第3章 黒い泉の謎(5)

 沢霧の村の子供たちは、十一人いる。赤ん坊から十歳前後の子供たちだ。エナがカケルに報告すると、すぐに祈りの儀式を行うことになった。広場の石柱の前に大き目の土器を用意し、その中に屠ったばかりの野ウサギを入れ、巫女は天に向かって精霊が子供たちを守ってくれるようにと歌った。土器は広場に埋められた。

 エナの祈りのお蔭か、結局、沢霧の村の子供に危険が及ぶようなことはなく、その上、雪解けの季節になり、ミヅキは無事に男の子を出産した。

「やるじゃないか、エナ! 巫女として何も心配いらないよ!」

 凍てつく冬が終わり、沢霧の村にも緩んだ風と春を告げる生き物たちが現れるようになった。雪也はエナが沢霧の巫女の役目を十分に果たしていることに安堵し、バディを讃えた。

「まぁね、精霊に選ばれたんだもの。これくらい当然よ」

 今日はこういう、つんと澄ました顔も輝きに満ちて美しいと思えた。

 エナが時々見せる奇行は、多かれ少なかれどの巫女にも見られるもので、精霊の仕業だという。相変わらず夜中にふらふらと夢遊病者のように出かけて行ったり、墓に身を投げ出して誰かと会話をしたり、森の梢に佇んで瞑想をしたり、勇士たる雪也は毎回どきっとしてしまうのだが、その時間が終わるまではどうしようもない。

 春はもうすぐそこにやってきている。沢霧の巫女の力は偉大だという噂は、近隣の集落にも伝わっているらしく、阿武隈川沿岸の交易場ではその話で持ちきりだ。

 だが、事件は忘れた頃に起きるものだ。

 村の男たちと木材を切り出しに行き、一人、昼過ぎに村へ戻ると、エナや女たちが駆け寄ってきた。見るからに青ざめた顔をしている。

「どうしたの、エナ?」

「コウミが、コウミが崖から落ちたの……!」

 それは沢霧の村の六歳になる男の子の名だった。母親の手に負えないくらい活発で、最近では父親に従って狩りに出かけるのを嬉しがっていた。

 事情を聞き出すと、コウミは他の子供たちと広場で遊んでおり、その近くには親たちもいた。だが、しばらく目を離していた間に、コウミたちの姿がいなくなっていた。そして、一緒にいた子供たちが泣きじゃくりながら、コウミがクルミの森の崖から足を滑らせて転落したと報告に来たのだった。

 クルミの森は集落に一番近く、村人たちにとっては日常的に出入りする場所だ。しかし、春の訪れ、雪解けとともに地面がぬかるんでいて、少し急な斜面は危険な状態だった。そこへ、元気いっぱいのコウミが走り回り、緩んでいた地面ごと転落してしまったというわけだ。

「おおい、コウミ! 大丈夫か?!」

 現場に駆け付けた雪也が見たのは、三、四メートルも落下して蹲った子供の姿だった。雪が積もっているが、ふかふかとは限らず、もし岩や尖った木が下に隠れていたら悲惨なことになっている。コウミは呼び掛けても反応しない。

 山岳地帯の遭難は、現代であっても救助が困難だ。しかし、遭難者を助ける前から諦めるわけにはいかない。

 雪也は女たちにありったけの縄やクッションになるような毛皮の敷物を持ち寄らせ、皆で分担して現場に運ばせた。木漏れ日が溶けかかっている積雪の表面を撫で、細かい光が散っていく中、雪也は付近で一番太い木の幹に数本の縄をかけ始めた。

「一人で行くの?」

 雪也の腰周りに毛皮の敷物を括り付ける役目を買って出たキララが不安そうに訊いた。木材を切りに行った男たちも知らせを聞いて、もう少しでここにやってくる。

「皆が来てからコウミを引き上げるよ。でも、その前にコウミが無事かどうか確認して、引き上げる準備をしないと。じゃあ、俺、行くから」

 命綱を付けた雪也は、ほとんど垂直の崖に両足をつけ、少しずつ反動をつけながら降りて行った。このくらいの高さであれば、救難隊の訓練よりも楽なものだ。ただ、現代のしかりした命綱ではないので、余計に慎重になることは忘れない。

 そっと崖の下の雪の上に降り立つと、周囲の安全を確認する。ミイラ取りがミイラになることだけは避けなければ。

「コウミ! おい、大丈夫か」

 耳元で呼びかけたが、少年は反応しない。体の下に手を差し入れてみて、雪也は愕然とした。コウミの背中から大量に流血があり、雪也の掌が生温かい鮮血に染まってしまったのだ。そして、コウミの頭付近からは滔々と湧き水が溢れており、乱れた柔らかな頭髪を濡らしていた。

 崖の上で誰かが短く叫んだ声が聞こえた。雪也の掌を見て、コウミに何が起きているのかはっきりとわかったのだろう。

 恐れていたとおり、運悪く、コウミが落下した場所は岩場だった。心肺蘇生を行おうにも不安定な地面ではできないし、そもそも大量出血と頭蓋骨や背骨の骨折で、コウミの小さな命は果てていた。

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