五反田のラブホテルはもはや固有名詞である。

 上京初日。

 夜。


 はぁっ、はぁっ、はぁっ。


 右手に流れるは、五反田のラブホテル。

 左手に……げほっ、ごほっ。


 ぜぇ……ぜぇ。


 俺は柄にもなく、走っていた。

 日々のたゆまぬ喫煙の成果もあって、汗だくだく呼吸ぜぇぜぇしながら、必死に脚を動かす。

 やたらめったらに角を折れつつ、どこぞに向かって逃げおおす。

 すれ違う老若男女バラバラつがいのカップルが、お目目パチクリさせて飛ばしてくる視線のレーザービームに応える余裕なんてなく。

 縁もゆかりもない土地で、いきなり俺は追われていた。


 事の発端の、事の発端はこんな感じ――


「ここが、歌舞伎町か……」


 半日に及ぶ夜行バスでの長旅で凝り固まった身体を引きずりつつ、初めて降り立った日本最大乗降客数を誇るダンジョンをなんとか這い出て、そこから数十分ダンジョン周辺をさまよってやっと目当てのアーチ型看板を発見して、上京初日の心細さが自然と独り言を誘発する。


 看板を見上げると、ビルの合間から午前中の陽射しが寝不足の眼を刺す。


 想像していたよりも狭く人通りが少ない。

 先程見かけたゴジラとドンキホーテの通りの方が、行き交う人も多く道幅も広かったので、なんとなく拍子抜けする。

「……とりあえず飯でも食うか」

 胸に去来する色んな感情を処理しきれなくなって、俺は腹の状態だけに注目した。

 幸いにも、すぐ隣の通りの角にM印のハンバーガー屋を発見したのでトボトボとカウンター前の列に並ぶ。

 列に並んでいる人々は、みな一様に疲れが滲んだ顔をしていた。

 そんな顔をぼんやりと見ていると、ふいに龍さんの言葉を思い出した。

「男はトチ狂ってでも、ラリってでも、自信たっぷりじゃなきゃいけねぇ。優しいやつが損をするように、世の中はできてんだ。そういう奴らは死ぬか、引きこもるかぐらいしか、選択肢がねぇ。

 だから、生きるためにはとにかく、優しさよりもまず、自信を持て。

 DQNだろうが、人見知りだろうが、根拠がなくてもまず自信。優しさは後から添えるだけでいい」


 2階のカウンター席に座り自動操縦でハンバーガーとポテトを口に運びながら、哀しい哲学だと思う。

 でも、最初から上品な哲学をこさえられる程、氏も育ちも恵まれてねぇんだよ、とも思う。


 龍さんは、小学校のときよく遊んだ3個上の先輩だった。

 高校に入って半年、不満だらけの高校生活を過ごしていた俺は、キャバクラの店長をしていた龍さんと偶然再会し、その店でバイトを始めることになった。

 俺が通っている高校を2年生の時に辞めていた龍さんは、2年ほどで店長になり、成人するタイミングを目処に独立するつもりだった。

 半年のバイトを経て、高校2年生になるタイミングで、俺も龍さんと同じように高校を辞めた。

 開店資金と関係各所とのコネの準備も佳境に入り、いよいよ独立間近。

 俺は龍さんの店の店長として雇われることが決まっていて、ちょうど出来た暇な時間と託された軍資金を利用して他店の様子を見てくるように言われた。

 そんなわけで、東京視察という名の慰安旅行に一人で来ていたのだった。


 ハンバーガーを平らげてしばらくコーヒーを啜っていると、頭に血とカフェインが巡ってシャキッとする。

 辺りをぶらついてみて、午前中の歌舞伎町にカラスとホームレス以外に見るものはないと理解し、山手線で手当たり次第に聞いたことのある場所を回ってみようという気になった。


 渋谷、池袋、上野、秋葉原、東京。


 品川まで来てカフェで休憩したタイミングで、今日泊まるところを探してないことに気づく。

 一週間の滞在期間と視察にかかる費用としてはありあまる程の軍資金を渡されていたけど、出来るだけ節約してここぞに使うぞ! と決めていたため、移動も夜行バスを選んだし、泊まるところもネカフェか漫喫にするつもりだった。


 が。


 異様に苦くて熱いコーヒーをとりあえず一口だけすすった俺は、徐々に混み始める喫煙席の四人席にひとりで腰掛け、悩んでいた。

 悶々と、悩んでいた。

 一応、足を組んでみたり気怠げに煙を細く吐き出したりしてみせてはいたが。

 どれだけ頭から信号を送っても、下半身に集まった血潮が全身に散っていく様子はなく。

 眉間に皺を寄せて、新調したばかりのスマホを睨み付けるようにして。

 風俗情報サイトを閲覧していた。


 ライクアモンキー。


 片田舎で過ごしていた俺。基本的に田園の緑と空の青を見ながら過ごしていた俺。

 田舎育ちの十代の少年にとって、ひとりで東京に来た心細さと、どの駅でも誘惑してくる煌びやかな看板、怪しい雰囲気の裏路地、刺激的な謳い文句は巧妙に連携をとっているように感じられ。


 人肌恋しさとは名ばかりの、性欲という名の絶対君主の支配力に、俺は為す術無く囚われていた。

 言うことを聞かない息子を持つ親父の気持ちが分かるような分からないような。

 かすかに取り戻した理性で頭の容量をわずかにこじ開け、残り少なくなったスマホの充電に気付いた俺は、天啓のように脳内に浮かんだ五反田のラブホテルというキーワードによって、危機一髪ビジネスホテルを予約することに成功した。


 そんなわけで。


 その後はホテルで一人、先程の続きにしゃれ込むことにした。

 コンビニで適当に買い漁った食料を気もそぞろにつまみながら。

 ベッドの上でめくるめくネットサーフィンに勤しんだ。

 悶々と悩み抜いた末に、ひとつのお店を選び、電話をかける。

 ヘルスをデリバリーするために。

 コール音が数回続く。この胸の高鳴り。そうこれは。


 ディスイズプライスレス。


 これまたすっかりとっちらかってしまっていた頭のスペースをなんとか掻き分けて、予算を考えた結果、指名はしなかった。

 電話が繋がるまでの時間もそうだが、嬢が来るまでのこの時間も心臓がペースを落とすことなく死へとひた走るようにひたすら収縮する。

「落ち着け、落ち着け」

 言い聞かせるように、ひとりホテルの部屋で歩き回りながら唱えると、ふいに龍さんの言葉がフラッシュバックする。

「なんで人間の男は、セックスした後死ねないんだろうな」

 ……少しだけ、落ち着く。

 ギンギンだったモノが、プルプルくらいになる。

 ベッドに仰向けになり、水を飲む。

 気付くとぼーっとしていて、脱ぎ散らかしたままの靴下でも片付けようかなどと思って上半身を起こすと――


 ダンダンダンダンダン!!


 ドアがけたたましくノックされて、一気に覚醒する。


 なんじゃ?

 そんなオプションは頼んでない筈だが?


 怪訝に思いつつも、流れというか、違和感を感じているはずなのに、とりあえずドアを開けてしまう。

 そう、基本的にバカなのである。だから無鉄砲に高校を辞めて、キャバクラで働き始めたりするのである。


 ドアを開けると、トリプルAクラスの絶世の美女が息を切らして立っていた。

 額にはうっすらと汗が浮かんでいて、長くウェーブがかかった豊かなパツキンが乱れていて、前髪の間から俺を見る目が、信じられないくらいに扇情的だった。

 東京マジパネェ!

 心の中で絶叫していると、その美女は俺を突き飛ばすように部屋に入ってきて、慌ただしくドアを閉めた。

 あまりの勢いに、為す術無く尻餅をついてしまった俺は思う。


 ……いやいや。

 全然これっぽっちもやぶさかではないよ? ないんだけどさ。

 ……そんなオプションは頼んでないんだが? というより電話口で詳細なシチュエーションを指定した覚えはないのだが?

 無鉄砲な俺の鉄砲が熱を帯びるのを感じつつも必死でそれを無視して、あとで追加料金を取られることを気にする。

 雰囲気台無しだとは思うが、一応こういうのは事前に確認しておかねば、と思い声をかけようと美女を見ると、ハァ、ハァ、と喘ぎながらドアの魚眼レンズを覗きこんでいる。

 絵に描いたような峰不二子とは彼女のことだろうか。いや、峰不二子は普通絵に描かれてるんだけど。

 身長170cmオーバーのボンキュッボンで、ぴっちりした黒のライダースーツ? のような服を着ていた。あと、そそり立つような匂いとしか表現できない気体を辺りに振り撒いていた。


 ??


 実は、これが風俗初体験だったりするので、風俗の基準というか、スタンダードは知らないんだが。あと基準とスタンダード同じ意味なんだが。

 頭が混乱して、すっかり息子もしょんぼりしてしまって、自分で自分に突っ込みをいれ始めたりする。

 ライダースーツで突入してくるのが、東京の風俗の常識なのだろうか?

 あと、指名無しのフリーでこんなんが出てくるもんなのか?

 単純に俺がラッキーなのか、それとも……


 こちらに突き出されたはっきり形が分かる尻を見るか、事態を把握するかで右往左往していた俺を、峰不二子似の美女が振り返って見つめる。思わず視線を逸らしてしまって、その時に何故か挨拶も自己紹介もまだだな、なんてのんきな感想を抱く。

一念発起して、視線を美女に戻す。艶っぽい唇に目を奪われる。

「急いで。ここから逃げるわよ」

 いかにも峰不二子が言いそうな台詞だった。

 !!

 その時、頭に去来するものがあった。具体的には電球の入った吹き出しのようなものだ。

 客を間違えてるのでは?

 間違いない! いや、間違えてるのが間違いない!

 何を言っているのか、分かりにきーとは思うが、興奮しているのでしょうがねー。

 いかに東京広し、変態ジャパンの中心と言えども、峰不二子プレイを実現するには相当の資金を必要とするはずだ。

 間違っても、60分フリーのご新規が偶然恵まれるようなシチュエーションじゃないはずだ間違いない。

 そう一人で勝手に納得すると、新たな悩みが噴出する。

 このまま間違いに気付かないふりをしたまま、至福の時間を堪能するのか、正直に申し出るのか。

 前者の場合、間違いだって終わった後に言えば、タダにしてくれるだろうか。

 そこまで考えてはたと気付く。そもそもこういうのって、前払いではないのか?

「何してるの! 急いで! 殺されるわよ!」

 結構な重量のボストンバッグが顔面に直撃する。

 いつの間にかリアル峰不二子は窓から身を乗り出して窓に取り付けられていた柵を取り外していた。

 換気扇がひしめく薄汚い目の前のアパートの屋根に飛び移るつもりらしい。

「なんかほら! お客さん! 間違えてない?」

 状況と認識がちぐはぐで、「なんかちがくね?」とは思いつつも、バカなふりして訊いてみる。


 ダンダンダンダンダン!!


 デジャブだ。背後のドアでついさっき聞いたはずの音がする。

「状況がよく分かってないのは分かったから! 言うこと聞かないと死ぬわよ!」

 なんて理不尽な、とは思ったが、口には出さないでいた。

 さっきまでショッキングピンクの妄想でいっぱいの俺だったが、こういうハードボイルドな展開も悪くない、と宗旨替えに成功していた。

 切り替えの速さは、脳味噌が複雑な処理をしない阿呆に許された芸当である。

 ライダースーツを着込んだ絶世の美女と夜の繁華街で繰り広げる逃走劇。

 あぁ、なんで甘美な。

 俺はボストンバッグを拾い上げ、「オーケイ。後で事情はたっぷり聞かせて貰うからな」と、ダンディズムを滲ませながらそう言った。

 美女は少しだけ俺に微笑んでみせると、屋根の向こうに飛び移る。そこでボストンバッグを投げるようにジェスチャーを送ってきた。

 何も考えずに俺はバッグを投げ、自分もそちらに飛び移る。

 ギリギリのところで屋根にしがみつく。

 俺がよじ登ろうと足をかけると、それをスルッと外される。

 あれ? と思って見上げると、美女が悲しそうな目で俺を見ていた。

「都会ではね。ドアを開ける前にきちんと相手が誰か確認してから開けないとダメなのよ、ボウヤ」

 そう言って美女は俺の左手をつま先で払い落とす。

 何か言うべきだとは思ったが、何を言ったらいいのか分からなかったのはご愛嬌。

 見た目に寸分違わず、やることまでも峰不二子そのまんまだなぁと思った。

「お姉さん、峰不二子に似てますね」

 他に言うべきこともなさそうだったので、それだけ言うことにした。

 お姉さんは少しだけ驚いた顔をしたけど、すぐに見つめた相手から力を根こそぎ吸い取るような微笑を浮かべて、

「ありがとう。一番嬉しい言葉だわ」

 と言って、ボストンバッグから折りたたまれたビニール製のカラフルなバッグを取り出す。

 ボストンバッグの中身をそのバッグに移し替えながらも美女は俺から目を逸らさない。

 どうしたもんか、を胸の中で三回唱えていたら、美女は作業を終えたらしく、ボストンバッグを俺の肩にかけるようにひっかけた。少し重みがある。

 そんなことより顔が近い。

「気分がいいから、それはプレゼント。大切に使ってね」

 洗練されたウインクを至近距離から撃ち込まれる。身体が反射的にビクン! と跳ねた。

 美女はさらに顔を寄せてきて耳元に口を近づけて続ける。

「じゃあ、頑張って」

 耳に息を吹きかけられて、全身が震える。力が抜ける。

 そして俺は落ちる。















 と、思ったのと同時に着地する。

 いや、そうだよ。ホテル三階だったし。つか、室外機ぎっしりでむしろ下まで落ちる方が難しいだろ。

 俺は二階と一階の中間ぐらいの位置に取り付けられた室外機の上に着地していた。

 見上げても、リアル峰不二子の姿を捉えることは出来なかった。

 俺はさてどうしたもんか、とりあえず降りるかとジャンプして地面に飛び降りて着地する。

 それなりに高さはあったが、まぁなんてことはない。脚が熱を帯びるくらいだ。

「いたぞ! アイツだ!」

 脚の状態を弱冠気にしていると、交差点からスーツを着た男が何やら騒がしく誰かに呼びかけていた。

 するとぞろぞろと二人、三人、四人とスーツ男たちが曲がり角の向こうから現れる。と同時に、もしかして俺? いや俺だろうなと思い至る。

 結論が出て、すぐに駆け出す。

「捕まえろ!」

 野太い声が背中にぶつかってくる。


 上京初日、夜。

 はるばる田舎から出てきたというのに。色々なイケない遊び、アブない遊びがあるというのに。

 大人の人と鬼ごっこをすることになった。




 中学時代、鬼ごっこの鬼、つまり鬼オブザ鬼ごっこの称号を欲しいままにしていた俺は、いや待て全然説明になってねぇよ、鬼ごっこにおいて逃げる側をやらせたら鬼級にヤバい奴、スゴい奴って、逆に詰まっちゃったよ、まぁいい、ともかくそんな俺は、結構貯まっていた喫煙貯金を諸共せず、急遽始まった単身逃走劇にもめげず、上記のような支離滅裂な思考でバカ特有の素朴な「なんでこんなことしてるんだっけ?」という疑問を誤魔化しつつ、追っ手を撒くことに成功していた。

 それで油断した。

 道ばたに猫を見かけて、思わず追いかけてしまった。

 田舎育ちが災いして、小動物を見かけると追いかけずにはいられない習性を無意識に発揮してしまう。

 何度か通りを曲がった後、見失った猫を探して十字路の真ん中でキョロキョロしていると――


 パン!!


 なるほど、乾いた銃声とはこのことを言うのだな。納得納得。

 そんな風におとぼけながら、胸の痛みに顔を歪ませる。

 地面に横たわると、少し離れたところから先程の猫が俺の死に様を眺めていた。

 なんの感想も抱いてなさそうなその眼を見つめながら俺は、

「まぁ……こんなもんかな」

 なんて格好つけたことを言って死んだ。

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