第3章 黒い泉の謎(6)

 駆け付けた男たちの助けでコウミが引き上げられ、全てが明らかになると、集まった皆が慟哭した。春の暖かな日差しが、コウミにとっては凶器となってしまった。

 コウミの母親は、悲しみと怒りを交互に募らせ、埋葬場所から動こうとしなかった。村長のカケルが宥め、やっとその場を離れたが、母親は大声で巫女を詰り始めた。

「あんたは悪霊憑きの巫女だ! 御告げで子供が危険な目に遭うかもしれないって、わかってたじゃないか! どうして、止められなかったのさ!」

 その時のエナは死者のように真っ白で無反応の表情だった。村を救うために遣わされた強力な巫女が、大事な大事な幼い命を見捨てた――。母親だけでなく、村の誰もがそう思ってもおかしくはない。

「コウミが危険に晒されることを、精霊はあんたに囁いたはずだよ!」

「黙れ」

 地を這うような低い声で、エナは吐き捨てると、一瞬だけ雪也に縋るような視線を向けて墓地を去って行った。

 それからエナは二日間、巫女の家に引き籠り、誰とも会おうとしなかった。食事を運んでも一切手を付けた様子はない。

 巫女はこうして引き籠っていたが、秋の終わり頃に、精霊の御告げとしてエナが言い放った黒い泉がコウミの転落事故がきっかけで発見された。コウミが落ちた場所から水が湧き出ているのを見た雪也が、積もった雪をかき分けてどかしてみたところ、まさしく黒い泉と言うほかない小さな泉が現れたのだ。

 その泉は、不思議なことに、直径三十センチメートルほどの艶やかな真っ黒い石の塊の中から湧き出していた。

「これはどうすればいいの?」

 雪也がカケルに尋ねると、泉の水を汲んで巫女に捧げようと言う。

 ところが、当の本人は三日目の朝になっても面会を拒否し、食事も放置している。さすがにこの状況はまずいと思った雪也は「入るよ」と一応声を掛けてから、巫女の家の戸をくぐった。

 雪也が目にした光景は異様そのものだった。

 祭壇の前に胡坐をかいて座っているのは毎日見るエナの姿だったが、今、エナは美しく複雑な幾何学文様が描かれた衣を身につけず、結い上げて鳥の羽で飾っていた髪を下している。長い髪は腰まで伸び、その腰は意外にくびれて華奢だった。

 全裸の巫女は、憑りつかれたようにまじない言葉を口にしている。どういうわけか、左腕から血が滴り落ちて、白い床に斑の染みを作っていた。

「エナ! 何をバカなことをしてるんだよ!」

 エナの右手には鋭く砥がれた黒曜石のナイフが握られ、再び左腕を突こうとしているところだった。

 雪也はエナの背中から羽交い絞めにするように、細い両腕を上から掴んで引き離した。エナの背中も肩も、弾力のある膨らみも全てが冷たく、黒曜石と一体になってしまったのかと雪也は驚いた。

「早く服を着て。それから、血を洗い落とさないと。どうしてこんなことをしたんだ、エナ」

「あたしの力が、足りなかったから……。巫女は痛みに耐えることで力を得ることができるの」

「そんなわけ、ないだろう?! 君の体を傷つけても、コウミは戻らないんだよ」

 まだぼうっと動かずに座っているエナの傷の処置を施すと、強制的に服を重ねて着せた。食べ物も無理やり口に押し込むようにして取らせる。黒い泉の水も、小さな土器に移して飲ませた。

 勇士の役目は巫女の世話と護衛。

 こんな狂った女の異常な行動に振り回されるために、縄文時代に飛ばされたのかと思うと、どうにもならない怒りが込み上げてくる。

「……狂ってるよ」

 とうとう雪也はエナに向かってつぶやいた。言うべきではないことだと思ったが、どうしても口にせざるを得なかったのだ。反発して憤るかと思ったが、エナは「知ってる」と静かに答えた。

「あたしがおかしいのは、自分がよく知ってるわ。だから、巫女に選ばれたんだってことも、よくわかってる。昔からそうだった。小滝の村でもあたしのことは巫女だから大切に接してくれてたけど、心の中では……きっと、狂ってるって思ってただろうし、怖れてたはずよ。でも、精霊から選ばれた以上、あたしが巫女を辞めることはできないの。体を傷つけることの痛みもそうだけど、毎回、心が苦しくなっても、どうしようもないの」

 温かい食事を口にして少し落ち着いたエナは、床に両膝を立てて座り、まん丸くなった。自分が狂っていることを明らかにして、すっきりしたような顔つきになったが、その瞳は雪也を見ようとはしなかった。エナは目の前に置かれた大き目の、大胆な模様が繊細な縄で作り出された土器の縁をそっと指先でなぞっている。

 思いがけず苦しい心のうちを告白されて、雪也は言葉を継げなかった。エナは何もかもわかっているのだ。巫女というある種の犠牲者がいることで、集落の秩序が保たれ、それが自分に課された運命だと。

「……親からもらった体を傷つけるのは止めなよ。勇士の役目が巫女を守ることっていうんなら、俺はエナが自分を傷つけるのも阻止しなきゃいけないよね」

 初めてそんなことを言われたエナは、どう答えてよいかわからず、俯いたままだった。

 雪也は器から黒い泉の水を少し汲んで、もう一度エナに手渡した。

「これ、精霊が言ってた黒い泉の水なんだよ。コウミが落ちた場所から湧き出てた。カケルが巫女に捧げた方がいいって」

「そう。また精霊の声を聞かないと……。コウミが犠牲になって、黒い泉の場所がわかったのね」

 エナは泉の水をまた一口飲むと、祈りを捧げるからと言って身繕いを始めた。いつもの巫女の姿に整え終わると、雪也は巫女の家から出ていき、入れ違いに、開いた戸口からミウが尻尾を振りながらエナの元へ小走りに入っていった。

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