料理と花と考古学
万里
第一章 クレープと青銅鏡・前編
大学構内の食堂は学生達で賑わっていた。講義が本格的に始まった四月下旬の日差しは暖かい。白いテーブルは太陽の光を跳ね返して輝いている。
「いっちゃん、彼女出来たんだ。おめでとう」
小柄で黒い短髪の青年、
その向かい側の席に座っているのは大柄な青年。彼は喜びが半分、不安が半分といったような表情を浮かべながら唐揚げを箸で掴む。曖昧な返事をするとそれを口の中に放り込む。肉汁が広がる。
「何でそんな顔するの? 嬉しくないの?」
靜也は彼の表情の理由が理解出来ないようで首を傾げている。
大柄な青年は食事を進めている手を止めると話し出す。
「嬉しい。でも、
彼は溜息をつきながらもう一つ唐揚げを頬張る。どんな時でも学食の唐揚げは美味しい。皿にいつもレモンが添えられているが、そんな物は要らない。レモンでこの唐揚げの味を殺したくないのだ。
「初めからそんな事を考えてるの?」
付き合い始めてすぐに別れる事を心配している彼に靜也は少し驚いている。口は半開きだ。
一方、生まれてこの方恋愛とは無縁だった大柄な青年は不安で仕方無かった。付き合い始めたかと思いきや結局別れてしまったカップルを今までに何組も見てきた。目の前に居る靜也その一人だ。全くモテない自分が彼女と別れないと思えないのだ。彼女が自分に惹かれた理由も分からない。
「だって、俺見た目が悪いし……」
苦笑いをしながら大柄な彼は自分を指差す。するとうどんを食べ終え、頬杖を突く靜也が彼を見て口を尖らせる。
「イケメンの癖に……」
光を浴びて青みがかっている烏羽色の髪を首元まで伸ばし、髪型はミディアムウルフ。目鼻立ちは整っていて、切れ長の目は靜也を見詰めていた。容貌はイケメン俳優と並んでも遜色は無い。ただし顔だけの話である。
「何だよ、靜也。いつもはそんな事言わない癖に」
普段の靜也は彼の顔など褒めない。その代わり体型を弄る。
二メートルの高身長のせいでもあるが、脂肪が蓄えられた体は圧倒的な存在感がある。大学構内を歩いているとよく目立つと靜也に言われた事があるくらいだ。大柄な方の彼は視線を下げて自分の体に視線を向ける。物心が付いた時から太っていた。痩せようと思った事はあっても努力をした事は無い。
「いつも思ってるよ。いっちゃんは格好いいって。確かに太ってるけど、顔立ちはいいじゃん。顔だけ見たら太ってるなんて分からないし」
靜也の褒めているのか褒めていないのか分からないような言葉を聞きながら雷五郎は昼食を平らげる。レモンは唐揚げを食べた後に吸っていた。
「一限目の後もお菓子食べてたのによく残さず食べられたね」
何度も見てきた光景だが驚きながら靜也は雷五郎の白い皿に目を向ける。レモンの皮が残っているだけあとは何も残っていない。味噌汁も大盛りだったご飯も完食している。
「これくらい普通だろ」
雷五郎は両手を合わせてご馳走様でした、と言うと食堂内の時計を一瞥して時間を確認する。黒いリュックサックを背負い、食器が乗ったトレイを持って立ち上がる。
「もうすぐ三限が始まるぞ」
靜也も時間を確認すると慌てて立ち上がる。
三限が終了すると講義室から学生達が吐き出される。
「今からお前ん家寄るから。母さんに米買ってくるように頼まれてるんだ」
雷五郎は廊下を歩きながら隣の靜也に顔を向ける。靜也の家は米屋を営んでいて、雷五郎の家はいつもその米屋から米を購入している。
「あれ? 部活は?」
靜也は首を傾げる。
「今日は休みになったんだ」
「じゃあ、相撲部休みなんだね」
靜也は笑いながら雷五郎を誂う。
「だからバスケ部って言ってるだろ!」
雷五郎の頭から足まで視線を滑らせた後、靜也は鼻で笑う。
「その体型の何処がバスケ部なの? 名前も四股名みたいだし、相撲部でしょ」
昔から繰り返される応酬。事あるごとに靜也は彼を罵倒している。こんな事を言っているが、靜也は雷五郎が運動神経の高い事も実はエースである事も知っている。
雷五郎は学生を
両脇に所狭しと並んだ店を横目に見ながら二人は歩を進める。すると雷五郎は突然、右手にある赤いレンガの建物を指差す。白い看板には黒い文字で『喫茶すずらん』、と書かれている。
「靜也、すずらんに行こうぜ」
雷五郎は靜也の返答を聞く前にもう喫茶店に向かって進み始めている。
「おい、米を買いに来たんじゃないのか?」
靜也は慌てて彼の後を追う。
「米は後で買うから大丈夫」
雷五郎は前を見たまま答えると、木製の開き戸を開け、店内に足を踏み入れる。それと同時にドアベルの音が鳴り、コーヒーのいい香りが彼の鼻孔を擽る。
ボサノバが流れる落ち着いた雰囲気の店内には疎らに客の姿がある。カウンターに立ってコーヒーカップを拭いていた白髪混じりの男性が顔を上げ親しげな笑顔で、いらっしゃいませ、と言った。
「おじさん、チョコレートパフェで」
雷五郎は席に着く前に既に注文をしていた。マスターは拭いていたカップを置くと冷蔵庫から材料を取り出す。
雷五郎達は誰も座っていなかったカウンター席に腰掛ける。靜也はカウンターに置かれていたメニュー表を一通り眺めるとブレンドコーヒーを注文する。
暫くして頼んだ物がカウンターに置かれる。雷五郎は店内の照明を浴びて銀色に光る細長いスプーンを持つ。チョコレートが掛かったホイップクリームを掬い取った。
「それで
靜也はコーヒーカップを持つと湯気が立つ茶色のコーヒーを一口飲む。
「いや、まだ。でも、来週一緒に遊ぶ約束してるから」
雷五郎は答えた後、ホイップクリームの下にあるチョコレートアイスを口に運ぶ。口角は僅かに上がっていた。来週はゴールデンウィークで大学は休みだ。その休みを利用してデートをする計画になっている。
「分かった。オレンジパークに行くんでしょ?」
靜也はこの街にある遊園地の名前を挙げながら雷五郎の方に顔を向ける。雷五郎は首を横に振る。
「考古博物館に行く」
パフェを殆ど食べ終えた所で彼は答える。最下層のコーンフレークはチョコレートソースと溶けたアイスクリームを吸い込んで柔らかくなっている。
靜也は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「ん? どうした?」
何も喋らない彼を見て雷五郎は首を傾げる。
「いやー、凄く渋いなと思ってさ。いっちゃんってそういう所が好きなんだ」
靜也は興味深そうに雷五郎を見ながらコーヒーを飲み干す。
「違う。行きたいって言ってるのは文奈の方」
雷五郎は顔の前で手を振った。
靜也のマグカップがソーサーの上に置かれる。磁器同士が当たる音が響く。
「へぇー、真野ちゃんそういう感じの子なんだ」
雷五郎はパフェグラスの底の窪みに僅かに溜まっているチョコレートソースと溶けたアイスをスプーンで掬おうとしていたがそれが無理だと分かるとスプーンをカウンターに置く。しかし、そう簡単には諦めない。パフェグラスを両手で持ち上げて、口を付けるとチョコレートソースを飲み干す。雷五郎は満足げな表情でパフェグラスをテーブルに置いた。
二人は代金を支払うと店を後にする。
暫く歩くと目的地に到着する。『佐久間米穀店』という看板が掲げられた店が靜也の自宅だ。靜也はガラス戸を横に開いて、店の中に足を踏み入れる。後ろから雷五郎が付いて行く。
店内には様々な種類の米が陳列されていた。奥にあるレジの前で眼鏡を掛けた靜也の祖父が椅子に座りながら新聞を読んでいる。
顔を上げた祖父が雷五郎に挨拶をすると彼も挨拶を返す。靜也の祖父は新聞を折り畳み、レジの横に置きながら立ち上がる。
雷五郎は支払いを済ませてから三十キロの米袋を二つ軽々肩に担ぐ。
「ありがとうございました。靜也、またな」
彼は靜也と祖父に挨拶をすると引き戸を開けて店を出て行った。
一点の曇も無い青空と新緑に囲まれた考古博物館は普段より多くの客で賑わっていた。
雷五郎の隣で土偶を眺めているのは真野文奈である。彼女は背が高く細身で、黒茶色の髪を肩甲骨まで伸ばしている。耳の辺りの髪だけ三つ編みにしていて少し幼気な印象だ。文奈の横顔を眺めていると彼女は突然雷五郎の方へ振り向く。それと同時に三つ編みが揺れる。
「土偶って可愛いよね」
彼女は遮光器土偶を指差して笑みを浮かべている。雷五郎は曖昧な返事をしながら首肯する。
彼にはこの土偶の可愛さは理解出来ない。女の子はこういう物を可愛いと思っているのだろうかと疑問を抱く。このような価値観の不一致が原因でフラれてしまう可能性がある。そう考えるとこれは重大な問題だ。一刻も早く彼女の可愛さの基準を理解せねばならない。
もし初めてのデートで失敗したら、その時は見切りを付けられてしまうかもしれない。兎に角最初が肝心だと彼は思った。
ただ一つ言える事は展示物を眺めている彼女の楽しそうな表情は可愛いという事だ。それを見られただけでも此処に訪れた甲斐がある。
「いっちゃん、もうすぐ時間だよ。行こう」
文奈が左手に付けている腕時計の文字盤を見てから顔を上げる。開館時間からこの博物館に居るのは青銅鏡を作るためだった。青銅鏡作りはこの博物館が行っている体験教室の一つだ。
勾玉作りは何度もやった事があるが、青銅鏡作りは初めてだと文奈は言っている。勾玉作りの方が料金は安く、短時間で出来るので気軽にやれるのだろうと雷五郎は思う。勾玉は二百円も掛からないのに青銅鏡は数千円掛かるのだ。雷五郎も小学生の頃、勾玉を作った事があった。見本のような綺麗な曲線に削る事は出来ず、形が悪かった事はよく覚えている。しかし、その勾玉を失くしてしまい今は無い。
彼女は雷五郎の手を掴むと早足で歩き出す。この時、初めて文奈と手を繋いだ。彼女の指と自分のそれが絡み合う。雷五郎は少し照れ臭い気持ちになる。
昼前から始まった青銅鏡作りは時間が掛かり、途中で昼休憩を挟む。休憩時間になり、博物館内にあるカフェに足を運ぶ。
照明と窓から差す太陽の光で明るく照らされた店内。其処には木目調のテーブルと椅子が並べられている。
空いている席に座ると雷五郎はメニュー表を覗き込む。小学生の時に一度この博物館に訪れた事があるが、カフェに来るのは今回が初めてだ。
「文奈は何がいい?」
顔を上げて彼女の方に視線を向ける。文奈は細長い指でメニュー表に書かれたマルゲリータという文字を指差す。雷五郎は頷くと店員を呼ぶ。
「マルゲリータとカルボナーラで。カルボナーラは二人前で」
雷五郎はメモをしている店員を見上げながら告げる。
「二人前も食べるんだね。凄い」
店員が去った後、文奈は顔を綻ばせながら雷五郎を見詰めた。
暫くするとマルゲリータと二人前のカルボナーラが運ばれてくる。店員は気を利かせて料理と共に取り皿をテーブルに置いていく。マルゲリータとカルボナーラを二人で分け合って食べる訳では無く、お互いに注文した物を一人で食べ始める。
ジャズと他の客が談笑する声が聞こえるだけで二人の会話は無い。文奈はピザを口に運びながら雷五郎の方を見ているが何も喋らない。これでは不味いと思い、雷五郎はフォークにパスタを巻きながら考えを巡らす。
「あのさ、俺の印象ってどんな感じ?」
雷五郎は気になっていた事を尋ねてみる。
「名前が長い」
文奈はピザを食べる手を止めると即答する。雷五郎は予想外の回答に言葉を失ってしまう。昔から名前が長いと散々言われてきたし、彼は自分より名前が長い日本人に出会った事が無い。
「確かによく言われるけどさ」
外見や人柄について言われる物だと思っていたので雷五郎は苦笑いをする。回りくどい質問はやめ、単刀直入に尋ねる事にした。
「じゃあ、俺の……好きな所は?」
照れ臭くて雷五郎はすぐに視線を下に向け、フォークにパスタを絡める。もうパスタは絡まないのに意味も無くずっとフォークを回していると返答が来る。
「優しくて頼りになる所」
靜也に絶対文奈はデブ専だと言われていたが、どうやら彼女はそうではないようだ。雷五郎は安心したように微笑を浮かべる。それに気付いた彼女は首を傾げる。
「どうしたの?」
「文奈はもしかしたらデブ専なんじゃないかって思ってたから」
雷五郎がパスタで太くなったフォークを口に運ぶと同時に文奈は首を横に振る。
「いっちゃんは太ってないよ。どちらかというと筋肉質でしょ?」
文奈の意外な一言に雷五郎は目を丸くする。靜也に散々太っていると言われてきたので、雷五郎もそう思っていた。彼女にはそう見えないらしい。しかし、どちらかという事は多少は太っているらしい。
休憩時間が終わり、午後からは青銅鏡を磨く作業が始まる。根気の要る作業で数時間磨かないといけない。一人で黙々とするとしたら大変だが、隣に文奈が居るのでひたすら磨く作業も苦痛ではない。
文奈と親しくなったのは二年後期の事だった。
雷五郎が初講義の日に講義室にやって来ると既に文奈の姿があった。沢山の机が並べられた部屋。彼は体が大きい自分にとっては狭い机と机の間の通路を歩く。
側には机の上に開かれた厚い本を読んでいる文奈が座っていた。彼女の隣を通り過ぎようとした時、彼女は顔を上げる。
今よりは少し短い鎖骨まで伸びるストレートの黒茶色の髪の彼女と目が合う。可愛らしい目元は見栄を張った化粧の濃い女子のそれとは違い自然な状態だった。唇は紅を注さなくても淡い桃色をしている。
彼女は雷五郎が通り過ぎても彼を見ていた。彼は文奈の真後ろにある最後列の席に腰を下ろす。本当は前方の席の方が好きなのだが、座席に段差が無い講義室では縦にも横にも大きい彼の体はホワイトボードを隠す遮蔽物になってしまう。そのためこのような講義室で彼は後ろの方の席に座る事にしている。
彼が着席すると彼女は顔を前に戻す。雷五郎は自分の顔に何か付いているのだろうかと思って首を傾げる。その疑問もすぐに消えてしまいリュックサックから取り出した携帯電話を触り始める。
文奈と会話を交わしたのは発表のグループを決めた日だ。
多くの者が知人同士でグループを組み始める。彼は一人で講義を受けていた。周囲を見渡しても知人の姿は無い。彼にとって親しくない人とグループになるのは苦ではない。それでもグループ決めをする日に欠席するような人とは組まされたくないので、近くの席に座っている学生に声を掛けようと思った。
すると文奈が後ろに体を向ける。
「私とグループを組んで下さい」
彼女は顔の前で両手を合わせている。まさか彼女からそう頼まれると思っていなかったので、意表を突かれる。
「此方こそお願いします」
文奈が毎回講義に出席している事を彼は知っている。彼女は真面目だと彼は判断した。彼女なら信頼出来ると思い彼は快く承諾する。
それから数日後、雷五郎はレポートの参考文献を探すために大学図書館に訪れていた。
書架に並べられた図書の背表紙に視線を滑らせながら歩いていると閲覧席に見覚えのある人物の姿があった。文奈だ。彼女はいつもと同じように本の文字を目で追っている。彼女は文学部だった事を思い出し、こういう子を文学少女と言うのだと彼は思う。少女と呼べる年齢ではないかもしれないが、その事は気にせず視線を書架に戻す。彼女とは発表資料の事でしか会話をしないので、特に用も無いのに話し掛ける必要も無い。
次の日も彼が図書館にやって来ると、またあの閲覧席に文学少女の姿があった。
数秒彼女を見ていると視線に気付いたのか彼女は顔を上げた。雷五郎に愛嬌のある笑顔を一瞬見せ、手招きをする。雷五郎は自分の顔を指差す。すると彼女は首を縦に振る。どうやら自分が呼ばれたようなので雷五郎は図書を小脇に抱えながら彼女の元へ行く。
何だろうかと思いながら隣に立つ。
「発表資料どれくらい出来た?」
事務的な話だった。
「一応出来たぞ」
彼女は見上げながら驚いている。発表までまだ二週間以上あるので、既に完成しているとは思っていなかったようである。
雷五郎は机の上に置かれている本に視線を向ける。その本は文豪が書いた文学ではなく、考古学に関する本だった。遺跡や遺物の写真が細かい文字と一緒に並んでいる。教科書や資料集程度の知識しか持ち合わせていない雷五郎にはよく分からない。
彼女は文学少女ではなかった。考古学少女だったのだ。その時に彼女は文学部の中でも考古学を専攻している事を知った。
青銅鏡を磨きながら文奈は大学でも高校でも考古学研究会に入っている事を雷五郎に話す。筋金入りの考古学好きだ。
「文奈の通ってた高校って考古学研究会なんてあったんだ。附属には無かった」
雷五郎は母校であるこの大学の附属高校を思い出す。大学の方に考古学専攻があっても高校の部活動に考古学研究会は無い。
「
文奈の母校である杏陵東高校はこの街の東の外れにある女子高だ。雷五郎達が通う大学にも杏陵東高校出身の学生は少なくない。
雷五郎は高校時代の彼女を想像する。紺色のジャンパースカートに赤色の細いリボンが杏陵東高校の制服だ。文奈の顔を見てあの制服は似合うと彼は確信する。
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