第5章 ふたつ星の誕生(3)
息遣いが荒く、苦しそうに顔を歪めている雪也は、エナに水を所望した。甕から器に掬って何杯も飲ませた。ただ事ではないと察したミウは遠巻きにうろうろと行ったり来たりしている。
自分の身を小川で清めてから、エナは世話人に手伝わせて雪也の衣を脱がせ、汗を丁寧に拭き取った。
(すごい引き締まった体なのね、この人。集落のどの男も敵わないわ)
日常的に狩りをしたり、道具なしで土木作業を行う縄文時代の男たちの骨と筋肉は、現代人よりもそうとう発達しているが、自衛隊の中でも最も過酷な訓練を経験する部隊の一員である雪也は格別だった。エナはその体にしばし見惚れていたが、すぐに我に返り、呪い言葉を唱え始めた。
その途中、戸口から人が入ってくる気配がした。ホオヅキが様子を見に来たのだった。ホオヅキは一応、邪魔をしないように無言で戸口の近くに座り、エナと雪也に視線を向けた。
「舞い降りよ、我が精霊」
エナはその言葉を繰り返しながら、いつも腰につけている太鼓を叩き、精霊を降臨させようと試みた。耳元近くで騒音が続き、当然、朦朧としている雪也は更に神経が高ぶり、不快感を増していった。それでも、エナは真剣に雪也の病と闘っているのだから、どんなに雪也が苦しがっていても止めることはしない。それどころか、悪霊に憑りつかれていると信じ、より一層太鼓の音を大きく強くした。
「エナ、その音、止めてくれ……」
「悪霊の言いなりだわ、ユキヤ。今、悪霊を出してあげるからね!」
エナは苦しみ出した雪也を見て、次の段階に進んだ。
精霊の血である赤い粉を上から振り掛け、掌で雪也の手足や胴体に塗りつけていく。呪い言葉を呟きながら、精霊像を心臓の辺りに立てて置き、しばらくするとエナはそれを炉に打ち付けて砕いた。
こうやって邪悪な力を精霊像に移して破壊することで、雪也の体を清浄化しようとしているのだ。
それからエナは、更に太鼓を叩き続け、寝ている雪也の周りをぐるぐると激しく回り始めた。雪也の息遣いと鼓動は速く、ほとんど気を失っていた。
「痛っ――」
意識が朦朧としている中、突然、雪也の腕に激しい痛みが襲ってきた。だが、覚醒することができない雪也は何が起きているのかわからず呻くばかりだ。実は、精霊に憑りつかれたエナが、雪也の腕に思い切り噛み付いたのだった。現代人が見れば、完全に気が狂っている行動だとしか思えないが、エナは必至に病人を治療していた。巫女が病人に痛みという刺激を与えて、悪しき精霊を追い出そうとしている。
「沢霧の巫女! 悪霊はそんなに強いのか? 追い出すだけの力が、お前にはないのでは?」
「黙れ、ホオヅキ! あんたがわざと悪霊を呼び寄せたんじゃないの?」
「まさか。それなら、やはり私がさっさとその勇士を回復させるべきだ。疑われてはかなわない」
口論で応戦しているエナの体力も相当に消耗しており、肩で息をしながら再び呪い言葉を呟く。ホオヅキは腕組みをして、形の整った美しい顔をわずかにしかめている。
(対である勇士の病も治せない巫女など、何の価値もないではないか。沢霧の村はとんだお荷物を背負っているものだ。いずれ、あの村も大鵥の集落の一部になる運命だな)
ホオヅキは内心、がっかりしていた。エナの代わりにキビタキに差し出された日から、ずっとエナを敵視し、強力な巫女だという噂を信じて対抗心を燃やし続けてきたが、エナは弱くて脆い最低の巫女ではないか。
「どうですか、客人の様子は? 治りそうですか?」
とうとう、キビタキが村の男たちを引き連れてエナの仮宿にやってきた。ホオヅキが短く状況を説明すると、キビタキは男たちに何かを指示した。
「ちょっと、病人をどうするつもり?!」
「広場の祭祀場に運ばせます。この仮宿より相応しいでしょう? 火も起こしてありますよ」
エナが承諾する前に、男たちは四人がかりで雪也を担いで出ていってしまった。
治療対象がいなければどうにもならないので、エナは仕方なく太鼓を抱えて祭祀場に向かった。精霊の血がばら撒かれている祭祀場は、焚火の明かりを受けて燃えているように見える。
キビタキを始めとする村人たちの視線を一身に受けながら、エナは精霊を降臨させようと試みた。悪霊に憑りつかれ、今にも死にそうに苦しんでいる雪也が視界に入るとなかなか集中できないので、焚火の方を向いて呪い言葉を唱えた。
体の中が沸騰するような熱さを覚えると同時に、意識が空気と同化してしまったような感覚に襲われる。一体、自分が今、どこで何をしているのかも定かではなくなり、自分のものではない誰かの声が体中を満たす。
「悪霊がそこにいる……。仮の姿をして立っている! お前たちには見えないのか、悪霊が!」
エナの口から、老婆のようにしわがれた声が発せられた。エナは言いながら、悪霊を追いかけるように、ふらふらと祭祀場を歩き回った。そして、何かを見つけると叫んだ。
「いた、悪霊が! あの獣だ! 殺せ!」
その場がざわめきで包まれた。沢霧の巫女の指さす先に、ちょこんと座っていたのは、ミウだった。
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