第二章 ベビーカステラと撫子・前編

 雨の日が続いた梅雨が明けると本格的に夏が始まる。八月の空は青く高い。緑の木々は空へと葉を伸ばし、蝉は忙しく鳴いている。


 期末テストが終わり、大学は夏休みに入る。バスケットボール部の部活を終え、雷五郎は西門から大学を出る。目指す場所は商店街だ。照り付ける夏の日差しは暑く、運動を終えても体は汗で湿っている。商店街に辿り着き、アーケードの下は直射日光を防げるものの暑い事には変わりない。


 佐久間米穀店の前に到着すると店の扉を開ける。店内の冷気が彼の体を包む。

「こんにちは」

 雷五郎が挨拶するとレジの前に座って新聞を読んでいた靜也の祖父が靜也を呼ぶ。

「お待たせー」

 店の奥の扉から靜也が現れる。彼は爪先を床に打ち付けながら運動靴を履く。

「じゃあ、行ってくるね」

 靜也に祖父は頷きで答える。


 二人が向かったのは商店街の中にあるラーメン屋だ。黒い文字で『鶏頭けいとう軒』と書かれた赤い暖簾をくぐり、二人は店内へ足を踏み入れる。


 会社員で賑わっている店内はエアコンで冷やされている。まるで砂漠の中のオアシスだ。厨房に居る頭にタオルを巻いたラーメン屋の店主の男性は振り返ると二人に大声で挨拶をした。入り口の側にある販売機で食券を購入するとちょうど開いていたカウンター席に雷五郎達は腰掛ける。店主に食券を渡し、暫く待つ。


「そういえばいっちゃん、彼女が出来たんだって?」

 雷五郎の汗が乾いてきた頃、ラーメン丼ぶりに自慢の鶏がらスープを注ぎながら店主は雷五郎に話し掛ける。

「な、何でそれを知ってるんですか!?」

 文奈の事は靜也にしか明かしていない。雷五郎は動揺を隠せずに居る。

「靜也、もしかして教えたのか?」

 雷五郎に疑いの眼差しを投げ掛けられて靜也は首を何度も横に振る。

「俺も知ってるぞ」

 雷五郎の隣に座っていた中年男性が話に加わってくる。

「ワシもこの前アベックで歩いている所を見掛けた」

 今度はテーブル席に座っている初老の男性の声が聞こえている。

「商店街を一緒に歩いてたら噂になるに決まってるじゃん。いっちゃん、顔が広いんだから」

 靜也は水を飲みながら雷五郎を見る。


 そんな会話をしているうちにラーメンは出来上がり、雷五郎達の前に出される。白い湯気が立つ塩ラーメン。レンゲでスープを掬い、一口飲む。スープのあっさりした味が口いっぱいに広がる。麺はコシがあり、厚めのチャーシューはローストビーフのような色合いをしていて柔らかい。隣で靜也が食べている醤油ラーメンも絶品だが、雷五郎はこの塩ラーメンがお気に入りだ。


 麺を完食すると替え玉の食券を買い、店主に渡す。二杯目はラーメンだれで味を調節してから食べる。結局彼は四杯のラーメンを食した。もちろんスープを飲むのも忘れていない。


 靜也はコップに水を注ぎながら雷五郎に尋ねる。

「そう言えば夏祭りは真野ちゃんと行くの?」

 雷五郎は水を飲みながら無言で頷く。

「じゃあ、俺は他の友達と行くからいいよ」

 靜也は少し拗ねたように視線を雷五郎から逸らす。

「二日あるから文奈と別の日に回ればいいだろ? 二日目は駄目だけど、一日目なら一緒に回れる」

 靜也は雷五郎の言葉を聞くと嬉しそうに頷き、笑いながら話す。

「どのみち一緒に回る相手が居なかったら従兄弟のおもりをする事になるんだけどね」


 今年の夏祭りは一日目に靜也、二日目に文奈と行く事に決まった。夏祭りまで半月ほどあるが、雷五郎の気持ちは既に高揚している。


 雷五郎は玄関の扉を開ける。空を流れる雲は赤や黄色に光っていて、まるで炎のようだ。これから始まる夏祭りに彼は心を躍らせている。しかし、祭り会場から離れているこの住宅街には祭りの気配は全く無い。

 紺色の浴衣に身を包んだ彼が歩く度に下駄の音が静かな住宅街に鳴り響く。


 温泉街に向かって西に歩を進める。川の向こう側には温泉街が見えた。昼間とは異なり温泉街は灯りで金色に輝いており幻想的な雰囲気を醸し出している。雷五郎は昼間の温泉街も好きだが、夜の温泉街も好きだ。


 祭り囃子が徐々に聞こえてくるようになると人通りも増える。それに合わせて彼の気持ちも昂ぶる。


 橋を渡り、温泉街に足を踏み入れる。道路は車の通行が禁止され、道に沿って屋台が並んでいる。緩やかな坂道を登り、文奈が待っている菖蒲荘に向かう。

 昨日は靜也と祭りを楽しんだが、今夜は文奈と行く。初めて彼女と行く夏祭り。嬉しい反面、気に食わない事をして彼女に嫌われてしまったらどうしようという不安が過る。

 しかし、浴衣姿の彼女を想像すると思わず口角が上がってしまう。変な人だと思われたくないので、俯いて顔を隠した。


 大きな旅館が見えて来ると携帯電話で文奈に連絡を入れる。だんだん緊張してきて鼓動が高鳴る。

「いっちゃん! こっち、こっち」

 旅館の前で浴衣姿の文奈が手招きをしている。雷五郎は反射的に顔を上げる。

 彼女の浴衣は薄桃色の百合柄で、髪型は普段はする事の無いサイドシニヨンだ。横髪は緩やかな曲線を描いている。いつも髪を下ろしていて見えないうなじが今日だけは見える。

 雷五郎は思わず息を呑む。

「浴衣似合ってる」

 雷五郎の言葉に文奈は嬉しそうに頬を染める。そんな彼女も可愛いと思うが恥ずかしくてそれを口に出す事は出来ない。この前は一緒に海に行ったが、ビキニ姿の彼女より、浴衣姿の彼女の方が彼は好きだ。


「……俺の方は変じゃないかな? 友達に力士みたいって言われるんだけど」

 雷五郎は彼女が浴衣なのに自分は洋服を着てくるのはアンバランスだろうと思っていた。それに加えて浴衣が好きだったのでこの格好で来たが、靜也には毎年力士みたいだと言われている。もちろん昨日もそう言われた。彼はそれを気にしている。

「そんな事無いよ! いっちゃん、そんなに太ってないし」

 彼女は首を横に振ると微笑み掛ける。その言葉を聞いて彼は安心する。


「いっちゃん、何処から回る?」

 彼女の細い指が彼の指に絡まる。向日葵のような笑顔で彼を見上げた。

「あっちから行こう」

 雷五郎の指差した方に二人は歩き出す。文奈より早く歩いてしまわないようにいつも以上に彼は歩く速度に気を付ける。道にはソースの香りが漂っていた。彼はその匂いに誘われる。

「たこ焼き屋に寄ってもいい?」

 文奈の了承が得られると彼女の手を引いて、たこのイラストが描かれた屋台の前の列に並ぶ。

 たこ焼きを一つ注文し、出来立てのたこ焼きが入ったパックをビニール袋に入れてもらう。


 次は詰め放題のフライドポテト屋に足を運ぶ。店員から三角袋を受け取ると雷五郎は一本でも多く入れようと慎重に袋にポテトを詰め込んでいく。ポテトを縦に入れるのが沢山入れるコツだ。袋から溢れ落ちそうになるほど山積みになると腕に提げていたビニール袋に突っ込む。これでポテトを歩いている途中で落とさずに済む。


 いろんな屋台で購入した食べ物を抱えて文奈と歩いていると射撃屋が見えてくる。其処には甚平を着た子供達に囲まれている人物の姿があった。あえて声を掛けずに通り過ぎようとするとその人物の近くに居た子供が雷五郎を指差す。

「靜也兄ちゃん、いっちゃんが居るよ!」

 スナイパーのように銃を構えていた靜也が雷五郎の方へ振り向くと手を振る。昨日振りの再会だ。そして、靜也は隣に立っている文奈の頭から爪先まで見る。

「真野ちゃんだよね? 俺の事覚えてる? 米屋の佐久間靜也。中二の時に同じクラスだったと思うんだけど」

 靜也は自分の顔を指差す。

「やっぱり佐久間君だったんだ。大きくなったねー」

 文奈は頷くとまるで久し振りに会う親戚の子供と接するように靜也に接する。

「俺、背が伸びたのは高校に入ってからだからね。真野ちゃん身長何センチ?」

 ほぼ背丈が同じである彼女に靜也は尋ねる。

「私は百六十六センチだけど」

 文奈の返答を聞いて靜也はその場に崩れ落ちる。どうやら背の高さで勝っていると思っていたようだ。

「一センチ負けた……。絶対抜かしたと思ってたのに」


 その彼の背中を今度は別の子供がつつく。

「靜也、あれ取ってよー」

 靜也は子供の頭を撫でると銃を構え直す。彼は屋台泣かせだからきっと子供が望む玩具を取るのだろうと雷五郎は思った。実際、昨日もその腕前を雷五郎に披露していた。

「じゃあ、またな」

 雷五郎が手を振ると文奈も手を振る。靜也は視線を標的に向けたまま頷きだけで返す。


「佐久間君って兄弟あんなに沢山居るんだね」

 商店街へ伸びる道を歩きながら文奈は雷五郎を見上げる。

「あれは兄弟じゃなくて従兄弟だ。夏祭りと正月の時期にこっちに来てるみたいだぞ」

 中学校で文奈と同じクラスになっていたのは初耳だ。羨ましい限りである。そもそも雷五郎は二人と中学校区が異なる。

「そう言えばいっちゃんと佐久間君って友達なの?」

「小学生の時からね。大学入るまで学校はずっと違ったけど」

 小学生の頃から商店街に足繁く通っているうちに靜也とは仲良くなった。

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