第一章 クレープと青銅鏡・後編
「何笑ってるの?」
気が付くと文奈の目が彼に向いていた。
「何でも無い」
雷五郎は慌てて首を横に振る。
「そういえば、いっちゃんはサークルとか部活やってるの?」
文奈は雷五郎の顔を覗き込む。答えたら笑われるに決まっている。そう思うと雷五郎は口籠ってしまう。何も知らない文奈は答えを待っている。隠したり嘘をついたりするのは印象が良くない。彼は腹を括る。
「俺は中学の時からバスケやってるけど……」
雷五郎は小声で告げる。
「やっぱりそうだったんだ! 背が高いからそうだと思ってたの」
彼女は笑顔だったが、彼を笑う事はしない。誰かさんとは大違いだ。雷五郎は胸を撫で下ろすのと同時にそんな事を考えていた。
他愛もない会話をしながら青銅鏡の研磨をしていると時間はあっという間に過ぎてしまう。完成した青銅鏡を見て、雷五郎は満足そうに頷く。記念に自分の部屋に飾っておこうと考えながらリュックサックに仕舞う。
考古学博物館を出ると彼等は商店街の方に向かって歩き出す。
「また来ようね」
雷五郎を見上げる文奈の顔は花のようだ。彼は無言で首を縦に振る。
商店街の賑わいとは対照的に比較的静かな博物館周辺もゴールデンウィーク中はいつもより賑やかだ。観光客と思しき家族連れとよく擦れ違う。自分は文奈とああいう風になれるだろうか。小学生くらいの子供を二人連れた三十代半ばくらいに見える夫婦を見ながら雷五郎はそんな事を考えていた。
橋を渡り、踏切を過ぎると商店街に到着する。文奈の言葉を最後に会話は止まっていた。
「家まで送っていくよ」
別れの時間が迫っている。名残惜しいが、最初のデートはそれくらいがちょうどいいというのが彼の考え方だ。文奈の自宅は商店街の北の温泉宿が集まった場所にある。彼女の家は旅館を経営している。
「ありがとう」
文奈は嬉しそうに微笑む。
商店街は博物館以上に人が多い。国内外の観光客が行き交っている。中には浴衣姿の人も居る。雷五郎は文奈とはぐれないように手を握った。それと同時に鼓動が高鳴り、手が汗ばんでくる。
「ねえ、いっちゃんのおすすめのお店って無いの? よく商店街で食べてるんでしょ? 最後に何か一緒に食べようよ」
後ろから彼女の声が聞こえてくる。隣を歩いているつもりだったが、歩幅が違うせいか少し距離が出来ていた。彼は足を止めて振り返る。
おすすめの店はいっぱいある。あり過ぎて困るくらいだ。雷五郎は文奈の好きな食べ物を知らない事に気付く。もちろん嫌いな食べ物も知らない。もし文奈の気に入らない店を選んでしまったらどうしようと思うと彼は不安になった。彼は脳内で商店街中にある飲食店を思い浮かべる。小学生の頃から遊びに来ている商店街。どの店が何処にあるか覚えているし、全ての飲食店の料理は食べた事がある。その中から文奈に合う店を選ばないといけない。
「いっちゃん、あのお店のクレープって美味しいの?」
文奈の声を聞いて雷五郎は我に帰る。彼女は曲がり角にある青いテント看板が目印のクレープ屋を指差している。あの店のクレープを雷五郎は全種類食べた事がある。彼の一押しのクレープ屋プリムラだ。味は保証出来る。
「美味いよ。食べてみる?」
文奈は笑顔で首を縦に振る。彼女は雷五郎の腕を引いて、店の前にあるメニュー表の前に立つ。
「どれにする?」
メニューを一通り確認した彼女は雷五郎の方に顔を向ける。彼は既に何を注文するか決めていた。
「俺はこれ」
メニュー表に書かれたチョコバナナチーズケーキという文字を指す。
「じゃあ、私はこれにしようかな」
彼女が指したのはバナナホイップだ。
「もっと高いやつでもいいよ。俺が買うから」
すると文奈は首を横に振る。
「気を使わなくてもいいよ。自分で払うし。それにまだお腹いっぱいだからそんなには食べられない」
彼女はハンドバッグから財布を取り出す。
「そっちこそ気を使わなくていいって」
雷五郎はそう言うとレジの前に立つ。
「いっちゃん、いらっしゃい」
小学生の頃から馴染みがある店主のおばさんが頬に笑窪を作っている。雷五郎は注文をすると出来上がるのを待つ。クレープ焼き器の黒い熱板の上に卵色の生地が流されるといい香りが漂う。
「あの子とはお付き合いしているのかい?」
雷五郎から少し離れた場所に立っていた文奈に一瞬視線を向けた後、おばさんは慣れた手付きでトンボで生地を伸ばす。
「は、はい……」
雷五郎は恥ずかしそうに答える。おばさんは恵比寿顔で彼を見上げる。
そして、パレットナイフで生地を剥がそうとしたその時だった。文奈の短い悲鳴が彼の耳に届く。雷五郎は文奈の方に体を向ける。
「どうした!?」
文奈の瞳は恐怖に満ちていた。
「鞄盗られた……」
彼女の視線の先を追うと勢い良く自転車を漕ぐ男の後ろ姿があった。
雷五郎は迷わず走り出す。男は人通りが多い商店街を乱暴な運転で進んでいく。轢かれそうになる通行人も居るほどだ。その後方を雷五郎は弾丸のように走る。脚力は部活で鍛えられているものの通行人が多くて走り辛い。
文奈のハンドバッグを取り返したい。その思いが彼の体を動かす。あの鞄には貴重品はもちろんの事、考古学博物館で作った青銅鏡が入っている。それを失ったら彼女は悲しむに違いない。彼は標的を追う獣だ。絶対に逃さない。
雷五郎の存在に気付いた男は一瞬後ろに振り返る。自転車に劣らないスピードで走ってくる巨漢を見て狼狽している。前を見るのを忘れていた男の自転車がぐらついた。彼は慌てて前方に顔を戻す。先程より自転車の速度は落ちている。
今がチャンスだと思い、雷五郎は全力でタイルの道を蹴る。男との距離を縮める。長い腕を自転車の荷台に伸ばす。右手が荷台を捕らえた。男は必死でペダルを漕いでいたが、前に進めなくなり横に転倒する。
雷五郎は一瞬安堵の表情を浮かべるが、籠から零れ落ちるハンドバッグを見て顔を強張らせる。何も出来ずにハンドバッグはタイルの上に落下する。
彼は慌てて鞄の元へ駆け寄るとその場にしゃがみ込む。手で汚れを払いながらそれを拾い上げた。中に入っている物が壊れてはいないだろうか。彼は鞄と一緒に不安を抱える。
すると倒れていた男が自転車に乗り、逃走を図るがそれは無駄だった。男の目の前に紺色の制服を着こなした若い男性の警察官が現れる。男はあっという間に確保され、交番に連れて行かれた。
「流石バスケ部のエースだね。お手柄じゃん」
何処からか聴き覚えのある声がする。雷五郎が周りを見回すと碁会所を前に靜也が立っている事に気付く。靜也の右手には白い携帯電話が握られている。
「もしかして靜也が通報したのか?」
彼の問いに靜也は得意げに頷く。
「碁会所で対局してたら窓からひったくり犯といっちゃんが見えたから協力してあげようと思ってね」
「ありがとう」
すると靜也は軽く手を振り、碁会所の中へ消えていく。
それと入れ替わるように小走りで文奈がやって来る。雷五郎の腕の中にあるハンドバッグを見て、吐息を漏らす。
「取り返してくれたんだね。ありがとう」
文奈は満面の笑みを浮かべる。
「中に入ってる物が壊れてたらごめん」
雷五郎は文奈にハンドバッグを返す。彼女が荷物を確認すると幸い青銅鏡に傷は付いておらず、携帯電話なども壊れていない。
「クレープ食べよう、いっちゃん」
文奈は細い指で雷五郎の左手を握る。彼は照れ笑いを浮かべながら首を縦に振る。
プリムラに戻るとチョコバナナチーズケーキとバナナホイップは既に出来上がっていた。
「お帰り。良かったわね、鞄が戻ってきて」
おばさんは雷五郎と文奈にクレープを渡すとハンドバッグを見て喜ぶ。文奈は嬉々とした表情で首肯する。
二人は店の前に置かれているベンチに並んで座り、甘い香りがするクレープを頬張る。チョコレートは甘過ぎず、苦過ぎでもない絶妙な味だ。柔らかい口当たり滑らかなホイップクリームに包まれたバナナ。パリパリの生地はこの店自慢の生地だ。
「そんなに急いで食べなくてもいいのに」
文奈の声が聞こえると彼は手を止める。
「動いて腹減ったから」
苦笑しながら彼は答える。すると彼女は口に手を当てて笑う。
「顔にホイップクリームが付いてるよ」
彼女に指摘され、彼は慌てて手の甲で口元を拭う。
クレープを完食すると商店街を離れ、文奈の家に向かう。温泉地独特のあの匂いが少しだけ強くなる。二人は手を繋ぎながら橋を渡る。この辺りは川が多く、文奈の家に向かうまでに幾つもの橋を渡る必要がある。
石橋を通り過ぎると右手に牡丹の湯と名付けられた足湯が見えてくる。
「足湯に入ってもいい?」
初デートは名残惜しいくらいがちょうどいいというのが彼の持論だった筈だが、自ら別れを先延ばしにする事を言ってしまう。頷く文奈の顔は嬉しそうだ。
二人は靴と靴下を脱ぐ。雷五郎がズボンの裾を折り曲げている間に文奈は白い足をお湯に中に入れ、浴槽の縁に腰掛ける。少し遅れて雷五郎も隣に座る。足から温泉の温かさが全身に伝わってくる。全速力で走った足の疲れを癒やしてくれる。
川沿いには淡紅色の牡丹が咲き乱れている。
「また一緒に遊ぼうね」
雷五郎がぼんやりと景色を眺めていると横から彼女の声が聞こえてくる。彼は一瞬反応が遅れてしまい、慌てて返事をする。彼は体の底から嬉しさが込み上げる。心の中ではガッツポーズを取っていた。
足湯から出て、雷五郎は文奈を自宅まで送る。この温泉地でも一際立派な建物が彼女の自宅であり家族が経営している温泉旅館である。名は
「じゃあ、またね」
文奈が胸の前で手を振ると雷五郎も振り返す。彼女が背を向けるとその勢いでスカートが舞い、三つ編みが揺れる。
彼女の姿が見えなくなると雷五郎は自宅に向かって歩き出した。
第一章まで読んで頂き、ありがとうございました。
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