははっきりと自分の口から何を告げたかわかっていた。しかし、信じることができなかったのだ。

 こんなにも愛くるしい相棒を殺すだと? 気が狂ったのか。エナは蒼白になって自問した。

 こんな中、治癒対象である雪也はぼんやりと騒ぎを聞いていた。横になり、わずかに首を傾けてエナの方を見ると、激しく動揺しているのが感じられた。

(エナ……もう止めてくれよ。俺のために、君が苦しむことはないんだから。ミウは俺たちの仲間だ。今まで通り、かわいがってやろうよ……)

 朦朧とする頭でそう考えたが、言葉にすることはできなかった。それどころか、頭痛がひどくなり、一層苦しげな呻き声を上げてしまった。

「沢霧の巫女! どうした? 勇士があんなに苦しがってるではないか。早くこの悪霊憑きの獣を殺してしまえ」

 広場のちょっとした高台に佇み、成り行きを見ていたホオヅキが、声高らかに言った。

「む、無理よ!」

 エナは精一杯の力を込めて叫んだが、それは離れた場所にいる村人やホオヅキの耳には入らなかった。残酷な精霊の言葉に怖れ慄き、エナは知らずに涙を流していた。

「見たか、我が村人たちよ。沢霧の愚かな巫女は精霊の言葉を無視し、かわいそうな勇士を見捨てる気でいる。もはや沢霧の巫女は巫女ではない。誰か弓矢を!」

 ホオヅキは完全に主導権をエナから奪い、小型の弓矢を持ってこさせると、村人たちに押さえつけられているミウに向けて矢を放った。

「いやあっ!」

 ホオヅキの意図が実行されると同時に、エナの闇夜を切り裂く叫び声が響き渡った。

 時は止めることができないし、巻き戻すこともできない。矢はミウの白毛の混じった首筋に引き付けられるように刺さり、数回痙攣した後に、ミウはその命を天に返した。


 全てを浄化する力を持っているような強烈な光が、いつもと変わらないただの朝日だと気付いた時、同時に雪也は体の隅々までが軽くなっていることにも気が付いた。呼吸も穏やかに、思考もクリアに動いている。

「お目覚めですか? 気分はいかがです?」

 雪也にそっと声をかけたのは、世話をしてくれる村人の女性だった。

「あ、もう大丈夫です。ありがとう。……巫女は?」

「昨日の儀式が終わった後、倒れられてそのままです。あちらで寝ていますよ」

 あなたもしばらく安静にしてくださいという言葉を無視して、雪也は仕切りの向こう側に踏み込んだ。その時、さっと衣擦れの音が聞こえ、エナが掛けていた布を頭まで引き被ったのがわかった。

「エナ……顔を隠さないで見せて」

「あんたには会いたくない」

 案の定、エナは頑なに雪也を拒否して心を開くつもりはないらしい。

 エナは布にくるまったまま、ぼそっと呟いた。

「あたしは負けたのよ。病のあんたを救ったのは、ホオヅキだった。もうあたしは巫女ではいられない」

「何で?! 俺の病気なんて関係ないじゃないか! タイミング悪く疲れがたまって熱が出ただけだし、そもそも精霊なんて――」

 精霊なんていない、と言おうとして、雪也は口をつぐんだ。それは、精霊の力のおかげで世界が回り、命が動いていると信じている縄文時代の巫女に言ってはいけないことなのだ。

 ホオヅキの思惑通り、エナに十分な霊力が備わっていなかったことが公衆に明らかにされてしまった。そして、エナが実行できなかった精霊の言葉を受け継ぎ、勇士を正常に戻すことができたホオヅキは、今や誰よりも強い巫女として名誉を獲得した。雪也が病気になり、運よく数日間で回復したのは、単なる偶然に過ぎないかもしれない。しかし、そんなことはこの際、関係なかった。

「俺の具合はもう大丈夫。さっさと沢霧の村に戻ろう。そのくらい、キビタキは準備してくれるだろうし」

 雪也は涙を目に溜めているエナの手を握ろうとした。

「やめて……あたしに関わらないで。帰りたいなら一人で帰ればいいわ」

 エナは雪也の手から逃げるように、ふいと反対側に寝返りをうってしまう。

「どうしてそう意地を張ってるんだよ!」

 雪也が語気を強めると、エナは起き上がって言った。雪也を見つめる瞳は静かな絶望で満ちている。

「あんたこそ、何もわかってない。力のない巫女は、村長によって殺されるのよ!」

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