第4章 対決へ(1)
森林に分け入ると、どこからか柔らかい花の良い香りが漂ってくる。肌を刺すような空気もどこかへ行ってしまい、爽やかなそよ風が沢霧の村を包む。小川に沿って広がる小ぶりの薄紫の花や黄色の花は、村人たちの気分を朗らかにしている。
村の女子供はそろって周辺の山で、食用の若草や木の芽を摘みに行き、男たちは近隣の交易場に出かけて浜辺で採れたアサリやハマグリを籠いっぱいに持ち帰ってくるというのが、日々の光景だ。海産物は塩気があるので、そのまま土器で火を通すととても美味しいスープになるし、時々狩りで仕留めた動物の肉を焼いたり燻製にしたり、食生活に困ることはない。ただ、現代人の雪也からするとどうしても味付けが偏っていて、いつも同じようなメニューになってしまうのが、不満と言えば不満だった。
黒い泉が見つかってから、エナは根気よく精霊と交信をしようと祈っていた。そして、雪也と一緒に黒い泉を見に行った時、いつもと違う低い声がエナの口から漏れた。
「沢霧の村の女だけが、この水を飲むことができる。村に女が生まれたらこの水を飲まなければならない。余所から来た女も飲まなければならない」
御告げはすぐに村長に報告し、その日から、黒い泉の水は村の広場に持ち込まれて、女たちの喉を潤すようになった。
「男は飲んじゃいけないとは精霊は言ってなかったわ。だから、ユキヤも飲むといいのよ」
巫女に言われて雪也は泉の水を飲んだが、甘くて美味しいものだった。
この時代には、集落同士の武力衝突がなく、厳しい寒さの冬でなければ比較的のんびりと平和に毎日が過ぎていく。しかし、雪也はこのままエナの側にいるべきかどうか、密かに疑問を抱き、悩んでいた。エナが巫女であることに苦しんでいることは理解できるし、初めて会った彼女を助けた時から今まで、バディとして行動を共にしてきたことで、沢霧の村に愛着も湧いてきたことは否定できない。
そうは言うものの、やはり、現代に帰りたかった。毎朝、目覚めたらそこが百里基地の官舎の自分の散らかった部屋であったらと、心の底から願っているのだ。
もう救難隊では自分は「事故」扱いで処理されてしまったのだろうか。多大な迷惑をかけてしまっているのではないだろうか。こんな悪夢を見ていたんだよと、飛瑛と酒を飲みながら笑い飛ばしてしまいたい――。飛瑛は今頃どうしているだろう。もし一緒に宮畑遺跡に来ていたら、飛瑛もここに降り立ったのか。
考えるほど、二十一世紀が恋しくなる。すっかりエナは雪也を信頼するようになったようだが、雪也は近いうちにそっと沢霧の村を出ていこうと決めた。最初にエナと遭遇した場所に戻れば、またあの宮畑遺跡の竪穴住居が現れて、現代に帰れるに違いない。白い光の正体のことも、多数の焼失住居の在り処も、もはや雪也にとってはどうでもいいことに思われた。
満月が美しい夜、のどかな一日の終わりを振り返りつつまどろんでいると、静寂の中に人の足音が聞こえた。巫女の家の方だ。変だなと思い、雪也は起き上がって自分の竪穴住居の戸口から様子を窺うことにした。
巫女の家は地上一メートルほどの高床住居で、戸口の前に三段の階段がある。そこに腰を下し片足を段にかけている男がいた。影がかかって人物の特定ができないが、その男は穏やかな深い声で中に話しかけた。
「エナ、話を聞いてくれ。私の兄は前代の巫女の夫だった。沢霧の村長と巫女は夫婦にならなければならない。そういう掟があるのは、最初に告げた通りだ。君がうんと言わない理由を教えてほしい」
声からも、話の内容からも、巫女を訪れてきたのはカケルだとわかった雪也は何か見てはいけないものを見てしまったと、動揺した。しかし、成り行きを見守らないわけにはいかない。
「……あんたは掟だからあたしを妻にするのね」
家の中から不愉快そうなエナの返事が漏れ聞こえた。
「いや、私はそんな掟がなくても君を妻にしたいと思っているよ。巫女と勇士が心も肉体も繋がっていることは、百も承知だ。私の兄もそうだった。巫女のサザメは兄の妻であり、勇士の妻でもあったんだから」
「帰って。……あたしは清いままよ」
「え……?」
「ユキヤは今まであたしに力をくれたことはなかった。あの人、狩りも上達したし、真っ先にコウミを助けに行って立派だと思う。でも、ダメなの。アキがちゃんと勇士の役目を説明してるはずなのに、一度もあたしを抱こうとしないのよ。でも、いいわ。あたしは一人の力で強い巫女になれるし、勇士なんてそもそも必要ない」
だから、あんたも帰って、とエナは言った。
自分の鼓動が高速で波打っているのを雪也は感じた。アキが言っていた巫女と勇士の強い絆というのは、一蓮托生のバディという意味なんかではなく、男女としての心身の繋がりのことだったのだ。
けれども、エナは村長も勇士も必要ないと言い放った。
(だよな……俺がこんな時代にいても、仕方ないんだ)
帰ろう、現代へ。エナが助けを拒否したことで、雪也の中でなんとなく気持ちの整理がついた。帰る方法なんて皆目わからないけれど、沢霧の村に留まっていても何も変わりはしない。そのうち、こっそりと出ていこう。
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