微睡みの淵
夏鴉
微睡みの淵
目の冴えて仕方がなく、酒を入れることにした。
古びた居酒屋である。本当は家で一人っきりで呑みたかったが、ただ空いた瓶があるばかりで、私を満足させてくれる酒精は一滴もなかった故である。簡単な服を来て出たが、夜もすっかり更けていて、店の中も橙の洋燈が灯るばかりであったから、なんら恥ずかしく思う気持ちは起きなかった。
適当な日本酒を一瓶買って、手酌で呑むことにした。寂れた居酒屋である。こんな時間、来るのは私くらいであった。甘辛く煮込まれた大根や魚を食い、手酌で呑む。なんとも侘しいことである。
「隣、宜しいでしょうか」
傍らに男が座った。年頃も同じ程の男である。男もまた、日本酒の瓶を携えていた。
「余りに人恋しく来たのは良いが、まさかこうまで人がいないとは」
「この時間はそうさ。この店はね」
酷いなあ。朗らかな店主の声が私の背を打つ。馴染みの店だ。私も店主も、互いに軽口は叩いた。
「貴方がいて幸いだった。良ければ一献」
「いやお構いなく」
「折角です、さあ」
固辞をする程強情ではない。一息でグラスの中の酒を呑み干し、差し出す。とくとくと、透明な酒が注がれた。呑む。私が頼んだ物よりも、強い物であるらしかった。
「私も君に注ごう」
「有難く」
生白い手が差し出すグラスに酒を注いでやると、男はぐっと煽った。優男の風貌であるのに、存外に豪快な呑み様である。
人恋しい、と私に言った男はしかし、多弁ではなかったらしい。私もまた、多く話す質ではない。私たちは、互いのグラスに酒を注ぎ、煮物を突き、酒を呑み、また注いだ。二升だ。二人がちまちまと呑むには些かに多い量を、私たちはひたすらに消費した。酒には強い自負があった。それでも、随分と酒精が身体に染み渡り、頭は鉛を入れたかのように重く、ぼんやりとしてきた。吐く程ではない。呆として、瞼が重い。橙の光。身体の熱。心地の良い、酔いだった。
「貴方は覚えてらっしゃらないでしょう」
男は依然グラスに酒を注ぎ、変わらぬ速さで呑む。随分と強いのか。働かぬ頭で考える。
「それで良いのです」
「君に覚えはない」
「でしょうとも」
朗らかに笑って、男は私のグラスに酒を注ぐ。
「覚えがない。それが最良です。貴方はそれで良い」
「君は」
覚えはない。そう思う。しかし、仄かな既視感が私の胸を擽った。碌に働かぬ頭を動かし、ぼんやりと呟く。
「なんだろうな、君を、やはり私は知っているのではないだろうか」
「きっと、気の所為です」
「では、何故そんなことを聞くのか」
かろん、と、グラスが触れて鳴る。男は少し、惑った様子である。
「御許しください」
「何故謝る」
「少し、魔が差したのです。ええ、ええ、そうです、気の迷いで、こんな莫迦な真似をしてしまっているのです」
「私は、君の過ちにてんで覚えがない」
頭が重く、怠い。眉間を揉む。
「だから、謝らないでくれ。それは、困る」
「ならば、もう謝るのは止しましょう」
ほう、と、男の息を吐くのが聞こえた。ぼんやりと覚束ない手でグラスに触れる。流れるように、男の手で酒が注がれた。明日は碌でもないことになる。ぼんやりと考える。だが、どうでも良かった。
「御呑みください。祝い酒です」
「何も、目出度いこともない」
「私と貴方の出会えたことを、どうか、良きこととしてください」
熱心な声であった。切々と、祈るかのような、柔らかく真摯な声であった。そんな声で乞われて、どうして拒むことが出来るだろうか。
「分かった、分かった。では、君ももっと呑め。そら、無礼講だ」
「ありがとうございます」
酒がすっかり回っている。無理矢理に注ぎ入れた酒を、しかし男は心底嬉しそうに呑む。
「貴方とこうして呑めて良かった」
「私も、楽しかった」
本当に。酒の回った頭は呆として仕方がなく、瞼も随分と重いが、それでも、何とも気持ちの良い心地であった。
「では私はもう行きます」
「そうか、もう行くのか」
「ええ、時間が、もう」
「私は少し休んで出ることにしよう」
「ええ、ええ、そうなさるのが良いでしょう。店主には言っておきますから」
「すまないね、何もかも」
「いいえ。本当に、私は幸福者でした、先生」
目が覚めた。空の端が仄かに明るく、鳥の声が何処からか聞こえる。明け方であった。
木槌で頭を殴られるかの如き頭痛と吐き気に魘されながら布団から這い出て、水を飲む。透明のグラスに、透明の液体。飲めば、喉をするりと流れ落ちる。
嗚呼、そうか。
あれは、昔の教え子だったのか。
微睡みの淵 夏鴉 @natsucrow_820
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