第3幕 領主と放浪家庭教師

領主と放浪家庭教師 0

「今日は槍でも降るのでしょうか」


 これは起床を促す前に自ら居間に降りてきた寝坊助の主人を見て、マリアがこぼした言葉である。


 久方ぶりに、2人は揃ってまともな時間に朝食をとった。

 普段なら大抵、昼食と変わらぬ時間に朝食をとるのでバタバタするのだが、今日に限っては食後にゆっくりと談笑さえもした。


 食後、時間を持て余したのか、珍しくロアは書斎の掃除を始め、その様子を満足げに眺めてから、マリアは午後のお茶のためのお菓子作りをしに厨房に入った。

 昨日、たまたまチョコレートが手に入ったので、久しぶりにチョコチップクッキーを作ろうと考えたのだ。


 クッキーの生地をオーブンに入れた頃である。

 来客を知らせるベルが屋敷に響いた。


「?」


 本日は来客の予定はない。

 郵便屋がやってくる時間でもない。

 マリアは不思議に思いながらも玄関に向かった。

 とりあえず扉を開けると。


「やあ、若いメイドちゃんだネ! ハロー」


 変わった出で立ちのスレンダーな女性が立っていた。

 顔半分を覆う大きなサングラス、白いカットソーと黒いパンツ姿のやたらラフな格好。

 野性的な褐色の肌、見事な銀の髪は短く刈り上げられていて、身体のラインが分からなければ男性と見間違っただろう。訛りから、どうやら異国からの来訪者らしい。


「……どちら様ですか?」


 思わずいぶかしげにマリアが尋ねると、女性はサングラスを外し、その蒼い目をキラキラと輝かせてからにこりと笑った。


「怯えた顔も可愛いね子猫ちゃん! お姉さん気に入っちゃったナー! ハグハグ!」

「!? !?」


 有無を言わさずマリアに抱きつく女性。


「小さくてキュートだナ~、程よい弾力と抱き心地、ベリグッ」

「どこの話してます!?」


 相手のテンションについていけず、なされるがままにマリアが来訪者からの抱擁を受けていると、後ろから両肩を掴まれて一気に引きはがされた。

 嗅ぎなれた匂いに抱きとめられて、マリアはとりあえず安堵する。


「挨拶の抱擁もほどほどにしていただけますか、ミス・ロビンソン。

 うちの大事な女中ですので」


 外から見て一介の使用人であるマリアに対するロアの過保護ぶりはしばしば客人を驚かせるほどで、似たようなこと――マリアに対し手の甲への挨拶をした紳士は容赦なくロアに数分で帰らされた――は以前にもないことはなかったが、今日は少しだけ違った。

 腕にこもる力に比べれば、ロアの声色にはどこか呆れを含んだ甘さがあることにマリアは少し驚いた。

 そしてそんなロアを見て、来訪者は一瞬虚を突かれたような顔をする。

 が、すぐにまた白い歯を見せて笑った。


「大きくなっちまったネ、見違えたよロア。

 いや存外、元気そうじゃないか」

「貴女は全く変わりませんね、先生。

 本当に、突然消えて突然現れる」


 少し刺のある言葉の裏に、確かな懐かしさを含んだ2人の言葉が、より一層場の空気を複雑にして、その2人の間に挟まれる形となったマリアは、おとなしくロアの腕の中に収まっているしかなかった。

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